ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

田中裕子は質素で地味なのに空前絶後であること

2015-06-25 00:08:27 | エッセイ

 田中裕子は、言うまでもなく大女優である。夫が沢田研二であるということはこの際は特段必要な情報ではないだろう。デビュー作はなんだったんだろう。NHKの朝の連ドラにも出ていたはずだ。主役ではなかったのかもしれない。映画の葛飾北斎かなんかを題材にしたもので観た記憶があるが、あれには、樋口可南子もほとんどデビュー作の様に出演していたはずだ。このふたり、なんか似ている、と思った。性格とかではなく、見かけが。

 今になって見ると、印象は全然違う。樋口可南子の方が、断然華やかだ。

 で、田中裕子が、いま、「まれ」に出演していて、名前がいちばん最後にクレジットされる。それは当然のことだ。キャリアも存在感も充分である。

 でも、華やかなところがひとつもない。いや、相当に上品で美人であることは言うまでもないことだ。しかし、華やかな、派手な美しさでない。地味だし質素だ。素直で透明感のある、曲がったところはない、無知からくる底意地の悪さ、みたいなものはない、そういうものの対極にある知性的で上品な女性ということではある。ああ、どこかはかなげで、幸薄い、というふうにも言える。

 そういう女性が、言ってみれば樹木希林のような役を演じる。

 性格俳優になろうとする。

 いささか無理がある。基本的にあくどさがない。あくがない。癖がない。

 役を演じていて、いささか端正で、必要以上にはみ出してこない。相手役の存在を引き立てる。相手役をつぶさない。

 夫役の田中泯さんも、いまいち強烈さに欠けるところがある。上品で端正である。大駱駝艦の麿赤児のような激烈なあくどさはない。その舞踏のように。ギャグをしようと思ってもいまいち笑えないところがある。

 そういう意味では、ぴったりの夫婦役かもしれない。

 田中裕子も、そうだな、ギャグがいまいち笑えない。わざとらしい、くさい芝居が板についていないみたいな。

 でも、ねえ。

 なんか、なんといっていいか、板についていないくさい芝居が、まわりまわって、さすが、田中裕子にしか、こうはできないよな、という芝居になっている、みたいな。

 台詞の中で、魔性の女とか呼ばれ、悪意の発言と言われても、表面的な悪意の底に、演じられたひねくれの底に、実は、相手を深く思いやった慈愛が満ち溢れているとしか聞こえてこない、みたいな。でも、やっぱり変なことをやろうとする、みたいな。

 自分でも、何が言いたいのかよく分からないで書いているが、田中裕子は、主演女優たる美人女優であるにもかかわらず、同時に、性格俳優でもありうる空前絶後の存在である、みたいなことが言いたいのだと思う、たぶん。無駄な存在感は消し去ることができる、そういう才能を持ったひと、というようなこととか。

 念のため言っておけば、樹木希林もまた稀代の名女優である。性格俳優であり、当代稀な演技力をもった女優である。もはやそこに座っているだけで最高の演技となってしまっている、というような。そうだな、舞台にひとりで座って、何の台詞もなく、動きがなくとも優に三十分は問題なく成立させてしまうだろうな。間に視線を一度動かすだけで、もう十分過ぎる、みたいな。と、まあ、これは想像だけれども。最初から主役でやってきたということでなく、脇役から地歩を固めていったみたいな。

 田中裕子は、そうだな、よくわからないけれど、このまま9月いっぱいまでの中で、どれほどじたばたと突っ走れるか、みたいなところが見れたら面白いだろう、とは思う一方で、主役は「まれ」であるというところをきちんと押さえて、程よいところにぴったりと収めてくるのだろうな、などとも考えてしまう。まあ、ここまでくると、もはや何をやっても面白い、ということにしかならないのかもしれないが。

 ということで、田中裕子は、上品で地味で質素で、はかなげですらあるのだけれども、空前絶後の演技者であるということを書きたかったのだと思う、たぶん。


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