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薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

感動して涙が出る日本講演新聞の記事を皆様にご紹介しましょう

2025年02月18日 | 心に安らぎを

 このブログでときおり紹介している「日本講演新聞」(旧名:みやざき中央新聞)。毎月4回発行され、定期購読しているのだが、読んだとき傑作な記事には黄色の蛍光ペンで丸印を付けておく。それを毎月20日頃にもう一度読み、少々拡大コピーして切り取り、所定のA4用紙(上段に「日本講演新聞」のロゴやキャッチコピー入り)に貼り付ける。今月分と先月や先々月の繰り越し分の中から、“これはいい”というものを4つ選び出し、両面コピーし、2枚にしてDMに使うこととしている。
 この新聞のキャッチコピーは「宮崎発未来~ときめきと学びを世界中に」と「心揺るがす」の2つあるが、当店のお客様の心のケアに役立たないかと考え、そのキャッチコピーは「心温まり、勇気を得て、感動した!」と勝手に付けている。
 こうして、優れた記事を2、3回読むことになり、読むその度に「心温まり、勇気を得て、感動した!」という気分を味わっている。そして幸せな気分にもなれるから、自分にとっても実にうれしい作業となる。

 毎号けっこういい記事があり、DM用に採択できなかった記事がけっこう溜まってきた。そこで、昨年12月に引き続き、そうした記事(DM採択漏れ)の中から、2本の記事を、このブログ読者にお読みいただこうと、以下に紹介させていただくことにした。
 お読みいただければ幸いです。今回は2本とも「感動して涙が出る!」となることを願って。


日本講演新聞2本の記事を皆様にご紹介しましょう

2024年12月28日 | 心に安らぎを

 このブログでときおり紹介している「日本講演新聞」(旧名:みやざき中央新聞)。毎月4回発行され、定期購読しているのだが、読んだとき傑作な記事には黄色の蛍光ペンで丸印を付けておく。それを毎月20日頃にもう一度読み、少々拡大コピーして切り取り、所定のA4用紙(上段に「日本講演新聞」のロゴやキャッチコピー入り)に貼り付ける。今月分と先月や先々月の繰り越し分の中から、“これはいい”というものを4つ選び出し、両面コピーし、2枚にしてDMに使うこととしている。9月までは郵送の場合、25gまでが84円だったが、10月から50gまで110円となり、以前に比べて倍量以上同封できることとなり、従前、たいていの方へは1枚だけの送付としていたが、今は2枚とも同封するようにした。
 この新聞のキャッチコピーは「宮崎発未来~ときめきと学びを世界中に」と「心揺るがす」の2つあるが、当店のお客様の心のケアに役立たないかと考え、そのキャッチコピーは「心温まり、勇気を得て、感動した!」と勝手に付けている。
 こうして、優れた記事を2、3回読むことになり、読むその度に「心温まり、勇気を得て、感動した!」という気分を味わっている。そして幸せな気分にもなれるから、実に有り難い。

 毎号けっこういい記事があり、DM用に採択できなかった記事がけっこう溜まってきた。そこで、そうした記事(DM採択漏れ)の中から、2つの記事を、このブログ読者にお読みいただこうと、以下に紹介させていただくことにした。
 お読みいただければ幸いです。「心温まり、勇気を得て、感動した!」となることを願って。

  

  

 

 


横断歩道で停車してくれたバスに向かって軽く会釈、道路を渡り終えてからまたバスに一礼

2024年11月29日 | 心に安らぎを

横断歩道で停車してくれたバスに向かって軽く会釈、道路を渡り終えてからまたバスに一礼

 “坊主もたまにはいい話をする”と言っては失礼に当たりましょうか。ゴメンナサイ。
 うちは、真宗大谷派、俗に言う“お東”、東本願寺の門徒でして、毎年11月に小冊子「真宗の生活」が配布されます。毎年、これを見るのを楽しみにしています。3分法話が12掲載されているので、これをパラパラッとめくって面白いなと感じた法話を探します。
 でも、ここ何年かは「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば救われる」という、浄土宗や浄土真宗の宗教的教えばかり。まあ、これが宗教というもので致し方ない面がありますが。
 教祖の親鸞は面白い奴だったんだなあと思うだけで、浄土真宗に信心していない小生にとっては、こんな法話が12もあると、辟易してしまいます。今年もそうした法話が11も続き、ウンザリしていたところ、最後の12番目の法話は違っていました。ほんのりと心温まるいいお話。皆さんにもご一読願いたいと思い、以下に転記しました。

真宗大谷派(東本願寺)教化冊子2025年版「真宗の生活」より
12 恩を被る 木村宣彰(大谷大学名誉教授)
 ある日の出来事です。バスに乗車中、横断歩道で停車したそのバスの前を女性が渡ろうとする姿が見えました。
 すると、その女性が停車したバスに向かって軽く会釈(えしゃく)されます。そして渡り終えて、また立ち止まって向きを変え、バスに一礼し去って行かれました。
 私は、その様子を見て感激しました。おそらくその方は、いつもそのような日暮しをされておられるのだろうと思ったのです。自分に受けた恵に対して感謝して生きておられるのだなと非常に感動した出来事でした。
 横断歩道でバスが止まったことは当たり前のことかもしれませんが、その方は自分に被った(こうむった)恩を感じられて会釈をし、振り返ってもう一度一礼をされたのだろうと思います。バスの中からそのお姿を見て、心が洗われるような清々しい(すがすがしい)気持ちになりました。それが日常生活における報恩(ほうおん)の暮らしではないかと思います。
 また、次のような夏目漱石に関するお話があります。漱石のところに、禅の修行をしている若い雲水(うんすい)さんがお饅頭(まんじゅう)を送ってきました。そのお礼を書いた漱石の手紙が残っています。
 最初に俳句が一首あります。「饅頭に 礼拝(らいはい)すれば 晴れて秋」。いただいたお饅頭に礼拝をしたら晴れたというのです。晴れたとは、お天気が晴れたのではありません。自分の気持ちがすかっと晴れたということでしょう。
 皆さんは、饅頭を食べる時、礼拝をしていただいておられますか。漱石は、たまたまいただいたお饅頭に礼拝して、そして心が晴れたのです。その後にこう書いています。「私は50歳になって初めてほとけの道を志す愚か者です」と。その手紙の数日後、漱石は50年の生涯を閉じることになります。饅頭に礼拝して心が晴れ、おかげさまという気持ちになったのでしょう。
 私は、今日まで多くの恩を被って来ました。私の前にも恩、私の後ろにも恩、右にも恩、左にも恩、過去にも恩があります。これから先もご恩を被って生きるのだろうと思います。
(『真宗』2024年2月号I真宗大谷派宗務所)より)


人生に悩んだら「日本史」に聞こう! すると、がんが消えることもありそうです

2024年07月31日 | 心に安らぎを

 ここのところ暇を持て余しぎみになったので、以前に買った本を読み直している。9年前に購入し、歴史上登場する人物の、これぞドラマだ!という印象が残っていたが、今回読んでみて、感動で涙する箇所が幾つかあった。その本は、白駒妃登美著『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』である。
 先日(6月5日)このブログに「情動の涙、これ、何にも勝る良薬です」と題して橋本昌人さんの講演録を紹介したが、最初に本書を読んだときも涙した。今回も同様に涙したことから、本書を紹介しようという気になった次第。

 著者の白駒妃登美さんをまず紹介しておこう。“博多の歴女”と呼ばれ、けっこう有名なようである。幼少の頃から歴史ものが好きで、何か問題があると「ここで福沢諭吉なら、どう考えるだろう?」と、歴史上の人物と対話していたそうです。そうしたことから、歴史上の人物の捉え方も独特なところがあり、白駒妃登美さんの解説にはたいそう引き付けられます。
 1964年生まれの彼女が大学を卒業して選んだ仕事が航空会社の国際線客室乗務員。7年半勤務し退社後2児の母に。40代となった2008年に子宮頸がんを患い、手術したものの、2010年にがんが肺に転移していたことが分かり、主治医から「正直に申し上げますね。この状態で助かった人を今まで私は見たことがないんです」と死の宣告を受けます。この絶望のどん底に叩き落されて笑顔を失ったとき、友人の石井詩織さんの一言に救われます。
  以下、本書のあとがきを引用します。
 
 「私は妃登美ちゃんが笑顔じゃなくても、どんなに不機嫌でも、生きていてくれるだけでうれしい」
 家族のほかにそこまで私を受け入れてくれる人がいるなんて、なんて幸せなんでしょう! 笑顔でいられなくなった私は、もう誰の役にも立てないと思っていたけれど、もしかしたら、私が生きているだけで、誰かの希望や勇気になっているのかもしれない。そう思えた瞬間……
 「たとえこのままがんが治らなくても、本当に幸せな人生だなぁ~♪」って、そんな気持ちが自然にわき上がってきました。
 そりゃあ、癌が治れば本当に幸せです。でも、たとえ治らなくても、生きているだけで誰かの希望や勇気になれる人生って、すごく幸せだと感じたのです。
 思えば、病気になって、私はいろんなことに気づきました。
 泣きたくなる自分、「助けて」と弱音を吐きたくなる自分、誰かのせいにして逃げたくなる自分。そういう弱さを封印して、いつもプラス発想で明るく元気な自分を演じ、必死でがんばって生きてきたんだなって。そんな自分に気づき、「よくがんばってきたね」って、自分を抱きしめました。
 …(中略)…日本人は、桜を、花が咲き誇っているときだけ愛でてきたのではないのです。…散りゆく花びらをいつまでも惜しむのではなく、その移ろいを受け入れ、その一瞬一瞬に楽しみを見出してきた日本人。桜を見ると、私は、日本人の受容力を感じずにはいられません。
 日本人は、どんな状況でも、それを包みこみ、受け入れ、幸せを見出してきたのです。
 幸せに条件はいらなかった。
 病気だって、幸せ。
 治っても、治らなくても、幸せ。
 そう思ったら、恋をしているときみたいに、いつも見慣れているはずの景色が輝き始めました。
 すると、次の検査で、癌が消えていたのです。
 人生って、不思議ですね。癌に対して戦闘モードだったときには、癌細胞が増えていったのに、癌であっても幸せを感じていたら、癌は消えてしまいました。
 いま振り返ると、癌は、天がくれた最高の贈り物だったのではないかと思えるのです。私は、病気になったおかげで、命と向き合うことができ、かけがえのないものを得ました。うまく表現できませんが、ひとことで言えば、「命の尊さ」ということになるでしょうか。…(以下略)

 いかがでしょうか。心の持ち方を変えると、がんは消えてなくなることがあるのです。
 それはそれとして、本書で感涙する場面はというと、最後のほうの4話。是非買ってみて、お読みになってください。 

 


情動の涙、これ、何にも勝る良薬です

2024年06月05日 | 心に安らぎを

 このブログでときおり紹介している「日本講演新聞」(旧名:みやざき中央新聞)。毎月4回発行され、定期購読しているのだが、読んだとき傑作な記事には黄色の蛍光ペンで丸印を付けておく。それを毎月20日頃にもう一度読み、少々拡大コピーして切り取り、所定のA4用紙(上段に「日本講演新聞」のロゴやキャッチコピー入り)に貼り付ける。今月分と先月や先々月の繰り越し分の中から、“これはいい”というものを4つ選び出し、両面コピーし、2枚にしてDMに使うことにしている。ただし、たいていの方へは1枚だけの送付となる。
 この新聞のキャッチコピーは「宮崎発未来~ときめきと学びを世界中に」と「心揺るがす」の2つあるが、当店のお客様の心のケアに役立たないかと考え、DM封筒に入れて毎月発送しているのだが、そのキャッチコピーは「心温まり、勇気を得て、感動した!」と勝手に付けている。
 こうして、優れた記事を2、3回読むことになり、読むその度に「心温まり、勇気を得て、感動した!」という気分を味わっている。そして幸せな気分にもなれるから、実に有り難い。

 毎号けっこういい記事があるが、1つの記事に(A4サイズで)4ページ割かれるものは、いくら内容が良くてもDMで2枚になってしまい、採択しにくく、めったに使ったことがない。たいていお蔵入りとなる。
 これではなんとも残念だから、このブログの読者の皆さんに読んでいただこうと、4ページものをこれで3回目になるが、以下に紹介させていただくことにした。

(備考)
 この講演記事の中で「情動の涙」には「ストレスを解消する効果がある」と紹介されていますが、他に「NK細胞を活性化させ、がん治療効果がある」とも言われています。
 参照→毎日5善の心で癌(がん)に向き合う。癌は心の病の現れと捉えるべきでしょうね。

 皆さんも、ぜひこの講演記事をじっくり読んで「情動の涙」を流してください。
 スキャンしたら裏写りしてしまい、読みにくて申し訳ありません。

  

 

 

 

関連記事 心の病を改善する薬「感動の涙」、その1滴、2滴を差し上げましょう


地味な仕事「豆腐の引き売り」を行っておられる、ごく平凡な若い女性、「心のぬくもり」を売っていらっしゃる。心温まる、いいお話(講演録)を紹介しましょう。

2023年09月29日 | 心に安らぎを

地味な仕事「豆腐の引き売り」を行っておられる、ごく平凡な若い女性、「心のぬくもり」を売っていらっしゃる。心温まる、いいお話(講演録)を紹介しましょう。

 このブログでときおり紹介している「日本講演新聞」(旧名:みやざき中央新聞)。毎月4回発行され、定期購読しているのだが、読んだとき傑作な記事には黄色の蛍光ペンで丸印を付けておく。それを毎月20日頃にもう一度読み、少々拡大コピーして切り取り、所定のA4用紙(上段に「日本講演新聞」のロゴやキャッチコピー入り)に貼り付ける。今月分と先月や先々月の繰り越し分の中から、“これはいい”というものを4つ選び出し、両面コピーし、2枚にしてDMに使うことにしている。ただし、たいていの方へは1枚だけの送付となる。
 この新聞のキャッチコピーは「宮崎発未来~ときめきと学びを世界中に」と「心揺るがす」の2つあるが、当店のお客様の心のケアに役立たないかと考え、DM封筒に入れて毎月発送しているのだが、そのキャッチコピーは「心温まり、勇気を得て、感動した!」と勝手に付けている。
 こうして、優れた記事を2、3回読むことになり、読むその度に「心温まり、勇気を得て、感動した!」という気分を味わっている。そして幸せな気分にもなれるから、実に有り難い。

 毎号けっこういい記事があるが、1つの記事に(A4サイズで)4ページ割かれるものは、いくら内容が良くてもDMで2枚になってしまい、採択しにくく、めったに使ったことがない。たいていお蔵入りとなる。
 これではなんとも残念だから、このブログの読者の皆さんに読んでいただこうと、4ページものをこれで2回目になるが、以下に紹介させていただくことにした。

 「豆腐屋あこ」こと菅谷晃子さんの講演会の講演録

 雨の日も雪の日も、リヤカーで

 

 

 


「心温まり、勇気を得て、感動した!」記事満載の「日本講演新聞」から記事を1本紹介しよう

2023年07月21日 | 心に安らぎを

 この日記でときおり紹介している「日本講演新聞」(旧名:みやざき中央新聞)。毎月4回発行され、定期購読しているのだが、読んだとき傑作な記事には黄色の蛍光ペンで丸印を付けておく。それを毎月20日頃にもう一度読み、少々拡大コピーして切り取り、所定のA4用紙(上段に「日本講演新聞」のロゴやキャッチコピー入り)に貼り付ける。今月分と先月や先々月の繰り越し分の中から、“これはいい”というものを4つ選び出し、両面コピーし、2枚にしてDMに使うことにしている。ただし、たいていの方へは1枚だけの送付となる。
 この新聞のキャッチコピーは「宮崎発未来~ときめきと学びを世界中に」と「心揺るがす」の2つあるが、当店のお客様の心のケアに役立たないかと考え、DM封筒に入れて毎月発送しているのだが、そのキャッチコピーは「心温まり、勇気を得て、感動した!」と勝手に付けている。
 こうして、優れた記事を2、3回読むことになり、読むその度に「心温まり、勇気を得て、感動した!」という気分を味わっている。そして幸せな気分にもなれるから、実に有り難い。

 毎号けっこういい記事があるが、1つの記事に(A4サイズで)4ページ割かれるものは、いくら内容が良くてもDMで2枚になってしまい、採択しにくく、めったに使ったことがない。たいていお蔵入りとなる。
 これではなんとも残念だから、このブログの読者の皆さんに読んでいただこうと、4ページものを初めてのことだが、以下に紹介させていただくことにした。

 少々前の話になるが、今年の3月に侍ジャパンがWBCで世界一に輝いた、その理由をヘッドコーチの白井一幸氏が語っておられる、その講演録である。選手皆の力が存分に発揮できるようにするためには指導者はどう対処すべきか、それを熱く語られている。まさに「心温まり、勇気を得て、感動した!」内容である。ご一読いただきたいです。


ラムネ瓶の栓にする玉はA玉、じゃあビー玉って何だ?

2023年07月10日 | 心に安らぎを

ラムネ瓶の栓にする玉はA玉、じゃあビー玉って何だ?

 浄土真宗の東本願寺出版「法語カレンダー随想録 今日のことば2022」という小冊子、もう1年半以上前のことになるが、これをいただいた。その中に興味ある随想録がしたためられていたのを、今になって思い出したので、遅ればせながら皆さんに紹介したい。

(著:谷大輔(京都教区良覺寺住職))
 ラムネ瓶の栓をするための玉を何というかご存じですか? 一般的にあの玉は「ビー玉」と呼ばれますが、正式な名称を「A玉」というそうです。
 ラムネは炭酸水ですから、しっかりと栓をする必要があります。そのため栓の役割をするガラス玉は完全な円形で少しでも傷があってはなりません。厳しい規格審査に合格したものがラムネ玉として認められた”A玉”になれます。そして規格審査の“A”に不合格だった玉は、“B”、つまり“B玉”と呼ばれています。B玉は規格に不合格ではあるけれど、せっかく作ったものを捨てるのはもったいないので、ラムネを買ってくれる子どもにあげようと駄菓子屋に置かれるようになりました。やがてB玉は「ビー玉」と呼ばれるようになり、いまも広く親しまれています。
 皆さんはA玉ですか? それともB玉ですか? 自分を振り返った時、A玉のように挫折なく生きてこられたと思える人は少ないでしょう。誰しもB玉のように、世間の価値観から落ちこぼれて、挫折して唇を嚙みながら悔し涙を流した経験が、大なり小なりあるのではないでしょうか?
 世間には人間をはかる価値観が溢れています。有用や有益で人間がランク付けされ、間に合う人間には居場所が与えられますが、世間の価値観からふるい落とされた人間の居場所は、小さく狭くなって、どこにもなくなってしまいます。
 そういった世間を生きていると、知らず知らずに世間の価値観は自分の価値観になります。A玉のように時流に乗りうまく生きられているときは何も問題を感じませんが、B玉のように世間から価値のない者と見捨てられたとき、自分で自分をはかり、「こんな自分でなかったら」と自分で自分を見捨ててしまいます。そして、自分を価値のないものと認めたくないから、自分より下の人間を探すことで自尊心を保とうとする。生きるということの意味を、世間の価値観だけで見出そうとすると、劣等感、そして優越感から解放されることはないのです。
 仏の教えは世間を「覆真(ふしん)」と言い当ててくださいます。世間の価値観は、真実・本当のことを覆い隠しているから、世間に生きる我々は本当ではないことを本当のように勘違いし、迷い、苦悩しているのです。
(中略)
 B玉は審査に合格できなかった規格外の落ちこぼれかもしれません。しかしビー玉は、えらばれ、はかられ、見捨てられるという価値観ではないところで、今でも居場所があります。無条件にそのままを受け入れられているそのすがたは、濁った眼で覆い隠されて見えないけれども、我々が深いところで求めている真実・本当のことを教えてくれているように思います。
(引用ここまで)

 いかがでしょうか。誰しも存在価値は等しく持っており、その存在価値に優劣は付けられないというもの。
 坊主もたまにはいいことをおっしゃる、という3分法話でした。
 仏教は宗教にあらず。釈迦は思想家であり、釈迦は人々に人生の生き方を知らしめたにすぎない、と小生は捉えています。もっとも、その思想にたどり着くまでの思考は哲学であり、その後に発展した仏教哲学は実に奥深く、これぞ真理、といった感がしますが、再度言いますが、この仏教哲学も宗教とは無縁のもの。


面白い話、楽しい話のご紹介(“一日一楽”日記より)

2020年07月01日 | 心に安らぎを

面白い話、楽しい話のご紹介(“一日一楽”日記より)

 別立てブログで毎日“一日一楽”日記を書き綴っているのですが、ほとんどの記事は自己満足的に楽しかった出来事です。これでは、読者の方に何の役にも立ちません。
 それに気づき、小生が知り得た面白い話、楽しい話も積極的にこのブログで発信したほうが良かろうと思い、本など読んで、これは面白いという話を見つけたら“一日一楽”日記で紹介することにしています。
 前回、齋藤茂太(歌人齋藤茂吉の長男:故人:精神科医・文筆家)著『「あなたと会うと元気になる」といわれる人の共通点』から取り上げたものをまとめて紹介しましたが、今回はオムニバス3本立て。

2014.7.4 今日はいい言葉にめぐりあった
 団塊の世代の特徴と言われるのが、“正義感が強い、完ぺき主義”、そんな話を聞いたことがある。皆が皆そうではないだろうが、小生にはズバリ当てはまる。
 正義感が強いと、“それは間違っている、こうせねばならない。"となって、それを人に押し付けがちとなる。つまり、自分本位で“人を正す”行動を取ろうとする。
 しかし、そのようなことで、はたして人を動かせ得るものか?
 「人を正すより 自分がいいと思うことを コツコツとやっていく  その方が はるかに人に影響を与えるのじゃよ」
 これは、ネット注文して今日届いた「心が軽くなる なんでも仙人の 日めくりカレンダー」に書いてあった言葉である。
 よくよく考えてみるに、人に意見を押し付ければ押し付けるほどに相手は退いていくもの。いくら正しいことであっても、そうなってしまう。ここは、正しいと思ったことは自分で実践するだけでよい、そのように心得るべし、ということでしょうね。肝に銘じておこう。
 関連してもう一つ肝に銘じておかねばならない言葉があった。
 「人にかけてあげた言葉は そっくりそのまま自分へのメッセージ」
 相手が喜ぶ、嫌がるにかかわらず、人にかけた言葉というものは、自分に戻ってくるみたいですね。“こんなことぐらい出来んのか!”と人を罵倒するということは、“そういうお前も出来んことが数多くあるんじゃ、馬鹿もん!”であって、自分を自分で罵倒していることになりましょうね。

2014.5.29 魂が飢える
 近畿日本ツーリストの系列と思われるクラブツーリズム㈱発行の「旅の友」。女房がそこの会員バスを利用したことがあるから毎月送られてくる。
 その6月号の特集記事「上様のヘルスケア」と題して、徳川家康の養生法が4ページにわたって紹介されていた。どれもだいたい承知していたことであったが、初耳な事柄が一つあった。それをここに抜き書きする。

 天下人の食習慣
 「人間は腹ふくれると魂が飢えるものだ。気をつけよ」。そう語っている家康の食生活は、…腹八分が基本。…(引用 ここで終わり)

 家康のこの言葉の出所はどこかとネット検索で探っていったら、どうやら次のようである。これは1983年のNHK大河ドラマ「徳川家康」で、家康の臨終のときに言った言葉。原作者:山岡荘八の小説には「人間は腹がふくれると、次には魂が餓えるものじゃ。その魂を養う糧は学問…怠らずにな、急がせよ…」と書かれている。

 さて、ここで言う「魂が飢える」とは、どういう意味か。
 家康の食生活からしてみると、「魂」は「心、精神、気持ち」という意味で、「飢える」は「強く求める」ということになろうか。
 食欲煩悩が満たされすぎると、金欲、権利欲、名誉欲など為政者としてあるまじき煩悩が暴走を始める。粗食で腹八分に止め、日々学問を積み、正しい心を養うことだ。
 このように小生は解したのですが、いかがなものでしょうか。

 この言葉は史実にはないようで、山岡荘八氏の手による創作と思われるのですが、けだし名言である。
 家康の臨終の頃は天下泰平となった世の中。でも、少なくともこの頃までは、上様から下々の者まで、「朝食抜きの1日2食、麦飯」であったのは間違いのないことで、家康は「1汁3菜の腹八分」でしたが、お偉いさんたちはおかずとして「ご馳走を満腹に」食べていたのかもしれません。そして、その後のお家騒動。
 現代の飽食時代。日本人皆、「魂が飢えに飢えている」と思わせられますね。1日1食生活の小生とて晩飯は「腹が膨れすぎるほどに膨れる」状態にありますから、何ともならんですわ。
 しかし、「人間は腹ふくれると魂が飢えるものだ。気をつけよ。」という、この言葉を肝に銘じておきたいものです。
 今日はいい言葉に出くわしました。

2015.2.10 どんな犬とも直ぐに仲良しになれる方法
 こんなうまい話はないと思われるのですが、小生の経験からしても当たっていそうです。なお、これは空き巣狙いのこそどろがけっこう知っているようでして、いくら吠える番犬であっても、コロッとおとなしくなってしまうようですから、お気を付けあれ。
<新谷弘美著「病気にならない生き方」より抜粋>
 私は子供のころから、どんな犬とでもすぐに仲よくなるという特技をもっています。それほどむずかしいことではありません。自分の唾(つば)を手のひらに出して、犬になめさせてやればいいのです。これでどんな犬とでもあっという間に友だちになれます。
 私は小さいころから犬を飼っていたこともあり、犬が人の口をなめたがることを知っていました。なぜ口をなめるのだろうと考えていたとき、「唾がすきなんだ」ということに気づいたのです。そこで先の方法を試してみたら、どんな犬も大喜びで尻尾を振るようになったというわけです。でも、私がこの方法で近所の犬と片っ端から友だちになっていたのは、まだ小学生のころです。当時はなぜ「唾」を喜ぶのかわかりませんでした。
 その謎が解けたのは、私が医者になり「エンザイム」(=酵素)に注目するようになってからのことです。
 「そうか!犬は唾に含まれるエンザイムを欲しがっていたんだ」
 そして、この視点でさまざまなものを見直すと、動物たちがみなエンザイムを求めていることが見えてきたのです。
 ライオンなどの肉食動物は、獲物を捕まえたとき、必ず「内臓」から食べはじめますが、それは内臓がエンザイムの宝庫だからです。エスキモーのように植物のほとんど育たない極寒の地で暮らす人々も、アザラシを捕らえると真っ先に内臓を食べます。ウサギは自分の一度目のやわらかい糞を食べますが、これも未消化のエサとともにエンザイムを再吸収していたのです。
 最近、ペットの病気が急増していますが、その原因も想像できます。ペットフードです。ペットフードにはペットが生きるうえで必要な栄養がバランスよく含まれているといいますが、それはあくまでもエンザイムを無視した現在の栄養学にもとづいてのことです。
…エンザイムが含まれていなければ、生物は命を養うことはできません。しかし、その大切なエンザイムは熱に弱く…ペットフードを作る過程でなくなってしまっているということです。こうしたペットフードの問題は、人間の食事にもそのまま当てはまります。…
(引用ここまで)
 いかがでしたでしょうか。面白い話、ためになる話ですよね。
 ところで、小生が犬を手なずける方法は、テレビでときどき登場する動物王国のムツゴロウさんが「犬とキスをして互いの舌で舐め合う」という方法です。どこの犬とでもとは参りませんが、親戚の家に行ったときに“お座敷犬様”がいればそうすることにしています。
 これで、あの“畜生”はコロッといきます。あまり犬が好きでない小生です。子供の頃に同級生のT君の家で飼い犬に噛みつかれたイヤ~な記憶がありますゆえ。あん畜生!


笑いには4つの効能あり。クスっと笑うだけでもOK

2020年06月24日 | 心に安らぎを

 「日本講演新聞」という月4回発行の新聞があります。今年から、このような名称になったのですが、去年までは「みやざき中央新聞」という名称でした。
 小生が長年購読している新聞です。このブログでも時々紹介しているのですが、今年はまだ記事にしていません。先日、別立てブログを見てのことかもしれませんが、小生のブログを見て新規愛読者があった旨、この新聞社から礼状が届きました。
 そこで、「みやざき中央新聞」じゃなくて「日本講演新聞」(6月1日号)から、良い記事を一つ皆様にもご紹介しましょう。
 実は、この記事、当店のお客様にDMを送るに際し、当店推奨の健康食品チラシの裏面に印刷したものです。“心が爽やかに明るくなる”という謳い文句を冠した健康食品にぴったりの「日本講演新聞」のこの記事ですゆえに。
 なお、当店では、これとは別に「日本講演新聞」のなかで良かった記事をA4の紙に両面コピーし、毎月のDMに入れています。新聞名に“心温まる、勇気を得て、感動した!”と冠して、切り貼り。当新聞社では“心揺るがす”を冠していますが、いずれにしても読者を元気にしてくれる記事満載です。
 ここに紹介する記事は、コロナ騒動で気分を暗くして鬱になりそうな方々にぴったり。読めば気分がパッと明るくなることでしょう。
(クリックしてご覧ください。)

 なお、原文には小話が一つ載っていましたが、A4の紙に収まらず、カットして切り貼りしました。
 この新聞に興味を持たれた方は、→「日本講演新聞」をご覧ください。


あなたと会うと元気になる、という人になりたい

2020年06月18日 | 心に安らぎを

あなたと会うと元気になる、という人になりたい

 薬屋稼業をしていると、心の悩み事をカウンセリングすることがとても多いです。“病は気から”と申しますが、体調が悪いからとの相談も、その症状に合った薬なり滋養の漢方薬や健康食品をおすすめしてもなかなか効かないこともあります。そうした場合の根本の原因は心の悩みにありそうです。そこで、じっくりお話を聞き、心の悩みが原因と分かったら、全く別の漢方薬や健康食品をおすすめしています。すると、思いのほか良く効くことがしばしば。
 そして、それより重要なのは、そうしたお客様に「あなたと会うと元気になる」と言っていただけるようなアドバイスができるか否か、です。

 18年前に出版された、齋藤茂太(歌人齋藤茂吉の長男:故人:精神科医・文筆家)著『「あなたと会うと元気になる」といわれる人の共通点』、これを今一度読み直してみて、小生ももうちょっと親身になってお客様に対応せねばいかんなあ、と思ったところです。
 この本には95話載せられています。その中から小生の独断と偏見で、読者の皆様に見てもらいたい話を10話選び、部分抜粋しました。これをじっくりお読みになれば「あなたも元気になる」こと請け合いです。

7 欠点をあげつらえば、長所を見失う
 人の欠点をあげつらうのは簡単である。しかし、長所をきちんとほめるのは、意外にむずかしいものだ。このむずかしいことが、人を元気にさせるのである。
 七十代のある婦人は今でも料理、裁縫をし、短歌に精進している。
「娘におだてられ、豚も木に登っているんですよ」と楽しそうだ。
 彼女は娘さん家族と暮らしているが、みんなほめ上手なのだそうだ。
「おばあちゃんの料理がおいしい」「おばあちゃんの歌が載っていたんだよ」「これおばあちゃんが縫ってくれたの」と、娘や孫が世間の人に自慢するので、張り切らざるをえない。
「仕事を続けたい娘に、いいように使われているんですよ」という口ぶりはグチではなく、「まだまだ私がいなくてはダメね」という気概にあふれている。
 こういう人を見ると、「年寄りはほめて育てよう」といいたくなる。
 …欠点があるのは、あなたも私も同じ。しかし、自分には甘く、人には厳しい」という人は多いのではないだろうか。
 他人の欠点ばかり見ていると、「あの人はずるい人」とか「だらしなくて」と嫌うことになるのだから、もう無理矢理にでも視点をずらして長所を見つけてみよう。
 何かある。なければ、それは、あなたの「目のつけどころ」が間違っている。
「ずるいところもあるけど、それは、気の弱さからきているんだな。小心な人なんだな。はにかんだ笑顔はかわいいじゃないか」
 そう思い始めると、その人との関係もかわってくるものだ。

10 心がケチな人よ、愛情の「出し惜しみ」はするな
 お金の扱い方で「ケチな人」がいる。同じように、自分の心の扱い方で「ケチな人」もいる。よく目につくのが、「親切な心」を出し惜しみしている人だ。
 電車の中で、お年寄りに席を譲ろう……と思いながらも、恥ずかしい。それで結局、「私がしなくたって誰かするだろう」と思って動かない。なんというケチな人だろう。
 (中略)ある人の話だ。通勤する道にゴミが落ちている。拾えば気持ちもすっきりするのだが、「誰かがきれにするだろう。」とほうっておいた。しかし、半年経っても、そのゴミは朽ち果てながらそこにある。
 それがどうしても気になって、ある日曜日に、意を決してゴミ袋をもって行って、捨てた。それだけのことをするのに半年もかかった。しかし次の月曜日からは、すっきりした気持ちで通勤できたとのこと。
(中略)みんな、気持ちはある。しかし、ケチなのか、なかなか実行できない。
(中略)心がケチな人ほど、心の中にすっきりしないものを抱えているものだ。

15 「いいなあ」と思ったところに、居場所がある
 落語家をやっている医者という人がいるらしく、「病気は笑いで治す」のだそうだ。趣味の落語というより、師匠に弟子入りして、名前ももらった本格派らしい。こんな医者なら、患者さんも元気が出るだろう。
 何かやりたい、趣味を持ちたいとは、誰もが考えている。
 ただ、時間がない、経済的に苦しいなどの理由ならまだしも、「今さらやっても遅いのでは」と考える人がいるから困る。いくつになっても遅いということはない。また、趣味なのだから飽きてもいい、と考えてはどうか。
 昔からやりたかったことを、とりあえず始めてみるのも手だ。
 五十歳にしてピアノをやり始めた知人(男性医師)がいる。
 子どもの頃、母親にいわれてピアノを習ったが、嫌で嫌でたまらなかった。音楽は好きだったが、母親にがみがみいわれるのがつらく、反抗してやめた。
 そのまま実家に置かれた、誰も弾かないピアノを見るたびに、「弾けたら楽しいだろうなぁ」と思い続けて40年もたっていたのだ。
「でも、こんな気持ちのままで一生を終わりたくないと思ったのです」
 せめて一曲ぐらいは弾けるようにと、大決心をし、病院から近い教室に入ってみたら、「この年になって、覚えは悪いけど、新しいことを覚えるのは楽しい。今まで以上に音楽を聞くのが楽しくなった」のだそうだ。
 教室に来ているのは3歳の子どもから、60代の女性まで幅ひろい。初めての発表会では幼稚園の子の次に弾いたり、よその子に受験の相談をされたりと、ピアノ教室は、「医者ではない自分」の居場所のような感じがするらしい。
「初めは恥ずかしいと思ったけどね、なに、誰も私に上手になれなんて期待もしていないから、幼いときに習ったより楽な気分でいける」
 楽な気持ちでやれるから趣味なのである。深刻に考えないことだ。そのうち彼も、「病気はピアノで治す」といい出すかもしれない。

21 迷い込むな、逃げ場をつくれ
 仕事以外に夢中になれるものがあれば、おおらかな気持ちでいられるものだ。
 スキー好きの知人がいる。もうだいぶ年はとったが、冬は休みになると、ひとりスキー場へ向かう。
 「とにかく滑っている間は無心になれるのがいい」
 のだそうで、…くよくよと悩んでいたこともすっかり消えてなくなってしまうという。
 雪のない季節は、…嫌なことがあると、「目をつぶってスキーで滑っている体の感覚を思い出すんだ。そうやって心を落ち着かせる…」のだそうだ。
 また、知人がひらいている句会には、サラリーマンが集まっている。そこでは、人事の悲哀、家族への思いやグチを俳句にして競っては、笑い合っているということだ。みんな、俳句のねた探しをしているから、家庭でも会社でも観察は怠りなく、何かあると、「俳句にしてやれ」と思うのだそうだ。
   頭下げ ありの数かぞえる はげ頭
 ある倉庫勤務の人が、失敗を謝っている自分の姿を詠んだものとか。…
 別の世界を持つことは、自分に逃げ場をつくることにもなる。逃げ場がなければ、落ち込んで、傷ついてもなかなか癒されず、立ち直りにくいだろう。
 逃げ場があるから、笑顔でいつもの生活に戻り、楽しんで生きようという元気にもつながるのだ。そう考えれば、趣味は健康のもとだ。
 趣味があるから、嫌なことがあっても、自分の心をむしゃくしゃさせないですむ。すぐに気分転換ができる。人生の袋小路に迷い込むこともない。これが、ありがたい。

26 笑顔でいたほうが、うまくいく理由
 「人を元気にさせる技術」といえば、まず笑顔だ。
 赤ちゃんを思い出してほしい。愛らしい笑顔で大人たちもホッとし、元気にさせてもらっているではないか。もしこの世に、赤ちゃんがひとりもいなくなったら、大人たちは生きていく気力もなくなっていくのではないだろうか。
 看護婦さんの笑顔もいい。夜中にナースコールを呼んでも、嫌な顔ひとつせず、「どうしましたか」と来てくれる。
 評判の悪い病院というのは、看護婦さんの評判が悪い所が多い。
 評判が悪い看護婦さんも、仕事は懸命にやっているのだろう。夜勤もあり責任も重い彼女たちに「にこにこしなさい」というのは酷かもしれない。「忙しいのに、いちいち愛想よくしていられないわ」という気持ちにもなるだろう。
 しかし、仕事は熱心なのに人に好かれないというのは、大いなる損である。愛想のいい人に変われなくても、まずにこやかに挨拶をするように心がけてみてはどうか。それだけでも、だいぶ評判は上がるはずだ。
 誰にもさわやかな挨拶をする新米の看護婦さんがいた。気のきいたことをいえるタイプではないが、病院に来ると患者さん一人ひとりに元気よく笑顔を振りまくので、あっという間に人気者となり、彼女が休むと、
「あの看護婦さんはいないのかね、病気なの?」
 と、逆に心配されるようになる。こうなれば、点滴の針がうまく刺さらなくても、患者さんは大目に見てくれる。普段からぶっきらぼうで笑顔のない看護婦さんだと、
「何やってんだ、看護婦代えろ」
 と怒りだす患者さんもいる。
 どっちが得でどっちが損かは、いうまでもあるまい。普段の笑顔というのは実に大事なのだ。

27 福の神をだまして、いい面をつくろう
 …ある老舗のお菓子屋…今では押しも押されもせぬ女将さんだが、実家はサラリーマンの家だった。商家へ嫁いでみると…アテがはずれて、ほとほと参って実家に帰りたい、でも帰れないと迷っていたとき、隠居していた夫のおばあさまに、こういわれたそうだ。
「そんな暗い顔していたら、寄って来る福も逃げていってしまいますよ。…1年間笑顔で頑張ってみたらどうか。疲れた顔は隠して、本心なんて人には絶対見せないぞと、やってみなさい。福の神様にも嘘をつくつもりで」
 福の神様をだまして面つくれ、という言葉がおもしろくて、次の日から笑顔と挨拶だけは心がけたという。
 案の定、お嫁さんの評判はあがり、客も、「いい人がきたわね」と話していくと、お姑さんたちも機嫌がよくなり、店の人たちの態度も変わってきた。
「福の神様をだますつもりで商売用の笑顔をつくってやってきたつもりだけど、今ではこれが地になって、落ち込んでいても、人様の前で素直に落ち込めないのが難点ですわ」
と笑う。まるで女将さんが、福の神になってしまったようだ。…

34 微笑みは、元気の特効薬
 笑顔のいい人は、人の心に新風を吹きこみ、人を元気にしてくれる。あの人の笑顔を見るだけで、「気持ち」が元気になる……という人が、あなたの身近にいることを祈る。
(中略)
 もうひとつ。自然の微笑みもまた、私たちを元気にしてくれる。
 俳句の歳時記に「山笑う」という春の季語がある。
 春の山を形容する言葉で、北宋の山水画家の文「春山澹冶(たんや)にして笑うがごとく」から取ったものらしい。
 たんやというのは、「あわくなまめかしい」ということらしいが、私には春の山は静かに微笑むというより、「それ、春だぞ」という楽しげな子どもたちの笑い声が聞こえてくるようで、この「山笑う」という言葉が好きである。
 もし、あなたが少し笑顔を忘れていて、不幸にも「笑顔が似合う人」も周りにはいないというときには、ひとりで自然の中に出かけてみよう。
 自然の微笑みも、またあなたを元気にしてくれるはずだ。

35 イヤミをいわれたぐらいで、いちいち落ち込みなさんな
 イヤミを言われたら「イヤミ返し」するぐらいの気力を持ってほしい。
 ある家の嫁は結婚したばかりのころ、たまに会う姑のイヤミにしゅんとなったり、いらいらしたり…で、腹が立ってしかたがない。(中略)
 なぜ、姑はイヤミばかりを言うのか。折にふれて考え、はっと気がついたことは、「心のさびしさ」だった。(中略)
 それから数年後、子どももでき、肝っ玉が少し座ってきた嫁は、イヤミに落ち込まなくなった。何かいわれても、「私、下手だから、お義母さんやって」と笑い飛ばす。それにつれて、イヤミは減ってきたそうだ。
 イヤミというのは、相手が落ち込んだり、怒ったりするから「やりがい」があるという面もあるのだろう。いちいち反応していたら、相手は増長するばかりだ。イヤミをいわれても、
「何が気に入らないのか。遠まわしにいわれても、バカだからわかりません」
 と、切り返す言葉を吐けるくらいに強くなろう。そうなって初めて、姑と嫁は対等になり、信頼できる家族になっていくのではないだろうか。

67 食べよ!されば開かれん
 ある家庭に招かれて食事をしたときのこと。奥様は料理好きということで、たくさんの手料理が並んだ。なかなかおいしそうだと思って食べ始めると、
「これには胡麻が入っていて、どこそこから取り寄せて……」
 奥様が話し出した。(中略)と、食材の由来から、それが健康にどんなによいのかをひととおり話した。
 知人である夫は、そんな話題は何回となく聞かされているのであろう。(中略) 奥様は、私に「集中攻撃」だ。
 実は私もおいしければ何でもいい派である。おいしく食べるのが健康のもとだ。
 さて、そのときの料理はおいしかったかというと、奥様の話を聞きながらであまり印象に残っていない。
 食事をすすめるときには、講釈はいらない。
「おいしいから、食べてみて。うちの定番料理です」
 とすすめてくれれば、こちらから、
「おいしいですね。何を使っているのですか」
 と聞きたくもなってくるものだ。
 若い知人が、恋人の家に食事に呼ばれた。初めて恋人の父親に会うので緊張していたが、知人はラクビー選手というだけあって大食漢である。「おいしい、おいしい」と恋人が恥ずかしくなるくらい元気よく食べまくったそうだ。
 父親は一回で、彼を気に入ってしまった。「実にうれしそうに飯を食う奴だ」というわけだ。きっと見ているほうがうれしくなる食べっぷりだったのだろう。
「食べよ、されば開かれん」だ。喜んで食べるだけで、人は人を元気にする。

75 おしゃべりの楽しさは女性たちに学ぼう
 あるホテルのロビーでのこと。後ろに陣どった奥様たちの声が聞こえてくる。
「本当にうちの兄嫁はずうずうしくて、ああだこうだ……」
「ずうずうしいといえば、本当にうちの姑はああだこうだ……」
「でも、このごろの私って若いって、みんなにいわれるのよ、これも海草の健康法のおかげよ、ああだこうだ……(と健康法をひとくさり)」
 健康法で話は盛り上がっているのに、いきなり次は、
「ところで、甥の結婚式でね」
 と話が弾み、弾んでどこへ転がるのやら……と思うのだが、四人の奥様方がただただ好きなことをしゃべり、相手が話しきらないうちに、もう自分の話を始め、話し終わらないうちに、もう次の人の話が始まっている。声はますます大きくなり、その勢いは止まるところを知らない。
 こんな一方的な会話がえんえんと続くのも困ったものだが、しばらくすると、
「今日は本当に楽しかったわ、ねえ」
「うん、胸がスカッとしたわ」
 と口々にいいながら、満面の笑みをたたえて出て行った。一方的なおしゃべりでも、ストレス解消になったようである。おそらく、気心の知れた者同士の集まりだから会話が一方通行でも盛り上がれるのであろう。
 しかし仕事場で、きちんとした話をしようとするとき、自己主張の強い人、自慢話ばかりする人……などとは、なかなか会話が成り立たない。
 ある仕事のことで上司に相談に行ったら、「若いとき、僕はこうだった。こんなことも分からないなんて、今の若いもんは、私のときはああだこうだ……」と1時間半も話したあと、「話は何だっけ? ああ、そうだったね。まあ……自分で考えるんだな」といわれ、ますますストレスがたまったという。
 おしゃべりの楽しさについては、女性たちに習ったほうがよさそうだ。

95 人と比べるな!「むかしの自分」と比べよう
 良寛さんも、酒を飲んで気が大きくなり、ぺらぺらしゃべりすぎ、翌日に
「なんだか自慢話めいたことを話してしまった。理屈をこねていたな」
 と恥ずかしくなって、反省する日がたびたびあったのだろう。
 それでも自分を律し、明日はもっとよい人間でいたいと祈ったことだろう。そういう日々を越えて、あの無邪気な良寛さんをつくったのだ。
「本当にあの人はいい人だ。素敵で、会えば元気になる」と思われる人も、生まれたときから純粋さを持っていたわけではなく、悩み、妬み、落ち込み……などを自分なりに克服して得た「明るさ」なのではなかろうか。
 生きるというのは、それだけで修行みたいなものだ。宗教家や哲学者ではなくても、「自分は何で生きているのだろう」と思うことは一度はあるだろう。生活の雑事の中で悩み、苦しみはつきることがない。
 そんな中で、会えば元気にさせてくれる人は、あなたにとってかけがえがない財産だ。そんな「人を元気にする人」の特徴を見ると、悩みながらも、
「自分に素直に生きよう」
 と心がけている人だ。だから、人と比べたり、妬んだり、グチをいったりしない。そこが、人を安心させてくれる。
 誰のせいにもしない、自分がつくる生活、自分がつくる人生、人と比べてああだこうだといったところで何の意味もないことを心得ている。
 ここで忘れてはならないことは、
「良寛さんも、若いときにはいろいろ失敗をし、恥をかいてきた」
 ということだ。私たちには「子どもと鞠をついて遊んでいるやさしい人」というイメージしかないが、それは「晩年の姿」である。
 良寛さんも、あなたと「同じ年」のときがあった。良寛さんの20代はどうだったのか、30代は……40代は……と、今の自分の年と照らし合わせて想像してみよう。それだけで、じゅうぶんに楽しい時間が過ごせよう。
 どうしても人と「比べてしまう」という人がいる。人と比べて「自分は……」と考え、自分の悩みを自分で大きくしている。そんな、「比べ癖」の治らない人は、思いきって、「むかしの自分」と比べてみてはいかがか。
 生まれてからこれまで、自分がどのように「進歩してきたか」「何ができるようになったか」をじっくりと検証してみよう。
●5年前にはできなかったことが、今は簡単にできる
●2年前、どうしてあんなことで悩んでいたのだろう
●去年は失敗したが、今年は楽々と成功した
 ……と、自分で獲得したものをひとつずつ並べてみよう。トロフィーを棚に飾るように、である。
 これまた、じゅうぶんに楽しい時間を過ごせるのではあるまいか。なかなか楽しい時間なのではあるまいか。
 そうやって、また元気にやっていこう。 

 いかがでしたでしょうか。これで「あなたも元気になる」心の状態に大きく近づいたことでしょう。そして、日頃これを心がければ、「あなたと会うと元気になる」という人に変身することができましょう。


今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった

2019年11月09日 | 心に安らぎを

今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった
(真宗大谷派発行の教化冊子「2020年版 真宗の生活」より)

 本題に入る前に、このことは親鸞の思想とのかかわりが深いので、前置きが長くなるが、親鸞(1173-1263年)が生きた時代はどんなであったか、そして親鸞はどう生きたかについて、大まかに歴史を紐解いてみよう。

 鎌倉時代の始まりは12世紀末(源頼朝が征夷大将軍に就いたのが1192年)で、これでもって平安時代は終わり、王朝国家体制が崩壊した。平安末期の気候は、長く150年ほど続いた温暖期が終わり、地球が急速に寒冷化して、大陸ではモンゴル帝国が南下・西進した時期である。日本列島も寒冷化し、大量に餓死者を出した1181年の「養和の飢饉」(『方丈記』では京都市中の死者4万2300人)が有名である。また、日本のほぼ全域を巻き込み5年近くにわたって続いた「治承・寿永の乱」が同時期に起きている。武家政権の誕生は、この寒冷化が拍車を掛けたことだろう。そして、この寒冷化は50年ほど続いた。

 「養和の飢饉」のとき、親鸞は京都に住んでいて8歳であり、もうそのときは寒冷気候であった。その親鸞は若くして比叡山延暦寺(天台宗)の僧侶となり、厳しい修行を20年間積むも、29歳のとき自力(自らの力で悟りを目指す)仏教の限界を感じ、山を下りて浄土宗の開祖・法然の下に弟子入りし、他力(念仏)仏教の道を歩むこととなった。
 法然(1133-1212年)は親鸞より40歳年上だが、同じ道を歩んでおり、比叡山を下りて1175年には浄土宗を開宗し、順次弟子を抱えて京都では浄土宗がだんだん力を増した。これに脅威を感じた延暦寺は後鳥羽上皇を使って弾圧に踏み出し、1207年に法然と親鸞らの弟子7名が流罪(他に4名が死罪)となり、親鸞は4年間も越後で過ごさせられた。
 親鸞が赦免されて直ぐに法然は死に、親鸞は3年の空白期間を置いて、41歳のときから20年間ずっと東国に出かけ放しで布教し、この間に念仏仏教を大きく広げた。
 親鸞が東国布教を始めてしばらくまでの間が寒冷期であり、布教の途中から温暖期に入り、それはその後80年間ぐらい続くのだが、それまでの約50年もの長かった寒冷期において冷害や旱魃で民百姓は随分と苦しめられ、餓死の危機が去った温暖期に入っても、まだまだ心は荒んでいたことであろう。
(蛇足ながら、今日、温暖化の危機が特に日本において騒がれているが、平安時代がかくも長く続いたのは長期の温暖期(過去2千年間で最大:鹿児島県の屋久杉の年輪の炭素同位体分析による)があったからであろうと思われ、近い将来、寒冷化したらゾッとさせられる。今、やっと平安時代後期の温暖期と同等のところへ入りかけただけであり、もう一段暖かくなってほしいものである。)

 平安末期から鎌倉初期にかけての、こうした時代背景があったからこそ、南無阿弥陀仏と念仏を唱える大衆仏教が広まったと考えていいと小生は思っている。
 親鸞の教えはその後に浄土真宗となったが、法然が開宗した浄土宗と本質に変わりはない。法然は「凡夫(ぼんぷ)=煩悩にとらわれた存在、普通の人間」の救済に重きをおいたのだが、親鸞はそれを一歩進めて「悪人正機(あくにんしょうき)」をも説いた。その「悪人正機」は随分と誤解されているのが実情だ。

 随分と前置きが長くなったが、「凡夫」「善人」「悪人」(これらは仏典に登場し、釈迦が説いたと考えていいであろう)そして親鸞独自が説いた「悪人正機」について、分かりやすく解説されたものが、真宗大谷派発行の教化冊子「2020年版 真宗の生活」に出ていたので、これらと密接な関係にある、表題にした『善魔』(これは仏典にはないが、面白い言葉であるので)と併せて紹介しよう。
 なお、これらの言葉は現代の日本人にもずばり当てはまり、なかでも『善魔』は現代日本社会をありありと指し示しているのではなかろうか。

(「伝記 親鸞聖人」:東本願寺出版より)
◆他力本願
 「他力本願」といえば、現代ではよく「他人の力をあてにする」という批判的な意味で使われていますが、親鸞聖人がおっしゃる「他力本願」の意味はまったく違います。
 「他力」に対するものとして「自力」という言葉があります。この「自力」とは、自分の思いや行動によって、何かを成しとげようとする力を指します。それは一見立派なことのようですが、そこには無意識に“自分こそが正しい”とするごう慢さがひそんでいるのです。
 親鸞聖人の言われる「他力」とは、この自力にとらわれて、他者を踏みつけ、自分も悩み苦しんでいる私だと気づかせる仏さまのはたらきのことをいいます。そのような私たちにどこまでも寄り添い、そのままで救いとろうとする仏さまの大きな願いを「他力本願」というのです。
◆悪人正機
 「悪人正機」は、親鸞聖人の教えのなかでもっとも有名で、またもっとも誤解を受けているものかもしれません。「悪人正機」とは、「善人であっても往生をとげることができるのだから、悪人が往生できないわけがない」という意味です。
 この「悪人」を、世の中でいう泥棒や犯罪者と受け取ってしまうと、罪を犯したら救われるということになります。果たして親鸞聖人が教えられた「悪人正機」とはそのようなものなのでしょうか。
 人間は悲しいかな自力でしか生きることができません。その事実を気づかせるのが仏さまのはたらき(他力)ですが、自身の事実に気づかないままに、自分でどうにかなると思っている人を「善人」といいます。一方、「悪人」は、仏さまのお心にふれ、善人とはいえない自分の身の事実に気づいた人のことをいいます。世にいう犯罪者のことではないのです。
 聖人は、この他力によって生きる悪人こそ、まさしく浄土へ生まれ往く機(対象)なのだといわれているのです。

 (荒山信:名古屋教区惠林寺住職の法話)
 親鸞聖人は縁によって生きる者を「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすか分からない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。
 私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家族から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番は「強くなれ」だそうです。つまり元気になってもらおうと、こちらが良かれと善意で言ったことが相手を逆に追いつめていく言葉になるのだそうです。私はその話を聞いた時、本当にドキッとしました。つまり身におぼえがあるからです。子どもが学校で何かあって落ち込んで帰ってきた時に「がんばれ、気にするな、強くなれ」と言ってきたからです。
 それは、私自身、人間は自分の意志でどのようにでも生きていけるという答えをもっていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追いつめる悪魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。
 ある先輩は、「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。確かに「がんばれ」という言葉は、力のある言葉であり、ある意味、万能な言葉です。病人を見舞いに行く時なども「がんばってください」と励ますことがあります。しかし、人間は条件次第で、いくらがんばろうとしても、がんばれない時もあります。
 少し変な言い方をするようですが、「がんばれないあなたを大切にしたい」という言葉を、案外子どもは待っているのかもしれません。つまりこちらが「善意」で相手に関わろうとする時があぶないのです。なぜならば、人間は悪意でしたことならば反省できるということもありますが、善意でしている時の、その自分自身は、なかなか反省できないからです。
 ある研修会がひらかれた時でした。最後に、講師の先生にお礼をお渡しし、「先生、本当にお礼が些少(さしょう)で申し訳ありません」と言ったその時です。先生に「いらんことを言わんでもいい、それが善人の言葉なんです。わたくしは精一杯のお礼をいただいたと思っております」と、これも忘れられない言葉です。へりくだったり、謙遜するという形で、実は自分をたてているのです。それで結局は、相手を信頼していないのです。わが身の姿を、その先生に見すかされたようで本当に恥ずかしくなりました。と同時に、私のことを、私以上に、私よりも深く知ってくださっている世界があるんだというおどろきがありました。その世界を「南無阿弥陀仏のいのち」というのでありましょう。
 自分一人では自分のことはわかりません。人とのかかわりあい、つながりの中で自分がみえてくるのです。凡夫の大地になろうと、南無阿弥陀仏のいのちは、歴史を越え、文化を越え、言葉を越え、私の中にはたらき、願いかけてくださっているのです。

(関連記事)真宗大谷派発行の教化冊子「真宗の生活」バックナンバー抜粋
 2018.11.08 太古の思想家=釈迦の教えは現代に通ずる
 2015.11.18 “坊主もたまにはいい話をする”と言っては失礼に当たりましょうか。ゴメンナサイ。


太古の思想家=釈迦の教えは現代に通ずる

2018年11月08日 | 心に安らぎを

太古の思想家=釈迦の教えは現代に通ずる

 うちは、真宗大谷派、俗に言う“お東”、東本願寺の門徒でして、毎年11月に小冊子「真宗の生活」が配布されます。3分法話が12掲載されているので、これをパラパラッとめくって面白いなと感じた法話を今時分に紹介しています。昨年はパッとしたものがなくて紹介しませんでしたが、今年はいい法話が幾つかあり、そのうちから2つを紹介しましょう。
 一つは「常に今を生きている私」、もう一つは「分別=比べる心」です。
 いずれも釈迦が説いた教え(信仰対象の仏教とは次元が違うもの、太古の思想家=人間である釈迦の主張)ですから、一神教やそれと同類の宗教(仏教もそう)を嫌う小生であっても素直に聞くことができます。
 最初に「常に今を生きている私」、主題は“一瞬一瞬に生きる”というもので、これを釈迦が言っていたとは知りませんでしたが、2018.9.10ついに古希を迎えた小生、人生の考え方がまたひとつ変わってきました」のなかで、これは「武士道の精神文化」であり、正岡子規が残り少ない命をそうした心構えで日々過ごしたことを紹介しました。
 前置きはこれくらいにして、以下に全文を引用します。

1 常に今を生きている私 田畑正久(大分県・佐藤第二病院院長)
 私たちは、今、生きていて、そして未来のどこかで死ぬと考えてしまいがちです。しかし、仏教では、私たちは、一刹那(せつな)ごとに、生死(しょうじ)を繰り返していると教えられます。一刹那、つまり一瞬一瞬、一日一日、朝、目が覚めてその日を初体験する私が誕生して、その初体験した私はその夜死んでいく。生は死と常に隣り合わせにあり、縁あって生かされているのが私のいのちの事実なのです。
 私の身体を構成している約60兆個の細胞は、身体を維持するために200分の1の細胞を毎日自ら壊し、そして同じ数の細胞を再合成することで均衡を保っています。たえずその繰り返しをしているということは、自転車操業という言葉があるように、自転車を休みなくこぎ続けるようにして私のいのちは維持されているのです。停まれば自転車は倒れてしまいます。細胞一つをとって考えてみても、私の思いや努力を超えて、多くのおかげで生かされてきたのです。
 そういう一瞬一瞬、一日一日の足し算が、結果として、一週間になり、一カ月になり、一年、十年となっていくのです。そういう気づきが生きることを輝かせていくのではないでしょうか。
 しかし、フランスの哲学者であるパスカルが「明日こそ幸せになるぞ、来年こそもうちょっとよくなるぞと言って、いつも明日のための準備が今日であると生きている人たちは、明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わる」(取意)と『パンセ』という書物に書いているように、私たちは、明日の準備ばかりで、何か空しく時を過ごしてしまっているのではないでしょうか。
 仏教は、この人生を空しく過ごしてしまうことを問題にし、一瞬一瞬、一日一日を大切に生きよと呼びかけるのです。それは、現実を受け止めて生きていくということからはじまるのです。私の身の現実を引き受け、念仏して精一杯生ききる時、おまかせするという生き方を賜るのです。生かされている間は精一杯、自分の役割を使命としてはたしていこうという意欲をいただくのでしょう。
『病に悩むあなたへ』(東本願寺出版)より
(引用こまで)

 いかがでしょうか。小生は先のブログ記事で、「今、ここを生きる」「一日一日を坦々と生きる」、その繰り返しでいく、これが人生、と書いたところです。
 ところで、引用文の最後のほうで「念仏して…おまかせするという生き方を賜るのです。」というのは浄土真宗(真宗大谷派はその一派)そして浄土宗という宗教の教えでして、思想家であるところの釈迦の言葉とは思えません。

2 分別=比べる心 小川一乗(北海道教区西照寺前住職・大谷大学名誉教授)
 現在では、競争社会のなかでナンバー・ワンを目指すことが大きな目標となっている。そこに何か空しさのようなものを感じ取っているのが、いまの人たち、とくに若い人たちではなかろうか。ナンバー・ワンとは、人と比べて生きることである。人を乗り超えて生きていくことである。ベターに生きよう、よりうまく生きようとするのが、とりわけ競争社会に身を置いている私たちの基本スタンスとなっている。
 競争社会とは、経済的な社会生活に限ったことではない。オリンピックに代表されるスポーツ界においても、身体の健全(体育)という目的が競争という目的にとって代わられて、経済的な利益さえも保証する、そんな社会になっている。
 それに対し、オンリー・ワンは、ベターに生きることではなく、ベストに生きることである。比べる必要のない、それぞれの<いのち>がベストに生きようとすることである。
 そうした生き方を拒む要因は、私たちのなかにある。他と比べて生きようとする心を、仏教では「分別(ふんべつ)」という。比べる心が私たちにさまざまな苦悩やストレスをもたらすのだが、そこにいるかぎり、他と競争し続けるベターな生き方しかできないのである。
 そこで、「分別」を超えていく「無分別」こそが、仏教の覚り(さとり)の基本となるのである。比べる心をもったとき、私たちは上に位置けた者に対しては卑屈になり、下に位置づけた者に対しては傲慢になっていく。しかも、ナンバー・ワンであることは長くは続かず、必ずや追い落とされる運命が待っている。そういう生き方に終始するとき、人間の不幸がどんどん増幅されていく。比べる心を乗り超えたところに、ベターな生き方ではなく、一人一人がベストに生きる生き方が姿を現してくる。
 『阿弥陀経』に、こう説かれている。浄土(釈尊の覚りの世界)にあって、私たちの<いのち>は比べられることなく、それぞれベストに光るのだ、と。
 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
(青色は青く光り、黄色は黄に光り、赤色は赤く光り、白色は白く光る)
『親鸞が出遭った釈尊ー浄土思想の正意―』(東本願寺出版)より
(引用ここまで)

 いかがでしょうか。ところで、釈迦が説いた「無分別」、つまり「比べない」ということについては、思想家(故)小林正観さんがその著書のなかで次のように書かれています。同じような内容になりますが、こちらもご一読なさってください。

「未来の知恵」シリーズ8 (小林正観著[弘園社])
 ただしい人からたのしい人へーもう一歩奥の人格論ー
 第5章 力を抜いて生きる
「き・く・あ」の思想
「き・く・あ」という言葉は聞きなれないものだと思います。私が作った造語ですから、一般的には知られていないでしょう。
「き・く・あ」とは、「競わない・比べない・争わない」の略です。
 前述しましたが、「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。それは、すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は地球上に(宇宙にも)存在しない、ということでした。「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した宇宙的な結論なのです。
 では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。なぜか。
 それは、「競うこと」「比べること」「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。 
 もともと学校教育というものがそうでした。「相対評価」というものでクラスの中の上位何%にいる人を「5」、下位何%にいる人を「1」とランク付けし、そのランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育を日本の教育界はとってきたわけです。
 その結果、私たちは「幸せとは、競うこと・比べること・争うことで初めて手に入るのだ。人より抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきました。
「優勝」という言葉は、実は、「優勝劣敗」という四文字熟語の上の二文字です。「優勝劣敗」とは、「優れたものは勝ち、劣ったものは負ける」という思想です。あまり楽しい言葉ではありません。しかし、私たちは「勝つことが正しいことであり、勝つことや抜きん出ることが優れていることの証である」と教え込まれてきました。
 その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してもよい時期に来ているのではないでしょうか。
 21世紀は、「競うこと」「比べること」「争うこと」を基本的な価値観とするのではなく、「競わないこと」「比べないこと」「争わないこと」を基本的な価値観とすることはできないものでしょうか。
 競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけではなく、未来にわたって継続できるような、楽しい)生き方をするということにほかなりません。
 自分の生活の中で「他人とは比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、生きることがどれほど楽になるかわかりません。
(引用終わり)


驚きのパワー「抱擁ホルモン」オキシトシンの力を借りましょう

2016年07月27日 | 心に安らぎを

驚きのパワー「抱擁ホルモン」オキシトシンの力を借りましょう

 先日記事にしました“「幸せホルモン」セロトニンと「睡眠ホルモン」メラトニンを十分に出す生活習慣を”に、次のとおり付記しました。(その前後を含めて抜粋します。)

 「幸せホルモン」セロトニンが脳内でたくさん作られるようにしたいものです。
…(その方法として)…
4つ目が、「笑い、泣き、微笑む」ことです。…親しい人や生き物との触れ合いを通じて「微笑む」ことです。一家団らん、気が許せる友人との懇談、可愛いペットや動物との触れ合いがセロトニンの分泌を活発にしてくれます。これにスキンシップが加わればより効果的です。(←投稿8日後に追記:この段落で書きました触れ合いやスキンシップで生ずるのが、別名「抱擁」ホルモンなどといわれるオキシトシンで、その癒しの効果は大きなものがあります。)

 さて、「癒し」「絆」「愛情」「抱擁」などなど、いろいろ形容されているホルモン、オキシトシンです。オキシトシンは、それ自体が安堵感を与えてくれますし、「幸せホルモン」セロトニンの分泌を促し、セロトニンが「睡眠ホルモン」メラトニンの分泌を増やしますから、本元のオキシトシンを是が非でも十分に分泌させたいものです。

 これは、いたって簡単に分泌させることができます。 
 動物の社会、特に霊長類では、頻繁にグルーミング(毛づくろい)を行う種が多いです。シラミなどの寄生虫を取る意味もありますが、何よりも「撫でる、掻く」というスキンシップが互いの緊張とストレスを大きく緩和し、両者がリラックスした気分になれ、協調関係を構築し、紛争後の和解を行う上でも重要な役割を果たし、彼らの社会的な絆と信頼を形成するのに大きく寄与しています。これも、オキシトシンが関与していると考えられます。

 ヒトも霊長類であり、やさしくスキンシップすることにより同様な効果が発生するのは必然です。母親が赤ちゃんを抱っこする、恋人同士が手をつなぐ、抱き合う、肩を揉んだり、筋肉をマッサージするなど、体に触れられ、あるいは触れることによって心地よく感ずる行為、これ皆、同様な効果が発生し、そのときオキシトシンが分泌されるのです。
 また、人同士ではなく、ペットなど動物を抱いたり、なでることでも同じ効果が生じます。
 さらには、直接肉体的な触れあい以外でも、家族団らん、井戸端会議、居酒屋での交流など、気を許せる相手と微笑みながらおしゃべりすることもオキシトシンを分泌させる効果があります。
 

 日本人は欧米人に比べて日頃あまりスキンシップをしません。これでは、オキシトシンの分泌も不十分となりましょう。努めて相手の体に触れ、相手の目を見て微笑み、やさしい言葉をかけ、幸せ感を醸し出しましょう。

 オキシトシンの力はこれにとどまりません。
 <
6月1日放送 ためしてガッテン 痛み&認知症に効く!驚きのパワー>
 ここで次のとおり紹介されていました。
 体の痛みが驚くほど軽くなったり、認知症の症状がピタリと止まったり、それを実現してくれるのは、あなたの体の中の癒しのホルモン オキシトシン。
 親しい人に体を触られたときなどに脳から出てきます。
 その癒しの効果は大変大きく、関節の痛みや日頃のストレスを大きく緩和することが分かっています。そのため、スウェーデンや日本では、痛みやストレスを抱える患者さんを対象に背中をさすってあげるタッチケアを行っている医療機関が多くあります。
 他にも、認知症の俳諧が減ったり、血圧が下がるなど、触れることで出てくるオキシトシンの可能性は計り知れません。

 すごい力ですね、オキシトシン。
 そして、オキシトシンが分泌されると、最初に申しました「幸せホルモン」セロトニンが脳内でたくさん作られて、心の安らぎが得られますし、引き続いて「睡眠ホルモン」メラトニンも十分に分泌され、不眠症も解消されようというものです。
 スキンシップの重要性を再認識させられました。


「幸せホルモン」セロトニンと「睡眠ホルモン」メラトニンを十分に出す生活習慣を

2016年06月28日 | 心に安らぎを

「幸せホルモン」セロトニンと「睡眠ホルモン」メラトニンを十分に出す生活習慣を

 近年ますます注目されるようになってきた2つのホルモン、「幸せホルモン」セロトニンと「睡眠ホルモン」メラトニンです。
 ともに重要でありながら不足がちなホルモンです。なお、セロトニンからメラトニンが作られ、どちらも加齢により分泌量が減っていくと言われています。

☆セロトニン
 脳内では、
三大神経伝達物質(広い意味でのホルモン)である「ノルアドレナリン」「ドーパミン」「セロトニン」がバランスをとって働いています。
 ノルアドレナリンは、神経を興奮させ、やる気や意欲を高める反面、不安、恐怖、緊張といった感情を引き起こします。別名「怒りのホルモン」と言われ、
「ストレスホルモン」の一種です。
 
ドーパミンは、快感を引き起こし、やる気を出させ、学習能力、運動機能、記憶力をアップさせる「報酬系」と言われる神経伝達物質です。
 セロトニンは、精神面に大きな影響与え、心の安定や心の安らぎなどに関与することから「幸せホルモン」と呼ばれます。セロトニンが十分に機能していると、精神が安定し、不安になりにくく、穏やかになり、幸福感が続きます。逆に不足したり機能しなくなると、鬱病や慢性疲労症候群のような症状を引き起こすようです。
 そして、
セロトニンは、他の2つの神経伝達物質のブレーキ役も担当しています。よって、セロトニンが不足すると、暴力的(キレる)になったり、暴走することもあるようです。
 なお、セロトニンは脳幹の縫線核という場所で合成されますが、メラトニンは別の場所である松果体(松果腺)でセロトニンを化学変化させて作られます。

 そのセロトニンは、脳内で作られるだけではなく、その数十倍もの量が腸で作られるのですが、血液脳関門を通過することができず、これを脳で利用することはできません。
 なお、
腸には全セロトニンの90%が存在し、腸の蠕動運動や消化を助ける役割を果たしており、腸で作られたセロトニンの一部が血液中の血小板(存在比率8%)に取り込まれ、血液凝固や血管収縮
作用に関与しています。
 残りのわずか2%が脳内で作られて中枢神経に存在し、これが精神面に大きな影響を与えていると考えられています。なお、脳内セロトニンの働きは多義にわたり、気分のほか、睡眠、痛みの認知、食欲抑制などにも関与しています。

 「幸せホルモン」セロトニンが脳内でたくさん作られるようにしたいものです。
 先ずは、原材料の補給ということになります。セロトニンは、トリプトファン(必須アミノ酸の一種)がビタミンB6の助けを借りて合成されますから、この2つが重要です。
 トリプトファンを多く含む食品は、必然的にタンパク質を多く含む食品となり、肉・魚・豆に多いのですが、白米にもけっこう含まれており、不足することはないでしょう。
 ビタミンB6も同様な傾向にあり、これも不足することはないと思われます。
 ただし、食べ物を十分に咀嚼(そしゃく)し、腸内環境が健全でないと、これはたいていの食品に言えることですが、不十分にしか吸収されません。

 2つ目が、「ゆっくり、よく噛んで食べる」ことです。
 
「リズムを刻む運動」がセロトニンの活性化を促進します。そうした運動を30分間行うのが理想のようですが、“運動なんてとてもできない”というのが一般的で、小生とて無理です。でも、よい方法があります。食事の際にゆっくりよく噛んで食べるだけで、ちゃんとしたリズム運動になるのです。1口30回噛むのを目標にすれば、少なくとも夕食は30分は噛み続けねばならないでしょう。これでセロトニンの分泌が随分と促進されます。
 また、よく噛むことで、先に言いましたセロトニンの原材料であるトリプトファン(必須アミノ酸)やビタミンB6の吸収率をアップさせることができ、一石二鳥です。
 加えて、唾液の分泌が増え、唾液に含まれる成長ホルモンの一種「パロチン」の分泌も増えて身心の若返りにもなりますから、高齢者の場合には加齢による
セロトニン・メラトニンの分泌減少をけっこう食い止めることができるのではないでしょうか。

 3つ目は、「朝日を浴びる」ことです。
 午前中に太陽の光を浴びると、それが刺激となってセロトニンの分泌が活性化します。特に朝日を浴びるのがポイントのようで、浴びる時間は30分が理想のようですが、5分程度でもかまわないようです。1日のスタートは朝日からです。
 できれば、そのときにラジオ体操(リズム運動です)をなさるとより良いです。
 冬季の日射量が少ない北欧では、「冬季うつ病」の発症が知られています。これは、日射量が少ないことによってセロトニンの量が不足するためと言われています。
 日本でも、梅雨時や冬季は日射量が減るため、セロトニンが不足しがちになりますから、その時節には意識してお日様に当たりたいものです。

 4つ目が、「笑い、泣き、微笑む」ことです。
 まずは「笑う」ことです。心の底からの笑いではなく、作り笑いでもセロトニンの分泌を促し活性化させてくれるようです。一番いいのは、当然、腹を抱えて転げまわるような面白いものを見て、苦しいほどに笑うことですがね。
 次に、感動のあまり「泣く」というものです。何度見ても「泣ける映画」があります。“セロトニンがもっと出て欲しい”といった状況にあるときは、そうした映画を見て、感動のあまり号泣するとよいです。セロトニンがドバッと出ること間違いなしです。
 そして、親しい
人や生き物との触れ合いを通じて「微笑む」ことです。一家団らん、気が許せる友人との懇談、可愛いペットや動物との触れ合いがセロトニンの分泌を活発にしてくれます。これにスキンシップが加わればより効果的です。(←投稿8日後に追記:この段落で書きました触れ合いやスキンシップで生ずるのが、別名「抱擁」ホルモンなどといわれるオキシトシンで、その癒しの効果は大きなものがあります。)
 こうした「笑い、泣き、微笑む」ことは、ストレスを解消してくれることにもなります。
 精神的ストレスのみならず肉体的ストレスであっても、これらが溜まりすぎると、セロトニン分泌の働きが弱まります。そうなると、悪循環が始まり、ますますセロトニンの分泌を鈍らせてしまいます。

☆メラトニン
 「睡眠ホルモン」メラトニンは、光の刺激と体内時計からの指令で、日中は分泌が抑えられ、日が落ちてしばらくしてから分泌が急上昇します。
 セロトニンから作られるメラトニンですから、セロトニンが十分に作られないと、メラトニン不足になってしまい、メラトニン不足は不眠症などの睡眠障害の原因となります。
 また、メラトニンの分泌は、体内時計がコントロールしているので、体内時計のリズムが狂っていると、メラトニンの分泌リズムにも狂いが生じます。

 よって、メラトニンの分泌を適正化するには、セロトニン生産にとっても必要な3つ目の「朝日を浴びる」ことが、体内時計のリセットのためにも重要になります。
 そして、日中に強い光を浴びていると、その間はメラトニンの分泌が大きく抑えられ、その反動でもって、暗くなってきたら分泌量をグーンと増やす態勢が整えられるのです。
 ただし、夜の蛍光灯の寒色系はメラトニンの分泌を妨げます。いまだに昼だと脳が感知してしまうからです。ですから、自然な睡眠に入っていくためには、就寝1、2時間前には弱い暖色系照明に切り替えるとよいです。

 メラトニンは「睡眠ホルモン」と呼ばれますから、睡眠導入剤のような効果を持っているのですが、これだけでスムーズに眠りにつけるものではありません。
 睡眠に入るには、それなりの準備が必要です。日中はしっかり覚醒し、交感神経優位で活動的でなければなりません。暗くなって、日中の活動による程よい疲労感がなによりです。そして、夕食、リラックスタイム、入浴など一連の副交感神経優位の状態が一定時間続いた後、脈拍・血圧・体温が低下していき、ここではじめて眠りの準備ができ、自然と眠気がでてきて、スーッと睡眠に入っていくことができるのです。

 ですから、リラックスタイムに心配事を抱えて悩んだり、イライラしていると、交感神経優位になって覚醒してしまいますから、スムーズな眠りにつくことは不可能です。また、日中に過剰な刺激を受け続けていると交感神経が異常に高ぶり続け、疲労感があっても副交感神経優位とならず、これまた眠りにつけません。
 逆に、日中だらだら過ごして覚醒していないと、夜になって交感神経、副交感神経のメリハリの利いた切り替えができませんし、疲労感もないですから、なかなか眠気をもよおしてきません。
 こうした場合、何とか早く眠りたいとあがけばあがくほど覚醒してしまいますから、横になって「地球の重力から体を開放し、単に体を休めるだけ。これで十分だ。」と決め込めば、そのうち遅かれ早かれ眠りにつけるでしょう。なお、眠りにつくまで考えごとをすることが多くなりますが、今日一日の「3つの小さな幸せ探し(=別立てブログの<小さな幸せに気づくレッスン>」をし、それを思い起こしていると幸せ感が出てきて、セロトニンの分泌も高まることでしょう。

 ところで、セロトニンが足りていても、高齢者となるとメラトニンの分泌が随分と落ちるようでして、これによって寝つきが悪くなったり、夜中に目を覚ました後はなかなか寝つけなかったりします。こうした不眠症は、特に女性に多い傾向があります。
 これは、先の述べました「日中だらだら過ごして覚醒していない」ことが最大の原因ですし、高齢者は一般に眠る時間が短くなってくるのが正常ですから、気にする必要はないです。なお、女性の場合、若い頃は子育てを通じて細切れ短時間熟睡ができる体質になっていますが、高齢となるとその体質を失い、昔のようなバタンキュー睡眠ができなくなり、より不眠症を意識しやすくなりますから、その点、ご承知おきください。

 最後に、仕事柄、「幸せホルモン」セロトニン、「睡眠ホルモン」メラトニンの恩恵を受けられない、昼夜逆転生活を余儀なくされている方はどうしたらよいでしょうか。
 不完全にしかできませんが、就業前に可能な限りお日様に当たり、セロトニンの分泌を少しでも促したいものです。なお、お日様は丈夫な骨作りに不可欠なビタミンDの活性化にも欠かせませんから、全くお日様に当たらないと、くる病(骨軟化症=筋肉痛、筋力低下、骨の痛みなどの症状が出ます)になってしまう恐れが大です。

 ここのところ、うっとおしい毎日が続いています。梅雨真っ盛りで気分も滅入ってきます。これは、朝、お日様に当たることができず、セロトニン不足になっていることも原因していましょう。それがために不眠症ぎみにもなります。
 季節の話題として、本稿を投稿した次第です。どれだけか参考になれば幸いです。