出版社に就職して営業部に配属された駆け出しの頃、会社にあった書店リストをみて、本屋さんを訪問した。飛び込みも多かった。小さな出版社で、営業は素人ばかり、満足な研修などなかった。
その頃の出版社の営業というのは基本的にアポ無し。約束もなく、いきなりチラシ一枚持って押しかける。乱暴な話だ。なのに本屋さんは思いのほか親切な人ばかりだった。嫌な顔一つせず対応してくれた。たいていの本屋さんが、たとえ少しでも注文をくれた。他の業界の営業に比べると楽だろうと思った。
でも、無愛想な本屋さんもあって、当然断られることもある。断るのは自由なのだからそれは良いのだが、色々な断り方に遭遇した。
都内某所にあった本屋さん。駅の近くの商店街の中で場所は良い。屋号を言えば業界の人間ならだれでも知っている老舗。建物が古くて店内は暗かった。間口は二間ほどだが、ウナギの寝床というやつで奥に長い。棚は昔の作りで背が高い。一番上の棚の本など、踏み台があっても背の低い人は届かないくらいだ。古本屋さんかと思った。
自動ドアではなかった。引き戸を開けて中に入った。
「まいど―!」とすぐ挨拶すればよかったのだが、明るい外から暗い店内に入ったものだから、一瞬暗くて何も見えなくなった。人の姿が確認できない。挨拶するきっかけを失った。店の奥に目を凝らすようにして立ち止まった。少しすると目が慣れて、店内の様子が見て取れる。奥にカウンターがあってその後ろに店主と思しき初老の男性が座っていた。目があった。私は店主を見つめたまま、店の奥まで歩いて行った。中途半端に目をそらすのも不自然だが、恋人同士でもあるまいし、見つめ合ったまま近づいていくのはもっと不自然だと思いながら近づいた。その間3秒くらいか。長く感じた。
やっと店主の前に立った。
「何時もお世話になってます。〇〇出版です」
営業用の笑顔で御挨拶。
店主は私を睨みながら
「別に・・・」
と無愛想に答えた。眼玉が上から下へと動いて、私の頭からつま先まで視線を動かした。別にお世話した覚えはない、とでも言うのか。それを言うなら、こちらもお世話になった覚えはない。
兎も角、そのまま後の言葉がないので、とりあえず名刺を差し出しながら営業トークを始める。
「少しお時間良いですか?」
単なる社交辞令。いかにも暇そうで何もしていない。店主は傍らに湯飲みを置いて、じっと店番をしているだけに見える。時間は有り余っているはずだ。なのに返事は無い。万引きでもすると思っているのか じっとこちらを睨むばかり。
仕方なく話を続ける。
「新刊のご案内ですが」
ここで返事があった。
「だから?」
言葉につまる。もう少し愛想があってもよさそうなものだ。だから?と言われても困る。要するに営業なんぞ迷惑だから帰れと言うのだろうか?それ以外に考えられないと思いながらも、成り行きでチラシを渡した。
渡したと言っても、店主は腕を組んだまま。手を出して受取りはしない。名刺もそうだ。私が机の上に置いただけだ。
これは駄目だと思ったが、黙っている訳にもいかず、帰る訳にもいかず、チラシの新刊の説明を始めた。
チラシと店主の顔を交互にみながら話をする。聞いているのかいないのか、全く反応はない。如何ですか?と言って説明を終えた。
しばしの静寂。重い沈黙。私はもう注文を貰う気などない。ここまで無愛想では注文を出すはずもない。早く断ってくれ、そしたら失礼しましたと言って帰るだけだと思っていた。ところが店主の口から出た言葉は私の想像の中にはなかったものだった。
「それで?」
と言う。
当惑した。本の営業に来たのだ。それでと言われて、マッチ売りの少女でもあるまいし、マッチ買って下さいなどと言う訳がない。
ここに至って、さすがに私も悟った。過去に何があったのか知らない。出版社の営業が親の仇なのかも知れない。或いは私の態度に何か気に障るところがあったかとも考えたが、これでは本を注文する事は百%無いだろう。
ゆっくり机の上のチラシを取った。ついでに名刺もつまんで、二つをファイルの中に戻してカバンの中に入れた。
「お忙しい所、失礼しました」
と言って店をでた。
あの時、私が店主から聞いた言葉は三つ。「別に・・・」「だから?」「それで?」、痴話喧嘩の後の不機嫌な女房の言葉だ。暫く前には女優が映画の記者会見で言って顰蹙をかった。
なるほど要らないとは言われなかった。でも断られた事は確かだと思う。拒否されたと言った方が正しいかもしれない。
あの時、どうするのが良かったのか、と考えることがある。
その店には二度と行かなかった。
一度、客として行ってみたいとは思う。店がまだあればだが。
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