ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

この地の開拓者の血を

2011-12-26 09:29:38 | 戦跡を訪ねて
 近くに日本陸軍の演習地だった地域が、終戦のその年に開拓が始まった地域があるという。。  それも、あの市原の満蒙開拓青少年義勇軍だった人達が入植したのだという。現地に「歴史民俗資料館」があると聞いたので一度訪れようと思っていた・・・・  開拓時代の農具や生活用品、写真などが展示されていた。農地なども少なくなって工場や住宅が多くを占めている現地の発展と当時の荒涼とした場面を較べてみるに戦後66年 . . . 本文を読む

霞ヶ浦・予科練に行ってきました。

2010-08-23 09:29:27 | 戦跡を訪ねて
 昨日、何時も終戦記念日になると懸案の、予科練記念館「雄翔館」(茨城県阿見町陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内)に行ってきました。  自宅から50キロ以内、1時間半で到着、近接の阿見町立「予科練平和祈念館」も見た。ゆっくりと3時間をかけて・・・  予科練とは、海軍飛行予科練習生のことで、高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で厳しい試験に合格した者のみ採用された。その後、緊急に増員されていき、延 . . . 本文を読む

早すぎる遺書

2008-09-26 15:23:12 | 戦跡を訪ねて
 年功を積まれた方などは早々と遺書、資産家は財産争いを想定して遺言状を準備されているかも・・・・・これは余りにも若すぎる二十三歳の若者の遺書である。  20年くらい前だったろうか、知人Sから、彼の叔父Tの遺書のコピーを貰っていた。特攻の当時、Sは満一歳であった。  「一億火の玉!」だったのも事実である。「特攻」の親子達に迷いはなかったのは事実だったのだろうか・・・今、親として子として考える余裕 . . . 本文を読む

すっぱいスパイ

2008-06-12 07:16:22 | 戦跡を訪ねて
 戦時中の漫画一コマである。灯火管制の部屋でちゃぶ台を囲み梅干しをしゃぶっている。一人が「酸っぱい!」、他の一人が口に指を当て封じるように「スパイはダメ!」  何のことか理解できないと思うが私は分かる最後の年齢か・・・・・  敵のスパイが潜入しているから警戒すること、壁に耳あり障子に目あり、スパイ容疑を掛けられかねない言動は慎まなければの意味合いがあったと察する。  20世紀最大と言われるリヒ . . . 本文を読む

忠魂碑

2008-06-05 04:28:50 | 戦跡を訪ねて
 日清・日露の戦争での戦死者の慰霊供養のため、建立されたものという。「国」とかに忠義を尽くして死んだ人などの碑は各地にあるが、2、3メートル位のものが多いのでは・・・ 「忠魂碑」は、戦後GHQの命令で撤去されたというが、ここには残っているということは徹底していなかったということか。  これを見た最初は、小学5年ころ遠足で柴田サーカスを見に行った時であった。その後は高校への通学路でもあったがしかと . . . 本文を読む

陸軍野戦砲兵学校跡

2008-01-31 16:43:08 | 戦跡を訪ねて
 JR四街道駅の近く、イトーヨーカ堂の裏の公園に記念碑がある。  終戦の昭和20年まであったのだろうか、市が設置した下記の説明文がある。    明治19年4月、下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は、明治30年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました。  学校の移転に伴い、それまでは閑散としていた四街道駅(移転の3年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利便と、明治中期から終 . . . 本文を読む

労い(ねぎらい)

2007-08-15 09:30:01 | 戦跡を訪ねて
 昨年の今頃、NHKの放映で見た一シーンがありました。今年も再放映されました。「取り残された民衆・・元関東軍兵士と開拓団家族の証言・・」です。 「あんた方は嘘を書いている、本に! 逃げたのではない、撤退したんだ、後退したんだ、天皇陛下の命令でどうしたこうしたと・・・・」  満蒙開拓団の引揚者山村文子達は、四谷の郷友会館とかに呼び出しを受け、残留孤児の問題を考えてくれるのかと、喜び勇んで来てみたら . . . 本文を読む

「大和」を訪ねて

2007-08-14 08:25:35 | 戦跡を訪ねて
広島空港からツアーの観光バスに乗り込むと、程なく映画「男たちのヤマト」の20分ぐらいのダイジェスト版が上映される。終わると皆の顔には感涙の跡がありありである。  このバスの乗客は皆、映画「男たちのヤマト」をみて感動し、或いは戦没者の関係者である。観光ツアー「大和を訪ねて」二泊三日のご一行様である。若い人はいない。60~70歳代の若くない人たちで女性は僅かであった。  この中にいる我々3人、職場の . . . 本文を読む

人間魚雷回天

2007-03-12 14:22:55 | 戦跡を訪ねて
 徳山市の南西の沖、フエリーで約40分、約10㎞のところが「大津島」である。そこが「回天」の島である。     訪れたときは、雨が降っておりシーズンオフか観光客も皆無で「回天記念館」も私だけだった。    「人間魚雷回天」は太平洋戦争末期の戦局を挽回しょうと、空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に登場した。海軍の中尉たちが「海軍省」に陳情し人間魚雷が発足したもので隊員は、全長14,5m、高さ1 . . . 本文を読む

知覧特別攻撃隊(平和記念館)

2007-02-06 07:01:30 | 戦跡を訪ねて
 鹿児島県薩摩半島南部知覧町ここは「特攻のまち」である。  昭和20年3月、最悪の戦局を挽回しょうと陸軍は「特攻隊」を編成した。 全国各地で編成された特攻隊は知覧基地に集結した。短期の訓練の後、出撃命令を待ったのである。  遡る19年10月、海軍では大西滝治郎中将が「神風特攻隊」を編成し、「皆は既に神である」と訓示し隊員一人一人に熱い握手を交わし、「俺も必ず後から行く」と送り出し、終戦の翌日、 . . . 本文を読む

日本砲術揺籃の地

2007-01-21 10:11:03 | 戦跡を訪ねて
佐倉市下志津原にひっそりと苔生した碑が建っています。  日本砲術揺籃の地であります。  そばに以下の説明があります。一度訪れてみては・・・・ 砲術演習場跡  佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取り入れ、この地で演習や試打を行った。  明治6年(1873)政府が教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉は、藩士大筑尚志が築いた射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場とした。  同1 . . . 本文を読む