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食の進化論 第1章 はじめに結論ありき

2020年09月20日 | 食の進化論

食の進化論 第1章 はじめに結論ありき

第1節 定向進化説と生物発生反復説
 地球上の生物はある一定の方向へ進化し続けるという道を歩んできた。これを「定向進化」と言う。もっとも、これは同種と考えられている化石を古い順に並べて骨格の差を比較したり、現生動物を類別に分けて形態を比較するなかから、一定の方向へ進化してきているように見えるからそう言うだけであって、何ら物証はない。
 明確な証拠を示せと言われても、進化というものは、一般的に百万年単位という極めて長い年数をかけて起きるものであるからして、それは全く不可能である。
 そうであるけれども、長年にわたり詳しく動植物の観察を続けておられる学者たちのなかには、動植物は総じて一定の方向へ進化していると言わざるを得ないとおっしゃる方があり、「定向進化説」の支持者も少なからずいる。
 しかし、ダーウィンの進化論の流れを汲み、進化学会の実権を握っている「正統進化論者」たちは、異なった見解を持ち、定向進化の考え方を全面的に否定する。
 なぜならば、進化というものは目的性を全く持たない突然変異によって起きるものであり、進化の系統は迂回したり、途中で脇道へそれてしまうこともあるから、一直線に向かっているとは言えないというものである。
 したがって、定向進化は残念ながら「説」と呼ばれ、日陰者扱いされている。
 でも、定向進化を指し示していると思わざるを得ない動植物の系統樹は、正統進化論者の著書にも堂々と図解として掲げられており、なぜに定向進化が否定されねばならないのか、わけが分からない。
 次に、「個体発生は系統発生を繰り返す」という「生物発生反復説」というものがある。1個の受精卵から成体になるまでの過程(=個体発生)は、30億年以上前とも言われる大昔に誕生した単細胞生物が現在のその個体にまで進化してきた系統をたどるというものである。
 ヒトの胎児も格好がついてきたら魚のように見え、そして尻尾が消えて全身が体毛で覆われた猿になり、最後に人間らしくなって脱毛して生まれてくる。ヒトの胎児のこの個体発生は誰が見たって脊椎動物の系統樹を順々にたどってきているとしか思えないではないか。
 ここでも正統進化論者は、個体発生と系統発生は全く別物であり、個体発生を進化に絡めるのは間違っていると言うが、それは屁理屈であろう。
 人類がどういうふうにして誕生したのかということが化石などからでは十分に分からない現状において、個体発生の道筋が人類進化を類推するうえでとても参考になると考えて何ら差し支えないであろう。
 特に、人類と類人猿の大きな違いとして体毛の有無や汗腺の相違など、化石では全く分からないところは、個体発生から類推する以外に何ら方法がない。
 非科学的と言われようが、これしか人類の歴史を探る方法がないのであるから、定向進化説とともに生物発生反復説も認めようという学者も少なからずいる。
 この2つの説の考え方の元に、正統進化論者から単なる類推とのそしりを受けてはいるが、ヒトの形態変化についてかなり詳細に分かってきた。
 しかし、ヒトは何を食べてきたのか、そして、ヒトに適した食べ物は何であったのかという「食性」については、消化器官が化石として残ることはなく、謎に包まれた部分があまりにも多すぎ、納得のいくような解説をしてくれる学者が一人もいない。あったとしても、一部分を簡単に記述するにとどまっており、明らかな間違いをさも正しいと論ずるものまであるから混乱を招く。
 したがって、ヒトの食性についても、とりあえずは定向進化説と生物発生反復説からの類推に頼るしか方法はなく、何人かの学者が、霊長類について現生類人猿に進化するまでの食性の移り変わりを解説なさっているので、まずはそれを紹介することから始めよう。

第2節 霊長類の食性
 哺乳類に属する、サルの仲間である霊長類の食性には一定の方向性が認められる。霊長類は恐竜が絶滅する少し前の、今から約7千万年前に誕生した。彼らは熱帯雨林で樹上生活をする夜行性小動物として昆虫を常食していたと考えられる。
 現生するキネズミが最も原始的で、名のとおりネズミほどの大きさであり、メガネザルでも20センチ程度しかない。これらの原猿類が霊長類のスタートであり、現在もそのほとんどが夜行性で、熱帯雨林で樹上生活をしながら昆虫だけを食べて暮らしている。
 原猿類が植物を少しずつ食べ始めることによって雑食の真猿類が登場し、中型の霊長類へと進化した。発見されている最古の化石は1千数百万年前のもので、今日、熱帯の草原に生息するヒヒや温帯のニホンザルなどがその仲間であり、オナガザル類に属する。
 さらに昆虫を食べるのを止めて専ら木の葉っぱばかりを食べる植食性のヤセザル類も登場した。ラングールやテングザルが現生する。しかし、不思議と真猿類の古い化石はほとんど見つかっておらず、起源や進化の系統は今もってよく分かっていない。
 大型霊長類である類人猿の起源は古く、真猿類から進化したのではなく、原猿類から直接枝分かれしたようでもあるが詳細は不明である。約5千万年前の地層から真猿類と類人猿の中間的な歯の化石が発見され、約4千万年前の地層からも数多くの類人猿の祖先の化石が発見されている。約2千3百万年前から類人猿はヨーロッパ、アジア、アフリカでたくさんの種が繁栄していたようであるが、約1千万年前に急速に消滅し、現在の生息域に近い形に縮小した。生き残った種はわずか数種である。

 さて、類人猿の祖先たちは何を食べていたのであろうか。彼らの歯の化石と今日の類人猿の食習慣からして、随分前から果物の果肉と木の柔らかい葉っぱを常食する植食性の動物になってきたと考えられている。
 なお、ヒトと類人猿を含めたヒト上科、最近はヒト科と分類され、乳歯20本、永久歯32本で、共通性がある。ついでながら、ヒトの歯の大きな特徴として犬歯の退化が挙げられ、約1千万年前のギリシャのオウラピテクスやトルコのアンカラピテクスにそれが見られるが、ヒトの祖先とは別系統の絶滅種と言われている。
 以上が霊長類の大ざっぱな食性の変化の方向である。もっとも、真猿類の種によって食性は少しずつ違うし、植食性の類人猿にあっても、チンパンジーは果物の果肉が主体で木の葉っぱも常食し、ゴリラは草の葉っぱが主体で果物も食べるというように一様ではなく、また、生息地域の環境によって少しずつ異なっている。
 チンパンジーやゴリラはアリ(蟻)を食べ、完全な植食性ではないとも言える。ただし、彼らのアリ食いは飽食時に行われており、遊びの範疇という捉え方もあり、後から覚えた嗜好品であろうから、本来の食性に加えるべきではないという考え方もある。
 だがしかし、チンパンジーは度々肉食を行なうことが観察されており、雑食性という見方がある。この事実は否定できない。そうすると、食性の方向性が崩れてしまい、定向進化ではなくなってしまう。
 チンパンジーとの共通の祖先から枝分かれして誕生したと考えられる人類は、今やその多くが雑食性である。完全な動物食になってしまった民族まで誕生し、明らかに定向進化の道から外れてしまい、ダーウィンの進化論の流れを汲む正統進化論者からは、定向進化説の間違いの実例として、激しく非難されることにもなる。でも、これは後から覚えた「食文化」である可能性が高い。

第3節 ヒトの食性の通説
 次に、ヒトの食性の通説について紹介しよう。ヒトは最初から雑食性の動物としてスタートを切って今日に至る、というのが欧米の人類学者たちの共通する考え方であり、日本でも一般にこれが支持されている。
 ヒトは、その英知でもって、植物であっても類人猿が食べることを知らなかった芋類や穀類(穀類はごく最近)を新たなエネルギー源としつつ、必須栄養素の蛋白質を動物の「死肉」からあさることを覚えた。もっとも、死肉といっても最初は骨の芯にある骨髄を食べたというものではあるが。
 その後、道具の発明により狩猟を行ない、動物食中心となり、数十万年前からは火の利用を覚え、食糧にできる動植物を大幅に増やした。さらに、寒冷地で好都合な高エネルギー源である脂肪も海洋動物などから得るようになり、生息域を全世界に広げることになった。
 加えて、約1万年前には文明の芽生えとともに穀類栽培という農業を始め、ほぼ同時に動物を飼い慣らして栄養バランスに優れた乳を生産するまでになり、さらに乳を発酵させた乳製品を発明した。
 ざっと、こんな説明がなされている。
 なお、ここで小生は「動物食」という言葉を使った。参考とした文献にはいずれも「肉食」とあり、これでは現在の我々の通常の食生活と同様に動物の「筋肉」だけを食べることになってしまい、未開の狩猟民族の食習慣の実態とは大きく異なる。彼らは、筋肉だけではなく内臓、血液をはじめ、食べられる所は全て食べ、そして、忘れてはならないのは、腸内に残っている半消化の植物までもその一部を食べているのが実態であるから、誤解を招かないように、そう表現した。
 これを「一物(いちもつ)全体の法則」と言う。漢方から生まれた言葉である。一つの生き物の全部を食べないと栄養バランスが整わないというものである。
 また、前節のチンパンジーの肉食についても、血をすすり、脳味噌を食べ、皮もかんでいることが観察されていることから、正しくは動物食である。
 ヒトの食性についての通説は以上で全部であり、極めて簡単に説明が終わってしまう。
 これは、欧米の食生活をベースにして、肉食文化を正当化しているだけと言っても過言ではなかろう。なんせ欧米各国の栄養学で、第一番目に記述される栄養素は「蛋白質」なのであるから。

第4節 ヒトの食性の通説への疑問
 日本では、栄養学ができて以来、第一に掲げられてきたのは「炭水化物」(ただし、最近は欧米にならって蛋白質が第一に掲げられるようになった)であり、人間が活動するために必要なエネルギー源となるものを最重要視してきた。明治以降、つい最近まで皆が朝から晩まであくせく体を動かさねばならない社会であったし、何といっても米食文化であったからである。
 生粋の日本人がヒトの食性を論じたら、全く違った文章ができあがるであろう。小生も若かりし頃は、通説が肯定できたが、中年となった現在では蛋白質や脂肪の消化能力が落ちて、「とてもそんなくどいものは食えんぞ。ご飯と味噌汁にしてくれ。俺は毛唐(けとう=毛むじゃら外人)とはちゃう!」と、つい息巻いてしまう。
 自家製の有機野菜が何といってもおいしく感ずるこの頃であり、肉はそんなに食べたいとは思わなくなったし、魚介類が少しでも食卓にのれば大変なご馳走となる。
 そんなことから、日本の医学・栄養学界では、ヒトは完全な植食性に適しており、動物食はいまだ適合しておらず、したがって動物性蛋白質は摂るべきではないと主張する老年の学者も少なからずいる。
 また、米国政府は、近年、肥満者などに対して生活習慣予防のために肉食を大幅に制限し、限りなく植食性に近い食生活を推奨するようになってきており、牛乳もほどほどにせよ、とのことである。肉は少量(今の日本人が摂っている量の3分の1以下)に抑え、それも魚主体とし、悪くても鶏肉に変えよというのである。
 小生がこれを知ったとき、“ほんまかいな?”と思わず口に出てしまった。これでは精進料理に毛が生えた程度の和食になってしまうからである。こうした米国政府の健康指導もあってか、米国の東海岸の都市では日本食が根強いブームとして拡大してきており、また、一歩進んでベジタリアン(菜食主義者)が大変多くなり、牛乳の代わりに豆乳を常飲する者まで現れてきているとのことである。
 英国においても、菜食主義者であるヒンドゥー教徒のインド人がかなり移民してきており、彼らの影響を受けてか、狂牛病問題の発生を契機にベジタリアンが急増しているとのことである。もっとも、菜食主義者のヒンドゥー教徒であっても牛乳は飲んでよいことになっているが。
 健康に関するこれらのことを考えると、ヒトは完全な植食性で誕生し、それが相当な長期間にわたって続き、いまだに動物食には適応できていないと言えるのではなかろうか、という疑問が湧いてきた。

第5節 洋の東西での思考方法の違い
 小生が薬屋稼業に入って、はや13年の歳月が流れた。この間、「食」と健康との関連に興味を抱き、それなりに勉強してきた。(ブログ版追記 現在、薬屋稼業に入って26年になるも、まだまだ勉強が足りません。)
 人間の手が加わっていない「自然の生態系に暮らす動物は病気しない」と言われる。これは、彼らに固有の食性が保証されているからであろう。
 そこで、ヒトにも固有の食性があるはずであり、それを守れば病気しない健康体を維持していけるのではなかろうかと考えた。しかし、残念ながら、ヒトは誕生して以来、何を食べ、そして、今、健康を維持する上での最適の食はどういうものか、これを調べれば調べるほどに、さっぱり分からなくなってしまった。
 そのなかで、小生が感じたのは、欧米の学者の物の考え方に少しずつ疑問が湧いてきて、言っていることが何となく鼻に付きだし、嫌気がさすようにまでなった。
 後から分ったことであるが、それは生活環境と文化の違いからくる思考方法の相違に根差しており、欧米人の心の奥底にある一神教に基づく世界観と日本人が持つ多神教と仏教が混在した世界観がそれを大きく隔たったものにしてしまっているようである。
 もっとも、明治以降、欧米の文化が日本に入り込んできて文化融合し、段々と日本人が欧米的思考に慣らされてきており、戦後においては、より欧米的思考が受け入れやすくなってきているとのことである。
 確かにそうであろう。ただ、これにも個人差がある。
 いくつかの宗教を多少とも齧ったことがある小生は、一神教の世界観を全く持たないどころか、これを完璧に拒否する立場をとっており、欧米的思考にはとても着いていけず、したがって、おかしなことをまだ言っている古い日本人なのかもしれないし、きっとそうであろう。
 加えて、日本人の心の中にはいまだに根強く欧米崇拝が残っており、特に欧米発の近代的自然科学は絶対に正しい真理であると思ってしまう傾向が強い。そんなふうに思い込むのは日本人ぐらいであって、一神教の世界観を持つ欧米人は、それが真理であるなどとは決して思っていないとのことである。このあたりのことを我々日本人は頭にしっかり置いておかねばならないであろう。
 欧米人にしてみれば、真理は神のみぞ知る、であって、自然科学というものは、誰か暇人(学者の語源)が単に「私には物事がこう見える」と主張しているに過ぎないという感覚で受け止める傾向があるとのことである。
[参照 森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫 NHKブックス]
 まして、考古学というものは確たる証拠が不完全であり、これらに関する全ての論文は想像の産物であって、まさに暇人のお遊びであり、真理とはほど遠いものとして受け止められてもやむを得ない。
 米国の一部の州で、ダーウィンの進化論を学校で教えるなと主張されるようになったのは、何もゴリゴリのキリスト教徒が神の創造説に凝り固まっているだけではなく、一般人にも進化「論」と言えども単なる「説」としての受け止め方があることから、その主張が大いに支持される傾向があるのであろう。
 欧米の自然科学というものがそういう受け止め方をされるものであることから、ヒトの食性について気楽に語ることが許される半面、古代人の確たる証拠が全くといっていいほどないために、欧米の科学者には「私には物事がこう見える」ということすらできず、食性論も食性説も全く登場していないのではなかろうか。
 何か言えば、それは全くの空想の産物として、その学者は笑いものにされるのがオチであろう。
 事実、ヒトの化石と一緒に動物の化石が発見されることが多いが、初めはヒトが動物を食った証拠であると、ある学者が発表しても、後から調べた学者が、ヒトの頭蓋骨に動物の歯形が付いており、一緒に発見された動物(ヒョウ)の歯の化石とぴったり一致するから、ヒトが動物に食われたものであると発表し直されたりする。
 そもそも化石というものは、洪水などで多種類の動物が一緒に流されて溺死し、泥に埋まってできることが多く、食ったり食われたりの証拠にはなかなかならない。せいぜいヒトの歯の化石から臼歯が極端に磨り減っている場合には、砂混じりの食べ物を食べていたな、ということが類推されるだけである。
 時代が新しくなり、洞窟にヒトの化石とともに砕かれた大量の動物の骨の化石が発見されたときには、動物を食べていたな、骨が焦げていれば火を使っていたな、と想像されるだけである。その一例として北京原人の周口店遺跡が有名であるが、この遺跡については、焦げた骨は見つかっておらず、様々な骨は肉食動物が運んできたもので、灰らしきものは灰ではないと主張する学者もいるから、本当のことは何も分かっていない。ましてや、芋や葉っぱとなると一切証拠が残らない。化石として残り得るものは、動物の骨や歯、植物の花粉など、ほんの一部しかないからである。

第6節 数十万年より前のヒトの食性は不明
 したがって、ヒトの食性はどうであったかかは何も分からないのであるが、小生には、人類の遠い祖先である猿人や原人たちが「死肉あさり」などという、おぞましいことをやっていたとはとうてい考えられず、いや、考えたくもなく、これを否定したい。
 欧米の学者たちの根拠として、動物の化石のなかには骨が砕かれて骨髄が取り出されたであろうと思われる形跡があるものが発見されており、ハイエナやハゲワシが食べ終わった後、骨だけ拾ってきて、腐りにくい骨髄を石器で砕いて食べたのではないかと想像している。
 そこら中からそんな骨ばかりが発見されればいざしらず、こんなものは何かに驚いてゾウやサイが小走りし、散らばっている骨を踏みつければ簡単にできてしまうのではなかろうか。それらを拾ってきた可能性がある。
 明らかに石器を使ったと考えられる、傷がついた骨も見つかっているが、動物の骨は木の棒っ切れに勝る農具であり、拾ってきた骨から芋掘り農具を作ろうとした失敗作が山積みされて放置されたと考えてもよかろう。
 こうした土掘りに使って磨り減ったと考えられる骨の化石が見つかっているが、それは極めてまれである。使い古して用を足さなくなったら、当然にして原野に捨てられ、腐食・風化してしまって化石として残らないからであり、動物の骨を農具として使ったのはまれであったなどとは決して言えない。
 欧米の考古学者は、ヒトの遠い祖先の道具として、木や骨・牙・角を軽視し、石器に重点を置きすぎる傾向があまりにも強いと言っている日本の学者もおられる。加えて、欧米の考古学者の考える石器の使い道は、動物の解体に凝り固まっているが、小生が思うには、時代の新しいものは別にして旧式の石器は樹木の伐採や農具づくりに適したものと考えた方が素直な解釈であるという気がしてならない。
 図をご覧ください。あなたならどう考えますか。なお、この図は日本人の考古学者の手によるものです。

 
 
ヒトが動物を食べるようになったと考えられる確たる証拠は、人類の歴史からすれば比較的新しく、最古の狩猟の証拠として、やっと40万年前のものがドイツで発見されているにすぎない。松の枝で作った槍(やり)であり、それを使って殺したときに傷ついた骨も一緒に発見されている。魚を食べるようになった証拠はさらに新しく、年代の特定はできていないが、14万年前から7万5千年前までの間のいつ頃かに始まったことが分かっている。南アフリカのブロンボス洞窟で魚の骨が多く発見され、これが最も古い証拠である。貝を食べていた証拠も、他の場所で同様な年代から発見されている。
[参照 人類進化の700万年 三井誠 講談社現代新書]

第7節 ヒトの食性が不明でも追及したい
 証拠からすれば、ヒトの動物食は比較的新しい年代になってからということになる。日本人の学者のなかにも、死肉あさりに疑問を持つ方がみえ、小生がそうであるように宗教観に根差した日本人的思考によるものであろうが、だからといって、これを否定できる証拠もないし、また、植食性の証拠もなく、残念ながら学者の方々には何も物が言えない状況にある。
 学者のなかには真剣にこうしたことを研究しておられる方が一人や二人はおられると思うが、そんな絵空事を発表でもすれば学者生命を失うことになりかねないであろうから、内に秘めたままで終ってしまい、決して日の目を見ることはない。何年経っても、何十年、何百年経っても事態は一向に変わらないであろう。
 それを世に出す方法が一つだけあるのであるが、そうした方がはたしておやりになるかどうか。
 研究生活から引退し、もはや失うものがなくなったときに、論文としてではなく、「随筆」として、冥土へ旅立つときに、置き土産として、この世に残していただければいいのである。
 しかし、そうした随筆なるものを気長に待っている時間的余裕は小生にはない。もう58歳であるから。
(ブログ版追記 現在もう72歳になりました。)
 ヒトの食性というものが、いつどのようにどの程度変わってきたのかを知ることは、現在の我々の健康維持に最も的確なアドバイスを与えてくれるだけにとどまらない。差し迫った問題として食糧危機を乗り越える方策にもつながり、ひいては世界平和を達成できる道しるべにさえなる、極めて重要な課題でもある。
 なぜなら、自然界に生息する野生動物は、それぞれの種に固有の食性を守ることによって平和共存しており、人類もその一員であるからだ。
 あまりに大上段に振りかざした物言いをしてしまい、誠に恐縮ではあるけれども、現在の日本のこの飽食時代にあって、我々がつい忘れがちになってしまう「食」というものは、健康に生きるための全てであると言ってもいいくらい重要なものであることを皆さんの肝に銘じておいていただきたいからである。
 この世の学者に今すぐその答えを求めるのが不可能と分かったとき、それじゃあ、ズブの素人ではあるが、自分なりにこれを調べ、自分なりに考え、当たらずとも遠からずの、まだ誰も発表していない「ヒトの食性に関する進化論」なるものを「随筆」としてまとめてみようじゃないか、という意欲がフツフツと湧いてきた。
 欧米人的立場に立てば、暇に任せて好き勝手にしゃべっているのが学者であるのだから、素人がちょこちょこ調べで論文を書いても、学者と素人の差は、神との差よりもうんと小さく、誠に気楽である。学者じゃないから、たとえ読者に笑われても何てことはない。
 古臭い日本人の立場に立てば、学問とは真理の探求ということになり、専門の学者が確たる証拠を手間暇かけて集め、重箱の隅までつついて絶対に間違いがないものに仕上げねばならない。日本における学問というものはそういうものである。欧米化したといえども、学問に対する日本人の捉え方は昔と変わっていない。
 小生には、これはとうてい不可能なことであり、ちょこちょこ調べでは、ど素人の出しゃばり者め、と、論文の中身も見ずにゴミ箱へ捨てられてしまうのは必至である。この世の学者のみならず、一般の方の見方もそうであり、この本を手にしたあなたにもまじめに読んでもらえそうにない。
 ここはひとつ心を広く大きくお持ちになって、ぜひ欧米人的な考え方に立って、拙論は全くの素人談議で申し訳ありませんが、何とぞ最後までお付き合いをお願いしたいです。

第8節 インド哲学からの挑戦
 何も分からないことをどうやって調べるのだ。
 確かに従前どおりの欧米的な思考で調査研究したところで何も出てこないであろう。じゃあどうするか。
 日本人的思考方法は、これは本当かどうか分からないが、紀元前の仏教誕生前夜のインド哲学に類似したところがあるという話を聞いたことがあるので、これを少々かじってみたところ、なかなかどうして奥深いものがあり、論理的でもあり、納得がいくではないか。半面、動物でも植物でも生き物というものは理屈だけでは理解しがたい面があり、無意識とか深層心理とか、つまり隠された「こころ」で感ずるところに真理があると言っているようでもあり、非論理的でもある。ここのところは非常に難解ではあるが、知らず知らずのうちに全て理詰めで考える欧米的思考に毒されている小生にはほんの一部しか会得できていないし、間違った受け止め方をしているかもしれない。なお、般若経や華厳経を勉強するとよいということであり、友人からすすめられもしたが、これらはあまりにも難解で、小生の頭脳からしてはとうてい理解できそうにもなく、初めから逃げ腰であり、永久にその門を叩くことはないであろう。
 泥縄式のにわか勉強ではあったが、インド哲学の本質は、この世に存在する「いのち」というものを実に的確に捉えている気がしてならない。今後とも、こちらの勉強を暇をみては続けていきたいと思っている。
(ブログ版追記 その後、もう少しインド哲学や仏教哲学を齧ってみたが、難解な部分が多くて残念ながら遅々として前へ進まない。)
  欧米的思考はキリスト教の精神に基づいていることは間違いない。「神の下に人がおり、その下に物がある。動物も植物も土も水も、全部、物である。」という一方向の捉え方である。欧米人の場合、キリスト教は嫌いだという人であっても、それは教会や聖職者に嫌気をさしているだけであって、あらかたの人は「唯一絶対の神」の存在を信じており、その考え方に支配されていると言える。
 一方、古代インド哲学は、唯一神という超越したものを否定し、「人も動物も植物も土も水も、全部、生き物である。」という上下や方向性のない思想に根付いているように小生には思われる。
 この違いからか、欧米的思考は全ての面で殺伐とした物の考え方となって現れてきているような気がする。特に、動物生態学においては顕著であり、同一現象の事実認識が日本人学者が捉えるのと正反対となることも往々にしてあり、議論もすれ違いやすい。
 そのどちらが正しいのか、それを断言することはできないし、どちらも正しいとも言えよう。人間中心主義で全ての物事を動かしていこうとすることに徹すれば、欧米の考え方で正しいのであり、人間は単に生き物の一種すぎないという平等主義に立てば、当然に違った考え方が出てくるのであって、三つ子の魂百までであるからして、小生には後者の考え方しか取り得ない。
 古代インドの哲学者は、宇宙の真理の探究を、自然界で変わりゆく万物の観察と断食による瞑想を通して行なっているのであるが、深き森の中でじっと瞑想していると、植物が呼吸していることまでが分かるという。これは少々眉唾ものに感じられはするが、少なくとも当時の人は現代人より感性が鋭敏であったことだけは間違いないであろうし、自然観察力は現代人より格段に高く、「生き物」の本質をかなり高レベルのところで把握していたに相違ない。
 文明が高度化すればするほどに自然や事象との直接的な接触の機会が減ってしまい、かような能力は鈍感になってしまう。現在の我々に至っては、全く素性の分らない権威ある御仁の発する情報に全てを頼り切らざるを得ない状況にまで達しており、「自らが知覚する」ことを完全に放棄してしまっているとすら言える。
 その結果、感性はますます鈍感になるばかりか、ホントがウソになり、ウソがホントと教え込まれ、残念ながら真理探求の道はもはやほとんど閉ざされてしまったと思えてならない。
 小生が紀元前のインド哲学者たちの真似をすることはとうてい不可能であり、真理は遥か彼方の遠い遠いところにあるのではあろうが、インド哲学をベースにして思索にふければ、当たらずとも遠からずの何か結論めいたものが出てくるのではないかと、暇に任せてキーボードを叩きはじめることとした次第である。
 予備知識として、栄養学・医学とは異なる分野である食生態学、文化人類学、動物学、環境考古学、地質学、宗教学など、わずか20数冊程度の書物ではあるが新たに買い求め、暇をみては紐解くことにした。
 そのなかで、興味ある、小生にとっての新発見にいくつも巡り合うことができた。もっとも、その多くは既知のことがほとんどで、小生の知識が足りなかっただけのことであり、本来は何千冊、何万冊もの書物や論文を読まないことには「ヒトの食に関する進化論」などと大上段に振りかざした論文など発表できるものではないが、そこは先にも述べたようなことでお許し願いたい。
 この論文をまとめるに当たっては、とりあえずは目を通した書物から感じ取ったままに整理し、足らず前はインターネットで論文を検索して理解の一助としながら、また新たに本を買い求めて知識を増やし、行きつ戻りつ原稿を打ち直し、不可解な部分や間違っていると思われる部分は自分勝手に独断と偏見と憶測でもって置き直し、当然にして未知の所が多々出てきたが、それは、小生の知識不足だけのこともあろうが、自分の想像力で埋めることとした。
 かなりの長文となってしまい、お読みいただくのに随分と時間を取らせることになりますが、どれだけかは真理に近づくことができたのではないかと自負している。
 本論では、人を「ヒト」とカタカナで使うことが多いが、生物学的に動物として見る必要があるので、そうさせてもらった。なお、ヒトが高度な文化を持つに至った後のその文化的な行動においては、「人」と漢字で表記することとした。「オス・メス」、「男・女」も同様である。

第9節 類人猿の食性の概略
 随分と本題から外れた話ばかりを長々と続けて申し訳ない。食性の話に戻すこととする。
 まず類人猿の食性の概略を見てみよう。類人猿は小型類人猿のテナガザルと大型類人猿の2つに大別されるが、本論では小型類人猿にまでは言及せず、大型類人猿に絞ってみていくこととする。よって、単に類人猿と表記したものは全て大型類人猿を指すと考えてほしい。
 類人猿はオランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボの4種からなり、ボノボは姿形がチンパンジーに似ていて以前ビグミーチンパンジーと呼ばれ、チンパンジーの亜種の扱いを受けていたが、別の種に分かれているようであり、また、ピグミーは差別用語であることからボノボと呼ばれるようになった。元々は同一種であったが、熱帯雨林を流れる大河ザイール川(旧名コンゴ川)で生息域が分断され、長く生活環境を異にしていたために個別に進化し、異なる種になったとされている。類人猿は皆、非常に近い種ではあるが、均等に近いわけでもない。なお、ヒト以外は、その祖先が誕生して以来ずっと熱帯雨林とその周辺に生息している。
 彼らの食性はほぼ完全な植食性であり、基本的には果物の果肉(果物と言っても原種であるがゆえ商品価値のあるものはほとんどなく、人間が口にできるものはごくわずかしかない)と木の柔らかな葉っぱを常食している。ほぼ地上生活者となったゴリラは、木の葉っぱよりも草の葉っぱ、茎や根が中心となっている。
 チンパンジーは果物の果肉を好み、そのほかにマメ科の植物の実も少し食べている。なお、熱帯雨林の消失で灌木地帯に取り残されたタンザニアなどのチンパンジーは、乾季にはマメ科の植物の実が主食になっており、彼らに欠かせない重要な食糧になっている。
 年中湿潤な熱帯雨林を生息域とするボノボはチンパンジーと類似した食性ではあるが、沼地に生える草の茎や葉っぱもよく食べ、また、マメ科の植物の実も好んで食べている。
 類人猿が必要とする栄養素はヒトと全く同じである。カロリー源の炭水化物は、果物に多く含まれる果糖、ショ糖のほかは、葉っぱに少しばかり含有している澱粉質から賄っており、豆からもかなり摂取できている。
 主食が果物や葉っぱであるがために、蛋白質や脂肪の摂取は少ないが、それで十分事足りている。
 なお、小量であっても豆を食べれば、蛋白質も脂肪もけっこうな量が摂取できるのであるが、この食性は後から加わったのであろう。豆を優先して食べるわけではないので、果物や葉っぱが欠乏したときの代替食糧として取り入れたと思われるからである。
 1千万年を超えて蛋白質の摂取を必要最小限にしてきたであろう類人猿は、他の霊長類の皆が持っている「尿酸酸化酵素」を失くしてしまった。尿酸は、蛋白質が分解される過程で産生され、弱いが毒性を有するから尿酸酸化酵素で無害なアラントインに変性させる必要があるのである。蛋白質の摂取が少なく、尿酸の産生がごくわずかなものであれば健康被害はなく、その酵素を作り出す機能を失うのも必然である。必要がない機能は退化するしかない。したがって、ヒトを含めて類人猿は尿酸を尿中へ排出している。
 次に、ビタミンやミネラルであるが、これらは果物、葉っぱ、豆からバランス良くたっぷり摂取できており、何ら問題がない。なお、ビタミンCは、多くの動物が体内で合成できるが、ニホンザルなどの真猿類と類人猿そしてヒトは、その合成酵素を失ってしまった。これは、植食性の食べ物を恒常的に摂ることにより、ビタミンCは十分に口から入るので、その酵素を必要としなくなってしまったのが原因している。
 6番目の栄養素として食物繊維が挙げられるが、これは果物や葉っぱから多量に摂取でき、直接的な栄養とはならないものの、腸内環境を良好に保ってくれている。食物繊維は腸内細菌の餌となり、その細菌が繁殖することにより、宿主にとって有用な酵素やビタミンを製造してくれたり、免疫力を向上させてくれるなど重要な働きを持っている。加えて、腸内細菌による食物繊維の発酵が進むと、各種有機酸が生成され、これがエネルギー源となり、類人猿は大なり小なりこれに依存しており、特にゴリラにおいて顕著である。これを後腸発酵といい、草食動物ではウマがそうである。なお、ウシなどの場合は前胃発酵(胃がいくつかに分かれ、その中で細菌発酵させ、各種有機酸を得る)と呼ばれ、この形でエネルギー源を得ている霊長類もいる。
 これら6大栄養素はヒトと全く同じであり、体内で全く同じ働きをする。栄養素の消化吸収と体内での代謝の仕組みは、百万年やそこらでは何ら変わるものではないことが知られている。基本的な仕組みは1千万年もの間、不変であるとも言われており、ヒトと類人猿の食性は本質的には同じと考えねばならないと言えよう。
 類人猿のこうした食性は、ヒトに対しても極めて体に優しいものであるようだ。現代医学では治療法がないと言われるような難病も、類人猿と似たような食事で完治させているお医者さんが何人もいらっしゃる。
 多量の葉野菜、根菜と少量の玄米を全て熱を加えず、生で食わせるというものである。果物の果肉に代えて玄米にするところが類人猿の食と異なる点である。
 [参照 断食療法50年で見えてきたもの 甲田光雄 春秋社]
 果物の果肉は、果糖、ショ糖主体の炭水化物が主成分であり、消化が不要でそのまま吸収できてしまう利点があるが、果物全般に、特に熱帯産のものは体を冷やしすぎ、低体温にしてしまうという欠点があって、温帯に住む我々日本人にはあまり適さない。
 玄米は、炭水化物である澱粉が多く、消化酵素を多量に必要とするが、ヒトは類人猿以上にその酵素を唾液と腸の消化液にたっぷり持ち合わせているので、生であっても小量であれば完全な消化吸収が可能であるかもしれないし、不可能であっても腸内細菌が発酵してくれる。また、玄米には蛋白質、脂肪、ミネラルがバランス良く、とても多く含まれていることから、治療食の一つとして組み入れられているのであろう。
 こうしたことから考えるに、ヒトの食性はかくあるべし、という結論がもう出てしまった感がする。
 これではあまりに素っ気ないし、面白くもない。これが本当なのか、なぜにヒトは澱粉消化酵素が多量に出せるようになったのか、ヒトはもっとほかの食べ物にも適応能力を付けているのではなかろうか。湿潤な熱帯雨林に比べ、熱帯の乾燥地帯や温帯さらには寒冷地では植物相がまるっきり違うし、そこにもヒトは長く住んでいるのだから、何かあってもいいはずである。様々な角度から、これを探っていきたいと思う。

 つづき → 第2章 類人猿の食性と食文化

 

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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2 コメント

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随筆は髄の筆。 (barso)
2020-09-20 20:17:12
 これを薬屋稼業13年目、58歳のときに書いたのですか。まあ、よく調べてこんな難しい論文を書いたものだと感心します。よほど若い頃から勉強好きだったのでしょう。
 72歳になっても意欲満々。好奇心旺盛。認知症の気配なんか微塵もないようで、甚だけっこうなことです。
 しかし「食」の観点からヒトの進化(論)を見るのは面白いですね。
 素人考えで考えれば、当初は生きものは身近にあるもの、すなわち採取しやすい草や葉っぱや木の実を食べたのだろうと思いつきますが、そうであれば、それに適した歯や胃腸の構造と仕組みになっていったのだろうと思えます。
 人間は、昆虫や小さな動物は怖くないので、最初はビクビクと食べ、そのうち慣れてきてガツガツと食べ、やがて大きな動物の死肉も腐っていなければうまいうまいと食べ、そのうち武器を考案して猟をしたのかもしれないことを思うにつけ、いま肉屋やスーパーで売っている肉も、早い話が「死肉」であり、牛肉の場合は熟成したほうがうまいという話を思い出しますが、私は「あれは死肉だ」と思ってからはさほど肉を食べたくなくなりました。味覚も思考によって変わりますね。
 尿酸の話は初耳でした。ヒトと類人猿以外は尿として外に出してないのですね。
 玄米食については、私も一時、圧力釜で炊いて試してみたことがありますが、どうも味が難点で、やはり食事はおいしいほうがいいだろうということになり、白米に戻ってしまいました。
 甘いものも良くないと言われますが、相変らず小豆類のぼた餅やアンパンなどが好きで、これはわかっちゃいるけどやめられません。
「自然界に生息する野生動物は、それぞれの種に固有の食性を守ることによって平和共存してしており、人類もその一員である」という話は、なるほどと納得しました。
 思い出しましたが、骨髄は美味のようで、紀元前の旧約聖書にも出てきます。

  エホバはこの山で全ての人々のために、
  豪華な料理の宴を、上等のぶどう酒の宴を催す。
  骨髄をふんだんに使った豪華な料理の宴、
  濾された上等のぶどう酒の宴である。(イザヤ25:6)

 以上、私には疎い分野なので、たいした感想は書けませんが、この随筆は、そうです、まさしく“髄筆”で、大変美味でした。ご馳走様でした。
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RE:随筆は髄の筆。 (薬屋のおやじ)
2020-09-21 15:21:09
バーソ様、コメント有り難うございます。
勉強が好きかどうか、自分では分からないですが、滅茶苦茶勉強させられたのは社会人になってからです。大学は工学部卒で岐阜県庁に入ったのですが、事務系採用ですから、同期は皆文系(法学が大半で一部経済学部など)で、まずは仕事をしながら法学を独学。異動しても文系・理系両刀使いの仕事ばかりで、理系学術書も紐解かねばなりませんでした。出が工学部ですから、“お前なら分かるだろ”と、なっちゃいますから、勉強せざるを得なくなるのです。小生のような変わった経歴の事務屋は岐阜県庁では小生が初めての採用で、それから何年か毎年1名、小生と同様な御仁が採用されました。使うのに便利なんでしょうね、こうした輩は。
岐阜県庁を21年勤めて途中退職し、家業・薬屋を継ぎ、これまた勉強、勉強。そうした中で栄養学に興味を持ち、食学は面白いことに気付きました。やはり勉強好きなんでしょうね、面白いと思うということは。

食学を追求していくと、どうしても、人類は何を食ってきたのかという「食の進化論」へ行きついてしまいます。でも、だれもこれを書いていない。何も証拠が残っておらず、全く分からないから無理もないことですが、推論を立てることはできようし、それが不十分なら随筆としてしたためればいいじゃないか、といったところです。

尿酸酸化酵素の喪失については、これは有利に働くという学者もいます。尿酸は抗酸化作用があるからと。
でも、動物一般に尿酸酸化酵素でもって、アラントインという物質に変え、最終的には尿素にして排出します。このアラントインが優れもの。皮膚や粘膜の修復作用に優れ、昆虫を食べて口腔内粘膜に傷ができても直ぐに修復されますし、皮膚に引っかき傷を負っても、容易に治ります。アラントインは一部の痔の薬やヒゲ剃り後のクリームに配合されたりしています。ヒトが尿酸酸化酵素を失っていなければ、痔の薬もヒゲ剃り後のクリームも不用かもしれませんよ。

骨髄は美味です。小生、インドカレーはいつも骨付マトンを注文するのですが、たまに骨髄が入った骨にいきあたります。これをズルッと吸い取る。うまいですよ、この骨髄。インド人も皆、そう言います。

なお、毎週日曜日に少しずつブログアップしたいのですが、部分改定作業にけっこう時間がかかり、1週間飛ぶこともあろうかと思っています。
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