若松英輔氏は、慶應の仏文科出の批評家、随筆家とある。1968年生まれであるから、私の一回り年下になる。現代詩文学館賞を得た詩人でもあるという。
以前に、中島岳志氏との共著『現代の超克』(ミシマ社)という本を読んでおり、このブログで紹介している。
さて、書物の冒頭は、こう書き出される。
「この作者とは深い交わりになる。作品を読む前からそう感じることが稀にだがある。…須賀敦子の場合がそうだった。」(7ページ)
著者は、まだ須賀敦子の書物を読んだことがないのに、編集者からのオファーを受けて、須賀敦子論を書くことにしたのだという。まあ、確かにそんな霊感のようなものが働くときはあるに違いない。
「本のページをめくってみるとそこは、なじみ深い、懐かしいとすら言いたくなる香りでいっぱいだった。…近しいと感じたのは文体というよりは律動、思想というよりは霊性においてだった。ああ、この人はカトリックだ、そう思った。」(8ページ)
「私の母が須賀と同じ大学を卒業しているのである。」(15ページ)
聖心女子大学は、カトリックの女子修道院が母体の大学である。皇太后陛下が、この大学出身であることは知られているが、須賀敦子はその大学第一期生であるという。若松英輔氏もカトリックの信者であるらしい。この書物は、須賀敦子のカトリックの霊性を探る本であり、聖地巡礼を辿る本であると言える。
ただ、ここで急いで言っておかねばならないのは、だからと言って、この本がカトリックの信者のみを対象とした本なのでは決してないということである。閉じられた領域のなかでのみ読まれるべき書物ではない。広く世の中に開かれた書物である。それは、須賀敦子自身の書いたすべての書物がそうであるように、である。
宮沢賢治は、法華宗の熱心な信者であったし、活動家ですらあったわけだが、こんな一節がある。
「宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」にある一節を引きながら、キリスト者にとっての幸福をめぐって彼女はこう述べている。
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という、宮沢賢治のことばこそは、キリストの神秘体たる世界を信じる私たちの、いくら黙想しても足りぬ事実なのである。
現代にキリストをよみがえらせる言葉は、キリスト者から発せられるとは限らない、と須賀は考えている。」(88ページ)
賢治の「農民芸術概論綱要」である。「世界全体が…」というのは、悟りを開く境地に達した修行者が、自らひとり悟りの彼岸に行ってしまうことを良しとせず、その入り口からまたこちら側の世界に引き返し、衆生を救済する願を立てるという菩薩行の話である。
菩薩の境位に達した人はそうすべきであるが、我々凡人は、個人の幸福を追求したっていい、そういうふうに、震災以降、私は考えているところだが、その話は、ここでは深めない。
ただ、宮沢賢治についてであるが、彼は菩薩であると言って恐らく間違いはない、と私は思う。死して、後に残された私たちにとって、宮沢賢治は確かに菩薩である。賢治の言葉は、ひとびとを導く言葉として永く語り継がれていくに相違ない。
若松氏は「霊性」という言葉を使う。賢治の仏教者としての「霊性」はカトリックの霊性とつながっていくものだというのであろう。便利な言葉として使っているとも思う。宗教の良きところ、良き感性でもあり、良心であったり、崇高さでもあり、一種の理性でもあり。人間が肉体と精神と二面を持つ、その二面性の統合を、ひとによって魂と言ったり、霊性と言ったりする、ということだろう。しかし、カトリックが、他の宗教の教えに対して寛容になったのは、つい最近のことらしい。カトリックが、その霊性を他の宗教に認めるなどというのはあり得なかったと。
「第二バチカン公会議でカトリックが対話を訴えるようになり、それから十分な時間が経過した今日、こうした発言を見つけることは難しくない。しかし、須賀が生きた時代は違った。私たちが見過ごしてならないのは、彼女がその一部となって働いたカトリック左派の運動が、現代のような対話が可能な状況を、文字通りわが身を賭して築き上げた事実だろう。」(88ページ)
須賀敦子は、カトリックの革新運動のまさに中心部にいた、ということである。他の宗教との対話を語り、寛容を示した当時のカトリックの方向性の影響下にいたというよりもむしろ、ミラノの「コルシア書店」に集う仲間たちと一緒にまさにその方向に動かす人物たちのひとりであったというのである。彼女が賢治を評価したということは「わが身を賭し」た行動の一環でもあった。
『ヴェネツィアの宿』所収の「大聖堂」までに、須賀はこう記している。
「一九五〇年代の前半は、戦時中、対ナチスの抵抗運動でうまれたより普遍的な教会を求める声がさかんで、なかでも作家のフランソア・モリアックらのカトリック知識人グループや、ドミニコ会の学者司祭たちが先頭にたって推進していた「あたらしい神学」の運動が、世界各地の若いカトリック教徒の共感を呼んでいた。とくに一九五四年は、こういった精神が身をもって生きようとしたフランスの労働司祭たちがローマ教皇庁に厳しい弾圧を受けたり、カトリック界の知的指導者の中心人物が何人か突然左遷されたりで、大学の仲間で騒然としていた。」(89ページ)
引用に続けて、若松氏は、
「この一節は、須賀がパリ大学で学んでいたときのことをめぐって記されている。…須賀は日本で三雲から知らされた神学の流れがより大きな潮流となって動き出そうとする現場に立ち会っていたのである。(89ページ)
客観的な叙述に見えるが、実は、そのあとすぐに、渦中の人物のひとりになっていく。
三雲というのは、三雲夏生、須賀の親友の夫で、倫理学者、慶応大学文学部長を務めた人物であるという。
このあたり、1960年代の学生運動が高まりを見せる時代につながっていく騒然とした雰囲気がある。今となっては静謐な美しさが優ると見える須賀敦子の世界が、若いころ、激しい活動家たちの内部にあったというわけである。
イタリアに移る直前のパリで、須賀は
「メルロ・ポンティがコレージュ・ド・フランスで講義をし、カフェ・フロールでサルトルが読書していたパリで、夢中になって戦後のヨーロッパを追っていた…」(「プロシュッティ先生のパスコリ」『ミラノ 霧の風景』)(132ページ)
フランスではあとを追うばかりであった戦後のヨーロッパに、イタリアでは主体的に参加したということになる。
シモーヌ・ヴェイユは、私として、いつか読んでみたい哲学者であるが、須賀は、対ドイツのレジスタンス運動からの新しい神学の流れの中で、その著作に出会っている。
「シモーヌ・ヴェイユ(1909~1943)…哲学者アランの弟子であり、傑出した哲学的異能を有していたが、彼女は生前に著作を公にすることなく逝った。…ヴェイユに流れていたのもレジスタンスに連なる精神である。」(128ページ)
「奴隷とは何かをめぐって彼女はこう記している。「奴隷の状況とは、永遠から差し込む光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。」(田辺保訳、ちくま学芸文庫)。労働者の日常から詩を奪い、宗教を奪い、また、宗派性を越えた永遠からの光を遮断するとき、そこに生まれるのは労使の関係ではなく、許されざる隷属だというのである。」(129ページ)(前後の文脈で定かではないが『工場日記』からの引用と思われる。)
さらに、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』から、
「労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。
ただ宗教だけが、この詩の源泉となることができる。
宗教ではなく、革命こそがアヘンである。
この詩が奪われていることこそ、あらゆる形での道徳的退廃の理由だと言っていい。」(131ページ)
〈宗教ではなく、革命こそがアヘンである〉とは、どういうことだろうか?もちろん、マルクスの『共産党宣言』にある〈宗教はアヘンである〉というテーゼへの反論であることは間違いがないし、キリスト者にとって宗教をアヘンとは甚だしい誹謗であることも間違いない。革命によって生活の詩が奪われるということを言いたいのではあろう。今となっては、共産主義革命がもたらしたものは、まさにアヘンであったというと、素直に納得してしまうところでもある。ただ、この点は、現在の私としてこのまま保留しておく。
「労働者はパンよりも詩を必要とする」というと、最近では、國分功一郎氏がウィリアム・モリスの講演「民衆の芸術」を引きつつ「私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾らなければならない。」(『暇と退屈の倫理学』朝日出版社2011年)と記したことが想起される。(この國分氏の書物については、改めて読んで、このブログに紹介を上げるべきだろう。)
ヴェイユの言う〈詩〉と、モリスの(芸術)は全く同じものとは言えないが、大きく重なるものではある。核心は同じというべきだろう。
芸術といえば、賢治も「農民芸術」を語っている。
「農業は賢治にとって単に糊口をしのぐ手段ではなかった。それは日々のいのちを養い、天地と人間のつながりを強めていく行いであり、真の美にふれる現場だった。そこに現出するものを彼は「農民芸術」という。」(140ページ)
この本の紹介としては、以上のようなところでいいのかもしれないが、ユング心理学の河合隼雄について触れている箇所がある。
「ちょうど須賀がイタリアに渡ったころ、アメリカでユング心理学を学ぼうとしていたのが河合隼雄だった。…
カウンセリングとは療法家とクライアント(来談者)のあいだに意味的な次元において何か新しいものを生み出そうとする試みだが、それを作り出すのが療法家の仕事ではない。それはクライアントの心のなかに、クライアントによって生み出されなくてはならない。療法家の仕事はそうした意味生成のはたらきを惹起させることにある。
「カウンセラーがその前に座っただけで、クライアントにすれば今までありもしなかったことが、心の底から出てくるわけです。」と河合はいう(『カウンセリングの実際』岩波現代文庫)。カウンセリングという行為が、キリスト教の告解と密接な関係がることを考えれば、こうした行為が二人のあいだに起こるのは何ら不思議なことではない。」(197ページ)
そして、ハンナ・アレント。
「(ハンナ・アレントは)ナチス・ドイツの残虐性の根源にあるものは、凡庸なる悪だと指摘し、世界に論議を巻き起こしたことでも知られる。…主著である『人間の条件』において労働と仕事の差異を論じながら、最後に彼女がたどりついたのは、「真理が最後に人間に現れる受動性、完全な[見た目のではない真の]静けさ、静謐なる時間の意味であり、それが人生において必須であるという境涯だった(志水速雄訳、ちくま学芸文庫)。(205ページ)
実はちくま学芸文庫の『人間の条件』を読み始めているのだが、まだ初めの方でつまづき、中断している。労働と仕事と活動の3つの分類というのは、恐らく、パンとバラ、労働と芸術という対比となんらかの連関を有するはずだ。(『暗い時代の人びと』を先に読んだのは良き選択だった。つまづかずに読み通せた。)
というところで、紹介を終えるが、最後に、須賀敦子の文章の中でも、印象に残っている、好きな箇所の引用を引用したい。
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行ってないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。(「プロローグ」『ユルスナールの靴』)(442ページ)
私も、恐らくは、一生、そんな靴を探し続けるのに違いない。(つまり、一生見つけることはできないのに違いない。それでいいのだ、と思う。)
中島岳志 若松英輔 現代の超克 本当の「読む」を取り戻す ミシマ社
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