ドンマイ、ドンマイ&ノープロブレム“腹立ち、怒り”の感情から逃れ、“嫌な、暗い”気分を捨て去る方法。
ストレス社会がために“腹立ち、怒り、敵意、憎しみ”といった感情が、次から次へと心に湧いてきますし、昨今の不景気と来る増税がために“嫌な、暗い、落ち込み”気分にどんどん取り付かれてしまいます。誰しも大なり小なりそうした心境に陥りやすいことでしょう。
特に真面目な人にその傾向が強いですから理不尽なものです。不真面目で横着な人は、そうしたことに鈍感で、ストレスも抱えませんし、鬱(うつ)にもなりません。
だったら、真面目な人は生き方を変えて、不真面目で横着な人に変身すればいいのですが、真面目な人は真面目さがゆえにそれもできません。
どうしたらいいでしょうか。解決方法はちゃんとありますから、ご安心ください。
その一方法として、“腹立ち”などは、過去記事で書いた次のものです。
2013.10.02 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
小生もブログを別立で起こし、何かあれば書きなぐっています。次のブログです。
薬屋のおやじの“腹立ち日記”
https://haratachi.blog.so-net.ne.jp/
そして“落ち込み”などの対処法は、過去記事で書いた次のものです。
2012.09.02 “一日一楽”日記の書き始め
これもブログを別立で起こし、ほぼ毎日書きつづっています。次のブログです。
https://miyake-2.blog.so-net.ne.jp
毎日、何か楽しいことを探し出し、それを紙に書きつづれば楽しさがグーンと増幅されて、嫌なことなどを忘れ去り、落ち込みから抜け出せるというものです。
これらは単なる対処法でして、それなりに効果があることを実感していますが、本質的な解決法は、やはり「こころの持ち方を変える」ということになります。
このブログで何度か引用しています「小林正観著:ただしい人からたのし人へ」(弘園社)に、それが書かれていますから、引用・要約して紹介しましょう。
(少々長くなりますが、これより引用・要約開始)
まず、「敵意、憎しみから腹が立ち、怒りたくなる」というのは、その根源に、実は「正義感」や「使命感」というものが大きく関わっていると思われます。
ある方がこうおっしゃいました。
「戦争を起こす人だけはどうしても許せません。戦争を起こす人を嫌い、憎しみ、その人に対して怒りを持つのは私は正当だと思います。」
(これに答えて小林正観さんはこう言います。)
「その戦争を起こす人への『憎しみ』こそが戦争を起こすのではありませんか。戦争を起こしている人は、自分たちの正義を貫くために戦争というものを起こしているのではないでしょうか。戦争を起こす人は全て自分が正しいと思って起こしているのだと思います。もし、あなたが総理大臣や大統領であって、軍を動かす力を持っていたとしたら、その怒りと憎しみでもって、あなたはきっと軍に出動を命じてしまうでしょう。」
ですから、どんなことがあっても、腹を立てないほうがいい、怒らないほうがいい、イライラせず、声を荒げないほうがいい、ということになります。腹を立てるのは損、怒るのは損、イライラするのは損、声を荒げるのは損、どれも得になるものはないのです。
「私はこうでなければならない。家族もこうでなければならない。社会もこうでなければならない。」という「ねばならない」をたくさん持っている人は、「ねばねばした人」=「粘着力の強い、執着の人」ということにほかなりません。
「こうしよう、こうしたい」との思いが強いとき、そうならない状態が長く続くと、人はストレスを感じるようになります。
ストレスの源は、「これを実現したい、こうでなければならない」という「思い、こだわり、そして執着」です。
目の前に乗り越えるべき現象がやって来たときに、三次元的に採り得る方法として、以下の3つの解決法があります。
①相手を説得し、屈服させる ②その現象から逃避する ③我慢し、忍耐し続ける
実際には、おそらく3番目の方法を採る人が多いことでしょう。
ところが、実は4つ目の解決法があります。
その方法は「気にしない」ということです。
これを英語で言うと、 I don't mind. 「ドンマイ、ドンマイ」というものです。
そして、5つ目の解決策があります。
それは、4つ目の「気にしない」に対して「気にならない」という解決方法です。
これを英語に直すと、 There is no problem.
「ノープロブレム! で、何が問題ですか?」ということになります。
つまり、問題認識しない、ということです。
問題を問題として認識していると、三次元的に3つの選択肢から選ばざるを得ません。そうしたなかで、「認識」しているから四次元的な4つ目の「心穏やかな解決方法」を模索するわけです。
ところが、五次元的に存在する5つ目の解決方法は「問題を問題として認識しない」。
例えば、「なんてお前はバカなんだ。」と言われたとき、「そうなんです。私は本当にバカなんです。随分と長いこと隠していたんですけど、遂に分かってしまいましたか。」と言ってニッコリ笑えることが、五次元的な解決方法です。こうすると、相手方は肩透かしを食わせられてしまって、提起された問題がどこかへすっ飛んでしまうのです。
関連記事:2012.1.5 「 目標を捨てるとどうなる?知らぬ間に目標を超えてしまうのです 」
<小生の感想:「ドンマイ、ドンマイ」・「ノープロブレム」は米国人が良く使うフレーズです。してみると、米国人があれだけ明るく立ち振る舞っていけるのは、四次元的、五次元的解決法に優れているから、ということになりましょうか。そして、ラテン人ともなると、何もかも五次元的に解決してしまう。それに対して、日本人はいつまでも三次元の世界に踏み止まっている“くそ真面目”な世界的にも珍しい民族ということになりましょうか。>
私たちは、よく「光りと闇」という言葉を使います。今日情勢は、閉塞感が漂い、悲惨な出来事ばかりで、「暗い」世の中だ、といった言葉が会話の中でもよく出てきます。
そういう「暗い」時代認識をしている人同士ばかりが集まってくると「そうだ、そうだ」という話になり、「この世はまさに闇」となってしまいます。
しかし、よくよく考えてみると、「光り」と「闇」とが50対50の力を持っているのではないことに気付きます。「光り」と「闇」は等分に力を持って闘っているわけではなく、力で言うと100対ゼロなのです。「光り」が100で「闇」の力はゼロ。
「闇」は「光り」に対抗する力を全く持っていません。「光り」の方に100%の支配力があって、「光り」があるときは「闇」はゼロ。「光り」がいなくなったときだけ「闇」は存在できるのです。「闇」に独立した力があるわけではないということを、ぜひ知ってほしいと思います。
で、歩いていく先(世間とか世の中とか)が「闇」であるとしましょう。その「闇」に向かって歩いていく「私」が「光り」であれば、そこは「光る」のです。「闇」が闇のまま存在することはできませんからね。
例えば、私の口からは、いつも「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「愛してる」「大好き」「有り難う」が発せられ、笑顔と優しさにあふれているとしましょう。その「明るい人」(=「光り」)は、世間が「闇」であったかどうかとは全く関係ありません。私が歩み入って行く所は、全て「光り」に満ち、「明るい」所になってしまうのです。
世の中を 暗いくらいと 嘆くより 自ら光って 世の中照らそう
私は、いつもそう心がけて毎日を暮らしています。そして、それを実践しています。
(引用・要約はここまで)
いかがでしょうか。小生思うに、真面目な方は決して不真面目で横着な人に変身することはできませんが、まずは「ドンマイ、ドンマイ」の生き方を順次身に付け、次に「ノープロブレム! で、何が問題ですか?」に挑戦なさってはどうでしょうか。
そして、毎日毎日絶えず「嬉しい」「有り難う」を連発し続け、もって「楽しい」「幸せ」な人生を送っていきませんか。小生は、今その途上(入り口)にあります。まだまだそうした言葉を連発できませんし、「愛してる」「大好き」なんて恥ずかしくてとても口から出ませんゆえ。
今までに何度も読んだ「小林正観著:ただしい人からたのし人へ(弘園社)」ですが、今回、蛍光ペンを塗った所(そこら中に随分と塗られていますが)をざっと目を通し、表題に関する部分を紹介させていただきました。
毎回毎回読むたびに肩の力が抜け、ほっとした気分にさせてもらえます。
皆さんも何か1冊「こころのよりどころ」になる本をお持ちになり、それを時々眺められるといいですよ。落ち込んだときや、ストレスが溜まったときに。
なお、今回、本書に目を通した切っ掛けは、他人事ではありますが、あまりにも腹が立つ事件が連続して起こり、「どんなことがあっても、腹を立てないほうがいい、怒らないほうがいい…。腹を立てるのは損、怒るのは損…、どれも得になるものはないのです。」ということが分かっていても、なかなか腹の虫が納まらなかったものですから、自分の気持ちを落ち着かせるために記事にしたところです。これで、どれだけかは落ち着きましたが、まだ怒りが残っています。聖人君子にはなれない小生。心の修行が足りませんなあ…。