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食の進化論 第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得

2020年10月18日 | 食の進化論

食の進化論 第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得

第1節 ついに芋を発見する
 サバンナの灌木地帯には澱粉質に富んだ芋を作る植物が所々に自生している。ヒトの祖先は、まだそれを知らない。芋の葉っぱはすでに食糧としていたであろう。彼らは草の引き抜きは自然と行った。引き抜きはお手のもの(第3章第3節で説明した「親指対向性」による)である。茎が太い草であれば、茎や地下茎を食べようと思って、引き抜きを行なったであろう。
 でも、水辺に自生する芋類を除いて、サバンナの芋はツルを地上に出しているだけで、茎は極めて細く硬い。茎を見ただけでは、その下部に食用となる大きな根や地下茎があることは全く想像できない。最初のうちはもっぱら芋の葉っぱをもいで食べていただけであろう。
 イノシシは賢い。イノシシが誕生して、どれくらい経って芋を探し当てることができるようになったのかは分からないが、彼らは地下深くにある芋を見事に探し当てる。
 ヒトの祖先は、イノシシが芋を掘り出す姿を見て、地下にどでかい食糧が備蓄されていることに仰天し、歓喜の雄たけびを挙げたことであろう。これで、我々もやすやすと食糧が手に入ると。
 その当時のヒトの祖先は、一切の狩猟を行なわず、よってイノシシもヒトの祖先を全く恐れず、平和共存しており、ヒトの祖先に飢餓救済の情報提供をしてくれたのである。これでも食えよ、と。
 芋の発見の経緯は、案外こんなふうに簡単なものであったかもしれない。もっとも、善意でイノシシがヒトを救うということは有り得ない話ではあるが。
 イノシシに教えられてでは、ヒトの祖先は能無しとなってしまい、あまりにも情けないので、自力で発見したとして、それがどのようにして行われたのかを想像してみよう。
 いつものようにサバンナに採食に出かけたヒトの祖先が、芋を付ける植物とは知らないで、いつも通りに葉っぱをツルからもいで食べようとしていたところ、突然何かの危険が迫った。逃げねばならないが、せっかく見つけた葉っぱであるから、ツルごとエイッと引き抜いて手につかんだまま安全な所まで走った。危険が去った後、ツルの下のほうを見ると、少し膨らんでいる。たいていはツルが途中で切れてしまって、このようなことはまれであろうが、こうしたことが幾度も繰り返されれば、一度ぐらいはこんなことが起きることがある。偶然にこれを手にした者は、その膨らみを恐る恐る齧って毒見する。
 芋のなかにはアクが強すぎて、つまり毒があって、そのままでは食べられないものも多い。すり下ろして水にさらし、その後で天日干しする必要があるものもあるが、そこまでの加工技術ができたのはずっと後のことであり、この時代にはそのような芋は食べなかったであろう。でも、そのまま生で食べられるものも当然にある。一発でそのような有り難い物に巡り合える確率は高くないとはいえ、そういう幸運に当たることもある。
 いずれにしても、ツルを引き抜いた場所へ戻って、膨らみのその下にあるもっと大きな塊を期待して、芋探しを行なうであろう。ヒトの祖先の手は、だんだん親指対向性が出てきて物をうまく握れるような掌になってきており、木の棒っ切れ、大きな骨や牙を器用に使って、容易に土を深く掘ることができ、食用となる塊になった芋をすぐさま発見する。
 芋は地下で生長し、どんどん大きくなる。地上部が枯れた頃に最大となる。乾季が進むとサバンナの植物で食べられるのは硬い豆と柔らかい芋だけとなる。どちらがいいか、豆より芋がいいに決まっている。芋のツルがどんな形で残るのかもすぐに覚えた。少々動き回れば、すぐに発見できる。こうして、とうとうたっぷり腹の足しになる巨大な塊の芋を安定して手に入れることが可能となったのである。
 1種類の芋を食糧として確保した後、葉っぱが異なる別の種類の芋の発見にも挑戦し、毒の有無、毒の程度を把握し、自生する芋の全種類のうち、食用に最も適するもの、少しなら食べていいもの、というふうに全ての芋の性状を早々に修得したことであろう。
 こうして、ヒトの最初の本格的な代用食である芋が登場したのである。これにより、エネルギー源を主として芋から得るようになったことは間違いない。なぜならば、今日の未開の地における原住民の食生活は、熱帯雨林であれ、サバンナであれ、植物が育っている地域であれば、自生しているものにしろ、栽培種にしろ、たいていは芋が主食になっているからである。ただし、アフリカの湿地帯には芋の自生がなく、今日のアフリカの湿地帯の栽培種は東南アジアなどからの移入種による。
 芋の発見により、ヒトの祖先は、水生環境に別れを告げても、サバンナでの生息を可能としたのである。もっとも、ヒトの祖先は、果物と柔らかな草の葉っぱを見つければ、当然のことであるが、これらが本来の食であるから、まずそれを食べた。次に、熟す前の柔らかい豆である。それらが手に入らないとなると、芋を探し求め、何種類かの芋を食べた。乾季には、サバンナに生息するチンパンジーが豆ばかり食べているように、ヒトの祖先は乾季には芋ばかり食べたであろう。

第2節 消化が困難な澱粉質
 ヒトの祖先にとって、芋はあくまでも代用食である。エネルギー源となる炭水化物は、今までは果糖や蔗糖であり、澱粉質は少なかった。果糖や蔗糖はそのまま吸収されて体内でブドウ糖に容易に変換されるが、澱粉質は腸での消化を必要とする。
 代用食とした芋は澱粉質の塊であり、澱粉消化酵素をたっぷり分泌させる必要があり、そうでないと消化し切れない。芋を好んで食べるイノシシは澱粉消化酵素の出が非常に良く、完全消化している。芋を食べ始めたヒトの祖先にとって、芋は消化にたいそう負担がかかる代物であり、厄介なものであった。
 当初は澱粉消化酵素の分泌がまだ十分ではなかったので、芋ばかり食べていると未消化物が腸内に残り、大腸で異常発酵するのである。つまり腸内環境を悪化させてしまう。完全な植食性であっても、栄養素の種類が異なり、たとえ柔らかいものであっても完全に消化することができないのは当然のことである。腸内環境の悪化は免疫力を低下させ、様々な病気を拾うことになり、新たな問題を抱え込むことになった。
 案外知られていないが、別の問題も生じた。我々が食べるものには、体を冷やす食品と、体を温める食品とがある。ヒトの祖先や類人猿にとって、熱帯の果物と葉っぱは、体を冷やす作用があって誠に好都合であったが、それらはヒトの祖先たちの口には少ししか入らない。芋は、そのようには体を冷やしてくれない。
 ましてや動物食をしたものなら、体温はグーンと上がる。体に熱がこもりがちになり、熱中症の危険が大きくなる。ライオンの体温の経時変化がどうなっているか知らないが、ライオンが獲物を食べた後、木陰でベターッと寝そべっている最大の理由は、食後の体温上昇で暑さ負けし、苦しんでいるに違いない。
 ヒトの祖先も、芋を食べた後、しばらくして暑さに苦しみ、木陰で昼寝を決め込むしかなかったであろうが、満腹感が勝って、幸せな夢でも見たことであろう。
 小生は通常1日1食にしており、夕食しか食べないが、2時間もすると体温上昇が自覚できる。やたらと体が熱くなるのである。特に肉を多く食べるとその傾向が強まる。胃腸の蠕動による運動エネルギー発生に伴う熱産生(運動エネルギーの約3倍)であれば、30分もすればそれが自覚できるであろうが、ずっと遅れて感知するのであるからして、これは澱粉質や蛋白質の消化による分解熱以外に考えられないのである。
 また、小生はたまに1日断食をやり、その前後の日には動物性蛋白質をとらず、ご飯はわずかとし、野菜主体の少食とするのであるが、そのときは体温上昇は自覚できないし、冬場に断食すると体が冷えて極度な寒がりとなる。病気治療のために、完全な野菜食を何日も続けた人は、低体温になることが知られており、食べ物と体温は密接な関係にあるのである。
(ブログ版追記 もっとも、半年1年と完全な野菜食を続けると、腸内細菌叢が大きく変化し、食物繊維を腸内細菌がスムーズに分解するようになって、そのとき熱産生し、
低体温症から脱却できて、免疫力も格段に上がる。これが本来のヒトの祖先(芋を代用食とする前)の姿に思えてならない。)

第3節 獲得形質を遺伝させる
 ヒトの祖先は新たな世界へ進出したが、彼らの食べ物は総体として澱粉質に大きく偏り、初めのうちは食性がとても体に適合できていなかったと思われる。これでは活力が乏しくなり、繁殖力も弱くなるので、細々と生きつないでいくしかない絶滅危惧種のようなものであったろう。食性の変化が最大の難関であり、完全に適合するには相当の期間を必要とするからだ。
 中国に生息するパンダはクマの一種であり、5百万年前は雑食性であったと考えられている。そんな彼らに食糧危機が訪れたが、定住を選び、消化が極めて悪い竹だけを食べるように進化していった。そして何百万年かにわたって姿形を変え続け、消化器官を大幅に作り変えることに成功したのである。
 ヒトの祖先は、消化器官を作り替えるまでの必要はなかったが、澱粉消化酵素の分泌を格段に強化する必要に迫られ、そして、それを可能にした。現在の人類は、イノシシやブタとともに、この消化酵素が他の動物に比べて膵液から抜きん出て良く出るのであり、また、共通して唾液にも高い性能の澱粉消化酵素を獲得している。人類の場合は、芋の生食をするにあたり、腸の負担を少しでも減らそうと、よく噛んだからであろう。そうするなかで、唾液にその機能を獲得していったと思われるのである。人類が、どういうわけか、その発生初期に犬歯を退化させたことが幸いして、臼歯での磨り潰しを可能としたのである。(2022.5.17 この段落を一部訂正) 
 澱粉質の食糧の多食による、選れた澱粉消化酵素の要求が、ラマルクの用不用の法則にしたがって、それを獲得し、ついにその形質が遺伝するまでになったのである。こうして、ヒトの祖先は「食性革命」を成し遂げた。どれだけの期間にわたって代用食である芋を食べ続けた結果、獲得形質が遺伝するようになったのか、それは不明であるが、わずか20~30万年しか要しなかったのではなかろうか。

第4節 第1回出アフリカ
 現生人類にずいぶんと近づいた原人は、化石の出土から約180万年前にアフリカの大地溝帯周辺に出現したことが分かっているが、ほぼ同じ頃に、すでに中央アジアのグルジアに、そしてインドネシアのジャワ島にも原人がいたことが判明している。さらに、北京の近くでは人骨は発見されていないが、166万年前のものと判明している石器が多数発見されており、ここにも原人が住んでいたに違いない。
 原人がアジア各地で誕生したとの説は、いくつかの理由から完全に否定されており、アフリカの大地溝帯から移り住んだ以外に有り得ない。なお、原人が誕生した後、すぐに出アフリカしたというのは不自然であり、原人の誕生は「食性革命」を成し遂げるのに要したであろう20~30万年を加えた、少なくとも約200万年前のことであろう。
 いずれにしても、原人の一部の者たちは、東アフリカの大地溝帯周辺で幾十万年かにわたるサバンナ生活に馴染んだ後、第1回出アフリカを図り、ユーラシア大陸へと広がっていったのである。大変な距離のように思われるが、この移動はあっという間に行われたと考えられている。
 一度新天地を求めてサバンナへ出たヒトの祖先であるからして、移動性が高いという習性は当然に引き継がれているであろうから、サバンナが住みにくくなれば、さらなる新天地を求めて100キロ、200キロ先へ移住するのは容易であろう。1世代で100キロ先へ進んだとすると、2、3千年もすればユーラシア大陸のほぼ全域へ進出できる計算になる。参考までに、ごく最近のことであるが、1万数千年前に陸続きになっていたベーリング海峡を渡ってアジアからアメリカ大陸へ進出した人類は、これよりもっと速い速度で移住し、アメリカ大陸の南端に達するのに約千年しか要していない。
 このように移動速度が速かったのはなぜだろうか。
 単純に考えれば人口爆発が想起されるが、当時のヒトの繁殖能力からしてこれは有り得ない。そのような痕跡は全くないし、急激な人口増加は、ごく最近の約1万年前にほんの一部の地域で初めて起こった出来事である。次に、数年間にわたり大地溝帯全域に大旱魃が襲い、その結果、その地に住む原人のほとんどが、歴史時代に何度もあった民族大移動と同様な事態に追い込まれたことが想定される。そうなると、南アフリカにも原人が相当数移動し、先に移住していた頑丈型猿人を圧迫し、彼らを早々に滅亡へと追いやったであろう。しかし、頑丈型猿人は約100万年前まで生息していたから、第1回出アフリカのときには、そのような大規模な民族移動のようなものがあったとは考えられない。
 そこで、最も想定されるのは、次の事情が生じたからであろう。
 大地溝帯は激しく地殻変動を繰り返しており、ときには1つの湖だけが一気に干上がり、かつ、河川が消失することがある。そのような変動が起きれば、毎日多量に水を補給せねばならない宿命を持つヒトであるから、その水系での生活は不可能となってしまう。難民の発生である。彼らは近隣の水系へ移ろうとしても、そこはすでに限度いっぱいの人口密度になっていたであろうから、新天地を求めてさすらいの旅に出るしかない。
 しかし、近隣には安定した食糧確保ができる広大な土地はもうどこにもなかった。だいぶ先へ進んだ一部の者たちが狭いながらもなんとか食糧が確保できる土地を見つけて定住したが、後からそこへたどり着いた者たちは一時的にそこに住まわせてもらうも、食糧の少なさからその地での永住をあきらめざるを得ない。やむなくさらに先へ進み、あちこち狭いながらもなんとか食糧を確保できる土地を見つけて定住した。その結果が、あっという間にユーラシア大陸の方々に散らばってしまったのではなかろうか。
 当時は、アフリカとアラビアとを分けている紅海は先端部がつながっており、また、アラビア半島には森林地帯が広がり、かつ、ペルシャ湾の先端部は陸続きになっていたであろうから、アフリカ大地溝帯からユーラシア大陸へは真っ直ぐに行くことができ、長距離を移動するのに何ら障害がなかったのも幸いしたことであろう。
 原人は、この段階では、完全な植食性を通していたに違いない。主食は芋である。植食性であるがゆえに芋を探し求めて、かようにも広範囲に散らばったとしか考えられないのである。
 グルジアや北京の近くへ進出した原人のその後の化石は発見されていないから、彼らは早々に滅亡したであろう。なお、有名な北京原人は、もっと後に進出した別の原人である。
 動物は一定の数以上の個体数が生息していないと、やがて絶滅する。動物は近親相姦を避ける性向を持っており、互いの血が濃い関係にあると性交渉をあまりしなくなる。あったとしても、血が濃い関係にあると劣性遺伝の悪影響で子孫が育たず数を減らしていく。グルジアや北京の近くで孤立した原人は、そのような道をたどったことであろう。
 インドから東南アジア一帯の熱帯雨林に進出した原人はそうではなかった。湿潤気候ゆえに人骨の化石がほとんど残らないから証拠はないが、当地には何種類もの芋が豊富に自生する地帯が連続して存在しており、人口密度が希薄とはいえ、グルジアなどよりは密度が高く、かつ、他の集団との交流が可能であっただろうから、一定数以上の個体数が生息し得て、子孫も長く繁栄したことであろう。
 ジャワ原人が約10万年前まで生存し続けることができたのは、そのお陰であったと考えられる。なお、原人がジャワ島へ進出した頃は、氷河期の海面低下によりインドネシアの島々は大半が陸続きとなっていて、マレー半島から歩いて行けたのである。
 ことのほかアジアの湿潤地帯には芋の種類が多い。ヤム芋はマレー半島、タロ芋はビルマが起源であり、それ以外にもその地その地で様々な芋が自生している。加えて、マレー半島が起源のバナナがある。さらにアジアの温帯の照葉樹林地帯はヤム芋の一種である山芋、タロ芋の一種である里芋の原産地となっている。なお、日本列島に自生する芋は山芋だけである。
 一方、アフリカには芋の自生がわりと少ない。アフリカ南部のサバンナに住む採集狩猟民は自生の芋を採集して主食としているが、アフリカの熱帯雨林では自生する芋がないので、そこに住む民族は、時代が新しくなってからアメリカ原産のマニオックとアジア原産のヤム芋、タロ芋そしてバナナを移入し、これを主食としている。
 なお、サツマ芋、ジャガ芋は南米が起源であり、新大陸発見後にジャガ芋は広まったが、サツマ芋はそれ以前にポリネシア人が南米との交流のなかから持ち帰って栽培し、太平洋の島々に広まった。
 世界で最も未開の地、ニューギニアの高地人はサツマ芋とタロ芋を主食とし、ほとんど芋しか食べないと言っていいほどに芋食に徹している。このように熱帯及びその周辺地帯では、現在でも採集狩猟民のほとんどは芋が主食となっているから、ヒトの祖先たちも芋を求めての遠距離移動をした可能性が極めて高いと言えるのである。
(ブログ版追記 芋
の発見は頑丈型猿人が最初であったろう。彼らの臼歯には泥による擦り減りが顕著に認められるからだ。なお、通説では、華奢型猿人や原人の臼歯には擦り減りが認められないことから、彼らは肉食中心であって芋を食べなかったとされているが、これはとんでもない誤りだ。我々も泥が付いたものを食べたときには、ジャリッとして気分を悪くするが、それを気にしなかったのは頑丈型猿人だけのこと。ジャリジャリした気分悪さが度重なれば、そのうちに面倒でも芋を洗って食べるようになるであろう。宮崎県の幸島に住む餌付けされたニホンザルはサツマ芋を海水で洗って食べる文化を持っているし、また、未確認情報ではあるが、岐阜県の長良川の中流域に住んでいる野生のニホンザルは畑から掘り起こしたサツマ芋を川で洗って食べているとのことであり、この「芋洗い文化」は華奢型猿人や原人に広く存在したと考えてよいだろう。) 

第5節 動物食での出アフリカはない 
 この頃の原人は完全な植食性であった根拠を別の角度から説明しよう。
 動物食をするようになった動物は、必ず縄張りを持ち、そこに定住するのを原則とする。獲物となる大型草食動物が草を求めてどこかへ移動して自分の縄張りからいなくなったとしても、その場に残り、わずかに残った小動物で飢えをしのいでいる。
 ヒトの祖先が第1回出アフリカを図った頃、東アフリカの大地溝帯の東側は、すでに現在の状態に近いまでに乾燥化し、草原が広がっていた。それに併せて、もっぱら草を食べる大型草食動物が大繁栄していたことが分かっており、動物食中心の食性であれば、いくらでも獲物が捕れるのであるから、サバンナにどっしり腰を据えていればいいのである。
 ヒトの祖先が動物狩りを覚えていたのであれば、サバンナほど快適な場所はなく、そこから出ていく理由は何もない。猛獣も当然に数を増やしてきたに相違ないが、草食動物を減少させることは有り得ない。両者の生息数は比例して増減する相関関係が強いからである。
 欧州人がアフリカへ入り込む、ついこの前までは、サバンナにはいっぱい大型草食動物がいた。サバンナが完成した約200万年前からずっとそうであったろう。
 
気候変動で草食動物が数を減らすのは、湿潤化により草原が森林に取って代わられたときだけである。もし、そうした事態になったら、ヒトの祖先にとっては誠に好都合であり、果物や柔らかい葉っぱがふんだんに手に入り、いつまでもアフリカにいられるのである。
 蛇足ながら、ヒトの祖先が猛獣に恐れをなして、猛獣のいない新天地を求めて出アフリカを図ったなどということも全く考えられない。猛獣がいないのは熱帯雨林の奥深くに限られるからであり、ヒトの祖先が猛獣から逃れるとすれば、そこへ入り込むしかなく、現生のボノボのように密林でひっそり暮らすことになるのである。

 原人も時代が進むにしたがって様々なタイプの原人が登場する。初期の原人はエレクトス原人と総称されているが、体型が2タイプあり、すらりとした体型の原人をエルガスター原人として別の原人とする見方もある。時代が大きく進んで、約60万年前にハイデルベルゲンシス原人が登場した。彼らはエルガスター原人が進化した者とされている。そして、旧人と呼ばれるネアンデルタール人が約30万年前に登場した。ハイデルベルゲンシス原人が進化した者とされ、寒冷地適応で大きく体型を変えていき、3万5千年前に絶滅した。
 ついでに現生人類のサピエンス人の起源も紹介しておこう。サピエンス人は、アフリカでハイデルベルゲンシス原人から進化し、20万年前ないし15万年前登場したとされている。この年代決定は最近のDNA解析によるものでかなり正確であると考えられている。
 そして、サピエンス人は何度目かの出アフリカによって、世界中に広まった。西アジアには10万年前に、アジア全域とオセアニアには7万年前に、ヨーロッパには4万年前に進出した。これを元にして様々な人種が生まれたのである。人種の起源として、ユタ大学のH・ハーペンディングらにより唱えられている「ビン首効果」というものがある。東アフリカの大地溝帯で、現生人類の一部分一部分が時間差を置いて、ビンの首からドクッ、ドクッと水が出ていくがのごとく、各地へ分かれて散っていったというものである。こうして元の集団や先に出て行った集団と隔絶されたり交流がないと、遺伝子バランスが崩れて、それぞれが異なる遺伝子を持った集団に変化し、それが人種の起源である、という説明である。
 気候の変動と大地溝帯の地殻変動による時々の環境悪化のたびに、そこに住む現生人類の一部小集団が故郷を後にしたということになり、腑に落ちる話である。このビン首効果は、何もサピエンス人だけに限ったことではなかろう。その前に登場した旧人やさらにその前の原人とて、そうであったと考えたほうが素直である。彼らも皆、大地溝帯の住民であったのだから。
 したがって、エレクトス原人、エルガスター原人、ハイデルベルゲンシス原人、そしてネアンデルタールもビン首効果により、その都度出アフリカしたと考えれば、彼らの体型がそれぞれ異なり、ときには一部地域で年代を重ね合わせて生存していたことの説明もすんなりできてしまう。出アフリカは180万年前の第1回以降、数万年前までの間、何十回も繰り返し繰り返し行われたと結論付けたい。
 ところで、ハイデルベルゲンシス原人が誕生した頃の約60万年前以降のヒトは「火の利用」を知っていたようであり、次章で述べるように火の利用は狩猟につながり、それにより動物食中心の食生活をするようになれば、先に考察したように出アフリカの動機はなくなる。その当時は大地溝帯周辺は安定して広大な草原が広がっており、草食動物がうじゃうじゃいたのであるから、獲物は取り放題であったはずだ。
 でも、ヒトの祖先たちは出アフリカした。このことは、ヒトの本性として、ずっと植食性の食を追い求めてきた大きな証拠となろう。なお、ヒトの祖先たちが芋を食べていたとする確たる証拠はほとんどないが、最近、わりと新しい年代のものではあるも、その証拠が見つかったので、それを紹介しておこう。
<2020年3/24(火) 配信 朝日新聞デジタル>
 南アの洞窟から17万年前の焼き芋 最古の調理の証拠か
 植物は分解されやすいが、今回の根茎は炭化していたため保存された。直径は1センチ余りで、大きさや組織の形状などから、今もアフリカに広く分布するヒポキシス属植物の一種「Hypoxis angustifolia」とみられる。炭水化物が豊富で生で食べられ、調理すればさらに軟らかくなる。小さいながらもホクホクの焼き芋に舌鼓を打っていたようだ。
 集めた芋を持ち帰って調理した形跡から、家族などへも分配していたらしい。この植物が当時から広く分布していたなら、移動先でも安心して確保できる食料だったはずだと研究チームはみている。

つづき → 第6章 火食が始まる

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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