「耳に十四の心あり」何のこっちゃ。「聴」の字を憶えるのに取った手段だそうだ。
私の憶え方の一つ「挨拶」の上下を間違えないために「挨」の右のム、矢、「拶」の右のククク(三つのク)、タで「ムヤサクタ」である。未だに使っていると言うか、もう自然に出てくる。が、「聴」と同じように、即、書けなくなってしまっている。必ずここを通過しなければならなくなってしまっているのである。
語学勉強でも、日本語に或いは英語に直してからのワンテンポ遅れることでは進歩は無い。サンキュー(thank you)カムイン(come in)位は自然に出てくるが・・・謝謝、辛苦了も・・・それ以上は考え込んでしまう。
漢字を憶えるのに偏や旁などを・・・マ(店)ダレ、ガン(雁)ダレ、ヤマイ(病)ダレなんて・・・
名ベブタ、京や交など・・・話は飛んで・・・「鍋蓋に閉じ蓋」と憶えていた。しかい、おおきな誤りであった様だ。
私なりに、壊れた鍋に蓋をしても意味が無い、すでに漏れているのだから・・・と解釈していた。
「割れ鍋に綴じ蓋」が正解で、似た者同志が良いことの譬え、「割れ鍋に閉じ蓋」と書くのは間違い。「とじ蓋」とは繕って修繕した蓋のことで「閉じ蓋」ではない。壊れた鍋にもうまく合う修繕した蓋があるという意味から、誰でもぴったり合う相手が居ることや似た者同士が一緒になれば上手くいくことの譬えとなった。
薔薇、檸檬が読めても書ける人は稀であろう。強いて憶えることもない。読めれば十分、読めないと困ることもあろう・・・バラ(薔薇)、レモン(檸檬)・・・・
お互いにどっちが割れ鍋で綴じ蓋か、何事も遠回りしないでスッキリと上手く行きたいものである。
私の憶え方の一つ「挨拶」の上下を間違えないために「挨」の右のム、矢、「拶」の右のククク(三つのク)、タで「ムヤサクタ」である。未だに使っていると言うか、もう自然に出てくる。が、「聴」と同じように、即、書けなくなってしまっている。必ずここを通過しなければならなくなってしまっているのである。
語学勉強でも、日本語に或いは英語に直してからのワンテンポ遅れることでは進歩は無い。サンキュー(thank you)カムイン(come in)位は自然に出てくるが・・・謝謝、辛苦了も・・・それ以上は考え込んでしまう。
漢字を憶えるのに偏や旁などを・・・マ(店)ダレ、ガン(雁)ダレ、ヤマイ(病)ダレなんて・・・
名ベブタ、京や交など・・・話は飛んで・・・「鍋蓋に閉じ蓋」と憶えていた。しかい、おおきな誤りであった様だ。
私なりに、壊れた鍋に蓋をしても意味が無い、すでに漏れているのだから・・・と解釈していた。
「割れ鍋に綴じ蓋」が正解で、似た者同志が良いことの譬え、「割れ鍋に閉じ蓋」と書くのは間違い。「とじ蓋」とは繕って修繕した蓋のことで「閉じ蓋」ではない。壊れた鍋にもうまく合う修繕した蓋があるという意味から、誰でもぴったり合う相手が居ることや似た者同士が一緒になれば上手くいくことの譬えとなった。
薔薇、檸檬が読めても書ける人は稀であろう。強いて憶えることもない。読めれば十分、読めないと困ることもあろう・・・バラ(薔薇)、レモン(檸檬)・・・・
お互いにどっちが割れ鍋で綴じ蓋か、何事も遠回りしないでスッキリと上手く行きたいものである。