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食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

2020年11月08日 | 食の進化論

食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

 動物は、その生息限度いっぱいまで数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した個体数を維持している。ある年、気候条件に恵まれれば食糧が豊富となり、普段以上に体に栄養が蓄積され、メスは妊娠しやすくなり、子育てもうまくいき、一時的に生息限度を超えた生息数となる。翌年、気象条件が悪くなれば、食糧が十分得られず、メスはやせ細って妊娠できなかったり、子が産まれても乳の出が悪くて餓死させたりして生息数を減らす。また、恒常的に食糧が乏しい地域にあっては、通常毎年出産するメスが隔年でしか出産しなくなることがある。ニホンザルにもそうした群が過去にはあった。こうして、生息数には自ずと上限が定まり、限度を超えた生息数は決して維持できない。
 人の場合、採集狩猟民は飽食することなく、質素な食生活でもあり、また、授乳期間が長くて3歳まで乳を与える所もあったりして出産間隔は4年になる場合もあり、かつ乳幼児死亡率も高く、人口はほとんど増加しないのが普通である。もっとも、近年は先進国の医療援助や食糧援助が彼らの社会にまで及び、急激な人口増加をみている所が極めて多くなってきているが。
 中期旧石器時代(約4万年前まで)は、動物一般と同様に、人社会もその人口は限度いっぱいまで生息数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した人口を維持していたに違いない。それが、後期旧石器時代(約4万年前から)に入ってから人社会にじわじわと人口増加が起こってきたのである。動物にはあり得ない生息数の増加、動物界唯一の例外となった人であり、それはどうしてか、そこで何を新たに食べるようになったか、それを本章において推察することとしよう。
 そして、後期旧石器時代に続く中石器時代(約2万年前から)と新石器時代(約1万年前から)さらに古代文明の発生(約6千年前)とその後についても併せて記述することとする。

第1節 後期旧石器時代の訪れ
 時代は大きく進み、最後の氷期であるビュルム氷期に入った。この氷期の中頃の約4万年前には、新人と呼ばれる現生人類のサピエンス人がアフリカから中東を経由してヨーロッパへと進出していった。彼らのことをクロマニヨン人と言う。クロマニヨン人は一段と進んだ石器を持つに至った。アフリカや中東そしてアジアにおいても同様に約4万年前から石器が急速に発達し始めるのである。
 後期旧石器時代の訪れである。世界各地で同時に石器が発達しだしたとも考えられるし、地域交流があって技術の伝搬があったとも考えられる。なお、自然環境の相違により、地域ごとに少しずつ特徴が違う石器が開発されていった。
 さて、後期旧石器時代の訪れは何を意味するか。サピエンス人が獲得した優秀なる頭脳によってもたらされた、というものでは決してない。彼らは、約20万年前ないし約15万年前にアフリカ大地溝帯で誕生したことは間違いない。彼らはヨーロッパへの進出に先立ち、約10万年前には西アジアへ、約7万年前にはアジア全域とオセアニアに進出をはたしているが、その誕生当時から約4万年前までは中期旧石器時代であり、遅々として石器の発達をみていないからである。
 それが、約4万年前に突如として石器を発達させ始めたのであり、併せて骨で作った釣針なども発明するに至る。これは、約4万年前から、どこもかもがだんだん今までのようには容易に食糧が調達できなくなったことを意味している。釣針で魚を釣るなどというやり方は、遊びなら別として、極めて生産性の悪い方法であり、これが一般化したということは、それだけ獲物が捕れなくなったことを意味していよう。
 中東や西アジアでどれだけかの人口増加があって、過疎が解消され、集団と集団との間の無人地帯が消滅していったと考えてよいであろう。この段階で、これらの地域では、狩猟対象動物の生息密度が急激に低下したに違いない。ために、草食動物がそう容易には捕れなくなり、狩猟技術の高度化で対応したのであろうし、不足分は魚を釣ることでしのぐことにしたと考えられる。また、草食動物を追う肉食動物をも、危険を冒して狩猟の対象にしていったことだろう。罠と槍の改良で対応できる。
 人はこの生息密度を解消せんとして、縁辺部のまだ過疎である地域への移動を活発に行い、瞬く間にユーラシア大陸全域にわたって進出を果たし、過疎が解消されたことであろう。
 人は、これまで自然生態系の一員として、環境を変えることなく暮らしてきたが、ついにそのバランスを崩す第一歩を踏み出してしまったのである。
 人以外の動物はその動物に固有の食糧が減少すれば必ず生息数を減らし、それが恒常化して種全体の存亡の危機となれば代替食糧を開拓するという、自然生態系の摂理に従って生きている。
 それに対して人は、代替食糧を求めるという自然の摂理にはどれだけか従ったが、人に固有のものとしてしまった動物食を従前どおり維持しようとして「神の手」(親指対向性という手の器用さ)
を使って効率よく食糧を得られる道具を作り、自らの生息数を決して減らそうとはしなかった。
 人は自然の摂理に歯向かう道を選んだのである。その第一歩が、後期旧石器時代の始まった約4万年前であり、これ以降、急速に段階的にこれを加速させていくのである。
 約4万年前にヨーロッパへ移住を開始したクロマニヨン人は、先住民のネアンデルタールが住んでいない無人地帯へ入り込んでいったであろう。 そして、先住民と新人は数千年間にわたり共存することとなった。彼らはどれだけかの交流をした痕跡があるが混血したかどうかははっきりしていないようである。(ブログ版補記:最近の遺伝子解析により、現在のヨーロッパ人及び一部のアジア人にどれだけかの混血が認められるとのことである)。その後、先住民のネアンデルタール人は約3万5千年前に忽然と姿を消してしまう。その原因は何か。歴史時代においては、寒冷化が数年も連続すれば、民族大移動が起きて、それに伴う戦争で大量殺戮が行われたが、それと同じことがこの当時にも起こったであろうか。でも、そのような痕跡は全くないし、決してそのようなことは有り得なかったであろう。ネアンデルタール人の絶滅の原因については、のちほど考察することとする。
 その後もヨーロッパでは人口が増え続け、過疎地も順次無人地帯を減らしていったであろうが、中東、西アジアを含めて、まだまだずっと後の時代まで飢餓に苦しむ事態までには至っていなかったと考えられる。もっとも、盛んに狩猟をすることになるから、動物は人を極端に恐れ、人を見たら一目散に逃げるようになって、狩猟がやりにくくなり、男の労働時間は少しずつ増えていったであろう。女子どもが中心であったであろう採集作業も時間がかかるようになったに違いない。
 そのクロマニヨン人も秋には飽食を味わった。河川にサケが遡上するからである。捕り放題、食べ放題である。北海道に住むヒグマも、捕り始めはサケを丸ごと食べるが、毎日腹いっぱい食べていると飽きがくるのか、終わりがけには卵(イクラ)しか食べなくなる。よって、クロマニヨン人もきっとそうしたであろう。
 そして、クロマニヨン人はついにとんでもない大発見をしてしまったのである。

第2節 性行為=妊娠=出産の連関を知る
 それは「性行為=妊娠=出産」の連関を知ってしまったことである。これは本能で知っていることでは決してない。性行為だけを捉えても、類人猿はそれを学習によってのみ知り得るのであり、人の場合もそうである。現に、中世キリスト教社会にあって厳しく育てられた貴族の子息が、結婚しても性行為をすることなく赤ちゃんの誕生を願っていたという事実が記録に残っている。これは例外ではなく、人は性行為の方法を教えられなければ、それを行うことは不可能なのだから。
 ましてや、性行為と出産との連関は知る由もない。動物全てがそうであるように、人もこれを知らなかったのである。何らかの方法で性行為の方法を知ったからといって、それを行なえば妊娠し、やがて出産することがどうして分かるのか。それは本能であるとの一言で説明されるが、小生は腑に落ちない。
 そもそも本能なるものがあるのか、それ自体が疑わしいし、あったとしても極めて単純な衝動的行動を取らせるだけであって、その行動が何かをもたらすかなどとは一切考えもしないのが本能であろう。
 通説では、動物のメスには優良な子孫を残したいという本能があって、そのためにはオスと性行為をせねばならないと考え、メスは精子を提供してくれるオスを吟味し、優良なオスが見つかれば、そのオスの精子をもらい受け、これで良い子孫が残せると喜ぶ、と。そんなことを動物のメスが思うわけがなかろう。
 複雄複雌群を形成するチンパンジーがいい例だが、メスは複数のオスの性を受け入れるのが一般的であるし、ゲラダヒヒのようにオスが群を乗っとる
単雄複雌群であればメスに選択権はない。メスがオスを選択できるのは、基本的に1雄1雌のペアで子育てをせねばならない鳥類などに限られる。
 メスにはそんな本能はないが、オスにはあるという見解もあろう。オスには自分の子孫を多く残したいという本能がある。よって、多くのメスと性行為をして自分の精子をメスに渡さんとして、オス同士で熾烈な闘いをせねばならない。これがオスの宿命である、と。こんなことをはたして動物のオスが思うであろうか。
 オスというものは、メスが発情期を迎え、フェロモンをまき散らしにかかると、射精時のオルガスムスを味わいたいがために、狂ったようにメスを求め、他のオスを排除しようとするだけのことである。
 類人猿のなかには発情期がはっきりしないボノボの例(常時発情と言っていい)があるが、人は女性が全く発情しなくなってしまった、非常に珍しい種である。また、女性は性行為をしてもオルガスムスをまず味わえない。加えて、人社会は、古代文明の頃からと思われるが、多くの鳥類のごとき1雄1雌のペア社会に変化した。人は、そういう極めて特殊な種であるし、太古の昔から一夫一婦の家族で暮らしていたという大きな誤解があるから、優良な子孫を残したいという本能があるなどと錯覚しているだけである。
 動物一般にメスに発情期があり、オスがそのフェロモン匂に惹かれてメスに接近し、オス・メス両性ともに性行為によってオルガスムスを味わおうとして狂う。そして両性に瞬間的に大いなる快楽が与えられて、しばし至福の時を過ごす。性行為とは、ただそれだけのことであり、ただそれだけで完結する。
 一方、出産という現象については、メスの体が大人に成熟すれば、自動的に出産というものが始まり、メスの一生が終わるまで、これが定期的に繰り返される、ただそれだけのことだ、と動物は思うのである。
 性行為と出産との間に連関があるなどとは、露とも思っていないのが動物である。そう断言できる。

 さて、イクラを食べたクロマニヨン人は、その連関をどうやって知ることができたかを考えてみよう。
 サケを捕らまえてイクラだけを食べようとするとき、半分は外れで白子しか腹に持っていない。彼らはイクラを食べ続けることにより、すでにサケは人と同様にオスとメスの両方がいることを知っていた。メスが産卵するやいなや、そのメスを追い回していた何匹かのオスたちが一斉に白子を放出する。そのとき、両性ともに体を震わせ、口をあんぐりと大きく開ける。
 この時代の人社会は、複雄複雌群(それも男どもが他の複数の群の女たちの所へ集団で出かけていく通婚)であったことに間違いないから、サケが自分たちとよく似た行動を取っているなと思ったであろう。違いは、サケが水中に射精することと、性行動と同時に産卵することである。
 これを幾度も観察していた好奇心旺盛な若者、人類史上で最も偉大なる無名の生物学者がついに登場する。彼は、その好奇心のあまり、白子なしでイクラが孵化するかどうかの実験を開始するのである。サケを何匹か捕らえてきて腹を裂き、イクラを取り出し、サケが遡上しない谷川の石に付着させる。対比実験として、その下流に白子をかけたイクラを同様に処置する。そして、孵化するかどうか観察するのである。
 何日か後、彼は歓声を上げる。分かった! 我々男どもは女に言い寄り、性交し射精する。それは単なる快楽だけではなかったのだ。その行為により、女は妊娠し、そして出産するのだ、と。
 動物のなかで「性行為=妊娠=出産」の連関を知っているのは人だけであり、それも、この時点で初めて知ったことであろう。後期旧石器時代に入ったところでの、イクラを好んで食べ始めるようになったであろうクロマニヨン人が、初めてそれを発見したと、小生は思うのである。サケが群をなして大量に遡上し、白子で白濁した川を見ないことには、こんなことはとても思いつかないであろうから。
 

第3節 第二文化大革命の嵐 
 この史上最大の大発見により、人社会は従前の通婚式複雄複雌群の婚姻形式を急激に変えてしまうような「第二文化大革命」の嵐に遭遇することになったに違いない。男は「夫」となり、「妻」と「息子や娘」を持つという、新たな概念を生み出させ、今まで考えもしなかった意識を芽生えさせたのである。それは、男どもに「父性愛」という観念を持たせたことである。この父性愛は類人猿にはなく、この大発見以前の人にもなかった。
 これによって、男どものこころに「自分の生まれ変わりを作りたい」という欲望を芽生えさせ、それまでは抑えられていたであろう、チンパンジーに顕著にみられる特定のメスの独占を巡るオス間の闘いやオスの順位付けという動物の本性があらわになろうとしたことであろう。そして、特定の女とその子どもの囲い込みをしたいと思うようになったことであろう。
 男どもが、その欲望のままに突き進めば、早々に家族の発生であり、これは今まで営々として築き上げてきた平穏な人社会をぶち壊す由々しき事態の発生である。しかし、こうした「第二文化大革命」は一瞬の嵐として収まり、従前どおりの平穏な社会を取り戻したに違いない。
 ここまで、一方的に男の立場から物を言ってきたが、この「第二文化大革命」の嵐は、実は女たちから巻き起こったものと考察される。それを静めたのが、男どもが新たに作り出した精神でもある「平等」思想ではなかったかと小生には思われるのである。この経緯については、かなり長くなるので、別立てブログの「人類の誕生と犬歯の退化 第5幕 ヒトから人へ」を
ご覧いただくこととして、話を先に進めることとする。
 男どものこころに、まだ「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が十分に残っており、この難局を乗り切るために、男どもは「平等」思想を新たに醸成することに成功したことであろう。人が科学して知った「性行為=妊娠=出産」の連関から生ずるところの男の欲望を抑え得る倫理観は「平等」思想以外にないからである。
 「愛」と「平等」は相反する観念であるが、男どもはこれを両立させることによって、不安定要素を抱えながらも、人社会を平和的に維持し続けたことであろう。なお、そうできたのは、まだこの時代には「私有財産」という観念が男どもには全然生じていなかったからである。マルクスの遺稿を元にしてエンゲルスが晩年に書き上げた名著「家族・私有財産・国家の起源」における原始社会の考察からして、これは間違いないことである。
 ここで、少々エンゲルスに物申しておきたい。この3つの発生の順番が違うのである。本来は「私有財産・家族・国家の起源」でなければならない。順番が違っては誤解を生むじゃないか。
 さて、男どもが抱いてしまった「父性愛」は、思わぬ現象を引き起こす大きな原因となってしまった。というのは、これがその後における人口爆発の序章となったのである。男どもが食糧採集するなかで、そのまま口にすることができるおいしいものを発見したとき、今まではその場で自分一人で食べてしまうだけであったが、男どもが父性愛を持つに至ると、決してそうしなくなる。そのおいしいものを持ち帰り、それを一部の女子ども(はっきりと特定はできないものの、子どもの顔が自分に似ていれば、自分が蒔いた種でできたと察しが付こうというものであり、息子や娘とその母親つまり妻)に、こっそり食べさせたいという感情が湧きだしてくる。
 しかし、それは平等思想に反するからダメだとブレーキが掛かり、ために、おいしいものが見つかれば、これから訪れるその集落の皆にいきわたるよう、こまめに探し歩いて多めに収穫するようになるであろう。こうした行動は、今日の採集狩猟民のなかにいまだに残っている風習(自集落の皆への手土産)である。
 すると、今までとは違って、皆がどれだけかの過食となり、ために女は妊娠周期を短くし、どれだけかの出産数の増加を見る。増加といっても、ほんのわずかの微増にとどまろうが、これはのちほど計算例を示すが、累乗で利いてくるから、千年、万年と経過すると無視できない値となる。そして、ある程度人口が増えると、食糧不足となり、子どもたちがひもじい思いをするから、父性愛でもって男どもは狩猟や食糧採集に精を出すようになって子どもたちを飢えなくし、人口は下支えされて減ることはない。
 こうして、その後に生ずることとなる人口爆発に、この時点で黄信号を点したと考えられるのである。
 なお、クロマニヨン人のこの大発見は、周辺地域へも伝えられ、早々に全人類が知ることになったであろう。長い人類の歴史を眺めていると、どの時代も技術や文化は思いのほか速く伝搬するものである。

 話は食性と随分外れてしまったが、ヨーロッパ情勢はこれにとどめ、他の地域の状況変化も見てみよう。
 ヨーロッパよりも人の生息密度が早くから高まっていたであろう中東と、ここに気候が類似する西アジア、東アジア北部での食生活はどのようであったであろうか。この地域は、ヨーロッパに比べて降雨が少ない。森林は一部の地域にとどまり、恒常的に草原が広がる地帯が多い。
 こうした地域でも、植物性の食糧は季節的な変化はあるものの年中どれだけかは得られる。しかし、芋の自生地は少なくとも現在の中東にはないようである。初めからなかったのか、採りつくしたのか、どちらか分らないが、植物性の食糧がさほど豊かな地域ではなかった。
 生息密度が低い時代には、それでも事足りたであろう。今日のサバンナに住むチンパンジーは数十頭で構成される一集団の遊動域が数百平方キロメートルにもなることはざらにあり、食糧はほとんどが植物性である。ところが、中東はアフリカで誕生した人のユーラシア大陸への通り道になっており、一集団の遊動域をそれほど大きくは取れなかったであろう。植物性の食糧だけでは絶対的に不足し、草原には草食動物がたくさんいたであろうから、不足分を動物食で補ったに違いない。
 中東における人の生息密度はヨーロッパより一歩先に進んでいたであろうから、草食動物が数を減らす時期も早かったに違いない。石器で代表される狩猟技術の発達も、まず中東から進んだことだろう。そして、ヨーロッパの大陸内部ほどではないにしても、動物食がかなり恒常的になっていたと思われる。
 一方、南アジアや東アジアの中部と南部では状況が丸っきり異なっていたと考えられる。南アジアや東アジア南部は、熱帯や亜熱帯であり、一般に湿潤気候である。こうした地域では、果物、芋が容易に手に入り、植食性の食生活が続けられ得る。でも、動物食の味を知った人であるからして、定期的に動物食パーティーが行われていたであろう。
 温帯に属する東アジア中部には常緑樹林帯が広がっており、果物は少ないものの木の実がふんだんに採れ、また、山芋や里芋の原産地であり、芋が容易に手に入ったであろうから、南アジアと同様な傾向の食性を保ったに違いない。
 本家本元のアフリカはというと、広大であるがゆえに地域によって寒暖・湿潤がバラエティーに富んでおり、様々な様式に分かれるであろうが、今までに述べたどれかの様式に当てはまると思われる。

第4節 氷期が終わり、間氷期に入る
 今から約1万5千年前に氷期が終わり、温暖な気候の間氷期(後氷期)に入った。これは現在も続いているのだが、氷河は大きく後退し始め、草原に代わって森林が順次広がっていった。植物相が豊かになり、植食性の食糧が増えたものの、草原の縮小により草食動物が減って、動物食に偏重していた地域では、初めて本格的な食糧危機がやってきた。
 後氷期になって絶滅に追い込まれた動物の種が非常に多いのである。これは、明らかに人による狩猟のし過ぎによるものである。最後の一匹まで捕り尽くさなくても、動物が生息数を減らして地理的分断が生ずると、その種の存続に必要な最低個体数を割り込むこととなる。近親相姦により子孫が残りにくくなるし、また、近親相姦は一般的に回避される傾向が強いからである。こうなると、狩猟の有無にかかわらず、その集団は短期間で絶えてしまうのである。こうして多くの動物種が絶滅していったと考えられる。
 動物が生息数を減らすと、代用としていた魚だけでは食糧が不足する。そこで、この頃に弓矢が発明されたのであろう(ブログ版で訂正:弓矢の発明は約6万4千年前)、森林に生息する動物の狩りが比較的容易となり、また、鳥もターゲットにされた。石器は、約2百万年にわたった旧石器時代が終わりを告げ、すでに中石器時代に入っていた。道具の一段の発達をみたのであり、これは狩猟が一段と難しくなった証である。
 後氷期の温暖化の始まりに伴って少しずつ海進が始まるが、シベリアとアラスカを分けるベーリング海峡にかろうじて陸橋が残っていた時代に、人は最後の処女地アメリカ大陸への進出を果たす。北方の草原で動物食主体の食生活をしていた者たちが、森林の拡大に伴う草食動物の減少により、獲物を求めて東へと進路を取り、滑り込みセーフで陸橋を渡り得たのである。その後すぐに陸橋は水面下に没し、海峡となってしまったから、移住できた人はさほど多くはなかったであったろう。
 先に、アメリカ大陸へ移住した彼らのその後を簡単に紹介しておこう。
 彼らは、たったの千年でアメリカ大陸の南端まで行ってしまった。驚異的とも思われる移動速度であるが当然でもある。アメリカ大陸の太平洋側には巨大なロッキー山脈とアンデス山脈が眼前にそびえ立っているから、容易には山越えできない。彼らはひたすら南下するしかなかったのである。狭くてどれだけも平地がない海辺や延々と続く切り立った崖を南へ南へと進むしかなかったのである。
 彼らは狩猟民族であったから、ひたすら動物を求めて移動したに違いない。そこにいた動物たちは人を警戒するということを知らないから、いとも簡単に狩りができる。多少開けた地域があれば、そこにとどまり狩りをする。わずかな労働で食が満たされるから、人口はあっという間に増えてしまう。やがて獲物が減ってくるから、一部の者たちがさらに南下していく。こうしてあっという間に大陸の南端にたどり着いてしまったのである。その後は、獲物が激減した地域から順次山越えをして山脈の東側の平原や森林に進出していく。
 外来種は、その食性に合った獲物がふんだんに存在すれば、あっという間に大増殖し、生息範囲を大きく広げる。日本に入ってきたアメリカザリガニがいい例だが、アメリカ大陸に移住を果たした人も同様である。
 新大陸へやってきた人は動物食主体であったと考えられる。新大陸では、こんな頃に短期間で絶滅してしまった動物種が数多くある。獲物が激減しても動物食への欲求が強く残っていて、植物性の食糧をあまり摂ろうとしなかったのであろう。現在の新大陸の採集狩猟民はアジアやアフリカの採集狩猟民に比べて動物食の嗜好が強いように感じられるのも、その食文化が根強く残っているのではあるまいか。

 ここで、日本列島への新人の進出にも触れておこう。
 考古学者たちは、証拠はないものの4、5万年前に南北両方向から入り込んだと考えているようだ。新人のヨーロッパへの進出時期と同時期であり、極東へも人口圧力が働いたのは必然であるからだ。
 当時は氷期にあり、海面は今よりずいぶんと低く、大陸、日本列島ともに陸地が大きく広がっていた。南は、琉球列島に2、3万年前の人の化石が幾つか見つかっている。大陸とは地続きにはなっていなかったが、浅瀬を筏で渡ることができたと考えられている。でも、そこから九州へは広大な海があって容易には進出できない。対馬は九州や本州と陸続きであったが、朝鮮半島との間に海峡は残っていたから同様である。この両方とも当時、筏で渡るまでの技術があったかどうかは定かでない。
 一方、北は、シベリア、サハリン、北海道が陸続きとなっており、北海道には2万年前の北方系石器が発見されている。北海道と本州はつながっておらず、津軽海峡があったが冬季は凍結して渡ることが可能であった。
 この時期に本州にも新人がやってきたのであろうか。静岡県で1万8千年前と言われる人の部分化石が見つかっているが、日本列島は酸性土壌であるがゆえに骨は溶けてしまって化石がなかなか残らず、発見例はこの1例のみであり、はっきりしたことは言えない。石器なら残るのであるが、北海道以外には古いものが発見されておらず、出てきたのは、かの有名な捏造品ばかりである。
 こうしたことから、本格的な日本列島への進出は、後氷期に入ったばかりの時期である約1万5千年前のことであろう。氷期の終焉とともにアジア大陸で、よりいっそう人口圧が生じたのであろう。筏での航海により、眼前に広がる大きな大陸、そう思えたであろう日本列島への渡来である。そして、これが縄文文化の幕開けとなった。併せて、津軽海峡を渡っての北方からの流入があったのかもしれない。諸説入り乱れており、詳細は不明である。

 話を元に戻そう。氷期が終わって2千年ほど経ってから、温暖化に伴う一つの大きな事件が起きた。1万2千8百年前の出来事である。それは北米大陸で起こった。氷河が溶けて大量の水が溜まり、五大湖とその周辺を含む地域に巨大な湖が成長し、その縁辺の低い山を越水して削り落とし、とうとう決壊して未曾有の大洪水が起きた。そして、真水が北大西洋上を広く覆って、深層海流を止めてしまったのである。
 深層海流は、7つの海の海溝という深海の「川」の流れであり、所々で上昇して表層の海流に変わり、熱帯を冷やし、寒帯を暖めるという重要な機能を担っているのであるが、北大西洋上の表層が真水で覆われると、真水の比重は小さいから、いくら冷やされても海面下へと下降してはくれない。自ずと深層海流の流れは止まり、これは千年ほど続いた。その影響で、温帯や寒帯に寒の戻り「ヤンガー・ドリアス」が訪れたのである。
 突然として世界中を同時に襲った異常気象ではあるが、北大西洋周辺地域では激しかったものの、太平洋周辺ではそれほどではなかったようでもある。
 この事件以降は、温暖な気候が現在まで続いている。もっとも、決して安泰した気候で推移したわけではない。小規模ながら小刻みに寒冷・温暖とそれに伴う湿潤・乾燥を繰り返して現在に至っているのである。
 そのなかで特筆すべきものは、新石器時代(約1万年前~)に入ってしばらく経った約9千年前から約6千3百年前までの約2千7百年間も続いたところの(期間の取り方は諸説あり、約8千年前~約5千年前とも言われる)気温最適期「ヒプシサーマル」である。現在よりも平均気温が2~3℃高く、海面も現在より2~3mは高かった。そして、陸地の多くで十分な降雨があった。特筆すべき現象として、サハラ砂漠は一面の草原となり、一部には森林までが生い茂った。あの広大なサハラ砂漠にも草食動物がいっぱい生息し得たのである。砂漠の中の岩肌に描かれた動物壁画がそれを物語っている。
 現生人類にとって、気温最適期「ヒプシサーマル」の訪れは、どこもかもが豊かな自然環境であふれかえり、豊食を楽しむことができた、一時の、そして最後の楽園であったことだろう。

第6節 農耕の始まり
 氷期が終わった約1万5千年前以降、現生人類は極めてゆっくりではあるが、人口増加に伴って徐々に食糧不足に陥ったものと思われる。ただし、それに伴う食性の変化は地域により千差万別であり、ここからは最も早く開けた中東を中心に話を進め、他の地域の特性については、のちほど補足することにする。
 人口過密が一番最初に訪れたのが中東であり、それに伴って社会変化も一番先に進んだ地域であって、その変化が周辺地域へも順次波及していったと考えられる。
 J・ローレンス・エンジェルの調査報告によると、3万年前の成人の平均身長は、男177cm、女165cmであったのが、1万年前の成人のそれは、男165cm、女153cmと、かなり低くなっている。このことは、栄養が不足しだしたことを物語っているようにみえるが、そうではないようである。3万年前の人はかなりのウエイトで動物食をしていたと考えられ、これによって身長が高かったのではないかと思われる。高蛋白食は背を高くするのである。その後も続く積極的な狩猟によって動物が数を減らし、減った動物食に相当する分をやむなく穀類に置きかえた、その結果の身長の低下、そう考えられる。
 1万年前には狩猟はどれだけもできなくなり、穀類が自生する地域では、穀類の種の貯蔵を通して、種蒔きによる穀類栽培が始まっており、これにより高収穫の安定した食糧確保が可能になったと考えられる。
 なお、穀類を食糧にすることは、すでにもっと昔から行われていた。2万3千年前のイスラエルの遺跡で、麦を磨り潰すための石皿と生地を焼いた炉が発見されている。自生している麦を採集し、調理していたのである。
この時に、人は偉大なる調理法を発明し、初めてパンを焼くことを覚えた、と我々は思いがちだが、決してそうではない。こうした方法を取れば、穀類が食べられることをすでに知っていたが、口に入るまでに相当な労力を必要とし、面倒だからそうしなかっただけのことである。しかし、食糧不足ともなれば、やむを得ずこうするしか致し方ない。だからパンを焼いた。ただそれだけのことである。
 もう一つの方法として、穀類を煮る調理法があるが、この時期の土器は中東では発見されていない。土器の発明は縄文人が最初であり(ブログ版で訂正 その後ヨーロッパでもっと古い時代のものが発見される)、1万5千年前のことである。日本人の巧みの技の原点がここにありと絶賛したがる傾向にあるが、これもそうではない。毎日のように焚火で調理していれば、泥が焼ければ硬くなることぐらいは誰にでも分かる。泥をこねて成型し、焼いてやれば土器ができることぐらいは、とうの昔に知っていたであろう。
 そのような煩わしいことをしなくても、もっと簡単な調理法で事が足りていたから、そうしなかっただけである。また、麦を煮てみたりもしたことだろうが、まずくて食えないから土器を作らなかっただけであろう。縄文人の場合は、グツグツ煮なければ食用にならないものを主食にせざるを得ない事情が出てきたから、土器を作っただけである。クリ、カシ、シイ、トチなどの木の実が豊富な日本列島であり、麦も米もまだなかったから、止むを得ず土器を作って、これらを煮ただけのことである。当時の人類と現代人の頭脳の差は全くない。かえって当時の人のほうが感性が豊かであり、自然観察力は現代人より格段に優れていたに違いない。
 そして何よりも暇があり、好奇心が絡めばいくらでも発明・発見ができる。これは遊びの世界のことであり、実用化とは無縁のものである。実用の必要性に迫られたら、おもむろにこんな方法があるんだがどうだ、となってすぐさま実用化されていく。そういう至ってのんびりと時間が流れていた時代であり、まだまだたっぷりと余裕がある時代でもあったであろう。
 中東では麦の自生地が多く、時代が進むにつれて、穀類に比重を置いた食生活が顕著なものとなっていく。毎年麦穂を全部収穫したとしても、原種であるからしてかなりの量の種がこぼれ落ちるから、麦の自生地が絶えることはない。加えて、運搬途中でもこぼれるから、より自生地が拡大するというおまけも付いてくる。穀類はこうして優れた食糧供給源となっていったのである。
 そして、これだけでは食糧が不足するようであれば、類似した環境の所に種をばら撒いたであろう。そうすれば、種が芽を吹き、やがて穂が実ることぐらいは当然に知っている。また、麦を本格的に食糧にするようになると、粉挽き用の臼が必要になり、これも約1万年前(ちょうど新石器時代に入った頃)に開発された。農耕一歩手前の麦栽培は、約1万年前には広範囲に行われていたに違いない。彼らはこうして食糧不足を回避してきたと考えられる。
 この間も狩猟は続けられ、動物はどんどん姿を消していく。ますます麦に頼らざるを得なくなり、麦は貯蔵が利くという大きな利点があるから、年中麦が主食となり、穀物倉庫も作ったであろう。
 穀物栽培は、すぐに次の段階に入っていく。農耕の始まりである。農耕といっても、雨が少ない地域では、灌漑だけで穀物は育つから、水路を掘りさえすれば事が足りる。多少とも雨が多い所では、一緒に雑草も生えるから、これを除草してやれば実りがうんと多くなる。当時の人は、この程度のことは分かっていたであろうから、穀物栽培はかなり古くから始まっていたであろうと、人類学者の今西錦司氏(故人)らがおっしゃっている。
 さらに収穫量を上げるには、土を耕すしかない。石器による鍬の生産が始まり、ここに本格的な農耕が始まるのである。約9千年前から約6千3百年前までのヒプシサーマル期に、ここまで進んだことであろう。

第7節 羊・山羊の家畜化
 ヒプシサーマル期以前に羊や山羊の家畜化が始まったようである。牧畜文明の誕生である。これは、半
砂漠地帯のオアシスにおける麦栽培とほぼ同時に始まったと考えられている。
 ミュッケの自家家畜化説が有名であり、栽培穀物を食べにきた羊との馴れ合いである。羊は栽培穀物がうっそうと生えているのを見つければ、当然にそれを食べにやってくる。それを一部認めてやる代わりに、人は何頭かの羊を捕獲して食べる。羊の群はリーダーの絶対の統制の下に動き、リーダーが逃げなければ他の者も逃げない。それゆえに、羊は群ごとごっそり人に帰属することになる。羊と行動を共にすることがある山羊も、それに従ったのではなかろうか。羊にどれだけか遅れはするものの、山羊も羊と同様に家畜化が完成したことは確かであろう。
 これが、ミュッケの自家家畜化説の概要である。他にも家畜化については諸説あるが、いずれにしても羊や山羊はかなり早い時期に家畜化された。牧畜が始まっても、最初から大規模ではあり得ず、家畜のオスをするにしても、狩猟が容易だった頃のようには口に入らない。安定した食糧供給は依然として栽培穀物が大半を占めていたことであろう。
 人が動物の乳を飲むようになったのは、いつからかは定かではないが、家畜化が完成して間もなく始まったのではなかろうか。家畜の子が産まれてすぐに死んだ場合に、たまたま母乳の出が悪い母親がいたとすれば、自分の子にその家畜の乳を搾って飲ませようと試みたであろう。こうして、子どもから始まり、母親が飲み、ついには皆が飲むようになったことだろう。

第8節 農耕と牧畜の広域展開
 農耕と牧畜は、採集狩猟に比べて格段に労働時間を必要とし、これは男どもの仕事となる。現在の採集狩猟民が農耕を取り入れたとき、最初は男が従事することが多い。家畜の世話も同様であろう。男どもは、ここに初めて「らしい労働」をするようになる。女たちは、定職に就いてくれた男どもにきっと感謝したであろう。しかし、これが、後に彼女たちに大きな悲劇をもたらすことになろうとは、知る由もなかった。
 牧畜は急速に広まっていったであろうが、狩猟は当然にして続けられた。よって、哺乳動物はどんどん姿を消し、魚介類や鳥類も以前よりは捕りにくくなり、動物食のウエイトは向上しなかったと思われる。
 いずれにしても、約1万年前には、農・畜産業の原型ができあがったであろう。そして、麦栽培と牧畜が、地中海沿岸部と西アジアそして東アジア北部へと伝わっていった。穀類の自生がない所では先進地から種を持ち込み、牧畜は家畜化の方法を学び取って進めたことであろう。
 なお、穀物栽培は単に収穫だけを繰り返していると、土壌がやせてきて収穫量が減少することがあり、家畜や人の糞尿を土壌還元してやれば高収穫が期待できることも知る。彼らは長年の栽培経験のなかからそれを知り、そのノウハウも伝授したであろう。
 ヨーロッパでも食糧不足となれば、穀物栽培を試みようとしたであろうが、栽培適地は少なかった。降雨が適度にあり、森林が多かったからである。そこで、牧畜が先行したと思われる。森の入り口には草が生えているから、それを食べさせればよい。住居づくりなどのために樹木を切り倒せば、若芽が吹いても、羊や山羊がそれを食べてくれるから草地で安定し、やがて切り株が朽ちはてて、そこが穀類栽培の適地に生まれ変わる。
 こうして、ヨーロッパでは中東から少しばかり遅れたものの、地中海沿岸部から順次内陸へ向けて、牧畜と穀類栽培が順次広がっていったことであろう。ただし、大陸奥部では歴史時代の訪れまで採集狩猟生活が続いたようであり、アルプス以北は深い森で覆われていた。
 西アジアや東アジア北部は、中東と気候が類似している地域が多く、中東にどれだけも遅れることなく、同様に進んだことであろう。降雨が適度にある地域では地中海沿岸と同じ方式で進んだろうし、降雨があまり期待で出来ない地域では牧畜の比重が増し、より乾燥した地域では牧畜のみとなっていったことであろう。

第9節 芋と米の栽培
 南アジアと東アジア南部は、様相を全く異にした。湿潤気候のもと湿地帯が広範囲に広がっていたからである。ここには芋が自生し、バナナもある。どちらも株分けしてやれば増えていく。芋については、ヒトの祖先がこの地に入ってすぐに知ったであろう。葉や茎を見ただけで地下に芋ができていることぐらいは、彼らの観察眼からすれば容易に察しがつく。なんせ、そもそも芋を求めての移住であったのだから。
 芋の自生地が居住地と離れていれば、収穫が面倒だからと、居住地近くの湿地に収穫した芋の一部を放り投げておくことぐらいはしたであろう。今西錦司氏らもそのようにおっしゃっておられるが、小生も百姓をやるなかでそうしたことをたっぷり経験している。里芋、これぞ南方産であるが、その収穫のとき、くず芋を畑の堆肥場や田んぼに放る。すると、翌年の初夏にはちゃんと芽吹く。ヒトの祖先とて、あまりに小さな芋であれば放ったであろう。放ったことにより、芋の自生地が自然と広がっていく。芋はそれを期待し、そうされることによって、彼ら芋たちは初めて生息域を大きく広げられるのである。
 芋たちのこの欲求は、アンデス原産の芋を作る植物に特に強いと思う。ジャガ芋、サツマ芋、ヤーコン芋ともにそうである。動物に土を掘ってもらい、芋を蹴散らしてほしいと願っているのである。蹴散らされたなかで大きな芋は動物の餌として提供するが、小芋は周辺に広くばら撒かれることを期待している。そうとしか考えられない芋の付き方である。
 南アジアや東アジア南部の人口が増えて過疎が解消されると、自ずと交流が盛んとなり、近隣地域に自生している異なったより良い芋を導入するようになる。種芋を湿地に放っておけば自然に育つのだから、簡単である。さらに人口が増えて、芋の収穫を増やす必要が生ずれば、小芋を湿地帯に広くばら撒けばよく、また、大きな雑草を抜いてやれば収穫量があがることも当然に知っていたであろう。
 バナナもそのうち株分け法を開発し、順次近隣へと広まっていったと考えられる。
 ここまでのことは、最初にアフリカからやってきたジャワ原人(180万年前の前期旧石器時代
)たちがすでに身に付けていた農法であろう。後期旧石器時代に入っても、当面はこれでしのいでこられた。しかし、中東で小麦栽培や牧畜が行われだした頃、この地でついに米が登場する。米は東インドの高地アッサム地方が原産と言われる(西アフリカにも原産地がある)。アンデスもそうだがヒマラヤも大昔の造山運動で低地が大きく隆起した場所であり、大粒の穀物や大きな芋を付けるようになった植物がけっこう多い。
 米は、脱穀した後に、蒸したり、粉にして焼いたりと、小麦同様に調理が面倒であり、直ぐには広まりをみせなかったものの、芋が不足する地方では、そうするしかない。なお、日本など東アジアで現在作られているジャポニカ米のように煮て食べる品種は、もっと後の時代に誕生した。
 米の栽培も、稲穂を収穫すれば麦と同様に種籾がこぼれて自生地は自ずと広がる。この米作を最初に大規模に取り入れたのは中国長江の中下流域のようである。1万2千前年の大規模な米作遺跡が発見されている。この地域は温帯であり、芋は里芋と山芋があったが、河川の氾濫原に自生する芋はなく、あるのは穀類の一種である稗(ヒエ)程度のもので、これはいかにも粒が小さく、食用にするには労多くして利なしであり、見向きもしなかったであろう。
 しかし、先に述べたヤンガー・ドリアスの到来で、急に寒冷化して芋の収穫量ががくんと減る。そうなると、稗でも食べざるを得ないが、西に連なる山脈の向こうに大粒の穀類「米」があることを伝え聞き、それを導入する。こうして、あっという間に米作が定着し、収穫した稲の運搬用に小舟を造り、通行しやすいように水路も掘る。米作農業の完成である。もっとも農業と言っても、収穫時に籾がこぼれるし、稲が生えていなかった所には籾をばら撒くだけですむし、定期的に洪水があって上流から肥沃な泥を運んできてくれるから、施肥も必要としない。いたって簡単なことであり、単なる穀類採集とどれだけの違いもない。
 この地域も動物食の要求があったであろう。狩猟によって哺乳動物が当然に少なくなっていたであろうが、米作地帯の水路には魚がいくらでもいる。簡単にこれは捕れるから、魚を食べればよいのである。
 魚では満足できなくなったら、野生豚を捕えることになるが、数が激減しており、これを飼育するようになったであろう。豚の家畜化である。くず米や野菜くずそして人糞を与えればすくすく育つのが豚である。
 牛を家畜化して農耕に役立たせるようにしたのは、ずっと後の、まさに農耕という本格的米作農業を行わざるを得なくなってからのことであり、これは中東あたりからの麦作栽培に始まり、順次南アジアや東アジアの麦や米の栽培地域に広まっていったと考えらている。

第10節 人口爆発の始まり
 約1万年前あたりから洋の東西を問わず、食糧不足は安定して収穫できる栽培穀類で補い始めた。手間がかかる収穫作業や脱穀そして面倒な調理を強いられながらも、これなしでは生きていけない。
 しかし、この代用食糧には思わぬ落とし穴があった。澱粉質の塊である芋類は今日、ダイエット食と言われることが多いのであるが、同様に穀類も澱粉質が主成分であるも、蛋白質、脂肪そしてミネラルがけっこう含まれており、高栄養の食糧なのである。芋を主食にしている限りはさほど過栄養にならず、出産間隔が開くので人口増加はさしたることはない。それに対して、芋に代えて穀類を主食にすると、同量の食事でありながら過栄養となるのであり、必然的に出産間隔が短くなって
人口増加を引き起こすことになるのである。
 これに拍車を掛けるのが動物食の減少である。動物食のウエイトが高いと、これも芋類と同様にダイエット食になるから出産間隔が開くのであり、人口増加はほとんどない。しかし、これまでの人口増加で狩猟は難しくなってきているし、牧畜による羊や山羊でそれを十分に代替できるのも限られた地域しかなく、多くの地域は穀類食の比重がだんだん大きくなり、過栄養が顕著なものとなる。じりじりと人口は増加しだす。
 後期旧石器時代以降、先の述べた父性愛がもとに人口圧が掛かりだしたのであるが、穀類栽培を始めた初期の頃は、まだ飢えが恒常化するようなことはなかったに違いない。男どもがちょっとだけ野良仕事に精を出せば、必要な穀類は十分に得られたであろうから。よって、人口は増え続けることになる。
 過剰なカロリーは全て皮下脂肪として蓄えてしまうのがヒトの特性である。たいていの動物は皮下脂肪をほとんど持たず、内臓脂肪として蓄えるのであるが、ヒトは皮下脂肪に蓄えるのである。そして、ヒトのメスの生殖は、皮下脂肪が一定の値以下に減ると、生理が止まり妊娠できなくなる、という大きな特徴がある。
 旧石器時代の前期や中期は、ぎりぎりの皮下脂肪率であり、出産とそれに続く3、4年間の授乳期間は皮下脂肪率の低下で妊娠することはなく、人口は自然に任せて増えたり減ったりしていたものと考えられる。食糧が豊富すぎる状態が何年も続けば、食糧の採集時間が短くなり消費カロリーが減る。その分、皮下脂肪が増えて出産間隔が狭まり、人口が増える。逆の時代が訪れれば、皮下脂肪率が一定の値を割り込み、なかなか妊娠せず、人口が減る。こうして、安定した人口に調整されていたことであろう。
 しかし、穀物を食べ始めたことにより、どうしても過栄養となって妊娠周期が狭まるのであり、極端な場合には皮下脂肪率が一定の値を常時超えてしまい、授乳中に妊娠することも起こり得る。ここに多産が始まる。多産といっても現代の子だくさんとは違い、この当時はわずかな出産増ではあるが、世代を重ねて継続されると、累乗で利いてくるから大変な値となる。
 1人の母親が1.02人の娘を成人させ、同じ率で次世代の母親も娘を成人させていくと、40世代つまり概ね千年後には人口が2.2倍になる。人口増加率が年0.08%でそうなるのである。中東の人口がこの当時の4千年間で32倍になったとの推計があるが、概ねこの程度のわずかな人口増加率でもそうなってしまう。これは人口爆発であり、人の異常発生である。
 穀類食の採用は、もはや後戻りすることができない人類の悲劇の幕開けとなってしまったのである。人口爆発ほど恐ろしいものはない。その悲劇の始まりを一時先延ばししてくれたのが、約9千年前から約2千7百年間続いた気温最適期「ヒプシサーマル」である。これにより人の生息可能域が大幅に広がり、食糧資源も増えたであろうが、人口圧力を吸収できたのは千年ともたなかったであろう。
 人口は再び飽和して食糧不足が訪れかけたが、穀類栽培地を増やし、穀類を増産することによって、しのぐことができた。男どもがなにがしかの労働追加をすれば、まだまだ対応できたのである。
 それがために、女の皮下脂肪率はそれほど下がらず、繰り返し妊娠してしまう。よって、人口はさらに増え続け、男どもの労働時間はますます増え続ける。男どもは、長時間労働という苦痛から逃れようと、労働生産性を上げるために穀類栽培技術を発達させた。石器を磨き、農作業しやすい道具を作り、それをぐんぐん改良していったのである。必要は発明の母である。
 この人口圧によって、科学技術は進歩の度合いを速めていき、石器は極めて精巧なものがどんどん作られるようになり、今日の技術でもってしても同じものが作り得ないものであふれかえった。その新石器時代も早々に幕を閉じ、約6千3百年前に青銅器時代つまり古代文明にバトンタッチするのである。
 
 前期旧石器時代は250万年前から始まり、20万年前まで続いた。通算して230万年の長きにわたり前期旧石器時代は続いたのであり、その間、石器を作る技法の進歩はわずかでしかなかった。アメリカの考古学者A・ジュリネックの言葉を借りると、それは「想像を超えた一様性」だという。それが、20万年前から時代は中期旧石器時代に、4万年前には後期旧石器時代へと足早に入り、そこからは忙しい。中石器、新石器、青銅器そして鉄器へと次々と時代は移り変わり、技術革新はものすごい勢いで進展していくのである。

第11節 古代文明の発生
 約6千3百年前(諸説あり定かでない)に、広大な範囲に飽和状態にして人を住まわせていた気温最適期「ヒプシサーマル」が終わりを告げる。地球全体が一気に寒冷化した。サハラの森林や草原は再び砂漠に戻り、そこに住んでいた人々は餓死したか難民となったであろう。ヨーロッパは寒冷化し、中東、西アジアおよび東アジア北部は寒冷化と同時に乾燥化に見舞われた。広域にわたる終わりを知らない大飢饉の発生である。
 人類は、これまでに短期的な小さな飢饉を幾度か経験したことはあったであろうが、餓死するまでには至らなかったと思われる。しかし、このとき初めて、そしてこのときから現在に至るまでずっと、餓死するほどの食糧難に度々苦しめられ続けることとなったのである。
 ほんの一時の楽園を人々に堪能させてくれたヒプシサーマルは、巨大なツケを人類にもたらしたのである。こうした前代未聞の大飢饉の大きな嵐のなかから、中東及びその周辺地域の各地で、次々と古代文明が誕生し始めるのである。この危機を乗り越えようとして、農業の生産性向上のための科学技術が飛躍的に発達し、土木工事を行って開墾も進む。また、単位面積当たりの収量を大幅にアップさせようとして、男たちが農地に人手をたっぷりかけ、あくせく働くようにもなる。
 すると、どうしても、重労働である水路の掘削や農地の耕運を真面目に行なう者と、そうではない者が目立つようになり、軋轢が生じて集落共同体としての強い絆が崩れ始める。行きつく先は、共同所有財産であった農地や収穫物を分割して個人所有とする私有財産制度への移行である。こうなると、「能力に応じて働き、能力に応じて受け取る」という、動物的一般原則に戻ってしまい、その結果、男ども皆が競うようにして懸命に働くようになり、生産性をさらに向上させ、食糧難からの解放をひたすら目指すようになる。
 かくして「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義体制はあっけなく崩壊したことであろう。併せて、共産主義のベースとなっていた、エゴを抑え、我慢し、耐え忍ぶという不断の努力から育まれていた「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が消えていってしまったのである。加えて、男どもは「平等」思想をも当然にして放棄してしまった。
 私有財産制度は、エゴを極限にまで高めてしまう。そして、男どもの「こころ」に残ったものは、自分の生まれ変わりである息子に対する「愛」だけとなってしまった。私有財産は、主に労働した男どもの財産になるのは自然の流れであり、愛しい息子へと私有財産を相続させるのは必然である。
 これにより、社会形態が大きく変化し、ここに初めて家族が誕生する。つまり男が家長となる一夫一婦の永久婚の始まりである。地域社会は、これにより大きく変革していくことになる。私有財産は不可侵のものとして守られねばならないし、貯蔵食糧は他部族からの略奪を防がねばならないのであり、内に警察、外に軍事という機能を備えた社会制度が求められるようになる。
 そして、人は、ついに「国家」という法人を作りあげてしまったのである。国家は、その民が食糧難になると他部族が持つ余剰食糧の収奪のため、必然的に略奪行為つまり戦争に打って出る。国家は戦争に勝つために、すさまじいほどに科学技術を発達させていく。これにより、その軍事技術が民需にも反映され、食糧の生産性を一段と高めたものの、あまりにも穀類食に比重を置きすぎたがために、人口圧力はよりいっそう強くかかり続け、余剰食糧はすぐさま底を突く。悪循環の始まりであり、とうとう人が作った国家という法人が暴走を始めてしまったのである。戦乱の時代の幕開けとなってしまったのである。
 これだけに止まらない。国家がその軍事力の維持増強のための重い課税は、家族が食べていくだけの食糧さえ手元に残らなくしてしまう。そこでどうするか。それは嬰児殺しである。ただし無差別ではない。男は重労働の担い手として、また国家の要求で戦士として必要だから必ず残す。決まって女子殺しである。当然だ。女というものは子を何人も産み、ために生活が苦しくなるからである。その罪悪感が逆に働き、極端に女性蔑視するようになり、女は忌み嫌われ、そして、女の人権は剥奪されるに至るのである。
 生態人類学者マーヴィン・ハリスは、人口増加があった後期旧石器時代から嬰児殺しが頻繁に始まったと考えているが、小生は、国家の発生に伴って起きたと考える。人は、如何ともし難い事態に追い詰められないかぎり、かような嬰児殺しという非人間的かつ非動物的、極悪非道な行為に手を染めることなど決してできないと思うからである。
 こうして誕生した古代文明をどう評価するか。
 人類の英知でもって科学技術の花を咲かせ、文明社会の幕開けとなったと高く評価されている。しかし、それは、あくまで法人である国家の立場で、国家と国家の間で互いに優劣を評価し合うものにすぎない。
 法人というものは、生の人ではないがゆえに、一切の人間性を持たない。ゆえに、国家という法人は、生の人から一切の人間性を捨て去るよう、洗脳に洗脳を繰り返し、これは今に至っても続けられており、いまだ古代文明を高く評価させ続け、我々はそれを素晴らしいものだと信じ込まされており、そして信じ込んでいる。
 なんとも哀れな話ではないか。

第12節 永遠に続く食糧危機
 ヒプシサーマルが終焉して以降の、つまりそれを契機として誕生した古代文明から今日に至る約6千3百年間の歴史は、人の食性とは無関係ではない。恒常的な食糧不足という情勢の下において、科学技術の進展は戦争を行うための武器の開発ということに目が向かいがちであるが、民意でもっていかにして食糧難を解消するかということに最大の焦点を置いて進んできたと言いたい。開墾・干拓工事や水路・ダム建設工事はもとより、食糧となる未利用資源の開発や発酵食品をはじめとする高度な食品加工のための諸技術を格段に進歩させてきたのは、この間の時代のまさに人類の英知によるものである。
 今日の我々日本人は幸いかな、こうして進んできた高度な科学技術の恩恵を満喫できる、ほんの一時の良き時代に暮らしていると考えねばならないだろう。
 これまで見てきたように、地球温暖化は決して危機ではない。逆である。それは歴史が実証しているではないか。“もっと暑くなれ、サハラに雨を! そして温暖化よ、永遠なれ!”と、世界は今、願わねばならないのではなかろうか。
 今現在の温暖化はヒプシサーマルほどには温度上昇が期待できそうになく、遠からず終わるであろう。確率的に再び寒冷化の嵐がやってくるのは必至であり、それは今年からかもしれないし、数十年先には必ずやってくることだろう。なぜならば、温暖と寒冷は数十年から2百年程度ごとに交互に繰り返しており、今は230年(ブログ版投稿時では240年)も続いている温暖期にあるからである。これは過去2千年間で最長不倒の記録であり、日々記録を更新し続けているのであるから、もうそろそろ終わると覚悟せねばならぬ。
 さらにその先には氷期が待ち構えている。数千年先にやってくる確率は5割を超える。そうした大小の寒冷化が訪れる前に、人類が早急に手を打たねばならないことが山積している。当然にして、食糧問題が第一であり、今の間氷期に入ってからの過去1万5千年間にわたる付け焼き刃的な方法ではなく、人の食性に適合した本質的な解決法を見いださねばならない。

つづき → 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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