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菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

反復が日常。 『すずめの戸締り』(追記あり)

2022年11月19日 00時00分46秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2142回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 

『すずめの戸締り』

 

 

 

地震を起こす怪物が出てくる扉を封印する猫を追い、閉じ師と少女が旅をするファンタジー・ディザスター・アニメ。

 

監督・原作・脚本は、『君の名は。』、『秒速5センチメートル』の新海誠。

声の出演は女優の原菜乃華と“SixTONES”の松村北斗。

音楽は、『君の名は。』、『天気の子』に続き3度目のタッグとなるRADWINPSと、ゲーム「メタルギアソリッド」シリーズの作曲で知られる映画音楽作曲家の陣内一真が共同で担当。

 

 

物語。

現代宮崎、のどかな海と山の町。
17歳の女子高校生の鈴芽(すずめ)は、叔母たまきと二人暮らし。
通学途中、すずめは扉を探す草太という青年から廃墟はないかと訪ねられ、何気なく教えてしまう。
しかし、嫌な予感がし、すずめは踵を返し、青年を探しに廃墟へ。
彼女は廃墟で彼は見つからなかったが扉を見つける。
扉を開けると、その向こうに奇妙なものを見てしまう。
すずめが逃げて学校へ戻ると、地震の緊急アラームが鳴る。先ほどの廃墟から奇妙な煙が立ち上っている。火事?
だが、周りの友人には煙は見えないようだ。
もしかして、彼が何かした、いや、もしかしたら私が……。
すずめは再びあの扉へ向かう。

 

 

声の出演。

岩戸鈴芽  (原菜乃華)
宗像草太  (松村北斗)

岩戸環  (深津絵里)
岡部稔  (染谷将太)

ダイジン (山根あん)

二ノ宮ルミ  (伊藤沙莉)
海部千果  (花瀬琴音)
芹澤朋也  (神木隆之介)
宗像羊朗  (松本白鸚)

岩戸椿芽  (花澤香菜)
幼い頃の鈴芽 (三浦あかり)

 

 

スタッフ。

製作:川口典孝
企画・プロデュース:川村元気
制作統括:徳永智広
エグゼクティブプロデューサー:古澤佳寛
プロデューサー:岡村和佳菜、伊藤絹恵
制作プロデュース:STORY inc.

キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:土屋堅一
美術監督:丹治匠

音響監督:山田陽
音響効果:伊藤瑞樹
音楽プロデューサー:成川沙世子
音楽:RADWIMPS、陣内一真

 

 

 

『すずめの戸締り』を鑑賞。
現代パラレル日本、地震を起こす怪物が出てくる扉を封印する猫を追い、閉じ師と少女が旅をするファンタジー・ディザスター・アニメでロードムービー。
監督・原作・脚本は、『君の名は。』、『秒速5センチメートル』の新海誠。
『君の名は。』、『天気の子』に続く自然災害三部作とも言える内容。
まっすぐ東日本大震災を扱っている。大ヒットを期待される商業作で許されるのはある意味で作家性で大ヒットメーカーとなったからだとも言える。
この点の扱いについて、賛否両論は、ある意味、正しい姿と言える。アニメで描かれた絵でさえ、それを描くこと(描き方にはよる)のを題材として責めるのは、いくらなんでも未成熟ではないかとも思いたくなる。子どもも見るのにというならば、大人が助言してあげればいいし、それこそ映画の持つ力だ。「この映画には地震や津波の描写があります」と書くべきだったか。でも、予告編で出てくるしな。日本が地震、地震のアラームはトラウマになっているのかもしれない。ただ十数年に一度はこの国では起こるのだ。世界をみれば頻繁に起きているのだ。もちろんPTSDになっていて、フラッシュバックを起こす人はいだろうから、そういう人は避けるべきだ。ただ、すでに実写でも東日本大震災を描いた映画もまぁまぁあるし、現実でも地震通報のアラームは鳴っている。地震の描写がありますと告知している虚構作品で、それを扱うのはどうか?というのはどうなのだろうか。マイナスのことに蓋を閉め続ければいいものではない。11年前であれば、11歳の子らは知らない出来事なのだ。そういうのはメジャーな虚構の娯楽でまでやらなくていいと言うならば、作家ではなく、工業製品をつくれ、という圧力だろう。無料で流されるものではなく、自分で選び見る映画なのだから。お金を払って見る映画には、見に行かない権利があるのだ。
批判はその描き方にこそあるべきだろう。『シン・ゴジラ』が原発事故に取り組んだ(人災として描いている)ように。やはり、その面を描かなかったことには違和感を覚えてしまう。(実は、うっすらとはあるのでネタバレにて)

新海誠は引用作家であることも露呈する。すべてではないが、影響元を隠さず、その後光を利用する。今回はジブリ(特に宮崎駿)を指摘する人が多いが、ぞれは以前『星を追う子ども』で挑戦し失敗したが、自分こそ宮崎駿を継ぐものだという宣言(覚悟)もあるのかもしれない。『魔女の宅急便』は公言してもいるが、『ラピュタ』(廃墟)、『ポニョ』(好き)、『ナウシカ』(地下と巨大虫)、『ハウル』(物とドアの向こう)、『もののけ姫』(神と獣)、『トトロ』(猫と森)、『風立ちぬ』(地震と夢)、『千と千尋』(神とカオナシ)、『狩り御ストロの城』と宮崎駿映画のほぼ全作のイメージが散見できる。タイトルにもジブリ色(「の」を入れるのがお約束で、モチーフや主人公を組み込むものが多い)感じるほどで、題材に扱いは高畑勲と言えなくもないし、現実という題材における賛否両論もそう。そして、宮崎が舞台なのさえそう思える。
だが、他にも、ドアだけのイメージは『ドラえもん』であり、人ならざるものものとのコンビは藤子不二雄である。さらに、庵野秀明、押井守らの引用もいくつもある。『トップをねらえ!』的なモチーフ(『ほしのこえ』も『トップをねらえ!』の影響下にあった)、アニメ的日常描写(現実的な日常描写は高畑勲だが、大きな事件に向かう日常は押井守が得意とする題材)などは押井守。双子の描写は『おおかみこどもの雨と雪』であり、そういった娯楽の記憶を浮かばせるしかけとしたのかもしれない。
加えて、南から北へという日本の物語の根源的法則も取り入れている。『風の電話』から引用した可能性はある。構成(農業や叔母との関係、格差や片親など日本の問題の象徴と旅先で出会っていくし、さらに似ている描写がある)がかなり似ている。『ドライブ・マイ・カー』もこれを入れている。
これは、国民的ヒットという看板、実際の災害を扱うことの担保として、ユング的な無意識的集合知を利用した方から選んだ方法とも受け取れる。そこで、自分のオリジナリティは、オカルトの力という部分は残したのだろう。劇中出てくるミミズは龍脈と言われる考え方で、地震を図める要石も実際に存在する。だが、これもまた荒俣宏などの伝奇系作家により、定着した者でもあったりする。ゆえに後半『帝都物語』の様相を帯びる。

声のキャストは、本業俳優がほとんどをしめるが、その演技方向は、アニメ的なものとの中間になっており、素の力はあるが、表現まで深めているキャストは少ない。原菜乃華と“SixTONES”の松村北斗は頑張っているし、聞きやすいが、エグってはこない。その不足と成長も物語に取り込んだのかもしれない。芸は、舞台的な三浦あかりや深津絵里、声優慣れした伊藤沙莉や神木隆之介にある。中庸的なバランス感覚こそ新海誠が手に入れたものなのかもしれない。
音楽はRADWINPSが3度目のコラボをしているが、主人公の気持ちを伝えるために挿入歌は十明という女性にしている。(主題歌はラッドが担当)それは途中で流れる既成曲を際立たせるためでもあろう。映画用の曲には記憶がないからではないか。実はゲーム『メタルギアソリッド』シリーズの陣内一真が共同音楽を担当しているが、それがやや座りの悪いジャズなどが入って、耳に触る。音楽の印象を薄くして、甘いエモから離れようとしたのか。
ある程度の支持を得ていた作家性を持っていた作家が、国民的ヒットメイカーで大衆作家になった災害とも呼応しているところがある。そう見るとタイトルは、『君(新海誠)の名は。』、『天気(大ヒット)の子』、『すずめ(個人作家)の戸締り』とも読みたくなる。
今の観客に向けた早い語り口と心情をすべてセリフにする(ただし、ここにはすずめという人物の性質にしているし、イスは表情がないのでその補足になってもいる。これらはあまり上質な方法ではない。アニメーションがよければ椅子の表情は動きで表現できるのは、ディズニーが証明してきたことだ)ことで、その奥にかつてあったもの、日常という宝に思いを馳せて欲しいといううメッセージに目を向けて欲しいがゆえの悪魔との契約とも見えなうもない。
しかも、日常の繰り返しは、以前から描いてきたことでもある。だが、そこにおける単調さは以前からも指摘されていた。今回も中盤までの串団子式の構成は、ドアを閉めるアクションの単調さも相まって、ご都合主義もあり、力が弱い。
だが、作家としての戦いを感じるので応援したくなる。それは自分の魅力とされるところをあえてしかけとして今回裏返して見せたことだ。瞑想というか自問自答の作家性がそこにも発揮されている。
風化させてなるか、商業に飲み込まれるものか、良きものを継承していかねば、という意思、作意が凍らせるほど溢れている。
上質とまではいかないが、上善たろうとしなかったこと(水の如く低きには流れないのはものづくりでは大事なことなのだ)は拍手を送りたい。
もはや、今の日本で、アニメよりでない実写で、これだけ描こうとしたことで語らせる映画が、実写邦画にどれだけあるだろうか。
その時、今の映画であろうとしたことは、ジブリがもっとも心掛けていたことだった。
少し物足りないのは、そこに新しい表現も含まれていたこと。これに高畑勲は強く意識的だった。新海誠はその部分を制作過程や技術全般の向上に向けているようなのだが。ジブリが作家を失うことで分散したことは本当に損失であるが、それを外部のジブリ・チルドレンが引き継いでいるといえる。
そこまで、背負わされることの重圧が本来メジャートップ作品とヒットメーカーが持つ宿命。ポン・ジュノはそこも引き受けている。それが映画という巨大総合芸術の力でもある。
最後の展開には、現在の日本の縮図も潜んでいることも書いておきたい。
お宮参りし、畑を高くし、「行ってきます」とドアをおしげもなく閉めて、「オカエリナサイ」を繰り返す。
甘辛。
深海から新たにヤマトを見据える誠作。

 

 

 

 

おまけ。

2022年の作品。

 

製作国:日本
上映時間:121分
映倫:G

 

配給:東宝  

 

 

日本における児童向け映画やアニメ作品は、このジブリ色の「の」を入れるのが、ほとんどお約束となってしまっている。特にディズニーやピクサー作品に顕著で、原題『UP』は邦題『カールじいさんの空飛ぶ家』、原題『FROZEN』は『アナと雪の女王』となる。
ジブリ以前から、児童向けはこういうタイトルのつけ方が少なくなかったのだが、さらに定番となったと言える。

 

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新海誠最新作『すずめの戸締まり』2022年秋公開決定 “扉を閉じる”アクションムービー /2021年12月15日 - アニメ - ニュース -  クランクイン!

すずめの戸締まり』IMAX® 11/11(金)より上映決定! | グランドシネマサンシャイン池袋

新海誠監督作品『すずめの戸締まり』が注意喚起「地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンが」 | ORICON NEWS

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すずめの戸締まり:日本の戸締まりプロジェクト 47都道府県の地元企業47社参加 すずめが走り出す描き下ろしビジュアル -  MANTANWEB(まんたんウェブ)

しずかの戸締まり / Jack さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)

 

 

 

ややネタバレ。

新宿のTOHO新宿のシアター9は、下の4DXの影響でちょいちょい揺れるので、内容とリンクしてしまう。

 

 

 

 

ネタバレ。

日常の繰り返しの美しさを描くために、物語でも繰り返しの構成になっているのではないか。
ただ、扉閉めのアクションも、一応、観覧車のところは、少し変化がある。

なぜヒロインの名前を<すずめ>にしたのか。
宮崎駿は、ナウシカ、ラピュタ、パズー、シータなど、それ自体がシグネチャーとなる名前をつけたのだが。
たぶん苗字が岩戸なので、岩戸を開かせた天宇受賣命または天鈿女命(あまのうずめ‐の‐みこと)、<うずめのみこと>からだろうけど。
岩戸を開けさせ、太陽(天照)を取り戻させたうずめに扉を閉めさせて、『天気の子』の次という意味も感じたり。

すずめの母であるつばめは看護師なので、現在のコロナ禍における医療従事者が当たり前になりつつあるのも意識したのではないか。

 

要石は、大きな地震があるたびに、位置を変えてきたであり、何度も大地震を止めるに失敗していることがわかるが、逆に何度も止めてきたとも言える。
そして、それは、閉じ師が失敗してきたことということでもある。

 

大臣っぽいという意味で、ダイジンとつけられる。人に見えると言われるシーンでも大臣っぽいと言われてもいるので、どうやら元は人だったらしい。(もしかしてだが大神の意味もあるのか?)
なので、サダイジンともう一方の要石を呼ぶなら、ダイジンは元は右大臣だったのかも。
雛飾りにある右大臣と左大臣だが、これは随身(随臣)という役目で、ボディーガードの役割として配置されているらしい。
立場としては左大臣の方が偉い。
実際は、朝廷の役職で、太政官の職務を統べる議政官の首座に当たる。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。(太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強く、実質的には左大臣が最高職)。
明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続するが、明治18年(1885年)に廃止となっている。
(wikiによる)

なので、いつ頃から現在の彼らが担当(前の担当がいたのか、ずっと彼らが担当しているのか)したか不明だが、少なくとも、草太の羊朗がサダイジン(大きかったのでダイジンではないようだ)のことを知っているということは、以前、羊朗はサダイジンが動いている時に立ち会っているということ。たぶん以前に位置替えをしたことがあるのだろう。止められたのか、失敗したのかは不明だが、少なくとも地震後にミミズを扉の向こうに返す必要があるよう(ミミズは地震を起こすと力が弱まり、常世に帰るかも)なので、東日本大地震の後、2011年かもしれない。その時、二つの要石は抜けたのだろう
その時に羊朗に彼らが猫として見えていたのか、人で見えていたのかは分からない。もしかするとあれは父(草太の祖父)なのかもしれない。
閉じ師は、一子相伝なのか、分家がいるのか。全部、草太がやるのだとしたら、教職と両立するのは難しいだろうから、育てるべきなのではないかと思うのだが、お金が発生しないから無理なのか。
先生不足の問題も組み入れたかったのだろうか。

ダイジンは大臣だと見た人に思わせる力があると考えられる。あの見た目から大臣とは思いづらいから。ならば、実際に大臣だったのではないか。
そう考えると、やはり、要石は神となった人ということだろう。
大臣のような見た目なら、やはり大人なのだろうか。
しかし、ダイジンの言動はまるで子供のようだし、猫はある程度大きくても人は子供として扱うし、声も子供(声を当てている山根あんも実際に子供)だ。
要石になって長い時間が経つと子供化するのかしら。
草太は要石を神だと言っていたが、幼い子供は神のものとして、神に返すというような言い方をしたりして、生贄にした伝承もあるので、子供だったのではないか。(サダイジンは閉じ師である可能性が高い)
草太は閉じ師として裏のことまでは知らないようなので、隠されていたのかもしれない。
となると、子供が大人のふりをしたのか。

ダイジンが扉に導いたと言っているが、船には乗せたものの、その後は姿をくらませて、SNSで見つけられるのは、誘導しているとは思えず、草太が要石になるように地震が起きて被害が出る現場を見せて、覚悟させたかったのではないか。「人がいっぱい死ぬ」とも言っているし。

すずめは、ダイジンに、「うちの子になる?」と言っている。
これは、ダイジンと幼少のすずめを、すずめにたまきを重ねているのだろう。
となると、サダイジンがたまきで、ダイジンがすずめとなる。
たまきとすずめは、親(義母)と養子の関係なので、サダイジンとダイジンも親子なのだろうか。
とすると、サダイジンが父、ダイジンが子であり、母親がいない。
すずめも母親の描写はあるが、父がいない。シングルマザーであることは、たまきや二ノ宮ルミとも重なるので、ここでもkァタオや関係が重ねられているのではないか。
母親を探すすずめ、母親を探すダイジンが重ねられている。
そうなると、ダイインはやはり子供なのかもしれない。

すずめは、自分がたまきと同じこと(戻りたくないダイジンを戻そうとする)をしているにも関わらず、彼女の気持ちが分からない。

草太は、父の病のせいで急ぎ閉じ師になったようで、あまり詳しくは知らないようだ。
もしくは、要石となる運命を背負わせられていたので、詳しく話せなかったかもしれない。

 

ラストの展開が日本の縮図なのは、ダイジンを自分の役目を放棄した老人と見ると、若者がその負の遺産を無理矢理に与える。しかも、国の平和を人質にされる。
だが、ダイジンが子供だとすると、それは連鎖になる。大人(老人)が子供に負債を押し付ける、今の日本の縮図だ。それは100年続いていることじゃないか。
そして、そこには<話し合い>がない。
子供には分からないだろうと、理解をさせないまま、自己犠牲を強いる。
これは、すずめとたまきの関係でも起きている。
そう、二人は話し合わない。
大人が話さないから、子供も話さない。
サダイジンが来たことで、たまきは自分の思いを言葉にし、話し合いの糸口をつくる。
その間をセリザワが歌で取りもとうとする。
そこにあるのは言葉(歌詞)だ。
セリザワがかけるのは、この物語の展開にリンクする歌詞の歌ばかり。
「あの人のママに会うために」や「ケンカをやめて」など。

つまり、言葉を使って声で話し合うことがこの映画のモチーフ演出となっている。
(【開け閉め】もモチーフの一つになっている。【思い出す】はシンボルに留まる)
草太の出会いは、廃墟を尋ねられたことにスズメが応えたこと。
スズメは独り言が多く、話し合うがうまくない。
たまきとのメールは一方的で、電話はすぐ切られる。
イスや猫についても話す言葉のことで特殊になる。
ダイジンは言葉をしゃべるくせに、大事なことは言わない(言えないのでなければ、意図があるということだ)。
草太は父に会えず、言葉を交わせない。
田舎では言葉は人を繋ぐが、東京では言葉が人を遠ざける。
サダイジンはしゃべらないで、しゃべらせる。サダイジンは心の扉を開き、言葉を出させるとも言える。
ただ、これがちょい映画的でない方向でも使われているんで、本作が説明的に見える一因となっている。
方言の使い方も雑だし。

 

セリザワが古い歌をかけるのは時を超えることのふりじゃないかな。

 

宮崎は天孫降臨の地だったりする。

 

 

日本独自に発展してしまった演劇的映画は、言葉の映画になり、映画の本質と思われている部分からズレてしまうことが多々ある。
だが、これは日本が言葉の国ゆえかもしれない。

説明が多いのに、閉じ師のルールが分かりづらいのは、どうせ分からないなら説明をしない方がいいという諦めを感じ、この映画のこの部分から外れている気もしないでもない。
これにより、扉を閉めることのサスペンスが減り、単調さをまとう。動き的にも面白くないしね。
ミミズ以外に明確な敵をつくりたくなかったのかもしれない。
ミミズでさえも、自然災害である。

 

すずめに草太を取り戻した後の策はないが、自分が前に要石を抜けたのだから、もう一度抜くことを決める。
扉が開くとミミズはまず要石の刺さったしっぽがこの世に出てくるのかも。地上に出てしまった要石も扉を閉めれば元に戻るはずだったのが、すずめは抜いてしまう。これは常世に行ったすずめの特殊能力。
あの地震のせいでいろいろ歪んだせいですずめは常世に行けたのか、すずめだけの特殊能力か、7つまでは神のものである子供は通れるものなのかもしれない。

 

ダイジンは、スズメの愛情によって、要石をやめることにしたが、スズメの愛情を失うが、のちにスズメの愛情を取り戻す。スズメがソウタの代わりに私が要石になると言ったのでダイジンはなら自分がなることにしたのだ。
それは、愛情の連鎖であり、ダチョウ倶楽部的な「俺が俺が」という感じ。

椅子にさせたこと自体が要石の能力を渡したことなのか。

ダイジンはそもそも扉の元へと誘導していた。

龍を蛇とする言い方がある。蛇はミズチとも読み、ミミズともつながる。

 

 

『千と千尋の神隠し』も寝ている少女が謎の石を通り過ぎるところから始まる。

映画は「ただいま」「おかえり」で終わるが、『トップをねらえ!』の後半も「いってきます」「オカエリナサイ」の物語だった。

過去の記憶としての夢から映画は始まる。
『リトル・ニモ』もあるのかも。

海外約200ヵ国で公開されるのが決まっており、日本一を期待され、それに応えることの恐ろしさ。
日本だけでなく、世界に訴える内容であることも引き受けている。

 

 

地震は描くが、津波の描写は直接的には避けており、実際にあった家の上の船や言葉として描かれはするけども。
地震は描くが、それを起こした人災の部分、特に原発にほとんど描かない。(わずかにはある。あれが限界だったのか)
日本においては、そこはセットであるべきだろう。
『君の名は。』にはわずかにそれを想起させる人災の描写があり、味方はするが、政治家を出すくらいの意識はあった。
だが、今作は神のしわざにしてしまう。
まるで、人には罪が無いように。いい人だけを描きたいのかもしれない。
いや、うっすらとダイジンという人身御供の描写があり、ソウタも自主的とはいえ奉仕者とさせる人の闇は残っている。
これは、『ほしのこえ』にもあった。

大事な仕事は見えないほうがいいのだろうか。
そういった犠牲が無ければ、人は社会を保てないのかもしれない。
そういう奉仕を自ら選ぶ人もいて、彼らを英雄と呼ぶのだろう。
それは市井の仕事にも当たり前にある。医師や看護師や教師や役人や警察官や消防員……。
閉じ師はその象徴としたのだろう。

前にあった、スポンサー企業の商品を今回もちょこちょこと出てくる。マクドナルドを食べるシーンががっつりある。
ビジネスと手をつなぎながら問題を提起する矛盾を抱えることは新海誠には出来ないのだろうか。
それは、高畑勲や宮崎駿が、多くの作家がなんとか光と闇を一枚のコインとして抱えてきたことだ。
絆を大事にする新海誠にはビジネスパートナーを右手で握手しながら左手で押し戻すことはできないのかもしれない。

 

物をもらうことで、人の思いを背負う。
愛媛では服を、神戸では帽子を、東京では靴を。
宮崎では、制服を得、母からは椅子を得た。
椅子は足が一つなく座れないので身につけられない。そして、すずめは母のことを忘れつつある。夢には見るけど。しかし、それは心の奥底に閉じ込めてあるだけで、どこかで彼女は死を身近に感じる死生観、あちらに行きたいという願望がある。(それを心の奥底に閉じ込められたのは、あまきのおかげでもある)
そして、津波は、それを奪い、死を与えた。

椅子は、草太にとっては体となる。
椅子には恋愛できないという意見が恐ろしい。『美女と野獣』で見た目でなく心が二人を結びつけるというのに。椅子が動き回るのはまさに『美女と野獣』からの引用だろう。(キスで目覚めるのは『白雪姫』だ)
今作では、言葉と体験が二人の心を近づける。
『君の名は。』で瀧と三葉は本人同士は会ってない言葉のやり取りだけだ。離れている相手との関係というのは、新海誠の最大の題材だが、今作は、それを男女ではなく、喪失した相手との距離にした。しかも、会わせない。母だと思ったのは成長した自分だった。(これは思い出の不確かさを描いてもいる。思いが、それを勘違いさせるのだ)
離れたたまきは会いに来る。
離れた相手との距離をどう埋めるのか、言葉か、行動か、接触か、贈り物か、思い出すのか。
それを【今】することなんじゃないかな。

死者は救えないし、常世に行っても死者には会えない。
常世は、すべての時間があるなら、椅子をもらったところにも行けたはずだが、すずめは自分を過去の自分、もっとも誰かを求めた時間に行く。
今の自分をつくったあの時間に。

災害も減らせてもないことにはならない。

 

この映画の最大の仕掛けは、綺麗な映像にある。
芹沢が言う、廃墟が片付けられ、自然が多く見える東北の景色は、かつて人が暮らしていた場所で、それが津波で無くなったから出来たものだ。
美しいには恐ろしいが含まれる。
新海誠は以前から「美しいは寂しい」など、美やノスタルジーをある種マイナスの感情としても描いてきた。
『君の名は。』でも、死と破壊をもたらす彗星を「美しい」と言わせて始まる。
すごく好意的に見れば、あの東北の風景への言葉、「綺麗」へのマイナスの反応→汚れている→汚染も含ませているのかもしれない。

 

『君の名は。』にも『天気の子』にもうっすらと怒りがあった。
それは若さにつきまとうもの。
しかし、『すずめの戸締り』には恐れがある。
原発はほとんど描いてないが、次の地震に備えよという恐れがある。
閉じ師では止められないのだ。
南海トラフによる地震は起きるであろうと予測されているのだから。
その時、人災が少ないこと願う。
備えていたことで被害が少ないことも。

 

大ヒットを戸締りして、新海誠は「いってきます」と言い放った。
果たして、次回作では、絆をどう扱って、どんな「おかえり」を言ってくれるだろうか。

 

 

_______________________________

追記。

すずめの体力は、あれだけの山道坂道を普通の自転車で毎日通学してきたからかと思ってみておりました。

 

要石って、一つは扉の前に置くの?
ミミズの頭と尻尾を押さえるって言ってた気がするんだけど。

 

二つで対、陰陽思想も、『君の名は。』から定番の思想。

 

『君の名は。』って打つ時、『木の実ナナ。』って打ちそうにはなりませんか?

 

 

綺麗な風景以外に、『君の名は。』から強く使い出した境界を見せる扉が閉まるショットを何度か挿入している。
鍵が閉まるのや閉まる、紐を締めるのを今作はモチーフ演出を行っている。

猫のキャラには、ディズニー的なアニメを売るための作為を感じてしまう。
招き猫の役割や、妖怪に見える、宮崎駿オマージュによる選択なのだろうけど。
前の『天気の子』はただの人による判断だったが、今作ではプロの閉じ師によるプロとしての自己犠牲を少女の恋愛で蘇らせてしまう。少なくとも草太は閉じ師を一生の仕事だとも考えていた。
もちろん、要石になったダイジンだってプロだったと見ることもできる。子どもっぽいだけで、大人に見えている(ダイジンも仔猫にも見えるのはそう見せているだけで、成猫かもしれない)人もいる描写はある。神とも言われているしな。(これも便宜上の呼び名かもしれないが)
草太ではなく、羊朗や老人だったら、ずずめはあのままほっといたんだろうな。
でも、それが恋愛で人のエゴだと語るのが、新海誠なのよね。
こういう矛盾を抱えて生きていくのが世界だと。
でも、要石に手をわせるなりの敬意をもうちょっと見せて欲しかった気はするの。



 

 

 

 

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