ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

大連・旅順に行ってきました(後篇)

2010-06-20 07:34:25 | 旅行けば
 私たちの世代ではよく理解できないのが南満州鉄道株式会社、「満鉄」である。その本社が大連に置かれた。
 日露戦争勝利後、日本が得た鉄道付属地保護などの利権を確保するために設立されたのが「満鉄」で、その実態は政府の機関そのものであり、急速に膨張した規模からみても怪物としか表現出来ないのではないだろうか。

 大連駅の外観は上野駅を模して造られたという。大連は広場の町で、中山広場から放射状に道路が延びている。また、人民広場、オリンピック広場、星海広場などがあり市民の憩いの場となっている。

 ヤマトホテルは「大連賓館」として、満鉄本社など往時の建物が現在もそのまま使われている。

 日清戦争に勝利した日本は、列強各国と中国を侵略し合い、ロシアと東北部の支配権を巡り「日露戦争」と相成ったのである。

 大連獲得のキーポイント・旅順の「203高地」争奪戦で多数の死傷者を出しながら漸く占領し日本が勝利した。
 乃木将軍とステッセル中将と会見した農家が「水師営会見所」として保存されている。

 1945年(昭和20年)敗戦、1905年に追い出したロシア(ソ連)に攻め込まれて奪回されたのである。

 武装解除された日本軍(人)は、現地人に敷設させた鉄道施設と共にシベリアに連行され酷寒の中での過酷な鉄道建設などの強制労働に使われた。

 婦女子は着の身着のままで荒野を彷徨し、這這の体で日本に逃げ帰ったのである。
 艱難辛苦の末、帰還できた人は幸いな方で、何万とも十数万とも言われる多数の人は生きては帰れなかったのである。

 そんな歴史上の事実があったのだと思いを馳せながら・・・・

 


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1 コメント

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忘却の彼方へ (どっちん)
2010-06-20 22:07:00
懐かしのアカシヤの大連そして旅順。私の生誕の地であり、幼い時に過ごした思い出の地である。しかしながら、一度も里帰りをしたことがない。なんせ戦中戦後直後のこともあって、楽しい記憶は消えさっている。このままにしておいたほうがよいのだろうか。