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食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

2020年11月29日 | 食の進化論

食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

第1節 人間は高度科学技術文明の家畜になった
 「日本人1億2千万人、皆、何十人もの下僕を従えた王様である」
 これは、食生態学者、西丸震哉氏が昭和56年におっしゃった言葉である。西丸氏のお話はちょっと古いから今風に(といっても10年前の時点ではあるが)脚色し、小生の考えを多少織り交ぜて語ろう。

 日本の王様の家には、ワンタッチ電動の洗濯下女、チーンと鳴る調理下女、スイッチを押すだけの灯明番や暖炉番下男がいるし、チューナーを回せば楽団員が演奏を始め、チャンネルボタンで劇団員が演劇を披露する。出かけるには液体飼料を1回与えるだけで数百キロも走ってくれる金属馬がいるし、伝言の使いにやらせる飛脚は光の速さで双方向に瞬時にやってくる等々、毎日、毎時間、高度科学技術文明の生み出した産物の恩恵を満喫している。近い将来、さらに科学技術が進んで、マイコンが組み込まれた機器ばかりとなり、いちいち細かな指図をしなくても下僕が勝手に働いてくれたり、口頭でちょっと指示するだけで機器が思い通りに動いてくれたりする時代が到来する。
 昔の王様、いや、それ以上の身分の生活を堪能できることになるのである。でも、王様ばかりの世界になっても決して満足できない。うちに比べて右隣の家の芝生は広いし、左隣の家の金属馬は高馬力である。どうしても隣近所の王様以上になりたい。それに追いつくために身を削ってでもしゃにむに働く。そして、万一追い越しでもすれば、多少健康を害してしまっていても、鼻高々で有頂天になり、大満足する。“どうだ、見ろ、俺のほうがもっともっと偉い王様だぞ。”と。

 これが、西丸氏の「日本人、皆、王様」というお話である。
 日本の王様の大半がそういう行動を取るから、資本主義経済という魔物の思う壺となり、経済はさらに膨張し、そして科学技術の飛躍的な発展をもたらすのである。この先、どうなるかを少々考察してみよう。
 あまりにも高度に発達した科学技術によって製作される機器は、どれもこれも、もはや一般人の頭脳ではとうてい理解不能な高度なものばかりとなってしまう。したがって、その恩恵を十分に受けるためには、人間の頭脳よりも優秀な人工頭脳を持つ様々な機器がうまく働いてくれるように、人間の生活をそれらの機器に合わせなければならなくなる。最先端の機器にしっかり歩み寄ることによって、人間は安泰な日常生活を送ることができるようになるのである。
 この事態は、動物が安泰な生活を送りたいがために人間に歩み寄り、人間の都合に全て合わせることによって野生の生き方を忘れ去り、いつしか家畜化してしまったのと同じである。つまり、人間も同様にして、資本主義経済が生み出す高度科学技術文明の産物の家畜になってしまうのである。安泰な生活を手に入れ、安楽を決め込もうと。

第2節 寒冷化の訪れと食糧危機
 資本主義経済という魔物がいつまでも元気であってくれれば、人間は高度科学技術文明の産物の家畜として安泰でおられるのだが、その魔物がいつ病気しないともかぎらない。飼い主が病気したら、その家畜は面倒をみてもらえず、路頭に迷うしかなくなる。空恐ろしいことになる。資本主義経済という魔物は、経済が膨張しているかぎり元気であるが、萎縮するととたんに病弱となり、それが長期化すると大病を患う。最近では、病弱はバブル崩壊で経験しており、大病は1930年代の大恐慌で経験した。
 将来を展望したとき、魔物にとって幾つかの病原菌の発生が考えられるが、それらを検証してみよう。
 第一に、石油資源や木材資源の枯渇が危惧されているが、これらは科学技術の力によって代替できるものが必ず発明発見されるであろうから、全く心配はいらない。
 第二に、地球温暖化が危惧されているが、寒いより暖かいほうがいいに決まっている。これについては、今までに述べたとおりであり、何ら問題にすることはない。
 第三に、世界的に騒がれている今日の食糧危機であるが、これは弱小国が苦労しているだけであり、先進国は当分の間、何ら心配することはない。
 第四の危機は、これが恐ろしいことになるのだが、地球の寒冷化による食糧の大幅な減収である。資本主義経済という魔物が最も恐れる病原菌であり、これが魔物の最大の弱点である。
 人類の歴史の変革点には、いつも地球の寒冷化があった。そのときに食糧の絶対的な供給不足をきたし、その度に科学技術が目覚ましく発展し、文化・文明、経済システムが大きく変貌していった。大規模に寒冷化する氷期の到来は、まだ当分先のこととしても、数十年から2百年程度で繰り返される、平均気温が数℃下がる寒冷化は、直ぐにもやってくる恐れが多分にある。歴史時代において、こうした寒冷化のときには、食糧を求めての世界的な民族大移動がたびたび繰り返された。民族大移動とは聞こえがいいが、それは、侵略であり、略奪であり、大量殺戮であり、つまり住民全部を引き連れ、巻き込む侵略戦争である。
 過去の寒冷化において、中緯度地帯では低温に加えて一般的に降雨量
が減って栽培植物は減収となり、所によっては旱魃となって無収穫となる。緯度が高い地帯は牧草が不作となる上に、春と秋に雨が降るところが雪となり、家畜は草が食べられず、多くが死んでいく。こうして食糧が大幅に不足しだし、それが数年も続けば民族大移動を開始するしかなかったのである。
 歴史上、最後の大移動は、17~18世紀にかけてヨーロッパで発生したが、ヨーロッパ各国であぶれた者たちがアメリカ大陸への五月雨的な侵略を引き起こし、ヨーロッパ各国による大陸資源の争奪そして原住民の大量殺戮があった。これは、新大陸への移民というきれいな言葉で表現されるが、とんでもない侵略である。
 これ以降、地球は温暖期にあるのだから、必ずや近い将来訪れるであろう寒冷化は、先進国の食糧需要を賄う分の食糧生産をも不可能とし、ここに真の食糧危機が訪れるのである。先進国で農産物を大量に輸出しているオーストラリアやアルゼンチンとて国内需要が満たされる保証はない。現在、食糧輸出国であるアメリカやフランスは当然にして国内需要が供給を上回り、輸出は不可能となる。
 先進国における食糧の需給バランスは決して整わなくなる。貨幣経済の下において需給バランスが整わないということは市場原理が機能しなくなるということであり、それは資本主義経済が麻痺したことになり、魔物が病床に伏したことになる。こうした真の食糧危機が永続することによって、魔物が死に至るかどうかであるが、皆目見当が付かない。でも、人類は、そのとき死に行く魔物にカンフル注射を打ち続け、つまり科学技術を総動員して食糧の大増産を模索し、ひたすら魔物を延命させようとする可能性が高い。
 肉食比率を落としたくないという欲求に対する代替食糧の候補としては、第一に石油蛋白がある。技術開発は概ねなされており、肉の代替供給という観点から、真っ先に実用化が進むであろう。近年は細胞培養という技術も開発途上にある。それらに先立つ緊急措置として、海洋に住む鯨や魚類などの大漁捕獲である。あっという間に海洋資源は枯れ尽くし、絶滅種が数多く出ることであろう。
 最大の問題は、人類の食糧として最大のウエイトを占める穀類であるが、今までどおりには作物が育たない地域が大半となる。よって、新たに寒冷気候に適合する穀類を捜し出さねばならないのだが、西丸氏は、その第一候補としてアンデス原産のキノア(キヌア)を推奨しておられる。キノアはホウレンソウの仲間であり、1年草である。米が作れなくなるような寒冷地で、かつ、雨量が少なくなった所にも良く育つというから、米の代替作物になり得る。米とキノア半分ずつの雑穀米にしてもおいしく食べられるというから、東北・北海道では作付けが進むであろう。こうした研究は1970年代に、当時、地球寒冷化の危機が迫っているとの予想から、一部の研究者によって真剣に調査研究と栽培実験がなされている。
 キノア栽培をフルに行ったとしても、穀類は不足するであろうから、次に芋類の出番となる。澱粉質を含まずオリゴ糖をかなりの量含有するヤーコン芋の出番だ。これは1990年代から日本で研究が始まった。アンデス原産のヤーコン芋は、低カロリーのダイエット食として近年有名になったが、寒冷地での栽培に適している。食糧難でカロリー不足の上に、こんなものを食べたら栄養失調で死んでしまうと危惧されるであろうが、そうはならない。カロリー計算でカウントされるのはオリゴ糖であり、これはヒトの消化酵素ではブドウ糖単体への分解はできないが、腸内細菌の格好の餌となり、各種有機酸を作り出してくれるから、これがヒトのエネルギー源になる。加えて、整腸効果が抜群であり、腸内環境を大改善してくれて腸内発酵が大きく進み、三大栄養素(炭水化物、脂肪、蛋白質)を全く取らなくても、野菜を泥状に磨り潰したものをヤーコン芋と一緒に取れば生きていけるのであり、いや、これによって現在の飽食時代よりもずっと健康になれるし、元気も出ようというものである。ただし、三大栄養素を一切絶たねばならないが。つまり、穀類と肉(魚を含む)は口にせず、調理に油を使ってはならないのであり、口の卑しさと対決して、それに勝たねばならないから、至難の技とはなるが。
 こうしたアンデス原産の代替作物が複数登場し、食糧危機の助っ人になる可能性があるも、それでも、これでもって先進各国の食糧難が解消できるかは危ういところである。

 人間が異常発生する以前の、生態系の一員として人間が自然環境とともにあった時点では、寒冷化で少雨になっても、順次違った動植物が繁栄してきて、新たな食糧が入手できるようになるのだが、人間が異常発生してからは事情が異なる。温帯において地形が平坦であったところには森林が生茂っていたのであるが、人間の異常発生に伴い、今日に至っては森林は破壊し尽くされて栽培植物に取って代わっている。つまり、栽培植物の異常発生である。栽培植物は、多くのところが水源から用水路を引いての灌漑農業となっている今日、寒冷で少雨になると灌漑用水が欠乏し、農作地帯が不毛の大地、つまり砂漠化する危険が大きい。ここに、森林破壊のツケが顕在化するのであり、歴史上、最後の寒冷化である17~18世紀の比ではない。
 温帯において雨量が多すぎて排水がメインとなる農業は、モンスーン地帯にある日本と中国の華南にしかずぎず、この地帯以外は絶えず旱魃の危機を抱えているのであって、少雨ほど恐ろしいものはないのである。
 こうしてみると、先進各国が食糧危機を乗り越えるには、土と雨に頼る農耕方式から、工場内食糧生産が食糧供給の主流にならないことには解決しないのであり、先進各国はこれに突き進む可能性が高い。
 その点、日本列島は非常に恵まれている。地球が寒冷化の嵐に襲われても、周囲に海という巨大な湯たんぽがあり、気温の低下は大陸
に比べてうんと少なくてすむ。日本人が日本列島を捨ててボートピープルになり、民族移動することはない。ただし、中国大陸から押し寄せる可能性は大である。元寇の再来であり、今度ばかりは神風は吹かないであろうし、吹いても全く防御にならない。なお、元寇は13世紀後半の温暖化してからの出来事ではあるが、西暦1200年前後に数十年間にわたって地球は寒冷化し、そのときにチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国が南下政策を取り、ユーラシア大陸を席巻したのである。その余波として、食糧資源が豊かな日本列島も支配下に置こうとの魂胆から元寇があったと考えられる。
 その後、2度の数十年にわたる寒冷化を世界は経験した後、最後の寒冷化が先に述べたヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略であるが、その当時、日本は江戸時代前半のことであった。その寒冷化もどれだけか脈打ち、寛永、延宝、元禄、享保の各飢饉を引き起こした。
 江戸時代後半は温暖化していったが、天明、天保の2度の飢饉が起きた。ともに7、8年も続いたが、天明はアイスランドのキラ火山の大噴火の影響であり、天保は南米の火山の大噴火の影響のようであるが、世界の幾つかの火山噴火の複合との説もある。この2つの飢饉は、寒冷化ではなくて異常気象による低温化であるが、今、このような大噴火が起きれば、先進各国で食糧パニックが起きるのは必至である。
 寒冷化にしろ火山噴火による異常気象にしろ、年間平均気温は日本でも数℃下がる。小生が住んでいる岐阜は4℃下がれば秋田並みとなり、7℃も下がれば札幌並みとなる。そうした事態になると、日本中の休耕田を全部作付けしても、北の方では米は無収穫になりそうだから、米だけを捉えても、その需要を賄えるかどうか怪しい。なお、農水省では、その昔開発された、寒さに滅法強かったり、温暖地で大量に稲穂を付ける米の品種の種籾がサンプルとして永久保存されているが、その量は極小であり、大量作付けが可能となるには数年はかかろうし、それらはまずい米だから、手に入っても我慢して食わねばならない。
 今までと同じ作物の作付けをするとなると、日本でも極端な食糧危機となるが、まずい米で我慢し、先に述べたような代替食糧の栽培や石油蛋白などの生産によって、食糧危機は乗り越えることができるのではなかろうか。ただし、畜産は大幅な縮小を余儀なくされる。特に、人間の食糧と大きくバッティングする飼料をふんだんに与えねばならない豚は、たいてい食べられなくなる。

第3節 食物禁忌の歴史
 イスラム教の経典コーランでは、豚を食べることを禁止している。豚は排泄物にまみれた汚い動物であり、それを食べると人間の心までが汚れてしまうからダメだというのであるが、これは、その戒律を守らせるための方便であって、理由は別のところにある。
 マーヴィン・ハリスによると、紀元前のエジプトの多神教においても、古代エジプト文明の中期以降、豚は悪の神セトと同一視され始め、豚を食べることは忌み嫌われた。その理由として考えられるのは、豚の飼育には大量の水と穀類が必要であり、砂漠に住む民にとって、どちらも人間が生きていくのに非常に貴重なものであるから、豚を養殖して食べることは贅沢極まりないことになるからである。治世者にとって、民の食糧確保が最重要課題であるから、エジプトではこうして豚を食物禁忌とせざるを得なかったのである。
 なお、ユダヤ教においても、旧約聖書のレビ記で、食べてはいけない動物を数多く列記しており、正統ユダヤ教徒はこれを守っており、食べていい動物は家畜以外には鱗のある魚ぐらいなものである。ただし、家畜であっても豚はレビ記の記述により、もちろんダメである。
 マーヴィン・ハリスによると、レビ記の食物禁忌も、豚はエジプトと同じ理由によるほか、他の動物については捕りすぎて希少となった種は、それを食べることによって得られるエネルギー量よりも、捕獲するのに必要とするエネルギー量のほうが大きく、無駄にエネルギーを浪費するな、という観点から禁忌にしていると言う。レビ記の完成の頃には、パレスチナ辺りでは、野生動物を捕り尽くしてしまっていたのが実情のようだ。
 新約聖書には宗教上の食物禁忌はないようだが、キリスト教の経典は旧約聖書と新約聖書の2つであり、キリスト教徒は本来は動物食をかなり制限されるものであって、経典全体から厳格に解釈すると、ベジタリアンにならざるを得ないと考え、そうしている宗派もある。
 なお、キリスト教自然保護団体が、日本の捕鯨に対して、あれほどまでに強硬に反対するのは、鱗のない魚である鯨を食べることはレビ記に反する許されざる行為であるとの思いが根っこにあると考えられる。その昔、キリスト教徒が捕鯨をしまくり、鯨を片っ端から殺していったが、灯明用の脂を取るだけで鯨肉を食べるわけではなかったから、いくら鯨を殺しても聖書に反していなかった、という理屈を持っており、我々日本人にはとうてい理解できない宗教解釈である。
 先進各国で深刻な食糧危機を迎えると、宗教上の食物禁忌が強く叫ばれるようになるだろう。日本の捕鯨が真っ先にやり玉に上げられるであろうが、しかし肉が絶対的に不足するから戦後復興期の学校給食のように鯨を食べるしかなく、日本は捕鯨を強化し、鯨を捕り尽くすだろう。鯨をほとんど捕り尽くし、労多くして益なしの状態になってときに捕鯨は止む。そのように思われる。鯨の多くの種はそのとき滅亡することになる。
 家畜では、豚が世界的に禁忌となり、鶏も餌が人の食糧とバッティングするから大幅に縮小する。牛は本来の餌は人の食糧とバッティングしないが、日本では配合飼料を食べさせているケースが多く、牧草地帯も人用の代替植物の作付けが進むから、牛肉もほとんど食べられなくなる。
 なお、ジビエ(野生の鳥獣の肉)も貴重な食糧資源となり、熊、猪、鹿は絶滅するであろうし、渡り鳥も一網打尽にされ、野鳥は霞網で狩られ、多くが姿を消す。猿の肉も名称を偽って食肉にされよう。
 そうなる前に、宗教が力を付けて仏教の精神により、あらゆる動物(魚は除かれるであろうが)の殺生が法律によって禁止されるかもしれない。危機に瀕すれば宗教が国を動かすであろうから。
 こうして、日本人の食生活は、良くて江戸時代と同等以下となる。初期は毎日魚が食べられるが、これもどんどん先細りしていき、雑穀米と野菜や芋の煮物そして味噌汁の一汁一菜となろうが、野菜も低温気象で不作傾向にあって、どれだけ人の口に入るか保証の限りでない。

第4節 大人の自己保全志向
 人は保守的である。大人になったらそうなる。それは動物だからである。成長段階にある子どもには好奇心があり、学習意欲の塊のような時期が続くが、大人になってしまうと、それが順次弱まり、次第に自己保全にしがみつくようになり、変革を嫌うようになる。
 これに対する異論もあろう。人は年寄りになっても、学習意欲の塊のような輩もいる。小生もその末席を汚している。そこには、2つの原動力が働いている。
 1つは、類人猿や鯨類など頭脳が発達した動物の大人にみられる遊びである。これらの動物は、大人になってもよく遊ぶ。人の大人もよく遊び、なかには大人になっても好奇心が旺盛で、学習意欲が衰えないどころか、より高まる遊び人もいる。小生も今現在(これは13年前のことで、2020年時点では随分と衰えた)は、そのなかの1人のつもりでいる。
 遊びが労働に結び付くことがあり、日本に生まれた匠の技に、この傾向が強い気がする。匠は、遊びと労働を区別する言葉を持たないアポリジニのこころと同じなのではなかろうか。日本の匠たちのこころには金銭欲を超えた何かがきっと存在するはずであり、だから世界一の素晴らしい技が発揮できると考えたい。
 もう1つは、名声を得たいという欲望からである。偉い学者や偉大な発明家になりたいという煩悩のなせる業である。文明が生み出した私有財産というものが限りない欲望をかき立て、権威者として君臨しようとしたり、また、特許を取って一財産築こうとする行動に走らせたりするのである。
 ただし、好奇心旺盛な、こうした行動を取る者は一部の者であって、大人になると、通常はそれに憧れたり、夢を抱くことはあるものの、あきらめのほうが強く、あったとしても興味本位な野次馬根性や単なる出世欲でしかなく、安泰な生活を送ることができるように保身する方向に舵を取る。
 そうなると、今までに学んだもののなかで、これは正しいと教えられたことに対しては、あえて疑問を挟もうなどとは思わなくなってしまう。なぜならば、何らかの疑問をまじめに取り上げた結果として、正しいと教えられていたことが実は間違っており、これを否定せねばならなくなったときには、自己の日常生活の変革を求められることになるからである。そうなると、今までに築き上げてきた地位が揺らぎ、かつ、人間関係に軋轢を生ずることにもなる。自分だけが大勢と異なった行動を取るとなれば、当然にして多くの人との衝突は避けられないのである。また、家族間でも摩擦を生じ、孤立無援となる。加えて、あれは間違っていて、こっちが正しいのだと、いつまでも我を張っていると、変人奇人扱いされ、そして軽蔑されもする。(ブログ版追記 ましてや最近は、ますます空気を読まなければならない社会になってきて、その道に少しでも外れると激しくバッシングされるようにもなってきた。)
 己が道を歩むことは、かくも大変なことであり、若気の至りでそうした経験を積むなかで、大勢に従ったほうが安泰であることを覚えてしまい、大人はいつしか変革を嫌うようになる。
 こうしたことから、例えば「朝食を抜く」ことについては、どう考えたって人の健康にとって最も重要な正しいことなのではあるが、大人は自己保全の本能的働きによって、「朝食は取らねばならない」と教えられてきたことに対して、一片たりとも疑問を挟むことを拒否してしまうようになる。
 もっとも、食欲が全くないのにかかわらず、体にいいからと義務的に朝食を取っている人で何らかの健康障害を持っている場合には、朝食を抜くことの正しさを様々な角度から納得し得る説明を受けると、恐る恐る実行しようという人がどれだけかは出てくる。
 勇気をもってこれを実行し、それによって体調が良好になったと実感した人のなかには、朝食抜きを習慣化する人がでてくるが、これは少数派であり、大多数はこれを貫徹できず、自己保全のために朝食を抜くことを避け、少食とはなるものの、家族や仲間とのお付き合いとして朝食を復活させてしまう。
 朝食抜きを貫徹する少数派は、病気治療という考え方が勝って、こうした行動を続けられるのであろうし、挫折した人であっても少食にしただけでもどれだけかの効果があるから、これはこれでよい。 
 いかんともしがたいのは、客観的に見て不健康な状態にありながら、自分では健康であると思い込んでいる人に、朝食抜きを勧めた場合である。直ちに拒否反応が生ずる。自己保全に加えて、食欲煩悩によって生み出される食い意地との二重の反応により、これに関しては一切の思考がカットされ、脳の思考回路が断線する。つまり、聞く耳持たんという状態になる。
 これは、宗教に特有の反応であり、朝食を取ることが宗教などとは全く無縁なものであるはずではあるが、残念ながら日本人はわずか百年余の間に完全に洗脳され、「朝食信仰」なるものに支配されてしまっているのである。当店発行の毎月の新聞で6か月にわたり、朝食を抜くことの正しさを解説したところでの、お客様の反応がそのようであった。当初は、これを1年間続けようと考えていたが、せっかく築き上げてきた当店の信用というものが、これにより失墜しそうな気配が感じられ、やむなくシリーズ半ばで中止せざるを得なかった。
 いったん信じた宗教から抜け出すのは容易ではない。オーム真理教に入信した若者を家族が取り戻すのが容易ではなかった事実からも明らかなことである。日本人に朝食を抜くことを習慣化させることは、平和で豊かな時代が続くかぎり、全く不可能なことであることを、小生は身を持って実感した次第である。

第5節 飢えを救う宗教
 こうした日本人の安泰な食生活は、残念ながらそう長くは続かない。理由は今までに何度も述べた。深刻な食糧危機が訪れ、先進各国ともにこれが全く保証されなくなる時代がいつか必ずやってくる。
 食糧自給率がたったの30%にまで落ちた日本である。休耕田に全部作付けし、飼料用作物を食用に転換すれば何とかなるという安易な考え方もあるが、それは甘い見通しであると言わざるを得ない。激しい寒冷化ともなれば大凶作となり、目論んだ収穫量に遠く及ばなくなることは必至である。
 北朝鮮の国民
がどれだけの食糧を口にしているか定かでないが、それと大差ない状況、いや、それ以下となろう。飢えに苦しむ彼らは安泰な食生活を求めて脱北しようとするが、地球に恒常的な寒冷化が襲ったとき、先進各国の国民は、脱出できる先がもう世界のどこにもないのであるから、あきらめるしかない。
 あきらめろと言われても、あきらめきれないのが食欲煩悩であり、飽食に慣れ親しみ、美食文化にどっぷり漬かり、食い意地の張った日本人であるがゆえに、自らの力で飢えの苦しみに打ち勝つことはとうてい不可能となる。日本以外の先進各国ともなると、肉食傾向が強いから、より凄惨な姿をさらすことになる。
 飢えの苦しみから精神的に開放してくれるのは宗教しかない。紀元前に仏教などが生まれた社会背景と様相は類似したものとなろう。あのときも、地球の寒冷化で凶作が延々と続いた。
 自分は無神論者であると思っている日本人であっても、朝食信仰を含めて何らかの信仰を持っており、少なくとも呪術(=神頼み)に縛られているであろう日本人であるからして、新たな宗教を受け入れる余地はたぶんにある。食糧の絶対的不足が何年も続き、かつ、先の展望が見えない状況ともなれば、自己の生存の危機を乗り越えるには、宗教にすがるしか選択肢はなくなる。
 先行して少食健康科学なるものが脚光を浴びるようになり、現存する宗教はそれを取り込み、教義の拡大解釈や解釈の変更でもって乗り切りを図り、勢力を伸ばそうとするであろう。なかには、ずっと言い続けてきた我が教義こそ一切の拡大解釈や変更なしに人々を救うものであると主張し、その宗教の先進性を強調し、信者の拡大を図るであろう。
 その筆頭に挙げられるのが、北西インドで仏教と同時期に発生したジャイナ教である。仏教と類似点が多い宗教であるが、あらゆる生き物の不殺生を強く主張する厳しい戒律を持っている。現在、インドにその国民の0.5%に満たない少数の信者しかいないが、経済界や知識人の在家信者が多く、その存在感は大きい。ヒンドゥー教徒であるインド独立の父・ガンジーがジャイナ教徒と間違えられたことから、世界的に有名な宗教になったようである。ヒンドゥー教は、様々な宗教が仲良く集まった宗教のデパートのようなものであり、ジャイナ教の一派がヒンドゥー教に組み込まれており、その信者の一人がガンジーであったのである。
 これらとは別に、新興宗教も当然に誕生することも間違いない。どんな宗教が生まれるか。様々な少食健康法を母体として競い合って乱立するであろう。
 北西インドに仏教が生まれた当時、当地はバラモン教が支配しており、仏教は当然に新興宗教であった。また、古い仏教経典のなかに、六師外道として同時期に発生した仏教以外の大きな勢力を持った6つの宗教の教義を紹介し、それを乗り越えたところにあるのが仏教であると主張していることからも明らかなように、新興宗教が乱立していた。また、六十二見という記述もあり、それだけの数の新興宗教が存在していたことも明らかなことである。そして、それら新興宗教に押されて危機に瀕したバラモン教は、その後において仏教などの教説をその教義に取り入れてヒンドゥー教に衣替えし、インドにおいて勢力を盛り返したという歴史を持つ。
 多神教の日本においては、これと同じようなことが起きる土壌があり、少食健康科学を元にする数多くの新興宗教が柔軟に発生するのは間違いなかろう。

第6節 少食のすすめ
 いずれにしても、必ず訪れるであろう先進各国の延々と続く飢餓時代には、少食を良しとする科学、思想、宗教であふれかえるであろう。日本において少食の原点となるのは、すでに戦前に確立されている西式健康法にあり、1日500ないし600キロカロリーで健康に生きていけるというものである。
 今日、これを応用発展させ、医療現場で実行しておられる医師が何人かおられ、そのうちの一人である甲田光雄医学博士(故人)によれば、1日400キロカロリー程度の摂取で難病の治療効果が上がるとおっしゃっておられる。また、人は長期にわたり1日300キロカロリーの少食であっても、いや、そうすることによって、初めて健康に生きていけるともおっしゃる。いずれの場合も、基本形は生野菜を中心に、穀類はごく少量の生の玄米粉とし、動物性蛋白質は一切取らないというものである。これは、人が火食を始める前の食性に戻ることであり、まさにヒト本来の食性に従うことが基本となる。
 ところで、生野菜中心に切り替えるといっても、日本人がたいして野菜を食べていない現状を踏まえると、はたして寒冷期に十分な野菜が供給できるかどうかは甚だ疑問であり、これが大きな難題として残る。
 なお、朝食抜きとするのも、西式健康法の主要事項であり、これについては、西丸震哉氏や小山内博氏も別の角度から、これの重要性について独自の理論展開をなされており、その内容は省略するが、少食につながるものである。
 究極の少食は、何度も繰り返し行う長期断食にあり、これはジャイナ教において顕著である。甲田氏は、朝食抜きの少食生活に慣れれば、毎週曜日を定めて1日断食を行ったり、年に数回、1週間程度の長期断食を定期的に行うことが容易となり、より少食で健康体にもなるともおっしゃっている。
 西丸氏によると、動物というものは何日も獲物にありつけず、不定期的な断食を繰り返す生活が通常の出来事であり、生理機構がそれにうまく順応したものとして完成しており、ヒトも動物であるからして当然にその能力は残されている。毎日3度も食事を取るから、その機能が錆びついているだけだとおっしゃる。
 長期断食に慣れれば、超長期断食も可能となる。インド人機械工の男性(当時64歳)が411日間にわたり断食した記録があり、その間ずっと通常の生活で通し、404日目には登山も行ったという、とても信じられない“お化け”のような人がいた。これは、アメリカの科学者チームの生態調査としても実施されたものであるから、真の出来事である。(ブログ版追記 その後にインド人僧侶がほこらに入って断食修行し、タイ記録の411日間断食を行ったが、彼はその翌日に姿をくらませ、その後の行方は不明とのことである。これは勘繰りだが、あと1日で新記録となるも、体が持たなかったのかもしれない。)

 『肉を一切断ち、生野菜中心の食とし、朝食を抜き、少食とする。加えて時々の長期断食』
 これが、地球寒冷化に伴う食糧危機が訪れた場合に求められる食生活であり、ヒト本来の食性に限りなく近づけることによってのみ、飢餓を乗り越え、かつ、健康が確保できるのである。
 もっとも、どんな場合でも、急激な食生活の変更は、体を壊す。したがって、今から心して、将来求められることになる食生活に近づけようとする努力が要求される。

第7節 年寄りの利己主義
 理屈ではそうなるのであるが、今日の日本人の食生活とあまりにもかけ離れた、このような少食に今から取り組めといっても、難病にでも罹らないことには、食欲煩悩を抑え込むことはとうてい不可能である。
 小生の場合は、たとえ難病を患ったとしても、あまりにも食い意地が張っているから、そんな牛の餌のような食事に耐えられそうになく、腹いっぱいうまいものを食って、いっそ早々に死んだほうがマシだ、となる。娘も息子も東京へ行って一人立ちし、田舎で夫婦二人暮らしをずっと続けていて、ぼつぼつ粗大ゴミになろうとしている男年寄りは、ずいぶんと身勝手になり、横着になり、そんな考えしか生まれ出てこない。
 還暦を過ぎたあたりから年寄りの利己主義はこうして生まれる。さらに10年、20年と歳月が過ぎ、高齢になるにしたがって、これが高じていき、“余命幾ばくもないのだから、うまいものを腹いっぱい食わせろ”と言うようになり、あげくのはてには、“俺はまだ死にとうない”とわめきたてる。とどのつまりがボケ老人である。
 こうしたことは、やすやすと想像できるのであるが、年を重ねるにしたがって、我慢というものがだんだんできなくなってしまい、ついには我慢という観念そのものまで忘れてしまうから、人間とは何ともお粗末な生き物である。間もなく還暦を迎える小生も棺桶に片足を突っ込みかけた年代にあり、もはや後戻りは不可能であり、横着に前へ前へと進むしかない。食に関しては、一片の疑いもなく、まっしぐらに前進している。我が人生を振り返ってみるに、ものごころ付いたときから毎日のように魚が食卓にのぼり、高度成長とともに肉食文化にどっぷり漬かった食生活に慣れ親しみ、日本が豊かになった頃には、魚、鶏、牛、豚が食卓を飾らなかった日はなく、その量が年々増えていった。獣肉の消化能力が落ちた今日では、若かりし頃に比べて口にできる量はガクンと落ちたものの、とてもじゃないが精進料理では我慢できず、もはやベジタリアンには決して成り得ない。
 「肉」という「麻薬」から決して抜け出せないのである。食の進化論を書くに当たって、様々な方面から洞察するなかで「肉は麻薬である」ことを知るに至った小生ではあるも、肉は麻薬であるがゆえに決して止められないのである。悲しいかな、小生は完全な麻薬中毒患者に成り下がっている。
 動物性食品に対する嗜好が歳とともに変わってきたのも興味深い。還暦を迎える前あたりから胃の消化能力が落ちたからであろうが、獣肉や鶏肉より魚のほうがおいしく感じられるようになり、特に、その特有な臭いから牛肉は苦手となった。それでも、年に一度や二度は、霜降りの飛騨牛を一切れ二切れでいいから賞味したいという、強い欲求を抑えきれないでいる。
(ブログ版追記)
 その後、小生の嗜好は再び変化した。70歳近くなってからは、魚より肉が食いたくなったのである。焼き肉屋へ行って骨付きカルビが食いてえ、牛タンが食いてえ!と、欠食児童並みに肉への欲求が高まりを見せてきたのである。今は亡き我がおふくろは80代は魚を求めたが、90代になると肉を求めたのと同様な変化である。これは日本人の一般的傾向のようである。西式健康法を樹立された西勝造氏は「中年までは肉や魚を取らなくても健康でいられるが、通常60代になったら魚を求めるようになり、70代となったら肉を求めるようになるのが健康人である。高齢になると体が自然にそれらを求めるようになる。」と言っておられ、これは、加齢に伴い体内におけるアミノ酸リサイクルシステム(オートファジー)が鈍り、必須アミノ酸を口から補給せねばならなくなるからであろう。それが食の嗜好変化となって現れるのである。
(追記ここまで)
 こうして、日本人総麻薬中毒患者であるこの世の中においては、肉や魚を食うことが正常とされ、完全なベジタリアンは精神異常者との扱いを受けてしまう。食欲煩悩が定める物差しによって、食の良し悪しが決まってしまうのである。そして、時の栄養学者も麻薬中毒患者であり、肉食生活から抜け出せないでいるゆえに、その物差しにうまく適合するような理論を無意識的に組み立て、動物性蛋白質は必須の栄養であり、毎日たっぷり取れと「正常思考」してしまうのである。これに逆らうことは、小生とて、もはやできない。

 近々に寒冷化が訪れ、食糧危機を早々に迎えることとなった場合、我々団塊世代の次の世代、第二次ベビーブーマーである20代、30代の若者(ブログ版追記 今に至っては彼らは30代、40代となり、その子どもが順次大人になりつつあるが)も麻薬中毒患者であるが、大きな苦悩を伴うものの、彼らの再生は不可能ではない。なぜならば、彼らはその次の世代を正しく育てねばならないという責任感を抱いており、我が子のことを考えれば、肉を断つことに我慢が利くからである。もっとも、我慢の連続という苦から脱却するために、もがき苦しむではあろうが、その責任から、何とかして解決策を見いだそうとして懸命に努力することだろう。
 彼ら若い世代は思いのほか謙虚である。一握りの若者の横着さから、ご無礼ながら今どきの若者は皆なっちょらんと感じていたが、実はそうではなかった。ここ10年ほど(2007年時点でのこと)店頭で接客するなかで、お客様に簡単な助言をするようになったのだが、彼ら若者は小生のつたない説明を謙虚に聞いてくれ、かつ、たいていは礼儀正しくお礼も言ってくれる。小生をとてもうれしくさせてくれ、彼らに頭が下がる思いがする。今の若者はなんてすばらしい人たちばかりだと感心させられる。
 この若者の謙虚さは、どこから生まれ出てくるのだろうか。それは学習意欲からではなかろうか。されば好奇心があるということになり、新しい文化を構築できるたくましさを持ち備えているということになる。ここに、一途の望み、そして明るい展望が開けたような感がしてきた。
 しかし、彼らの足を引っ張り、彼らの更生の邪魔をするのが、年老いた我々団塊の世代である。「息子よ、肉を食わせろ。」とわめきたて、加えて肉が手に入れば孫たちにも食べさせ、「どうだ、肉はうまいだろ。昔は良かった、うんぬん…」と孫に話しかけ、孫たちが受けるべき新しい教育を妨害する。
 時代の変革期には、間に入った子持ちの若者たちは、いつも年寄りたちから苦汁をなめさせられる羽目に落とし込まされるから、なんとも哀れである。

第8節 姨捨山思想の復活
 年寄りは姨捨山に捨ててもらうしかない。
 人類の歴史上、これがどれだけあったかは隠された出来事であるゆえ不明だが、日本で語られるところでは、たいていはお爺ではなくお婆である。これは男尊女卑の表れであろう。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想の復活は、年寄り、特に男の力があまりにも強いから、望みえない。エスキモーやアポリジニに残っていたこの文化も、もはや姿を消してしまったようである。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想は、次のようなものである。
 草食動物が肉食動物に追い回されて犠牲になるのは、幼い子どもであるとの認識が我々には強いが、これは草食動物が一時的に増えすぎたときの調整であって、一般的ではない。子どもでは小さ過ぎて、肉食動物の腹の足しにはどれほどにもならない。やはり大人の草食動物を捕らえたいが簡単にはいかない。そこで、長時間にわたり追いかけたり、後をつけたりして、大物を得ようとするのである。こうなると、体力が衰えた年寄りは逃げるのを止め、“俺を食え”とばかり肉食動物に横っ腹を見せて立ちはだかり、一人犠牲になって群の仲間を救うのである。ゾウほどの巨体動物となると、群に着いて歩くことさえ辛くなった年寄りは、静かに群れを離れ、肉食動物の餌食となって死を選ぶのである。
 しかし、我々が、テレビで野生動物の世界を、さもこれが真実であるかに見せられている番組は、100時間もカメラを回して1時間に編集するのが普通だから、全てフィクションであって、視聴率を稼げるドラマに仕立てている作り話なのである。基本的に、夜行性である肉食動物が真昼間に狩りをするのはまれであることからも、かような番組を信じてはならないのである。
 このように現実の野生動物の年寄りは偉い。姨捨山思想を自らのものとしている。
 この思想をしっかり持っていたのが、エスキモーやアポリジニであったのである。エスキモーは長距離移動を繰り返す。体力が弱ったことを自覚した年寄りは、“俺はここに残るから皆は行ってしまえ”と告げ、一人凍死を選ぶ。凍死寸前までいった山岳遭難者がそうであるが、凍死は痛くも痒くもなく、苦しくもなく、夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。一方のアポリジニの場合は、病気になった年寄りは住まい屋の外に放置され、そうされた年寄りは決して悪足掻きせず、静かに自然死を選ぶのである。こちらの場合はエスキモーと違って一晩で死ぬことはできず、何日かかかるのだが、水も飲まないのであるから、早晩死ぬことができる。通常の動物と違って、ヒトは絶えず水分補給せねばならない特殊な動物ゆえ、飲食を断てば早々に脱水症を呈し、間もなく血液がどろどろになって脳への酸素供給が滞り、つまり半分窒息状態になって夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。柔道の締め技が決まったときと同じ気分になるのである。
(ブログ版追記)
 日本には寝たきり老人がものすごい数にのぼる。寝たきりになっても点滴をし、鼻から流動食を流し込み、それができなくなっら腹に穴をあけて胃ろうをし、これでもかとばかり寝たきり老人の延命措置に手を尽くしに尽くす。西欧人は、この日本の現状を老人虐待という。彼らの世界には、今でもちゃんと姨捨山思想がしっかりとある。車椅子を自分で動かせなくなり、食事も自分の手で食べられなくなると、もはや神に召される日は近いと観念し、飲食を断つ。周りの介護者もそのような状態になったら手助けをしないのである。そうして飲食を断って1週間か10日すれば、静かに旅立つのである。日本でもこうしたやり方で寝たきり老人を一掃せねばいかんだろう。西欧にはそしてアメリカにも寝たきり老人は基本的に存在しないのであるから。
(追記ここまで)
 団塊の世代は、いやになるほど実に大勢の人間がいる。我々の一世代上の80代、90代の年寄りでさえ、今や多すぎる状態にある。このまま推移すれば、20年、30年先には、日本はあまりにも醜い姿の年寄りであふれ返る。若者たちに恨まれ、憎まれ、いたずらに余生を送るのではなく、姨捨山の思想をしっかり持たなければならないのである。
 それが嫌なら生涯現役で働くしかない。「働く=ハタラク」とは「傍(ハタ)」を「楽(ラク)」にすることであり、周りの人に何らかの手助けができ、周りの人に年寄りの存在を喜んでもらえればいいのであって、銭を稼ぐばかりがハタラクことではない。ハタラクということは、死の直前まで可能である。(ブログ版追記 そして、死期が近いと悟ったら、自然死を選べばいいのである。“もう何も食いたくない、もう何も飲みたくない”と飲食を断つのである。そうすれば、1週間か10日で安楽に静かに旅立てるのである。死期断食の実行である。)

第9節 若者文化の醸成
 若者に老後の面倒をみてもらうなどということは、動物の世界には決してない。若者に迷惑をかけるなどということは決してしないのが動物である。加えて、若者の邪魔をしない。チンパンジーやニホンザルの社会にも文化があり、極めてゆっくりではあるが、その地域地域で異なった新たな文化が醸成されていく。その文化を構築していくのは必ず若者であり、大人たちとの間にどれだけかの軋轢が生ずるのは確かである。大人は決して若者が切り開いた文化を受け入れようとはしないのであるから。しかし、彼ら大人たちは、絶対に若者たちの邪魔をしない。静かに見守ることに徹している。それが動物である。
 我々人間が見習わねばならない最大の心構えがここにある。若者が作りあげようとしている新たな文化を決してけなしてはならないのであり、ましてや抑え付けてはならないのである。絶対に。
 それが、どうだ、これは文明というものが誕生してからだろうが、社会規範なり道徳というものは、儒教がいい例だが年寄りに有利なように定められ、これが、国家が国民を支配するのに好都合だから、それが正しいものだとされ、若者を抑え付け、縛り付け、そして洗脳する。
 年寄りにとっては、こうして出来上がった社会規範なり道徳というものは、実に有り難いことではあるが、これによって、年寄りを支える壮年層そして若者さらには子どもが苦しめられる。
 世代はどんどん更新されていく。団塊の世代も孫を持つようになった。子どもは若者以上に純真であり、素直であり、どんな風にも染まってしまう。“自分がそのように染められてきたから、お前たちもそのように染まれ。俺たちはこうしてやっと我が世の春が来たのだから、これからは楽をさせろ。”でいいのだろうか。
 多難な人類の将来ではあるが、明るい未来づくりは今の子どもたちの手腕にかかっている。彼らがすくすくとたくましく成長することを願わずにはいられない。小生に孫はいない。黙って周りにいる子どもたちを見守るしかないのは少々寂しいが、間違っても余計なおせっかいをやかないでいきたいと思っている。
(ブログ版追記 本節は13年前の初版を大幅に書き換え、小生の今の心境をつづりました。なお、初版では、彼ら子どもたちに贈る言葉はまだ小生は持たないとして、司馬遼太郎が小学校6年生の国語の教科書に載せた「21世紀に生きる君たちへ」をあとがきに代えて掲載して、本論を閉じたところです。)

つづき → あとがき

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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