京都の祇園祭も、今日は最大の人出である宵山ですね。今年は15日が金曜日、宵山の16日が土曜日、そして巡行の17日が日曜日で、なおかつ既に梅雨明けと、一番人が多くなるパターンでしょうか。
祇園祭の山と鉾、今巡行しているものは、室町時代の14世紀もかなり過ぎた頃に、経済力と自治力のついた町衆の間から、祇園御霊会へ参加する動きがあわられ、それが今日の山鉾につながるものです。
祇園祭での山鉾巡行は、かつては7月17日と24日の二回ありました。社会情勢で二回の巡行を一回にしたものですが、その他にも巡行経路の変化があり、それを図にしてみました。全てクリックで拡大です。
幕末から昭和30年まで。旧暦6月7日、明治10年以降の7月17日の先祭と旧暦6月14日、明治10年以降は7月24日の後祭。先祭の終点が東洞院松原ですが、鉾はその先烏丸若しくは新町まで行き、各町へ帰っていたようです。
昭和31年に京都市の観光政策で、先祭を寺町を下がって松原通を西に行くのを止め、寺町通を上がり、御池通を西へ進む経路に変更。御池通に観覧席を設けました。
昭和36年には、寺町通が狭いことを理由に、北へ上がる道を河原町通に変更。御旅所の前を通る事になりました。河原町通を通ることで、巡行による市電の運休範囲が広がりました。
昭和41年から昭和51年まで。昭和31年の先祭経路変更以上の大きな変化。7月24日の後祭を中止し、先祭の後に後祭を連続して巡行する、先後合同となりました。後祭中止は、道路交通事情によるものが大きいです。なお後祭では市電が運休することはありませんでした。
現在の巡行経路。昭和52年には、巡行の解散終点を烏丸御池から新町御池まで延ばしました。烏丸通を通っていた鉾の帰還が地下鉄工事で通れなくなる事と、観覧席設置の範囲を延ばしたいという京都市側の意向がありました。新町を下がる前に鉾の順番を換え、必ず北観音山が最後となります。
現在、休み山の大舩鉾(凱旋船鉾)が復活したら、昭和41年に止めた後祭を復活させようと言う動きがあります。実現には幾多の難題がありますが、
- 巡行経路は止める前そのままを再現するのか、新たな経路とするのか
- 止めた理由の交通事情は?
- 後祭止めたのがきっかけで登場した、花傘巡行との兼合いは?
- 「後の祭り」の語源となる後祭、その状況になりやしないか
などが考えられます。でも祇園御霊会での神輿渡御では、7月24日の還幸祭の方が、町中の災厄を神輿に持って行ってもらう意味があり、むしろこちらが重要でもあります。その還幸祭の前に山鉾巡行があってもいいですし、私は後祭の復活を期待したいですね。
***2012年6月13日追補
変遷図に少し誤りがありましたので、差し替えました。
また差し替え画像には、大舩鉾が近々復活しますので、赤字でその位置を入れました。
「京都ネタ」という事で、お約束どおり釣られてみました。
「祇園祭での山鉾巡行」には、深い歴史があったのですね。
交通事情をクリアーして、後祭の復活を期待したいですね。
今年も、行けませんでしたが・・・。
祇園祭(祇園御霊会)自体に深い歴史がある以上、山鉾巡行にもいろいろ歴史もドラマもあります。
昭和41年当時は、異常なまでの自動車優遇策があった頃で、一週間おいて二度もの道路通行止めは、警察側からの反対が大きかったと伺っております。
ちなみに京都市電の全廃計画ができたのも、昭和40年代です。
(完全廃止は昭和53年9月30日)