毎年夏になると富士山に登りたくなる。
しかし、この暑いのにと思うと躊躇する。5年前と3年前に登っただけである。今年も思っただけである。
五、六合目あたりの山小屋で仮眠をするに、かっては「餃子寝」であったらしい。・・・一寸待ってそれって何なの?・・・・
冒頭の写真の様に寝るのである。ここに出でましたのが何と餃子寝である。要するに、寝返りを打つ隙間のないほど、九の字で寝ることの表現であったのか . . . 本文を読む
小学校時代の古い話です。
昭和25、6(1950)年ころまで、我が故郷の家の近くに一軒の鍛冶屋があった。
主人がフイゴ(鞴)を足か手で押したり引いたり、おばちゃん(妻)が鎚を打つ、当に「村の鍛冶屋」である。中学に入った頃には廃業になった。
・・・しばしも休まず鎚打つひびき 飛び散る火花よはしる湯玉 ふいごの風さえ息をもつかず 仕事に精出す村の鍛冶屋・・・・
珍しいのでよく見ていたものであ . . . 本文を読む
昨年の今頃、NHKの放映で見た一シーンがありました。今年も再放映されました。「取り残された民衆・・元関東軍兵士と開拓団家族の証言・・」です。
「あんた方は嘘を書いている、本に! 逃げたのではない、撤退したんだ、後退したんだ、天皇陛下の命令でどうしたこうしたと・・・・」
満蒙開拓団の引揚者山村文子達は、四谷の郷友会館とかに呼び出しを受け、残留孤児の問題を考えてくれるのかと、喜び勇んで来てみたら . . . 本文を読む
広島空港からツアーの観光バスに乗り込むと、程なく映画「男たちのヤマト」の20分ぐらいのダイジェスト版が上映される。終わると皆の顔には感涙の跡がありありである。
このバスの乗客は皆、映画「男たちのヤマト」をみて感動し、或いは戦没者の関係者である。観光ツアー「大和を訪ねて」二泊三日のご一行様である。若い人はいない。60~70歳代の若くない人たちで女性は僅かであった。
この中にいる我々3人、職場の . . . 本文を読む
煮だった鍋の味噌汁に、水で練ったメリケン粉をスプーンで一匙づつ入れていくのである。これは食べ物のない時代、敗戦直後(1945)から昭和22年ころまではあったのか。我家でも時々食べたことがあった。おそらく「米麦」がカラッケツ(空欠)であったのであろう。
これが「すいとん」、漢字では「水団」と書くようだが、字なんかどうでもいい、最低生活者の食べ物に間違いなかった。
いまだに終戦記念日の8月15 . . . 本文を読む
連日35度を超える暑さですが、クーラーもたまにしか入れません。
びわは家中の最も凌ぎやすい場所を見つけてゆったりとしています。
人間のように、ビールだ西瓜だとか、アイスクリームなどといいません。十年一日のように朝夕のドッグフード20粒位と水で満足しているのかいないのか。
一日に三食になったのは、江戸時代あたりからか、飢餓の時代、飽食の時代、飢饉、コメ騒動、内戦、避難生活・・・・・南極のタロ . . . 本文を読む
最近、近くにこんなものがあるのに気が付いた。「犬矢来」である。関東ではまず、お目にかかったことがない。京都の先斗町辺りのが有名である。
「矢来」のイメージは、時代劇などで、今でいう公開処刑場を竹を斜めに交互に組んだ柵の仕切りの外から町民などが見ているのを連想する。
新宿区に矢来町という地名がある。江戸城火災の際、将軍家光がこの地に避難し警備のため周りに矢来を設置したことから名が付いたとい . . . 本文を読む