東浩紀は、哲学者・思想家、と呼ばれるよりは、作家と呼ばれたいとツイッターで言っていたような気がする。あるいは、出版社の社長でもある。出版社と言っても、編集者として他の作家の本を出すというのではなく、自分で編集したい雑誌を、自ら発行するための手段としてということだろう。
小説とか評論とかの書籍は、他の出版社から出している。この小説「クリュセの魚」も、河出からの出版である。
いわゆる純文学ではない。SF(サイエンス・フィクション)であることは間違いなく、ライト・ノベルと言ってもいいのだろう。主人公は、葦船彰人であり、ヒロインは、大島麻理沙。いかにも、それらしい名前だ。もっとも、最近の子どもや若者では、むしろ、ありふれた名前だろうが。
表カバーの絵は、「彼女は黒いワンピースを着て、同じように黒いブーツを履いて(…)まっすぐに揃った前髪が印象的で、つややかな後ろ髪は肩の下まで伸びていた。」という記述そのままである。もっとも、黒いブーツは描かれず、下端にワンピースのすそから、ほんの少しだけ、腿の白い肌が垣間見えるだけだ。「肌は陶器のように白く、睫毛は長く、頬は丸く、唇からは輝く吐息が漏れていた。ぼくは動けなくなった。(…)立ち尽くしてその姿を眺めつづけた。」(18ページ)という記述は、むしろ、表紙に描かれた二次元の美少女を、いったん本を閉じて見かえすことによって確認される。
そうだ、ヒロインは、生身の女性としてイメージされるのでなく、あくまで、二次元の画像として、あたかも、最初からアニメのヒロインとしてイメージされる。あるいは、ゲームの。
薄く、軽く、深さがなく、裏がない。厚みがない。人物に厚みがなく、ストーリーに襞がない。あくまですべてが明晰だ。薄い一枚だけのベールを剥ぐと、8個でひと組の1と0の数列が続いている、かのような。
しかし、これは、だからつまらない、ということではない。
読み進めて半ばから最後までは、そのリアリティにむしろ圧倒されたと言っていい。
たまたま直前に読んだのが、橋爪大三郎と大澤真幸の対談「ゆかいな仏教」で、とくだん、意識して続けて読んだわけではないのだが、仏教の根本原理であるダルマ=法、簡潔に言えば「色即是空・空即是色」となるが、そこで説かれる世界の在り様を踏まえて、この小説を読むと、納得できるところが多い、ということになる。
このところ、たとえば、川とは何か、台風とは何か、ということを書きたいと考えていた。「ゆかいな仏教」を読む前からである。
私の家から、大川という川が見える。気仙沼の大川である。このあたりは、本町という地区なので、その区間は本町川とも呼ばれる。二つの名前で呼ばれるとしても、この川は、この川であり揺るぎはない。この川は存在している。
ところで、川とは、水の流れである。流れそのものを言うのだろうか。流れている場所を言うのだろうか。雨が降っているとき、路上を水が流れて行く。それは川とは呼ばない。堤防ではさまれた場所を川という。水の流れている部分もあれば、川岸の普段は畑になっている部分もある。そこは、川だろうか川ではないのだろうか。
川とはいったい何だろう?
山で囲まれたりしている一定の土地の中に降った雨が流れ、最終的に海にそそぐ。そのとき、水は低いところに流れ、自ずから流れる場所は定まり、そこが川となる。人間が川と名付ける。
流れている水は一定ではない。行く川の流れは絶えることがなく、しかも、元の水ではない。分子レベルで言えば、この川に流れている水のうち、一定部分は同じものが繰り返し流れている可能性があるが、そうではない可能性もある。海に流れ、雲となり、雨として降り注ぎ、川となる。ある川に流れている水のすべてが、同じ分子の集合であるわけではない。同じ分子のセットが巡回しているというわけはない。
私の家から見えている大川は、紛れもなく気仙沼の大川であるが、その存在はほんとうに確かなものなのだろうか?
あるいは台風である。
台風は存在するのだろうか?
地表で、気圧の低いところが低気圧である。そのうち、熱帯で生まれ、ある条件を満たすものが台風と呼ばれる。
確かに、雨は降り、風は吹いている。雨も風も存在する。この雨と風のセットは、台風そのものである。台風は確かに存在する。
いや、台風とは、気圧の低い状態のことである。存在しているのは、大気だけだ。その大気がすこし薄くなっている状態が低気圧である。台風は、空気の状態のことであって、存在しているわけではない。
いや、台風は、南太平洋で生まれる。生まれて活発に活動して、やがて、日本を縦断して消滅する。その間は生きている。存在している。
台風は生きている、生命を持っている。やがて消滅する。死ぬ。
台風は生命体である。
いや、台風は生命ではない。
というふうに、台風も、良く考えると、存在しているのか、存在していないのか、定かではない。しかも、生命である可能性すら否定できない、のではないか?
で、素粒子のことである。素粒子は、個体の粒なのか?粒子なのだから、粒であることは間違いなさそうだ。しかし、実は、波動でもあるのだという。粒なのか、波動なのか決定できないという。
こう考えて行くと、物質の存在、川の存在、台風の存在、全部似たようなもので、存在しているのは確かなのだろうが、本当に確かに存在しているのかどうかあやふやなことばかりだ。
そうそう、人間も同じ。分子、原子レベルで言えば、人間は、何ヶ月か何年か忘れたが、モノを食べて代謝して排泄して、すべて、その組成は入れ換わってしまう。しかし、組成はすべて入れ換わったとしても私は私だ。つまり、私というのは、物質的には確固たる存在ではなくて、あくまで、システムに過ぎない、ひとつの状態に過ぎない。
だから、物事は突き詰めて考えると、実は良く分からないことだらけなのだ。
しかし、だからと言って、人間、普通の生活が営めないということもない。日常的には、私は私で、あなたはあなたなのだから。
そして、人間は、なぜか交われば子どもを持つことができる。これもまた不思議なことだが、子どもがいるというのも確実なことだ。世の中の夫婦の大方は子どもを持っている。だからこそ、人類は続いている。
などというようなことを前提にして、「クリュセの魚」という小説を読むと、大変に深く感動できることになる。
さすが、東浩紀は、当代切っての思想家、少なくともそのひとりである。
現在の日本の国家、社会の在り様にたいして、深い洞察を経て書かれた小説ということにもなるのだろうと思う。ちらと言っておけば、天皇制のことなど。
さてさて、分量的には、本の紹介というより、仏教にからめて日ごろ考えていることを書いただけということになってしまった。川とか台風とかのことについては、改めて、きちんと書くつもりだが、今夜はこの程度で。
しかし、表紙の絵の女の子は、確かに魅力的だな。恋してしまいそうだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます