2011年:シンガポール。 監督:エリック・クー。 WOWOW録画にて視聴。
"劇画家" 辰巳ヨシヒロ氏の来歴や数本の短編を織り交ぜて一本の映画に仕立てたものです。
そのデキの良さには唸らされるモノがありますね~。
もし日本の制作会社が同じテーマで映画を作ったとして、こんな風に仕上がるかな?
進駐軍のジープが走る大阪。 一日伏せっている病身の兄。
終戦間もない大阪。街中を進駐軍のジープがわがもの顔に走る。
多くの日本人がしじゅう腹をすかせ、戦後の困難な時代をようやく凌いでいる有様だった。
辰巳家の家長(父親)は家庭というものに関心がなく、ほとんど家にいることが無かった。
家には病身の兄がいたが、入院費用が払えないため自宅での療養生活。
そのため学校にも行けず、毎日を床の中で鬱々と過ごす。
健康なヨシヒロに嫉妬して、時々癇癪を起し折角弟の描いた漫画の原稿を破り捨てたりもする。
初期の傑作短編「地獄」。 毎日新聞社の紹介で手塚治虫氏を訪問。
子どもの頃から漫画が大好きだったヨシヒロ少年。せっせと毎日新聞社・大阪版に
投稿しつづけて常連となり、ついには最優秀賞を受賞。
毎日新聞社の関係で憧れの手塚治虫氏の自宅を訪問できることになり、
そのことは彼にとって一生に残る思い出となる。
初めての自分の単行本。抱いて寝る。 PTAやマスコミの漫画叩きが起こる。
先輩・友人の助力により出版された『こどもじま』がデビュー作となり、
じょじょに漫画家として生活を成り立たせるようになる。
弱小出版社から出される貸し本を通しての執筆活動は原稿料は安かったが
それなりには充実していた。
しかしPTAやマスコミが「まんが=俗悪」「教育に悪い」と決めつけて
漫画に対する排斥運動がほぼ全国的に起こる。
彼自身も子ども向け作品を描くことに限界を覚え、自分の作品をある程度以上の
年齢の読者むけに限定していくことになる。
某編集者「子どもに振り回されちゃアキマヘン」。 いつしかウェイトレスさんと親しくなる。
貸し本むけに作品を描いていた多くの大阪周辺の漫画家が時代の趨勢を感じ取り、
しだいに東京に出ていくようになる。
(そのうちの一番の出世頭は、さいとうたかを氏でしょうね)
辰巳ヨシヒロも同様に上京して漫画活動を開始する。
そして時代も変わりつつあった。もはや貸し本の時代ではない。
東京の出版社による少年少女むけの漫画週刊誌たちが相次いで華やかに出版され、
持て囃されるようになった。
辰巳ヨシヒロは新しい時代の新しい漫画を標榜するべく「劇画」の呼び名を創設、
何人かの同志とともに劇画運動を開始、世にアピール。
それは一定程度の効果を得るが、作品の主要な発表の場が週刊誌に移行するに従い、
仕事の注文量も激増。
多忙な日常の裡に才能をすり減らしていく者も少なくなかった。
当時彼はアイデアやコマ割りの作業を複数の決った喫茶店で行うのを
常態としていたが、そのうち一人のウェイトレスと親しくなる。
後の辰巳夫人である(^^;
辰巳氏の仕事ぶりは割とマイペースだったよう気がします。
あちこちで作品を見かけるようなこともなかったし.....。
というか、最近さっぱり彼の作品を見ることがなくなったな~と思ってたら
いつのまにか断筆してたりして(^^;
この方はむしろ海外での評価の方が高かったようですね。
今年の3月に故人となってしまいましたが....。
ただ個人的には「劇画」という言い方には今ひとつピンとこないものがあります。
まあ呼び名なんて重要なことじゃないと言えば、そうなんですけどね(^^;
「劇画」ってナニ? 漫画とどう違うの? 別に変わらないじゃない?
画とストーリーがあり、語りの技法も別に変わるところがない。
だったらコレも「漫画」と呼んだっていいじゃない?
別に「劇画」なんて呼び方、要らないよ。
自分の「劇画」というものに対する感覚はそんなところですね。
ちょっとくらい絵柄やお話がダークだからと言って、それが何さ。
そんなモノもこんなコトも全~部ひっくるめて包み込んでしまうくらい
『漫画』ってのはフトコロが広いのさっ。そう思っています。
手塚治虫氏の作品のようにおシャレで都会的な雰囲気を感じさせる漫画に対して、
劇画のいかにも泥臭く汚い画柄(当時はそう見えた)は正直拒否反応が起こったです。
今でも「漫画」か「劇画」かじゃなく、面白い作品かどうかが重要だと思っています。