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輪旅 信州・姨捨から大町を走る!!その1

2009-05-06 20:07:31 | 自転車旅
《輪旅 信州・姨捨から大町を走る!!その1》

 先ずは真田の庄へ・・・真田昌幸、幸村父子のドラマは凄すぎる・・・六文銭(六連銭)とは三途の川の渡し賃とか・・・池波正太郎「真田太平記」・・・これを読んでから行けばよかったかと。

 上田市郊外、玄蕃山公園より真田を目指してスタートする。扇状地となる真田町の標高はかなりあるようで、振り返る上田の市街が眼下に大きく広がっていった。

 信綱寺より真田氏館跡へと向かう。その拠点となる館は、高台にあり、その周りは土塁に囲まれていた。なぜか今ではマレットゴルフのコースとなっていたが・・・

 9時の開館を待って歴史館へ入る。綺麗なお嬢さんの案内で館内へ・・・幸先の良い旅の始まりであった。展示資料をじっくりと観ながら、真田一族について学んだ。見学の後は腹ごしらえ・・・隣の食堂で“くるみおはぎ”を頂いた。地元の昔お嬢様方の真心料理が嬉しかった。


(真田の庄にて)

 上田の町へ下り、信濃国分寺へ・・・先ずは、新?国分寺を訪れた。旧が奈良時代で、新は鎌倉時代とか・・・いずれにしても歴史がある。現存する三重塔は当時のモノ・・・国分寺としては、塔が残っているのは吉備国分寺の五重塔と二つだけだそうだ。そういえば飛騨国分寺にも三重塔があったような・・・!???

 旧国分寺跡へも行ってみる。尼寺と並んで広大な境内が蘇っていた。もちろん礎石だけではあるが・・・鉄道が真ん中を横切っているのは、平城京跡に似ていた。その後、資料館へも寄ってみた。信濃国府は、未だに特定されていないそうであるが、当時、上田が信濃(科野?)の国の中心地であったことは間違いない。

 旧北国街道沿いに上田の市街へと向かう。途中、「刀屋」という蕎麦屋に行列が出来ていた。上田城跡・・・真田一族が徳川方と戦い、二度も守りぬいた名城である。大手門の左右にある櫓は、明治期には売却されて遊郭になっていたとか。

 往時の北国街道の雰囲気が色濃く残る柳町を通り、池波正太郎「真田太平記館」を訪れる。ここは一押し、その展示内容は充実しており、時間を掛けて見学したい施設であった。

 松代へ移動・・・関ヶ原の合戦時、昌幸と幸村父子は豊臣方へ、信之は徳川方へと、家名存続のためにとった判断は凄すぎる。結果、信之は、上田から松代へ転封となるが、松代真田藩十万石は明治期まで残ったという。(昌幸・幸村父子は家康の温情?で高野山九度山へ島流しに・・・後、大阪夏の陣で幸村が活躍するのは歴史の悪戯か!?)

 松代城、別名を海津城ともいうそうだ。信玄と謙信が五度も戦ったという川中島の合戦時、信玄が拠点にした城である。広大な敷地に堀と石垣が残っていた。往時、千曲川は目の前を流れていたのであろう。


(松代・海津城にて)

 次に川中島古戦場跡へと向かう。八幡原の史跡公園には、二人の一騎打ちを再現した像や、逆えんじゅ、執念の石、三太刀七太刀之跡等・・・見所があって楽しめた。この後、軍師・山本勘助の墓にも寄ってみた。

 小布施も良いが、松代も面白い。佐久間象山、大本営跡、長国寺と興味は尽きない。千曲市稲荷山へ移動し、一泊とする。

 武水別神社・・・この地は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園となっており、安和年間(968年 - 970年)に八幡神を勧請したと伝えられる。八幡神は源氏の氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮として広く武門の崇敬を受け、木曽義仲が祈願したと伝えられ、川中島の合戦時の上杉謙信の勧請文等が残されてもいる。明治以降、古来の「武水別神社」の名に復し、明治17年に県社に列せられた。・・・とあるサイトより

 境内の茶屋で、名物のうずら餅をいただく。信濃一ノ宮は諏訪大社、次が戸隠神社。その次が武水別神社だとか・・・


(田毎のリンゴ園と姨捨山)

 田毎の棚田へ向かう。当然、道は急坂となり、最後は押す羽目となる。リンゴの木には花が咲き誇り、その背景には姨捨伝説の冠着山が見える。「田毎の月」は、あまりにも有名で、幾つもの小さな棚田の水面に一つづつ月が映った風景はロマンチックだと思うが、未だ写真は見たことがない。

 この後、サイクリング仲間四人と姥捨駅で落ち合う。


続きはその2へ・・・