牛乳は飲んでいいのか悪いのか、その答は明らかです
(澱粉消化酵素に関する動物種の記述に一部誤りがあり、2022.5.17訂正)
このブログにおいて、牛乳の良し悪しについては、幾つかの記事で断片的に取り上げただけですが、小生は、「ヨーグルトは体にいいのか悪いのか、その答えは明らかです」 のなかで乳製品を全否定したのと同じく、牛乳を全否定する立場にいます。
牛乳については、ヒトの体にいいか悪いか、という以前の問題があって、小生の場合は、半分宗教的にもなっており、牛乳を口にすることは決してありません。
これは、鶏を家族のために屠殺した経験のある年配者で鶏肉が食べられない方がけっこういらっしゃるのと同質のものでして、小生には、牛乳を口にすることも殺生だと思えてしかたないからです。
こうしたことから、このブログで本稿を投稿することは今まで避けてきたのですが、けだし食と宗教は密接な関係にあり、切り離して語れるものではないと、最近、強く思うようになりました。これは、小生が今年、数えで70歳という年寄りになったからかもしれません。そこで、あえて宗教性を前面に打ち出すことになってしまってもかまわないと、これは年寄りの横着かもしれませんが、本稿を投稿することにした次第です。
なお、本稿の後半では、ヒトの食性の観点から少々論理的に語ることとします。
世界の宗教の中には、理解に苦しむ理由により禁忌とされる食べ物がけっこうありますが、そのなかで小生がすんなり納得できるものがあります。
それは、アフリカ大陸のけっこう広い範囲で禁忌となっている鶏卵です。彼の地では架空の鳥ではありますが、その鳥が最高位の神となっていることから、たとえ鶏であっても神の子である卵を食べるのは避けるべし、とするものです。
小生の親父は先に紹介した鶏肉が食べられない者の一人でしたが、小生は幼少の頃、うちで食べる鶏卵を得るために数羽の鶏を飼っており、その世話役は小生に任されていたのですが、鶏が産んだ卵を片っ端から奪い取ることに少々抵抗感を感じていました。餌を持っていけば近づいて来る愛らしい鶏ですからね。そして、卵を産まなくなった鶏は親父がつぶして家族で食うのですから、どうしても鶏に対して申し訳なさを感じてしまうのです。でも、卵はおいしいし、鶏肉もうまい。申し訳なさ半分、食欲煩悩半分、というより後者の方が勝っていましたが、今では先に申しましたように宗教的になってきて、卵はだんだん食べられなくなってきました。
鶏卵に関するこうした宗教性は小生だけのものでしょうが、こと牛乳に関して昔の日本人はどうだったでしょうか。
奈良時代から平安時代に貴族のグルメ文化のなかで珍味としてチーズづくりのために牛乳が献上されたようですが、その量はわずかであって、また、運搬・保存性からして牛乳はあまり飲まれなかったようです。その後、いったん廃れたものの、江戸時代になって将軍吉宗の時代以降、これまたチーズをごく一部の高位な方の肺結核などの病気治療に使うことがあったようですが、牛乳は飲まれなかったようです。
そして、幕末を迎えます。開国によって、欧米人が定住し、牛乳を求めます。そこで、江戸幕府はどういう態度を取ったかというと、実に興味深い逸話が残っています。
以下、それを紹介します。
米国が下田に領事館を置き、初代領事ハリスが幕府に牛乳の提供を申し出たのですが、幕府は、「牛は、農耕、運搬のためにのみ飼い置いており、養殖は全くしておらず、まれには子牛が生まれるが、乳汁は全て子牛に与え、成育させるがため故」と理由を説明し、「牛乳を給し候儀一切相成りがたく候間、断りおよび候」と拒否し、ならば雌牛を提供してくれという申し出に対しても、同様に断固として拒否しています。
ところが、その1年半後、ハリスが重い病に臥したため、幕府は、何としてもハリスを死なせてはならぬと、あれほど望んだ牛乳であるから、どれだけかの効果はあろうと牛乳を差し出し、それ以降、各国領事館へも牛乳が販売されるようになったとのことです。
(紹介ここまで)
このように、人が牛乳を飲むという行為は、生を受けたばかりの子牛を“飢え死に”に至らせる“かすめ取り”以外の何物でもなく、これは“鬼畜の行い”であると、当時の日本人は捉えたのでしょう。ここに強い宗教性が出ています。ただし、人の病気治療の薬としてなら、子牛に支障のない範囲で乳を搾るのはよし、というものです。
この宗教性は、江戸時代に将軍綱吉が発した生類憐みの令の精神を汲むものでしょうが、ガチガチにその令が守られていたわけではありません。例えば、犬を食うのはご法度になっていましたが、野犬を薬として食べていたのも稀でなかったといいます。そして、イノシシの肉ともなると、これまた薬として大ぴらに食べていました。
“行く人を 皿でまねくや 薬食い”(小林一茶)の“薬”とは? 何と“肉”なのです!
中医学(漢方)では、肉は薬であり、犬肉は肝に、猪肉は腎に効くとされていますからね。これで、肉ではなく薬を食べているのだ、と言えます。チーズも同様に薬です。
ここで、いったん話を牛乳から離れて、食べ物全体についての宗教性について、これは現代の日本人が皆、よくよく考えねばならないことと思い、紹介します。
甲田光雄著「あなたの少食が世界を救う」(春秋社)より
食べ物を単なる栄養として捉える人間独尊の考え方をこのまま続けていいものでしょうか。食われるものの身になって考え、なるべく殺生しないで生きていくという、愛と慈悲の心を持つことが必要なのではないでしょうか。
「すべてのいのちとの共生」を前提とした生き方が問われている時代です。
私たちは、毎日いただく食べ物、肉や魚、米や野菜などなど、これらすべてのいろいろな動植物を無慈悲に殺生し、天からいただいた「いのち」の数々を単なる栄養物として捉え、飽食しています。
このように「いのち」を粗末にしている無慈悲な行為を天は許すはずがありません。様々な生活習慣病を引き起こし、苦しめられるのです。
それは「いのち」を粗末にしてきた人間に対する天の警告であります。
これに気づけば、なるべく動植物の「いのち」を殺生しないでやっていく食生活を本気で考える、つまり少食の道へ進んでいけることになりましょう。
天は少食という「いのち」に対する愛と慈悲を実行する者にのみ、すこやかに老いるという幸せを与え給うということになりましょう。(要約引用ここまで)
いかがでしょうか。引用のなかで、甲田氏が“天からいただいた「いのち」の数々”とおっしゃっていますが、今の日本人の多くが食事のとき「いただきます。ごちそうさまでした。」と言葉を発します。この言葉は、数多くの動植物たちの「いのち」をいただき、いただいた、人と同じ生き物である動植物への感謝の言葉以外の何物でもないのです。
そして、あるとき、誰かが、日本国民皆に、あえて「いただきます。ごちそうさまでした。」と言わせるようにしたと考えられます。といいますのは、食べ物に投げかけるこの言葉は明治時代になってから生まれた言葉で、日本独特のものです。開国によって、欧米人の異文化が数多く流入してきたなかで、食に関する彼らの文化は「食べ物は単なる栄養物」であって「生き物は勝手に殺して食えばよい」というものです。これは、人間というものは、あらゆる生き物の一段上に立つ優れた存在であるとする思想から出てくる感情で、一神教の信仰が背景にあるのは明らかなことです。
文明開化の嵐によって、この殺伐とした食文化が日本人に広まってはいかん、という危機意識がまずあったことでしょう。人も動物であり、生き物であり、人は人以外の生き物と同列にあって、人は彼らと共存させていただいている。間違っても、“人は人以外の生き物の一段上にあり、彼らを自由に殺し、支配してよい”という“人間独尊の考え方”はキッパリと捨てなければならぬ。こうした日本人の多神教を信ずる心から生ずる思いが明治初期の人々に強くあり、軍隊なり学校教育を通して瞬く間に日本国中に「いただきます。ごちそうさまでした。」が広まっていったようです。この誇り高き、美しい日本の食事作法、まずはこれをしっかり心に抱いて食事をせねばいかんでしょう。
もう一つ宗教的な食習慣として肉食禁忌は仏教の影響があると言われ、たしかにそうした一面もありましょうが、日本人は神仏習合の宗教感が強かったですから、どちらかというと自然崇拝の多神教の影響のほうが強かったと考えられます。
ですから、お上から仏教の教義に基づき肉食禁止令が出されると、おおっぴらには行えませんが、多神教に基づく自然との共生観念のなかから、目の前にいる野生動物を必要の折に「敬って捕って食べるだけにする」という道を選んだのでしょうし、「積極的に動物を飼育して肉をどんどん食おう」などという気にはなれず、畜産業と言えるような業態が生じなかったと思われるのです。なお、鹿と猪は増えすぎると農林産被害が多発しますので、その狩猟は禁止されなかったり、黙認されたりしたようです。
ここからは、いったん宗教から離れて、ヒトの食性の観点から論ずることとします。
そもそもヒトは類人猿の仲間でして完全な植食性の動物であり、植物の葉・芽・果物にわずかに含まれる必須アミノ酸や必須脂肪酸を得て事足りていたのですし、ヒトともなると腸内細菌が活発に働けば必須アミノ酸は十分に得られるのです。
ですから、肉・乳のみならず穀類(たんぱく質と脂肪が多い)、これらは非常に新しいヒトの食糧ですが、単なる代替食糧に過ぎないのです。これらを一切必要としないのがヒト本来の食性であることは間違いのないことです。
なお、ヒトは皆、でんぷん消化酵素の出が非常によいですから、かなり古い時代に芋を代替食糧にしたことでしょう。これは類人猿にはない特徴で、今やヒト本来の食性になってしまっていると考えられます。
人類学においては、人類誕生とともに狩猟時代に入ったというのが定説になっていますが、これは、今日の文明社会の先頭を走っている西欧人が、歴史時代以降、ずっと肉食中心の食生活をしていたから、原始人もそのようだったと勝手に決め付けてしまった、大いなる過ちと言えます。
大型類人猿のうちチンパンジーは時々、オランウータンはまれに狩猟しますが、動物性タンパク質を摂取するのが目的ではなく、これは過去にあった(チンパンジーは今でも)大人オスによる悲惨な子殺し&子食いの延長線上にあると小生は捉えています。
人類誕生後においてはヒトは子殺しもせず、ゴリラと同様に(ただしヒトは芋を食べ始める)完全な植食性であったと考えられます。そして肉食はしなかったに違いありません。
というのは、原始時代に人類の出アフリカは度々繰り返されたのですが、その理由は食べ物が得られなくなったからと考えるしかないのですが、原始人が住んでいたアフリカのサバンナには草食動物がずっとそれこそウジャウジャ生息していたのは間違いないことですから、人が肉食性であれば狩猟して食べ物を得ればいのであって、何もわざわざ草食動物が希薄にしか生息していない地域へ移住する必要はどこにもないのです。
彼の地から移住をはじめたのは芋を求めの旅立ちと考えざるを得ないのです。
今日の狩猟採集民(近年はその大半が採集中心であることから「採集狩猟民」ということが多くなりました)も、主食は芋でして、芋が得られればまず芋を採って食べ、芋が豊富に得られる地域では芋ばかり食べていると言っていいくらいです。
でんぷん消化酵素を唾液腺からたっぷり分泌することができる動物は、小型動物に穀類はじめ植物の種を主食とするネズミがいる他は、ヒトとイノシシ(そして豚)だけで、その共通する食べ物は芋ですから、ヒトは芋食動物に進化したと言ってもいいでしょう。
そして、ヒトは芋をよく噛んで食べるなかから、唾液腺にでんぷん消化酵素を獲得したと思われます。なお、霊長類のなかでは珍しく犬歯を退化させたヒトは、咀嚼するときには上下の歯を前後左右に擦り合わせ、硬い物でもきれいにすり潰すことができるのです。牛や馬と同様なこの特技を持つ霊長類はヒトだけで、チンパンジーは犬歯が邪魔して残念ながらこの真似ができず、単に上下の歯をぶつけ合って叩き潰すことしかできませんからね。
(澱粉消化酵素に関する動物種の記述に一部誤りがあり、2022.5.17訂正)
アフリカ・ユーラシア大陸全体に本格的に現世人類が広がったのは、せいぜい4万年前のことで、それ以降は、急激な気候変動による寒冷化や人口密度の高まりにより、代替食糧の獲得に迫られ、一部地域で狩猟が始まったと小生は捉えています。
なお、人類の肉食習慣は、火の利用を体得し、あらゆるものが火食できることを知ったなかから発生し、まれに小動物を焼いて食べるという食習慣を持つに至ったと思われます。
そして、魚介類を代替食糧としたのは十数年前の遺跡があり、海縁で先行したようですが、これは湿地帯を本拠とするボノボ(チンパンジーの近種)がまれに小さな魚を口にするという習性の延長線上にありましょう。
以上、人類進化の歴史を趣味的にいろいろ研究している小生ですが、これでほぼ間違いなかろうと思っています。
さて、ここからは動物の乳を飲む習慣の発生について論ずることとします。
これについては人類学者の間で概ねオーソライズされているのですが、出アフリカした一部の現世人類がたどり着いた半砂漠地帯、今の中東ですが、ここでは水を求めてオアシスに定住します。そのオアシスには羊が群れを成して生息しています。ここへヒトが大量に入り込んでくるものですから、羊たちはオアシスから離れ、わずかばかりの草が生えている荒れ地で過ごすしかありません。そうしたなかで、旱魃が長く続けば羊たちはヒトがいっぱいいるオアシスへやってくるしかなく、このとき群ごと一気に家畜化されてしまったのです。羊の習性からしてそのように考えられています。
こうなると、羊は肉食動物に襲われることがなくなって数が増えすぎてしまいますから、羊の乳を母乳不足の幼児に飲ませ、食糧不足も相まって、その後は子供が、そして大人もが羊の乳を飲むようになったと考えられるのです。もっとも、最初は、子供はいざ知らず大人の場合は乳糖不耐性ですから、搾り置いて自然とヨーグルト化したものを少々飲むといったところであったことでしょう。そして、必要頭数以上の羊は屠殺して、これも代替食糧ですが、かなりの肉食をするようになったことでしょう。
オアシスに定住したヒトたちも、本来なら柔らかそうな植物の葉・芽・果物そして芋を食べたかったのでしょうが、そうしたものは恒常的に不十分にしか手に入らず、やむを得ず、代替食糧として動物の乳を飲むしかなかったのですし、動物を殺して食べるしかなかったのです。
人類はオアシス以外の中東の地域にも拡散していき、羊が家畜化されれば、山羊(やぎ)も同様に簡単に家畜化できますし、やがて牛も家畜化され、牛乳が飲まれるようになります。これらは全て降雨量が少なくて牧畜に頼らざるを得ない地域、つまり遊牧民がとらざるを得なかった代替食糧の食文化なのです。
加えて、穀物を代替食糧にしたのも同時期に中東においてと考えられます。中東においては小麦が自生しており、ヒト本来の食性である植物の葉・芽・果物そして芋が不十分だったでしょうから、今までは見向きもしなかった穀類も食べるしかなかったのです。
面倒でも小麦の穂を拾い集め、苦労して脱穀を行い、手間暇かけて粉にし、それをこねてから炉で焼くという、幾つもの工程をくぐらせねばならない手の込んだこの作業は、当時のヒトにとって、たいそう苦痛な大仕事だったことでしょう。
そして、この穀物食が人口爆発を引き起こしたと小生は考えています。なぜならば、穀物は芋に比べてあまりにも脂肪とたんぱく質が多く含まれ栄養が豊富すぎ、これが元で過栄養になってしまうからです。
こうして、中東での前史時代の食は、人口の増大もあって、ヒト本来の植物の葉・芽・果物はわずかばかりとなり、代替食糧としての穀類、肉、乳が主なものになったと考えられるのです。なお、残念ながら当地には芋はほとんど自生していなかったようです。
ついでながら、彼の地の宗教についても触れておきます。
当初は日本とどれだけも変わらぬ多神教であったと考えられるのですが、度重なる旱魃など、あまりの自然環境の厳しさを経験するなかで、日本のような大自然に抱かれるという観念は生ぜず、人口の増大に伴う食糧不足も相まって、大自然は人間を苦しめるものであって、人間は大自然と闘わねばならぬという立場にだんだん置かされるようになり、古代文明の誕生の頃から神々の数は減り続け、最後には、唯一の超越者を崇めるという一神教の誕生をみたのです。日本的多神教の観点からすれば、この間、次々と神殺しが行われたということになり、ゾッとさせられます。
代替食糧としての穀類、肉、乳を主食とする食文化は、中東を皮切りにして、湿潤地帯を除く世界各地に広まっていき、今日を迎えているのですが、その多くの地域では、その食文化は1万年、少なくとも数千年にはなろうとしています。
5千年であれば約200世代前からとなり、これだけの繰り返しを行えば、不完全ながらもいろいろと獲得形質が生まれ出てこようというものです。
容易には消化できない肉を食べ続けることによって脂肪・たんぱく質の分解酵素の出が良くなりますし、その消化を半分受け持つ胃袋も丈夫なものに形質変化します。
そして、本来は哺乳類の赤ちゃんにしか出ない乳糖分解酵素なのですが、離乳後においても動物の乳を飲み続けることによって、大人になってもその酵素が出続けるという形質を大なり小なり持つようになってきたのです。これを乳糖耐性といいます。
現代においては、こうした食生活に急激に近づいた日本人ですが、まだせいぜい2世代前からのことですから、とても新しい食性に適合できるものではありません。
日本人は、つい最近まで長くヒト本来の食性にけっこう近い食生活をしていましたから、中東から欧州にかけての異民族と同じ食事には決して馴染めないのです。
そして、日本人には乳糖耐性の方は極めて少なく、大方が乳糖不耐性で、乳児以外は牛乳の主成分である乳糖をほとんど分解することができないのです。
よって、牛乳は便を柔らかくする下剤の役割しか持たないと言っても過言ではないでしょう。カルシウムだって現行の摂取基準に何ら根拠がなく、もっと少なくても不足することがないのは戦前の摂取量からして明らかなことですしね。
さて、日本人の先祖はどのような食生活をしてきたのでしょうか。
日本列島に本格的にヒトが渡ってきたのは2万年ほど前(当時は氷河期で大陸とほとんど陸続き)のことのようで、これが縄文人となったようですが、その後にも大きな渡来が2回ほどあったようです。大ざっぱに捉えれば、地域によって程度の差はありますが、それら3グループがけっこう混血して今日の日本人となったようです。
3グループの出自は狩猟中心であったり、採集中心であったり、農耕中心であったりしたようですが、日本列島に定住した初期は極端な寒冷期にあって狩猟中心の食生活と思われ、その後は採集中心となり、狩猟は気候が寒冷・温暖の繰り返しのなかで、寒冷で狩猟が増え、温暖で狩猟が減る、というものになったと思われます。温暖になれば植生が豊かになるからそのように食性が変化すると思われるのですが、日本列島の特色は周囲を海で囲まれていますから、大陸とは違って地球の気候変動の影響は随分と小さかったと思われ、肉食中心の食生活は長くは続かなったと思われます。
なお、魚貝類を食べるという習性は、古代日本人にもけっこうあったようで、日本列島の地形的性状からしてそうなり、狩猟よりも漁労中心であったように思われます。
日本列島は、極端な寒冷期はさておき、温帯にあって年中十分な雨量があり、世界一と言ってもいいほどに植生が豊かなことです。よって、ヒト本来の食性である植物の葉・芽・果物(ただし、熱帯ではないので果物は少し)がけっこう得られたことでしょう。
今日においても、各種野草が野山に自生しており、堅果類や穀類のように遺跡に十分な証拠が残るものではありませんから不明ですが、けっこう食べていたと思われます。
芋はどうかというと、日本列島で自生していたのは山芋だけで、これがどの程度得られたのか、野草と同様に証拠がほとんどなくて不明ですが、地上部に幾つも生ったであろうむかごをばら撒いておけば2年先には十分な大きさの芋が取れるのですから、けっこう食べていたかもしれません。
でも、これだけではとうてい賄えず、現生チンパンジーでサバンナに住む者たちは乾期には大木に実を付ける硬い豆類を食べているのですが、それと同様に縄文人は堅果類を食べ始めたと思われます。日本列島で特筆すべきは、地域的に偏りが生ずるものの、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類が極めて豊富に得られることです。
初期は生で食べていたかもしれませんが、土器の出土は1万3千年前で、その頃から煮て食べたことでしょう。当初はドングリが主、次第に食べやすいクリの植栽、縄文後期(4千年前から)の寒冷化で小粒のトチが主、という変遷を示しています。
また、縄文後期の寒冷化によって、新たな代替食糧が求められ、蕎麦(そば)をはじめとする雑穀や小豆などの豆類もけっこう食べるようになり、また、南方から伝わった米を焼畑稲作の形態で作り始めています。大豆もこの頃に入ってきています。
そして、米については、弥生時代の始まり(2千5百年前)とともに新たに大陸から水稲耕作技術が伝わり、別品種による水稲栽培が増えていきましたが、1日当たりの米の摂取量は先進地帯でも弥生前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかったようで、まだまだ堅果類や雑穀、豆類で補っていたようです。
時代はこの後、古墳、飛鳥、奈良と小刻みに移り変わっていくのですが、弥生時代以降、人口爆発を起こし、奈良時代になってやっとまずまずの落ち着きをみせたようです。その人口増加の最大の原因は、中東における小麦と同様に、米作が進んで穀物が主食となったことによる過栄養でしょう。
それと時を同じくして、日本でも豪族が誕生し、戦乱の世が始まり、富が権力層に集中しだします。その結果、食の変化が生じてきます。概ね2千年前から、一般庶民はだんだん水稲耕作の米の多くを租税として巻き上げられるようになって、わずかばかりの米が入った雑穀が主食となり、不足分を堅果類・豆類と縄文後期に渡来した里芋で補い、人口過密もあって肉・魚・貝の類はだんだん口に入りにくくなったことでしょう。
なお、ここまでの時代における野菜の摂取はというと、詳細は不明ですが、自生していた野草のほかに、縄文時代に入ってきたウリ、レンコン、弥生時代に入ってきたダイコン、ネギ、ニラ、ショウガ、古墳時代に入ってきたカブが順次広まりをみせたことでしょう。
その後、庶民の食生活はどれだけも変化せずに江戸時代を迎えることになったと思われます。そして、江戸時代も元禄時代になると、平和で安定した社会となって経済も発展し、庶民層の中でも江戸・大坂の町人は一般武士階級と並んで比較的豊かな食生活ができるようになります。こうした階層は、ここで雑穀混じりの玄米食から美味しい白米食に変わったのですが、そのツケが江戸患いと呼ばれる脚気の発症です。
ここで、一気に現代に飛びますが、世界一理想的な食として世界的に有名になったのが、日本の江戸・元禄時代以前の「玄米菜食」です。1977年に生活習慣病を克服するために発表された「マクガバン報告」(米国議会上院が世界中から学者を集め、7年かけて詳細に調査研究された結果報告)の中で非常に高く評価されています。
元禄以前の玄米菜食とは、雑穀米を主食とし、副食として1、2菜(野菜の煮物なり、魚の煮物か焼き物)、具沢山の味噌汁、そして漬物です。なお、雑穀米の米は玄米ですし、これに大根や芋を混ぜることも多かったようです。
ここまで、ざっと日本人の食生活を紹介してきましたが、縄文初期は肉食性であったものが、1万3千年前から今日の一般的な採集狩猟民の食生活(動物性食品摂取率が約3割。ただし日本の場合は温暖期は野草が豊富で摂取率低下)となり、弥生時代半ば(約2千年前)以降、急激な人口増加によって庶民は動物性食品摂取率がガクンと落ち、たぶん1割を大きく切るようになり、それが長く続き、江戸・元禄時代以降に若干増えたものの、どれほどのこともなかったと言えましょう。
となると、その昔、1万3千年前まで肉食に十分慣れていたであろう消化能力も、その後の1万年強の期間は概ね高度成長期頃の日本人並みの動物食となって随分と衰えをみせ、直近の2千年間はわずかばかりの動物食であったがために、今、急に2千年前以前の採集狩猟民並みの食性に戻しても消化が追いついていかない、といったところではないでしょうか。
獲得形質は得るのに時間がかかるが失うのは早い、といったところでしょう。
日本人の食生活の変遷を見て、最も貧相であったのが弥生時代半ば以降、元禄時代以前のおおよそ1千7百年間と思われるのですが、この粗末な食事で健康でいられたのかと心配される向きが多いのですが、現実は真逆で、驚きです。それを紹介しましょう。
約4百年前の戦国時代。戦の場面がテレビドラマでよく映し出されます。これは絵巻物などに基づき忠実に再現されていると思われるのですが、馬にまたがった武将の周りを足軽が並走していきます。実戦ではけっこうな距離を走ることになると思われるのですが、彼らは、いざ敵軍と会い交えても息が上がることは決してなかったことでしょう。史実としては1583年の賤ヶ岳の戦いにおける羽柴秀吉の「美濃返し」が有名ですが、このとき、秀吉軍は大垣から木之本までの丘陵地帯を含む52キロメートルを5時間で移動しています。足軽たちは、鎧を纏い、刀や槍を持って、丘陵を上ったり下ったりしながら平均時速10キロで5時間も小走りしたのですから、その体力には驚愕させられます。
こうした日本人の丈夫さ、健康さに関する驚きは、キリスト教宣教師の本国への報告文によく出てくるところです。
また、江戸末期の日本人の健康度も格段に良かったと思われます。開国によって日本を訪れた外国人が皆、日本人の丈夫さ、健康さに驚いています。そうしたことから、これは史実にあるのですが、ある外国人は、東京から日光へ行くのに、馬に乗っていった方が速いか、人力車が速いかを競争をさせたら、何と人力車の方が勝ってしまったというから驚きです。その外国人は、さらに人力車夫は普段は肉を食べていないから、彼に肉を食わせればもっと速く走るだろうと、車夫に肉を食わせたところ、車夫は“肉を食うと力が出ないから肉は止めにして欲しい”と訴えた、とあります。
ところで、この車夫はたぶん江戸町人であって、白米を常食していたと思われるのですが、雑穀入り玄米食ならもっとスゴイことになっていたかもしれません。
いかがでしょうか。今日の厚生労働省はじめ政府機関は、最重要の栄養素である動物性たんぱく質はしっかり取れだの、子供の背を高くし、年寄りの骨粗鬆症を防ぐために骨にいい牛乳を飲めだの、盛んに代替食糧の摂取を啓蒙していますが、どれもこれも的外れなことばかりです。ここ約2千年間続いた粗食で十分に健康でいられるし、逆に、そうした粗食であって、はじめて健康でいられるのです。
ちなみに日本人が一番背が高かった時期は古墳時代と言われます。背を高くする栄養素はたんぱく質で、これがコラーゲン繊維となり、これにカルシウムなどが貼り付いて骨が成長するのです。当時は、人口過密がまだ限界までは来ておらず、肉・魚・貝の摂取が減っても、水稲耕作が大きく展開されて、庶民も雑穀米をけっこう食べることができたからと思われます。雑穀米ほどバランスが取れ、ぎっしりと栄養が詰まった食品は他になく、これによってたんぱく質やカルシウムも十分に摂取できるからです。
ますます平和で豊かになった日本人です。巷にはグルメがあふれかえっています。
美味なるものには毒があるのですが、あまりにも食欲煩悩が強すぎるがゆえに、その誘惑に、とても勝てっこありません。小生とてそうです。
奈良・平安貴族はチーズを珍味として時折たしなむ程度に食べていたようですが、我々現代人も「美味なる珍味を時折少々いただく」というスタンスで牛乳・乳製品を取るにとどめ、肉については江戸時代の人々のように「これは肉ではなく薬だ」と捉えて時折ほどほどに食する、というふうな食生活にしたいものですね。なかなか難しいことですが。
そして、主食については、玄米少な目の雑穀米にすることによって、頭脳明晰、質実剛健、心身ともに超健康な身体づくりができるのは歴史を振り返ってみて明らかなことですが、これもなかなか難しいことです。
うちでは以前、大麦を少々加えた胚芽米をずっと食べていたのですが、あるとき、有機農法で作られた米を精米した銀シャリに変えたところ、あまりの美味しさでその虜になってしまい、もう元には戻せません。せいぜいその食べる量を制限し、代わりに芋類で腹を満たすといった程度の悪あがきしかできないでいます。
なお、小生の少食の実行としては、1日1食(夕食のみ)としているところです。
本稿は非常に長文となり、また、主題から大きく外れる部分が大半となってしまい、申し訳ありません。最後までお付き合いいただきました読者の皆様に感謝申し上げます。
本稿がどれだけかでも皆様の食生活の参考になれば幸いです。
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