「姿勢を正して!」「頂きま~す!」
これは、集団、軍隊ではないが、寮生活での食事前にこんな儀式のようなものがあった。今はどうだか知らないが・・・
幼稚園などでも似たようなものがあると思うが・・・デイサービスではもう無い。只、食べるだけ・・・小中学校の給食時はどうなんだろう。孫に聞いてみよう。
軍隊経験は有りませんが、何故か・・・いやじゃありませんか軍隊は、金(かね)の茶碗に竹の箸、仏様で . . . 本文を読む
早く来いコイお正月・・・別に凧を上げたり、駒を回したりする訳ではないが、来るものが来るというだけである。
お正月料理の思い出である。終戦後の2、3年でもうお餅に数の子、煮しめ、昆布やこんにゃくが入った煮豆、黒豆、昆布と鏑の酢の物などが作られるようになった。
さすがにカマボコや伊達巻はなかった。我が家にはである。大きな皿や鉢に1週間分くらいが盛られていたのを暮れのうちからチョクチョクつまみ食 . . . 本文を読む
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」正岡子規の俳句である。
ここで想像するに、夕時、柿の木に登り柿をもぎ取ってガブリ!遠くの寺の鐘が鳴っている聞こえてくる・・・・
スーパーでは大きく形の整った柿が安価で氾濫しているが、買ったことはない。歯が悪いこともあるが遠く子供の時代に戻っていくのである。
子供の頃はお八つとてなく、5、6キロ先に住む伯父さんが自作の柿園から自転車に積めるだけ持ってきて . . . 本文を読む
カラウス、カランスなど言っていた記憶がある。臼をカランカランと打つ音から来ているのだろうか。母の実家の納屋にあり、戦後2、3年は使っていた。
玄米を搗いて精米にするのである。数日分であろうか当時の農家の主婦には辛い仕事であった。
また、一升瓶に5合位の玄米を入れ棒で搗いていた。
そのうち、精米機などが出来たのである。その時出るのが「糠」である。
小豆島の資料館で見かけたので撮ってお . . . 本文を読む
由緒ある家柄ではないがそれ相当に「伝説」のようなものがある。
私より7歳くらい上の従兄がいる。90歳近くになる伯母がいつも言う。
「〇○ちゃんはお婆と小学校一年の間一緒に行っていた。」お婆が帰ると泣くか怒ったりしたのか、一年間、教室の後ろにいたという。
お婆の長女が○○を産んですぐ死んだので15、6歳までお婆が育てたのである。
叔母○○子は、兄妹同様の幼馴染と結婚した。おそらく昭和1 . . . 本文を読む
高速道路のSAでは観光バスがトイレ休憩に入ると女性用WCは行列である。男性用はガラ空きである。こんな場合は、応急的に女性が利用できるような装置に出来ないものか、例えば、必要に応じて仕切りがボタン一つで降りてくるとか~考えれば出来ると思うが。
道路だって、リバーシブル(reversible)方式で混雑する方のレーンが多くなるようにしているではないか。
高速道路の料金所も伸縮自由に・・・今は . . . 本文を読む
家の中で床を張らず地面のまま、または「たたき」になった所を「土間」という。たたきの意味がよくわからない。
床を板敷きにした所を「板の間」という。
いずれも懐かしい言葉である。
終戦後住んだ納屋を改造した我が家は「土間・板の間」があった。時たま、古民家に行くと「土間」があり、「板の間」も・・懐かしく思い出されてくる。今は最低でもコンクリート張りである。
昭和40年ころまでは「板の間稼 . . . 本文を読む
赤い花なら曼珠沙華(マンジュシャゲ) オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる ジャガタラお春 未練な出船のああ鐘が鳴る・・・私が生まれたころの歌謡曲で戦後も暫くは流行った。「長崎物語」である。
曼珠沙華は彼岸花のことである。
ジャガタラはジャカルタのことか「お春」は日本人妻か、唐人お吉がよぎる。
彼岸花が一斉に咲き誇っている。何千本もの彼岸花が広域に植えられ観光名所になっているところがあ . . . 本文を読む
江戸の庶民の暮らしに思いを馳せる。長屋とか裏長屋が城下に出来た。
九尺二間、間口が九尺(約2.7メートル)、奥行が2間(約3.6メートル)6畳ほどの一間に台所、1~4人が暮らしていた。勿論、井戸、便所は共同である。大家は共同便所の屎尿を近郊の農家に売り収入にしていた。それに幕府は税をかけたという。
時代劇では町人は小ざっぱりしていて「一心太助」のようなチャキチャキの魚売りがいたようだったの . . . 本文を読む
「満艦飾」も使われなくなった。イメージ的には進水式か、子供の頃、近くに大きな造船所があったが直接見ていない。
海軍の進水式には「軍艦マーチ」である。海上自衛隊でも行進曲や進水式にも使っているから面白いものである。
「戦艦大和」の進水式、観艦式はあったのか、極秘であったのか、自衛隊のを見てみたいものである。
守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の浮かべる城も頼みなる・・・世は移ろい「パチンコや」で . . . 本文を読む
周りが樹木に囲まれているテニスコートで一休みしていると、今を盛りにと蝉がミンミ~ンワ~ンワンと鳴いている。子供の頃を思い出す。
小学校の4年ころまでは裏山の大きな木の幹などに止って鳴いている「油蝉」を網で捕るのである。届かないと竿などを紐で繋いでいた。
捕ってどうする訳でもないのだが、毎夏の日課であった。それこそ「何となく」ただ捕るだけのことである。
去りゆく夏を惜しむかのように昔な . . . 本文を読む
明治元年9月8日(1868)から約141年間、大正元年7月30日(1912)から約97年間、昭和元年12月24日(1926)から約83年間、平成元年1月8日(1989)から約20年間経過している。
私の生まれた年から70年の経過である。そこから明治元年に遡れば78年で、殆んど同じ年月となる。激動の明治維新、日清、日露の戦争、大東亜戦争など当時の国民は言語に絶する苦労をした。
ノウノウと暮 . . . 本文を読む
箸の上げ下げにまで一々口やかましくグダグダと・・・坊主憎けりゃ袈裟まで憎しの類か・・・・暇になると出てくるよくある話である。
箸が転んでも可笑しいお年頃などに「箸」が出てくる。思春期の娘さんのことらしいが、思秋期の御方も可笑しい、オカシイのか、元気な人はよく笑う。世の中平和である。
昔話、学校には「弁当」を持っていった。アルマイト製の弁当箱に木の箸箱、中には箸が入っている。
学校から . . . 本文を読む
「恥ずかしながら帰還致しました」昭和47年グアム島から横井伍長である。その後、参議院議員選に立候補して恥ずかしながらである。
その2年後、ルパング島から小野田中尉が「上官の命」を受けて帰国した。
神国日本の勝利を信じ「生きて俘虜の辱めを受けず」の実践もこれ程徹底浸透していた。今の若いものは・・・こんなことを言える歳でもないが・・・
どの面下げて・・・もよく使われていた・・恥知らずメ~恥 . . . 本文を読む
阿久悠・悪友は、小学校2年生だった昭和20年8月15日、天皇陛下の「玉音放送」を聞いた。 もう少しだから頑張れのことかと思ったが、終戦・敗戦であった。誰も泣く者はいなかった。
あのとき空は青かった・・・こどもの空が訪れたと・・・
中学3年でこの日を迎えた篠田正浩は、生きて俘虜の辱めを受けずの軍国少年であった。この日のことをグラマンの空襲もなく静かだったが不安の夜でもあったと・・・・
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