で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1546回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『トイ・ストーリー4』
新たな持ち主ボニーの新しいおもちゃを追って、飛び出したウッディが冒険を繰り広げ、そんなウッディたちをバスが捜しに出るアドベンチャー・ドラマ。
ピクサーによって、世界初の長編フルCGアニメーションとして1995年に誕生し、おもちゃの絆を描いてきた人気のシリーズの24年目となる第4弾。
監督は、『インサイド・ヘッド』の脚本に参加したジョシュ・クーリー。
物語。
新たな持ち主の女の子ボニーはもうすぐ幼稚園。初めての幼稚園に少し憂鬱。
ウッディやバズたちも心配している。だが、成長し始めた彼女とアンディを比べてしまう。
ボニーのおもちゃの優先順位はアンディーの頃と違い、ウッディーはだいぶ下になっていたからだった。
幼稚園に不安を感じていたボニーのために、ウッディはリュックに忍び込んで一緒についていく。
原案は、ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン、ジョシュ・クーリー、ヴァレリー・ラポンテ、ラシダ・ジョーンズ、ウィル・マコーマック、マーティン・ハインズ、ステファニー・フォルソム。
脚本は、アンドリュー・スタントン、ステファニー・フォルソム。
声の出演。
トム・ハンクスが、ウッディ。
ティム・アレンが、バズ・ライトイヤー。
トニー・ヘイルが、フォーキー。
アニー・ポッツが、ボー・ピープ。
エイミリー・ヂヴィスが、ビリー&ゴート&グラフ。
キーガン=マイケル・キーが、ダッキー。
ジョーダン・ピールが、バニー。
アリー・マキが、ギグル・マクディンプルズ。
キアヌ・リーヴスが、デューク・カブーン。
クリスティナ・ヘンドリックスが、ギャビー・ギャビー。
ジェイ・ヘルナンデスが、ボニーの父。
ジョーン・キューザックが、ジェシー。
ジョン・ラッツェンバーガーが、ハム。
ブレイク・クラークが、スリンキー・ドッグ。
ウォーレス・ショーンが、レックス。
ドン・リックルズが、ミスター・ポテトヘッド。
エステル・ハリスが、ミセス・ポテトヘッド。
ジェフ・ピジョンが、エイリアンたち。
ジェフ・ガーリンが、バターカップ。
ティモシー・ダルトンが、ミスター・プリックルパンツ。
ボニー・ハントが、ドーリー。
クリステン・シャールが、トリクシー。
ジョン・モリスが、アンディ。
ローリー・メトカーフが、アンディのママ。
リラ・セイジ・ブルームリーが、ハーモニー。
ジューン・スキッブが、オーナーのマーガレット。
カール・ウェザースが、コンバット・カール。
スティーヴ・パーセルが、ザ・ダミーズ。
メル・ブルックスが、メルファント・ブルックス。
アラン・オッペンハイマーが、オールド・タイマー。
キャロル・バーネットが、チェアロル・バーネット。
ベティ・ホワイトが、ビッティ・ホワイト。
カール・ライナーが、カール・レイナロセロス。
ビル・ヘイダーが、アクセル・ザ・カーニー。
パトリシア・アークエットが、ハーモニーのママ。
フリーが、TVアナウンサー。
声の出演(日本語吹替版)。
唐沢寿明 (ウッディ)
所ジョージ (バズ・ライトイヤー)
日下由美 (ジェシー)
辻萬長 (ミスター・ポテトヘッド)
松金よね子 (ミセス・ポテトヘッド)
三ツ矢雄二 (レックス)
咲野俊介 (ハム)
辻親八 (スリンキー)
戸田恵子 (ボー・ピープ)
森川智之 (デューク・カブーン)
竹内順子 (ギグル・マクディンプルズ)
スタッフ。
製作は、ジョナス・リヴェラ、マーク・ニールセン。
製作総指揮は、アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ、ピート・ドクター。
アニメーション・スーパーバイザーは、スコット・クラーク、ロバート・ラス。
音楽は、ランディ・ニューマン。
指揮は、ランディ・ニューマン。
現代アメリカ、新たな子供ボニーの新しいおもちゃを追って、飛び出したウッディとそれを追うバズの冒険を描くアドベンチャー・ドラマ・アニメ。
完璧と言われた前作をあえて前に進める第4弾。
シナリオはテーマは素晴らしいが描写に雑さが見える。逆算が見えてしまうのとご都合が目立つ。完璧な歪。
語らなければならないことがあるため、テーマが先に立ってしまった感じ。それでも語り口は流石で見ている間は冒険にのめり込める。なんといっても半世紀の旅がおもちゃにのしかかる。
現代性とピクサーが自分たちの物語として、セカンドチャンス・アンティークショップに託したものに心が引き裂かれる。
ボーの復活は美しく、新キャラのカブーンの素晴らしさはどうだ。イメージと本人は違うのだ。
圧倒的なCG描画力に仰け反る。
ああ、ゴミからここまでよく来たもんだ。
子供は命を生み、おもちゃのままでは命を生めない。大きなルールから独立するアメリカのインデペンデント魂。それは西部劇のように。
ラストのラストのロゴの意味に胸が痛む。
ウッディというカウボーイが『シェーン』のラストを背負う触作。
おまけ。
原題は、『TOY STORY 4』。
『玩具物語 4』。
上映時間は、100分。
製作国は、アメリカ。
キャッチコピーは、「あなたはまだ――本当の「トイ・ストーリー」を知らない。」。
まさか、そこを描くとは、というとこに踏み込んではいます。
ややネタバレ。
ミスター・ポテトヘッド役のドン・リックルズが制作中の2017年に逝去しており、新しいキャストを起用することはせず、いままでの音声を当てている。
賛否両論も分かる。だが、いままでとこれからを守るための戦だったんだろう。
ネタバレ。
ある理由からホンを書き直したので、ピクサー哲学から外れるような展開が多いのよね。ある理由は下記。ピクサー哲学から外れる最たるものは、偶然の展開が多め。
というより、逆算の計算が目に見えて、答え合わせを見ているよう。
ボーとの再会の流れとかね。
語らなければならないテーマが先に立って、物語が後から構築されているのが、目立っている。
あの子が拾ったギャビー・ギャビーをもらっていってしまうのとか、アメリカじゃ当たり前なのかな。
自動運転でもないのに、ナビが変なこと言い出しても目に見ていたらそこへはハンドルは切らないだろう。アメリカじゃそこまでナビ頼りにしちゃう人当たり前にいるのかしら。あの父親が罰を受けることを許すために、ウッディを踏ませたりしてるのよね。
キャラの特性を言い訳程度にしか説明していない。陶器のボーは腕が取れたり、ビリー&ゴート&グラフは体が欠けるカットもあるが、そこが物語に絡まない。いつも絡んでいたからね。
羊の名前を覚えてないウッディなど『3』で成長したウッディは愛されおもちゃでなくなったことで『1』の頃の彼に戻ってしまっている。
ただ、劇中でも言うようにウッディが半世紀を生きている古いおもちゃであるわけだから、彼は老人化しているんだろう。
ウッディもギャビー・ギャビーもボーもベンソンたちも中身は老人だとして見たらどうだろうか。彼らはどこか子供返りもしているのかもしれない。
ウッディと20年来の仲間たちとの別れのあのあっさりした感じ。バズは一緒に旅をしてきてボーとの仲も知ってるからだろうけど。ポテトヘッドにしゃべらせられないことからあえて時間がない状態にしたのかもしれない。
そして、それも下記する、ある理由との別れの再現なのもしれない。
『3』で完結のはずが、語るべきストーリーが出来たとのことで作られた第4弾。
この内容なので、賛否両論になっているのも頷けます。
この語るべき点というのを、三点考えました。
一点目は、ルールからの脱却。
『トイ・ストーリー』では、おもちゃであることの幸せを『3』までで描いてきた。だが、『1』でもクライマックスではシドに対して、幸せのためにルールを破ることを選んでいた。
『3』で幸せを確保するためにルールを作り出す権力者側を描き、新たな子供の所で次に移れば幸せと描いた。
だが、これは結局、繰り返しの幸せ探しであり、権力と向き合うことなく、従順に生きることの喜びも描いてしまった。
『1』では、ルールをやぶってでも、望むもののために行動すること、愛するもののために自分を知ることを描いていたのに、自分を知ることが結局、おもちゃであることを突きつけてもしまっていた。
バズの決め台詞は「無限の彼方へ、さあ行くぞ(To infinity and beyond.)」であり、まだ見たことないものへ向かう冒険者であることを示していた。だが、おもちゃの幸せのためには常に戻るための冒険になってしまう。
そもそもピクサーはラセターらがディズニーから離れてコンピューターアニメの世界を切り開くために生まれた会社で、創始者にはアウトサイダーの代表のような、かのスティブ・ジョブズもた。現在はディズニーと同等の立場としての提携を果たしている。独立心こそが会社のポリシーとも言える会社でもある。
『1』で、従順はずのおもちゃが自らの幸せを求めて動きしゃべり行動する『トイ・ストーリー』はルールではなく、素晴らしい目的にこそ従順たれと宣言していた。
だが、その素晴らしい目的のため、というルールにさえ、曲解されたものがあったのではないかとそのもう一つ上のルールからの脱却にも目を向けたのではないか。
二点目は、現在社会への警告。
現在のアメリカ、だけでなく、せかいぜんたいで右翼化の傾向が強まっている。
国や神のルールを利用する存在が力を持ちはじめている。それは戦争へ向かう道でもある。
権力、宗教、経済、社会的仕組み、古い慣習にもいい面と悪い面があり、その悪い面が強調され、新しいさらにより良き社会の妨げになっている場合もある。時代は変わっていく。それぞれに主張はあろう。ピクサーはそのルールを疑い、新しい道を探して欲しいと訴えたかったのではなかろうか。
アメリカは世界の保安官とも言われる。ジェシーにバッジを与える姿には、その地位を譲るときが来たのだ、という警告にも見える。
ディズニーから離れたものでつくったピクサーはディズニーの傘下に入る形で提携したが、その理念と合わないという理由で離れることになる。
そして、その後。アニメ部門が弱くなったディズニーはその理念でヒットを続けるピクサーに同等の立場どころか、ラセターをディズニーのアニメ部門の責任者と言う立場につける形での同等の立場での提携をすることになる。
『2』で、つくられた意味と願望に沿った形になり、大勢のために安心で素敵な将来を約束された世界も、素晴らしい目的や仲間の方が大事である、本来の目的であるおもちゃは子供に大切に遊ばれてこそ価値あるものと宣言した。
だが、『3』は子供は大人になってしまう、早晩、おもちゃは捨てられる。おもちゃが自分のために、長く遊ばれる幸せを追求するためには、差別化し、支配していけば、一部のおもちゃの幸せを確保できる者たちが現れ、所有者である子供でなくなった子供(アンディ)が新しい形で次の正しい子供(ボニー)に預けることで再び玩具の幸せは受け継がれていくことを描いたが、結局は子供という支配者の胸先三寸であること、子供がまた子供でなくなれば、また次を求めるしかないこともはらんでいた。ぼろぼろになって壊れてくことがおもちゃの使命であるかのように。死ぬまでおもちゃのルールに従って死ぬのが幸せであるとも取れなくもない。おもちゃだからいいだろうという思い込みがそれを許している。
おもちゃの幸せは描けたが、そうでないものを見捨てることにもなっている、現代社会において、争点になっているルールは時代に合わせ、よりよく変えられるはず、なのに、『3』は古いルールに縛られる現代の問題と繋がってしまった。
子供の教育のためには、まずはそこを踏まえることも必要な時期はあるだろう。だが、子供は大人になる、その時、次へ進む考え方を奪わないために、そこを壊す必要があったのだろう。
子供は大人になるのに、おもちゃは子供のままでいいのだろうか。
社会は子供のままでいいのだろうか。
三点目は、ジョン・ラセターをいう存在を乗り越えるために。
『トイ・ストーリー』の生みの親、ピクサーの父ともいえる存在がジョン・ラセター。だが、今、彼はピクサーにはいない。ディズニーにもいない。
彼は素晴らしい力を持っていたし、実績も残したが、その裏で権力を振りかざし、パワハラ、セクハラを行っていたことが告発され、ディズニー・ピクサーから三下り半を突きつけられ、放逐された。
ピクサーのクリエイティブティの柱であり、ディズニーのアニメ部門の統領の罪を裁き、罰を与えたのだ。作品には罪はないが、その染みは拭えないほどにこびりつついている。
ラセターのトイ、ラセターのおもちゃ、という言葉は淫猥な響きも拭えなくなった。
その色眼鏡で見れば、『トイ・ストーリー』の1~3は高度な支配構造を透けて見てしまう。このシリーズでラセターは神にも等しかったから。
そして、『トイ・ストーリー』はピクサーの顔である。
ピクサーはラセターから脱却せねばならない。
ウッディ=ラセターとして、せめて、美しい形で世界へ放出せなばならない。
古い仲間から下に扱われ、ゴミ以下とし、それでもゴミを守る、保安官を譲り、新たな移動する家の自衛弾として、新たなルールの守護者として。
仲間をどこかで下に見て、愛される自分のリーダーシップに溺れ、自分こそというエゴをもちつつ、それでこそ結果を残してきたウッディ。
発声器=内なる心の声=欲望、を捨てて欲しいと。(だから、バズの声は常に望む方向の言葉しか言ってくれないし、ナビは目的に沿って、違う方向を示す)
そして、それは新しい世界に踏み出さざる得なかった彼へのエールでもあるのだろう。
主題歌『You've Got Friend In Me(君はともだち)』の歌詞が現実に響く。
「君には僕という友達がいるよ
君には僕という友達がいるよ
先がでこぼこな道があって
君の暖かくて良いベッドから遠いいところにいるときは
(中略)
いくつもの年がたっても
僕らの友達関係は終わらないよ
君はこれが運命だって知ることになるさ」
ピクサーチームの歌はラセターに響くのだろうか?
アンディはボニーに「ウッディの1番素晴らしいところは…何があっても、仲間を見捨てないところなんだ」 と言ったが、ラセターは身近な仲間しか大事にせず、仲間とも言えるピクサーやディズニーで働く人々に酷い仕打ちをしてきた。
ラセターがそうであってもピクサーチームは新しい仲間、独立した女性でありながら壊れやすい陶器の人形ボー、名前を憶えてもらえない三頭で一匹のビリー&ゴート&グラフ、離れることのできず妄想爆発で暴力的なダッキーとバニー、小さな警官ギグル。彼らが運転するスカンクに偽装されたラジコンを新しく仲間として与えた。
冒頭の回想で、ウッディは命がけで、ラジコンを最初に助けている。だが、口がない彼はしゃべれない。
だが、スカンクのラジコンは皮だけなのでしゃべれない。つまり、おもちゃがおもちゃを作っても命を与えられない。
あのラジコンはアンディに愛されるから救われる。
ボーは、モリーに愛されないから救われないのなら、愛されなくても愛を与える人になろうという重いテーマを提示する。
愛を示せば、愛されるなんてことはないのだ。それはギャビー・ギャビーとハーモニーのエピソードでも再度語られる。愛情がなくても献身する愛国心のようなものや理想の奴隷になることはない、とも訴えかける。都合の良さから抜けだすこと。
必要とされるところへ、荒野を切り開いていく。
アメリカの独立心がそこに姿を現す。
『3』でリトル・グリーンメンたちはすでに独立しているのよね。だから、元々ない発想ではなかった。ただ目をつぶっていたのだろう。
キャラクターの成長を嫌がる層が存在する。
大人向けなら許されることだが。
特に日本では『サザエさん』、『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』など大きな変化ほぼなく(たまに新キャラは出る)、成長もせず、同じことを続けるのが好まれる。悪いとか言い出h無く、そういうジャンルではあるが、『トイ・ストーリー』はキャラが成長しているのでそのジャンルではない。
カブーンは象徴的なエピソードを持つキャラだ。
CMと同じことを望む子供に、実際のおもちゃが出来ないことでがっかりされ、捨てられる。しかも、カブーン自身は自分は凄いスタントマンだという設定を主張する。しかし、実際に飛ぶときには現実を知っているので臆する。
しかし、それでもついに成功(状況的な助けもあるが)して、自身を取り戻す。
その決め台詞は「イエス・ウィ・キャナダ(Yes,We CANDA)!」でオバマ前大統領の決め台詞をパロっている。
衰えやセカンドキャリアを歩み始めても、以前のイメージに囚われ続ける。それでも必要なことを自分の立場でやるしかない。
自分が、信じるなと言いつつも、彼はダッキーとバニーの妄想話を一蹴せず、「レーザーは本当に出るのかい?」と信じかけてしまうところがある。
電気スタンドを見つけて、ウッディはボーがいるかもとアンティーク店に入っていく。
そこで、口があるのにしゃべれない腹話術人形と心の声を壊したギャビー・ギャビーにゴミだと思っていたが生きる意味に目覚めたフォーキーをさらわれる。
電気スタンドから離れたボーはスカートマントに変えていて、移動遊園地とともに旅に出ようとしている。
CGアニメは始まった初期はゴミのような扱いを受けていた。だが、そこから『トイ・ストーリー』を生みだし、世界の主流へと押し上げ、価値あるものにしたラセターを誇ってもいる。
ギャビー・ギャビーはここrの声を取り戻し、迷子の子供の勇気を呼び起こす。治りさえすれば、おもちゃとしての幸せを再び取り戻せるのだと伝えているのではないだろうか。
いかに、ピクサーにとって大事な人を失ったのか。アンティークショップの名前が「セカンドチャンス・アンティーク」なのは象徴的だ。
もちろん、『トリ・ストーリー4』は『3』制作中から始動しており、まだラセターは更迭される気配はなかったはずだ。(その行為自体は社内では知られていたようだが)
次があるのが人生ではないが、その次を見つけなければ場倣い時代になった。高齢化は進み、子供は子供時代の夢に破れることがほとんどで、大人もまた全盛期は過ぎ去り、次の役目を見つけ中ればならない。同じような新しい場所は与えられないのだ。
もしかすると全作を手がけて『バグズライフ』、『ファインディング・ニモ』の監督として、ピクサーの番頭、ラセターの右腕だったアンドリュー・スタントンは、ラセターの所業に心を痛め続けていたのかもしれない。ラセターのピクサーから次世代のピクサーにするためのエールとしても『4』を書き始めたのかもしれない。
『4』の制作中に、さまざまな理由から、脚本は約4分の3が書き直されたという。
『トイ・ストーリー』には引用元がある。
『ブレイブ・リトル・トースター』シリーズだ。ディズニーのビデオ用アニメであり、絵本の原作を持つ作品で、すでに古い家電を主人公にして、『1』と『3』のネタをやっている。
だが、『2』と『4』のネタはない。
『トイ・スト-リー』は、『1』と『3』が呼応しており、『2』と『4』も呼応しているのだ。
たとえば、ウィージーのスピーカーが直るネタや行くはずだった博物館とアンティークショップがおもちゃがたどり着く場所として重ねられている。
しかも、『2』はビデオ作品として作られ始め、そのあまりのゴミのような内容に、ラセターが怒り、その号令の元、突貫工事で全面的に作り直され、映画へと格上げになったという話がある。(当時のディズニーでは続編はビデオでと言う流れがあり、『カーズ』のその名残があり、『プレーンズ』が生まれている)
ゴミから生まれた傑作『2』は19年が過ぎた今見ると、役目を終えたおもちゃにとってはそれもよい判断だったのではという内容にも見える。
ボーはその『3』の時に、突然いなくなったキャラクターだ。その理由が『4』で描かれるが、それは『3』とほぼ同じエピソードとなっている。これはボニーが大人になれば、ウッディの身に起きること(すでに『3』で体験済)だと予測できる。しかも、仲間は彼女が去るのを誰も気に止めない。彼女はウッディの恋人ではあるが、モリーのおもちゃであり、仲間ではないと追っていたのかもしれないし、ただ単に気づいていなかっただけなのかもしれない。持ち主によって去るおもちゃをおもちゃは救うすべはない。それを体験していたロッツォたちは児童園で仕組みを作り上げていたのだ。でなければ、ボー救出だけで映画が一本つくられていただろう。
そして、ウッディはギャビー・ギャビーを救うべく、発声器を渡し、ハーモニーに見つけてもらえるようにするが、子供は気まぐれでギャビー・ギャビーは興味を抱いてもらえない。ウッディは彼女にも自分を見る。『2』の時にはアンディしか見えなかったウッディも、ボニーに渡され、同じようにボニーを愛しても、ボニーは愛してはくれない。
ウッディがボニーのことをアンディと言い間違えるのは、彼にとってもボニーはアンディの代わりでしかないからだろう。おもちゃだからしょうがない、でも、自分の思いに仲間を突き合わせるわけにはいかない。(『2』でジェシーたちはその思いからウッディを連れて行こうとする)
自分の道をラブ時に、仲間を頼るわけにはいかないし、それこそが仲間を守る行為だ。自分を見捨てたと思わせないことにもつながる。
(余談だが、今のバージョンの『2』にはプロスペクターのメイキングでのセクハラシーンがカットされている)
今作にいつものNGシーンがないのも、これは撮影されたフィクションではなく、アイデンティティを持つ人格になったことの宣言だろう。
(妄想シーンで映画ネタを使っていたのも、おもちゃであることをばらすようなバイオレンスなものになっている。だから、レーザーは出ないんだよな?とカブーンは疑う。無邪気なきついジョークは今はもうなくなってしまったのだ)
24年を経た来たからこそ、ウッディはその成長ではなく一人格として、安住のしがらみではなく、彼のカウボーイとしてのアイデンティティにこそ立ち返ったのだ。(この保安官の立場をジェシー=アンドリュー・スタントンが引き継いだとも言える)
ウッディはカウボーイだ。映画界で言えば、西部劇の登場人物。西部劇は多少戻っては着たが、メインストリームのジャンルではなくなった。それは『1』でも描かれていた。新参者は宇宙パトロールの冒険者バズはSF映画とスペースオペラのヒーローだったから。
『2』ではアクションと家族もの、『3』ではギャングや脱獄映画が描かれた。
そして、『4』は女性映画とホラーが描かれる。
どれも時代で古いと言われては再生したジャンルでもある。
スペースオペラは子供だましと言われ『スターウオーズ』が出るまでは酷い扱いだった。
ギャングもの、脱獄もの、アクション、ホラーは何度も再生しているが、その度にブームが去ったと言われてきたジャンル。
女性映画は、70年代のウーマンリブののちに近年ようやくその力を正当なものにして発揮しつつある。
近年最も隆盛しているスーパーヒーローものは扱われなかったが、ジャンルとしては映画史上で初めての盛り上がりだからかもしれない。(作品単位では盛り上がりはあったが)
ピクサーのロゴはラセターが生み出した電気スタンドのルクソーJr。
だが、この映画の最後ではCMとは違うと言いながら、ついにジャンプを成功させたカブーンがロゴになって見せる。カブーンはウッディにハイタッチしてもらえなかったコンバット・カール(『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』に出てきたおもちゃと同型のおもちゃで黒人キャラ)とハイタッチして終わる。
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追記。
子供のために従順なおもちゃの世界とはいえ『1』ではシドを脅しているのよね。ただ、直接攻撃はほとんどしてなかった。
今作は提案とはいえ、おばあちゃんへ直接攻撃をしようと言い出しており、おまちゃは子供や大人を殺すことも可能な世界観に広げてしまった。
実際、おもちゃで死んだりすることもあるわけだから、それもないとは言えないのだが、『スモール・ソルジャーズ』なんてもあったし。リメイク『チャイルド・プレイ』などもあるしなぁ。
こうなると、おもちゃがアメリカ映画における奴隷制度の隠喩に変わってしまったとも言えるのです。それを許容するかどうかが賛否が分かれる気はします。
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さらに追記。
ネットに、製作陣が最後の最後まで採用するか悩んでいた別エンディングの絵コンテが公開されていました。
https://www.youtube.com/watch?v=D6C9ah28EuM
このエンディングでは、ボーは新しい女の子に出会い、おもちゃの幸せを取り戻し、ウッディは彼女の背中を押し、身を引いていく。
まるで、50年代のハードボイルドなラブストーリーで、、まさに子どもを卒業し、大人の味わいにさせている。
『トイ・ストーリー』を完全に終わらせるエンディングだった。
しかし、これって、たぶん、今の時代を見ていないものになっているとも言える。
ここで描かれるのは、男は大人になるが、女は子供のままだ。結局、女性は自立できない、旧来の視点を押し付けているともいえる。
今描くなら、ボーの自立こそ描かれなければならない。
今残っている、その決断に拍手を送りたい。
ラストについては、ジョン・ラセターが抗争したものが、絵コンテにもなっているが、これをまるっきり変えている。
ゴミにな手欲しくないのは、ラセターによって被害を受けた人々にこそかけたい言葉でもある。
いや、思いは、そちらの方が強かたのだろう。
ルールを越えて、自立を描いたことによって、その両面へのメッセージが出てきてしまったというところだろうか。
sれほど、強いメッセージを描こうとしたからこそ、ルールを越えたからこそ、賛否両論にもなったのだろうと思う。