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食の進化論 第6章 ついに火食が始まる

2020年10月25日 | 食の進化論

食の進化論 第6章 ついに火食が始まる

第1節 史上最大の文化大革命
 前章でヒトの「食性革命」を述べた。これは消化器官の形質変化であり、つとめて生物学的なものである。これをヒトの「第一食性革命」と呼ぶとすると、ヒトの「第二食性革命」が「火食」である。
 ヒトがいつから「火」の利用を覚えたのかは諸説あるものの、確実な証拠として炉の跡が見つかったのはフランスのテラ・アマタ遺跡であり、40~35万年前にできた地層の中から発見されている。これが最も古い。焚火の跡と推測されるものでは約79万年前の遺跡がイスラエルで発見されている。
 火の利用としてもっとも有名なのが北京原人であり、約50万年前の周口店遺跡の洞窟がそうである。でも、その遺跡には火を使った確定的な証拠がなく、異論もあって定かではないが、なんにしても数十万年前に人類にとっての最初の激しい「文化大革命」が起き、原初の文明が劇的に開化したに違いない。
 ついに、「火」の利用を覚えてしまったのである。「覚えた」と、積極的な表現にすべきではあろうが、これが人類にとって輝かしい未来の始まりであったのか、悲しい出来事の始まりであったのか、それはまだ結論が出ていないと思うから、あえて消極的な書き方をした。
 たしかに「火」の利用は、他の動物には決してできないことであり、人類にとっての最初の偉大な科学技術の取得と言えるのであるが、今日、時代の最先端を行く科学技術の恩恵を受けている我々日本人の高度文明社会のほうが幸せなのか、それとも未開の地で原始的な暮らしをしている採集狩猟民のほうが幸せなのか、このことを対比した場合に、一概にこちらがいいとは言い切れないからである。
 なお、道具の使用を第一革命、火の利用を第二革命と言うのが一般的ではあるが、道具の製作を含めてその使用はチンパンジーでもかなりの程度にある。また、ヒトの祖先が作った石器は、あるときほんのちょっとだけ技術が向上し、その後は長期間停滞するという百万年単位の極めてゆっくりした段階的な進歩しかしていない。これは、あるとき何らかの新たに生じた生活変化に都合のいいように石器をちょっとだけ改造した、といった程度のもので、誰にでも考えつく技術であり、特段に評価するほどのものではない。もっとも旧石器時代後期(3万年前~)の石器製作の急速な技術革新は別だが。
 それに比べて「火」の利用は、ある所でそれこそ1世代で瞬時に手にし、2、3世代で瞬く間に広範囲に広がっていったであろうし、第6節で説明するがヒトの生活形態・社会形態を大きく変えてしまったに違いないから、まさに史上最大の文化大革命と呼ぶにふさわしい出来事であったと小生は考えるのである。

第2節 火の利用をどうやって覚えたのであろうか
 ヒトはどのようにして火の利用を覚えたのであろうか。それを想像してみよう。
 「火」なるものの存在そのものを知ったのは、原人よりずっと前であったのは当然である。多少とも乾燥する地帯であれば、落雷による山火事が発生することが往々にしてある。また、活火山の近くであれば、ときどき噴火して大規模な山火事を引き起こす可能性が大である。
 しかし、近くでこんなことがあれば、必ずや一目散に逃げたであろう。得体のしれない「火」に対する単なる恐怖からであり、動物と全く同じ感情から生まれる逃避行動である。ヒトの一生になかで山火事が何度も起きることがまれにあるも、その度に逃げ、安全な遠く離れた場所から「火」を眺める。そして、恐れの感情をその度に持つ。単なる動物であれば、その繰り返しで終ってしまう。
 ヒトも長い間そうであったろうが、自然現象の怖さを他にも経験することがある。異常気象による長期間にわたる猛烈な日照りでほとんどの植物が枯れて、食糧が手に入らない年がある。そんなときには、太陽つまり「日」に対する恐れの感情が起きる。その跡に雨季が来て大洪水となり、あらゆるものが押し流されれば、「水」に対する恐れの感情が起きる。こうして、不運にも複数の自然現象に対する恐れを幾度も連続して経験するヒトの祖先たちがどこかに必ずいた。
 そうした彼らは、単に恐れから逃げ回るだけの動物的行動から一歩進んだ、ヒトにしか取り得ない行動をついに取ったと思われる。いつの時点からかは分からないが、それは「宗教」の発生である。
 「火」と「日」と「水」は相互に関連した「天」の現象であり、ヒトの力をはるかに超越した得体のしれないものが引き起こす現象であると認識する。そして、ヒトを超越した圧倒的な力を持つ何か分からないものの「存在」というものをここに初めて意識するに至る。
 この3つの自然現象をひっくるめて意識すれば一神教の始まりであり、別々に意識すれば多神教の始まりである。いずれにしても、ヒトは超越した「神」の「存在」というものを信ずるに至る。そして、自分たちはあまりにも非力であり、超越した「神」に対して、皆がひれ伏し、畏れ多きものとして崇め、それに身を委ねるしかないという「こころ」を持ったのである。
 別の見方もある。「呪術」の発生である。「呪い」といっても広い意味での「呪い」であって、「宗教」と対比した分類である。「呪術」とは、願望を実現するための祈りのことを言い、空恐ろしい「生き物」である「火」が暴れまわっている方角を遠くから眺めつつ、皆で早く鎮火してくれと、「こころ」に祈る行為そのものが「呪術」である。[参照 超越者と風土 鈴木秀夫著 原書房]
 「あることをなせば、あることがなる。」と考えること自体が「呪術」であり、それは「科学」でもあり、「呪術」と「科学」は一体のものである。[参照 森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫著 NHKブックス]
 「宗教」にしろ「呪術」にしろ、これらは自然現象からの逃避ではなく、自然現象と何らかの関わりを持つことであり、これはヒトにしかできないことである。「宗教」と「呪術」、そのどちらが先なのか分からないが、いずれにしても、あるときからヒトの祖先は「火」と「こころ」の関わりを持つに至った。
 旧人のネアンデルタール人は埋葬の習慣を持つに至ったから、「宗教」または「呪術」を行なっていた証拠であり、自然現象との関わりを持っていたわけだが、その前の原人ハイデルベルゲンシスの時代にすでに「火」をものにしており、彼らに埋葬の習慣は確認できないものの、何らかの形で「宗教」または「呪術」を持っていたと考えたい。

 自然現象との関わりを持たない段階では、「火」というものは、呼吸を困難にしてしまう、白や黒の煙幕を吐き出すと同時に突風を巻き起こし、あらゆる動植物を殺し去ってしまうという、まったく得体のしれない空恐ろしい「生き物」であると捉えたであろうからして、恐怖のあまり、ただひたすら逃げるだけで、「火」から少しでも遠ざかろうとすることしかでき得ない。
 たとえ「火」が消えても、「火」がいつ何時再び襲ってくるともかぎらず、ずっと時間が経ち、雨が降って静まり返り、きな臭さが完全に消えてからでないと、怖くて焼け跡にはとうてい近づき得ない。
 ヒトは最も好奇心が強い動物であると考えられるが、よほどの勇気のある者であっても、完全に静まり返った焼け跡を恐る恐る覗き込み、見たこともない灰に毒がありはしないかと、ちょっと触れるだけで後ずさりするしかなかったであろう。そのとき、すでに「火」はない。
 もし、そこで、彼らが主食としていた芋がうまいぐあいに焼けて焼き芋になっていたとしても、表面は黒く変質しており、気味が悪くて、とえも食べようという気にはなれなかったに違いない。
 皆が安心して近づけるようになるのは、焼け跡に見慣れた草木が芽吹いてからであったであろうし、その場合であっても、黒く立ち枯れした樹木の表面を覆う炭は、初めて目にするものであり、容易には触ることもできなかったであろう。
  ところが、「こころ」に「宗教」または「呪術」の考え方が生まれ、「火」に対して「こころ」の関わりを持つに至れば、「小さな火」であれば、間近で見てみようという勇気を持つ可能性が生まれ出てくるであろう。
 それでも、「火」は得体のしれない恐ろしいものであるという認識は当然にあり、鎮火し、煙がほどんど治まってからでないと、近づきはしなかったであろう。近づくとしても、よほど勇気がないことにはできず、それは当然にして好奇心が旺盛な若いオスたちである。
 小生は、超越した神に対する信仰、すなわち宗教からヒトの行動を想像することは苦手であるので、おおかたの日本人に備わっている呪術の思考方法にのっとり、落雷による山火事から「火」の利用を会得したとして、以下、思い巡らすこととする。

 ある所で乾季の終わり頃に、山火事が起きた。ほぼ鎮火した頃に、好奇心旺盛な若いオスたちが現場を見に行こうということになった。ほとんど鎮火して、わずかな煙しか立ち上らなくなった焼け跡に近づくことができた彼らは、偶然に「残り火」を目にした。
 立ち止まって、おっかなびっくり遠巻きにしてそれをじっと眺める。無意識的に全神経を集中して鋭く観察する。静かに「残り火」は消え、彼らも静かに現場から立ち去る。しかし、彼らの脳裏には「火」というものの在り様がしっかりと焼き付けられる。
 ヒトは考える。そして、思い出す姿から「火」の持っている、ヒトの能力をはるかに超えた類まれなる力のごく一部を認識することになる。彼らは思った。「火」というものは、動物でもない、植物でもない、得体の知れない「生き物」であると。
 「火」は、雷鳴とともに雷光に沿って天から地上に降り立ち、その姿を炎として変幻自在に変え得ることができる「生き物」である。消えてなくなっても、風が吹けば、その近くからまた新たに生まれ出ることができる。乾燥した植物や小さな植物を好んで食べ、強い光を発し、植物を煙に変え、ほとんど跡形もなく大気中に放散させてしまう力を持っている。そして、「火」という「生き物」の排泄物は灰である。
 ところが、「火」には弱点もある。あまりに湿っぽい植物や大木は食べることを途中で放棄しており、また、水溜りの植物は食っていないから、「火」は「水」を嫌う。そして、食べ物がなくなれば、死んでしまうのか、あるいはヒトに察知されることなく姿を変えて、どこかへ飛んでいってしまう「鳥」のような「生き物」でもある。
 このように考えたであろう。なお、この章をいったん書き上げた後に知ったことをここに付記しておく。
 それは、タンザニアに住んでいる狩猟民トングウェ族であるが、彼らは、雷は四本足の大きな雄鶏のような動物であると今でも信じているとの、生態人類学者・伊谷純一郎氏(京都大学教授:故人)の報告があるから、小生の想像もあながち間違っているとは言えないであろう。
 また、アフリカ大陸の地中海側を除く広大な地域とアラビア半島のアフリカ寄りの地域の大半が、鶏の肉と卵を食べることをタブーにしており、他にはない奇妙な食文化分布をしていると、地理学者の鈴木秀夫氏(故人)により指摘されているが、これも雷が雄鶏であるとの信仰と密接に関連しているのではなかろうか。
(挿入ここまで)
 「鳥」のような「生き物」が再び活動するときが来た。何年もしないうちに再び近くで山火事があった。前回にも「残り火」のあった現場を見ている者が、今回の山火事の焼け跡も見に出かける。そこでも都合よく「残り火」を発見した可能性は高い。恐怖心は前よりうんと薄らいでおり、彼らの観察はより接近し、より広範囲に、より時間をかけて行い得たに違いない。
 「残り火」が少し大きく炎を上げると、お日様が雲から顔を出したときのように、瞬時に暖かさがもたらされることを知る。ちょうどその頃、朝晩が冷え込む時期であって、自分たちの仲間で極度に寒がる病弱な者がいたとすれば、「火」というものは、お「日」様と同じ恵みを昼夜もたらしてくれる有り難い存在として認識する。この「火」を持ち帰れば、暖房として役に立つであろうと考える。
 「火」は得体の知れない恐ろしい「生き物」だから、そんなことは止めようと言う者の意見が強ければ、そこでストップしてしまい、「火」の利用にはつながっていかない。その可能性のほうが高かったであろう。
 しかし、地球上のどこかでドラマが生まれる。死に瀕した誰かがおり、異常に寒がっており、暖房で命が助かるかもしれないという切迫した事態が伴えば、そのためだけだぞ、という条件付きではあったろうが、ヒトは「残り火」をおっかなびっくり手にして持ち帰ることになるのである。そして、その「火」のお陰で死に瀕した者が助かり、「火」に大いなる感謝を捧げた。
 有り得ないことはないドラマである。そして、ドラマは続く。「残り火」を持ち帰ったものの、最初は「火」は恐ろしいものであり、いつ何時大きく生長して我々皆を焼き殺してしまわないかとの不安が伴い、「残り火」を持ち帰った者と病人以外は、遠巻きに見守るしかなかったであろうが、数時間もすれば彼は「火」の取り扱いに慣れ、それを観察していた皆も学習し、「火」に対する不安も弱まる。
 「残り火」は「火」の赤ちゃんであり、食べ物が少なくなれば死ぬか、どこかへ行ってしまうものであり、食べ物が多ければどんどん成長して子どもになり、パチパチと声も出し、少しばかり怖いが我々に暖を与えてくれる有り難い存在として認識する。さらに食べ物を増やし続けると、「火」はあっという間に少年から青年そして大人へと急成長し、巨大な「生き物」として暴れまわるであろうことは想像に難くないと思ったであろう。
 たった1回の緊急的かつ限定的な「火」の利用として「残り火」を持ち帰ったのであるが、病人が救われたその翌日には、恐怖感を拭い去れない一部の者たちから反対意見が出されたであろうものの、「残り火」は永遠に手に入らない可能性が高いものであるから、恒久的に保存すべきとの意見が勝り、その日以降「残り火」は消されることなく、永久に燃やし続けられることになったのである。
 こうして、「呪術」の思考から、「あることをなせば、あることがなる。」という「火」の「科学」の一部をものにしたのである。そのように考えたい。

第3節 木の実の火食を始める
 生き物である火への恐れが薄れると、科学はさらに前進する。この生き物は、乾燥した木の枝や葉っぱ以外に何を食べたがるであろうか。好奇心旺盛な若者はきっとそう思ったであろう。その若者は遊びとして、その火の中へ木の実を放り込み、じっくり観察する。
 幸運にも、木の実がパチンと弾けて足もとへ飛んできた。それを拾い、火を眺めながら、恐る恐る口へ持っていったであろう。火という生き物は、自分の食べ物を他者に取られても怒る素振りは全く見せない。それを全身で確認しつつ、ゆっくり一口食べてみる。
 その食感は、生の木の実とは大きく変化しており、初めての味覚である。生から灰になる途中の段階の物、つまり火の命を養うものがこれである、と感じたであろう。
 さらにに自己観察は続く。火の命を養うものを食べた自分の体になんら異常は感じない。毒に変化している様子もなく、食べた自分が火だるまになって燃え上がる気配も全く感じない。時間が経っても健康を害する様子も全くない。でも、安心はできない。こんなものをあまり食べ過ぎると、自分が燃え上がって死んでしまうかもしれない。なんせ火という生き物が欲しがる食べ物と同じものを食べるのだから。
 そう思うと、逆に「火食」は極めて刺激的な遊びとなり、異常に興奮するものである。翌日に2度目のチャレンジを試みる。パチンと弾けてもそう都合よく足もとへ飛んでこないから、棒っ切れで掻き出す。一口食べてみる。昨日と変わらぬ食感だ。食べられない木の実の皮は火にくべてやればよい。火はすぐさま炎を上げて皮をきれいに食べ尽くしてくれ、火は実より皮を好むことを知る。塊より薄っぺらい物が燃えやすいという新たな知識も会得するに至るのである。
 こうして、頻繁に木の実の「火食」を刺激的な遊びとして行う若者が現れ、それを真似する若者が出てきてもおかしくない。こうして木の実の「火食」が若者文化として定着する。もっとも、初めはおっかなくて一口しか食べなかったであろうが、慣れてくると1個、2個と数が増える。通常の食事とは別の、刺激的なおやつとしての食文化である。これを繰り返しても、彼らの誰にも体に異常は起こさない。すると、若者に続いて若者予備群の子どもたちがその真似をし、この食文化は若年層に広がりを見せる。
 ただし、大人や老人は食に保守的であり、食べたことがない物を口に入れることに大きな抵抗感を持ち、誰も真似をしなかったであろう。しかし、2世代、3世代の経過で、当時の若年層が皆、老世代になってしまい、その集団全員にこの文化が定着し、永久に伝承されることとなる。
 海水でサツマ芋を洗い、泥落しと塩味付けを覚え、これを伝承している宮崎県幸島のニホンザルの「芋洗い文化」の発生と全く同じ道をたどるのである。ニホンザルの大人の場合、子どもの頃に海水をなめた経験からか、海水は毒という観念があるようで、毒を塗った芋は食えないという思い込みが強いのであろう。したがって、1匹の若ザルが始めたこの文化も、当時の大人は決して真似をしなかったという経緯がある。ヒトの祖先も同様であったろう。
 ところで、木の実の「火食」文化が広がりを見せる初期段階で、ヒトの祖先の大人は、単に真似をしなかったという消極的な対応であったのか、若者の「火食」文化を止めさせようと積極的な阻止行動に出たのか、どちらであろうか。大人たちはその保守性が表に立ち、止めさせたいと思ったであろうが、「火」は「生(なま)」を変化させて「灰」を出すのに対して、「ヒト」は「生」を変化させて「便」を出し、どちらも大きな変化を伴うものであり、「火食」しても心身ともに健康を害する様相がないから、毒だから食べるなとも言えず、じっと見守るしかなかったのではなかろうか。そんなふうに思ってみたい。
(ブログ版追記 愛知県犬山市にある日本モンキーセンター(隣接する京都大学霊長類研究所と密接に交流)では、ずいぶん昔から園内で職員が行う焚火にニホンザル(最初は子ザルだった)が火を恐れずに近づいて暖を取るようになった。そして、いつしか職員が焚火にサツマ芋を入れて焼き芋にして与えたところ、これをサルが食べるようになり、今では焼き芋が大好物となり、奪い合うようにして食べている。これは、人間が火を恐れず、人間がくれた安心できる食べ物ということから、焼き芋を食べるようになったのであろう。火に対する慣れはニホンザルに生じても、焼き芋を独自開発するのはちょっと無理であろうと思われる。)

第4節 芋の火食を始める
 その後、木の実の「火食」文化は、おやつという位置付けから、通常の食事への組み込みへと少しずつ進んでいったことだろう。そして、木の実にどれだけも遅れることなく、芋の「火食」へ向かったに違いない。
 最初は木の実と同じ方法で焼き芋を作ったであろうが、表面近くは焼け焦げ、芯は生のままでむだが多い。そこで、すぐに「石焼き芋」づくりを編み出したことであろう。熱く焼けた石を火から取り出して、その中に芋を挟み、焦げすぎを防ぎ、芋を丸ごと全部食べられるようにする調理法の発明である。
 火という生き物の力を横取りする方法であり、木の実と同様に、大人は決して食べなかったであろうが、世代から世代へと伝えられ、直ぐに「火食」文化の一つに加えられてしまう。石焼き芋は、芋を食べやすくし、消化を良くし、なによりも味を変化させるから、最高のご馳走となる。当時、主食となっていたであろう芋である。石焼き芋文化は広く定着していったに違いない。
 こうなうと、何にでも応用が利く。火という生き物の力を借りて、あれこれ次から次へと試し、「火食」文化に加えていく。今まで食用にしていた草の葉や茎も芋と一緒に大きな葉っぱに包み、焼けた石で蒸し焼きにすれば、柔らかくなって食べやすくもなる。今日、熱帯や太平洋諸島で日常的に採られている蒸し焼き調理法が、この当時から行われるようになったことであろう。

第5節 火は最初の家畜である
 「火」というものは、最初は皆が恐れおののいていた怖い「生き物」であったが、ヒトはたった2、3世代というあっという間の期間経過で、「火」なるものをものの見事に「家畜」にしてしまった。小生はそう考える。
 火を自在に扱えるようになった原人たちは、きっと次のように思ったであろう。
 火はヒトを超越した神であり、火山噴火や山火事は火の神が引き起こし、激しく燃え盛る火柱は神の化身であって、暖をとったり調理に使う焚火は精霊を持った生き物である。こうした宗教的な三位一体の認識を持ちつつも、同時に、自分たちは焚火という生き物を自分たちの好みの場所に住まわせ、自分たちの好みの勢いに制御し、かつ、その生き物の能力を最大限に引き出すことができる、一段上の存在であると。
 このことは、生き物である焚火を、無意識的に「家畜」として捉えたことになる
のである。ここで、「人間」の「おごり」なるものが初めて芽生えたことであろう。万物の霊長としての意識の第一歩を切ったのである。
 火の利用法は、近隣の部族社会に積極的に伝授されたであろうし、そして遠く離れた、まだ火の利用法を知らない部族社会との交流でもあれば、威張ってそれを教授したことであろう。
 原人の初期に、すでに道具を自在に扱う掌(親指対向性)を手に入れていたから、武器を用いてチンパンジーに戦いを挑み、勝利した可能性があったことを前に述べた。小生はこれを否定したが、もしそれがあったとしても、それは単なる弱い者いじめであって、ヒトの凶暴化に過ぎず、「おごり」ではない。その後において、石器の発明があったが遅々とした歩みであったから、より使い勝手の良い石器を作ったとしても、それは自慢比べの域を出ず、これも「おごり」ではない。
 これに対して、ヒトに大きく勝る力を持った神の化身である「残り火」という「生き物」を、かくも見事に手懐けてしまったという、まさに革命的な技術を体得した人間が、その英知に酔いしれたとしても不思議ではない。そこに「人間」の「おごり」を見るのは小生だけか。
 火の利用の体得は、人間の技術そして文化の第二革命として一般にこれは称賛されているし、小生とてそれを否定するものではない。しかし、そこに「人間」であるがゆえの「落とし穴」があることを決して忘れてはならないと思うのである。

第6節 生活形態・社会形態の変化
 本章の冒頭で、火の利用は史上最大の文化大革命と言ったが、火の利用によって植物性の食べ物の火食が定着し始めると、必然的に生活形態・社会形態に革命的な大きな変化をきたすことになるからである。
 それを以下、説明しよう。
 ヒトの祖先が火の利用をまだ知らなかった時代には、採集した食べ物は、銘々がその場で自分勝手に食べていたことは間違いない。毎日の食事は、子どもであっても自分で食べる分は自分で採集し、その場で食べるという時代であったのだ。
(ブログ版補記 のちほどの説明と関連するので、ここで先に紹介しておくこととするが、霊長類社会には崇高な食文化がある。いったん誰かが手にした食べ物は、それを手にした者だけに食べる権利「所有権」があって、絶対に他者
はそれを奪い取ってはならないという不文律があるのだ。イヌやネコは奪い合うがサルにはそれがないのである。これは一産一子がゆえに生まれた社会文化であり、これは幼少教育によって育まれる。よって、いかに横着な若ザルであろうと、子ザルが一瞬早く手にしたおいしい食べ物は、決して奪い取ることなく、うらめしそうに指をくわえて眺めているしかないのである。ただし、人間が餌付けした群にあっては、この不文律が物の見事に吹っ飛ぶ。人間がドサッと与えた餌は、自然界で細々と採集する食べ物とは全く異質のものとなり、悲しいかな、彼らを「餌を奪い合って持ち去る」という行動に走らせてしまうのである。営々として築き上げてきた霊長類社会の崇高な食文化がここに一気に崩壊し、群は荒れる。社会秩序の崩壊であり、群社会に喧嘩が絶えなくなる。よって、こうした餌付けの失敗経験から、近年の野生霊長類の生態研究は、餌付けをしないで行われるようになった。)

 今までの食習慣である「自分で食べる分は自分で採集し、その場で食べる」という形を取らずに、一つの集団の皆で仲良く火食するとなると、第一に「運搬」、第二に「共同調理」、第三に「分配」という、経験のない難しい行動を皆の合意のもとに一つずつ実行しなければ決して実現しない。
 この時代には、まだ現在のような家族制度は全く発生しておらず、一家の主が統率し、妻が家族のために調理するなどという生活とはかけ離れた社会形態であったことを念頭に置いておかねばならない。時代がずっと新しくなった集落の炉の遺跡でさえ、少数の炉しか存在し得なかったのである。これは一集団が共同で調理していた証拠である。
 火食が遊びの文化の域を出ない段階では、少数の仲間でときおり一緒に調理すること、それ自体が遊びであったろうから、遊びゆえに共同調理ができたであろうが、一集団の皆が毎日のように一緒に火食するとなると、そうはまいらぬのである。
 先にあげた3つの行動の難しさを説明しよう。
 第一の「運搬」については、採集したものを、その場では手を付けずに我慢してわざわざ持ち帰るという余分な労働をすることを皆で合意せねばならない。その集団の長老たちが皆を理解させ、従わない一部の者に対しては強制してでもそうさせなければならないのである。これだけを捉えても容易には事は運ばない。
 なお、ここで長老たちと言ったが、複数ではなく一人であったかもしれないし、年寄りではなく実年のリーダーであったかもしれない。いずれにしても、火食に関しては集団を統率するのはオスであったであろう。なんせオスの遊びから火食が始まったであろうから。
 第二の「共同調理」については、その面倒なことを幾人かが代表して行わなければならない。一つの小さな焚火に皆が集まり、銘々が運んできた物を銘々が焼いて食べようと思っても、狭くて混雑するし、混ざり合ってしまう。少量の木の実であれば、これは可能であるが、石焼き芋づくりとなると、これはとうてい不可能なことである。焼き石はどれだけもないから、一か所に集めないことには極めて効率が悪い。
 そのために幾人かの勤労奉仕が求められるのである。自分のことは何もかも自分でやるのがごく普通の時代にあって、他人のために勤労奉仕するなんてことは思ってもみなかったのだから、難しいというか、戸惑うことになろう。でも、オスどもが遊びで始めた火食であるゆえ、石焼き芋づくりもオスたちが遊び感覚で自主的にやったであろう。しかし、毎日のように単調な仕事の繰返しとなると、オスは飽きてしまう。オスとはそういう動物である。遊びという刺激がないことには容易には動こうとしないのがオスである。
 根気よく毎日こつこつ単調な仕事を繰り返しうるのは、子育てを必然的に経験して忍耐力を持つに至ったメス以外にいない。調理は、こうして彼女たちが受け持たざるを得ず、ある程度手が空いた、つまり乳離れした子どもを持つメスが勤労奉仕の中心となったことであろう。
 なお、「共同調理」の実施は、銘々が「運搬」してきた食べ物が誰のものだかわからなくしてしまい、霊長類社会に培われた食べ物の所有権を放棄させる大問題でもあり、難題を抱えているのだが、それは第三の「分配」という行動と密接に関連する。
 石焼き芋なり、各種の植物を蒸し焼きにした食べ物を皆に「分配」するという行動は、非常に高度な文化であると言わざるを得ない。
 現生のゴリラには、食べ物の分配行動は全く観察されていない。チンパンジーに散見され、ボノボに少し習慣化が生じているが、それも母親と乳離れして間もないどもとの間であったり、オス・メス間の性との交換条件付きであり、奉仕活動とは異質のものである。
 類人猿において、大人のオス間で分配が行われるのは、チンパンジーが動物狩りをした場合の獲物に限られるが、これも仲良く分け合うというものでは決してなく、第2章第7節で書いたとおり、別の意図があって行われるものである。
 ヒトは、ここで非常に高度な文化性を発揮する。ヒト特有の形態であるところの犬歯の退化(オス同士が戦うためにある牙=犬歯を使わなくなったがゆえの犬歯の退化)が、これを可能としたと小生は考える。
(ブログ版補記 犬歯の退化は人類進化の最大の謎であり、これを解き明かそうとした者は誰もいない。誰かがこれを解明したとしても、それは論証不可能であり、仮説の上に仮説を立てた単なる物語となってしまうであろう。だがしかし、その解明に挑戦したい。小生がそう取り組んで書き上げたのが「人類の誕生と犬歯の退化 目次&はじめに」である。お時間がありましたらお読みいただけると幸いです。)
 ヒトが犬歯を退化させたことによって、ヒトの「こころ」に「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」というものを生み出させ、これがあって初めて恒常的な「分配」行動が可能となるのである。小生はそう思う。
 仲間同士の間における軋轢を回避し、平和的に集団を維持する方法として人間社会が選んだのは、常日頃からエゴを抑え、我慢し、耐え忍ぶという努力を決して怠らないということであった。そして、何か事が起こったときには、「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」でもって、それを乗り切ったのである。それは、人類進化の長い道筋のなかで営々として築き上げてきた、ヒトが他のすべての動物に対して誇りうる、偉大な精神文化であると、小生は考える。
 この「こころ」が、採集してきた食べ物を1か所の焚火でまとめて調理し、それを皆に分配するという複雑な一連の方法を取ることを可能としたのである。
 ヒトそれぞれが「その能力に応じて働き」、ヒトそれぞれが「必要に応じて受け取る」という共産主義体制の理想を実現したのである。ここに人間性の本質がある。
 ところで、食糧の分配「必要に応じて受け取る」を適正に行うことは生易しいことではない。毎日のように複雑な多元方程式を解くことが求められるのである。食糧がたっぷり手に入ったときは、皆で好き勝手に手を出して気の向くままに食べればよいのであるが、いつもそのようにはいかない。時には不足することもあるだろうし、おいしいものとなると少量しか手に入らない。
 こうした場合には、乳飲み子を抱えた母親、妊婦、子ども、青年、大人が同量であってよいわけがなく、性差も考慮に入れなければならない。加えて、極端に不足する場合は、当然にして配分比率も変わってくる。したがって、毎日臨機応変に皆が納得のいく分配を円滑に行う必要が求められるのである。
 今日の未開の社会において、祭事や蜂の巣取りの後で、神官や長老が、ご馳走をものの見事に公平に分配している光景がよく見られる。公平とは同量ではない。乳飲み子を抱えた母親や妊婦は優遇される。太古の昔のヒトも、これをいとも簡単そうにやってのけたに違いない。小生はこれを絶賛したい。
 火の利用という文化大革命の最大の勝利は、科学技術の大きなステップアップではなく、所有権の放棄、勤労奉仕、そして食糧の適正配分という共産主義体制を確立させたことであったと総括したい。そこには、人間の「おごり」を抑えて余りある「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」を昇華させた人間性の醸成があったと信じたい。
 さて、人類がこの段階まで達すると、その呼称を「ヒト、オス、メス」と生物学的に表するのはいかがなものかと思われ、次章からは「人、男、女」と呼ぶこととする。

つづき → 第7章 ついに動物食を始める 

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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