時事解説「ディストピア」

ロシア、イラン、中国等の海外ニュースサイトの記事を紹介します。国内政治、メディア批判の記事もあります。

天皇の平和利用

2015-06-19 20:30:26 | 浅学なる道(コラム)
原子力の平和利用というフレーズがある。
50年代を契機に始まった原子力のプラスイメージの宣伝を批判する言葉で、
日米の指導層が日本を核のエネルギー利用の実験台にするためにプロパガンダを展開した。
(もちろん、手下である日本政府が直接の指揮をとった)

ノーモア原爆、イエス原発というわけだ。


http://roodevil.blog.shinobi.jp/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E8%A6
AA%E7%88%B6%E3%81%AF%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%8C%E8%90%BD%
E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E5%BE%A1%E8%
81%96%E6%96%AD%E3%80%8D%E3%80%80%E3%82%BB%E3%82%AC%E3%83%
AC%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%99%E3%82%8B%E5%89%8D


山本太郎の直訴しかり、左派にも右派にも最近見られるのが、
平成天皇をダシにして、非戦・反戦を主張する動きだ。


「天皇陛下も反戦だ!だからオレが正しい!」というわけである。


しかし、天皇と言うのは、そこまで発言権に自由があるのだろうか?


私の知る限り、天皇夫妻の行動には、かなり制限がある。

基本的に彼らは各地を行幸したり、式典に出席したりして、
ねぎらいの言葉をかけているが、そういうフォーマルな場で
物騒な言葉を言わないのは、当たり前と言えば当たり前のことだろう。


ここで私が気にしているのは、天皇が反戦主義者だろうと好戦主義者だろうと
私たちの耳に届いてくるのは、平和を望む言葉だということだ。


加えて、皇族は戦争を主導したという肝心要の事実があるわけで、
かつての皇族とは違うと主張するためにも、反戦の立場を取るのは当然。


そういう意味では、意地の悪い言い方だが、
天皇の反戦論は、CMや歌の歌詞でよくある平和が一番、愛が世界を救うといった
婉曲的に言えば抽象的、ストレートに言えば実体のない平和論の枠を出ていない。



確かに皇族は得てして平和論者だが、それは、そこから一歩踏み込んで
具体的な問題、つまり皇族の戦争責任を問われることを回避するためにある。


一貫して平和論者として立つことで、皇族の戦争責任は免責されているのである。

これは私の独自の意見ではなく、多くの戦後史研究家が認めることだろう。
(いーや、違うぞ!という人も中にはいるかもしれないが)


日本がいつまで経っても戦争責任を直視しようとしないのも、
この問題について本格的に責任を取ろうとすると、皇族の責任が浮上するからだ。


そういうわけで、天皇の平和論というのは、
それは本人の意思だろうとなかろうと公的立場から発したものであり、
それも、つぶさに見ると皇族の責任を訴追させないために言わされているものだと言える。
(もちろん、言わせているのは取り巻きの宮内庁であろう)


平成になってしばらく経ち、急に天皇制批判が消えたのも、
昭和天皇が死去したこと、平成天皇には直接の責任がないこと、
これまでの反対運動者が高齢で亡くなっていること等々が原因として挙げられるが、
現在の平成天皇の平和行幸もまた、大きなポイントになっていることだろう。


天皇=平和のシンボルにすることで、天皇制そのものの問題点、つまり、
皇族の権威を利用して右翼が権力を振舞う現実への批判がしづらくなっている。


君が代や日の丸への批判は一応、できることはできるが、
私も学校で君が代に反対する音楽教師を見てもポカンとして見ていたし、
歌わされる生徒自身が天皇=平和のシンボルという認識を抱いているならば、
天皇を称える歌を歌ってくださいと言われても「うん、いいよ」と頷くだろう。


君が代斉唱の問題点は理屈としては指摘できても、
感覚的な面では歌わされる民衆が斉唱を受容している以上、
歌うのは問題だと言われてもピンと来ないのが実情だろう。それが不味いと思う。


理屈ではなく、感覚で受容させる戦術。
これこそプロパガンダの真髄だが、天皇の平和行幸は、
宮内庁を主とした日本政府が70年続けている最も巧妙な政治プロパガンダであり、
これを批判するならいざ知らず、賞賛するのは本質が見えていないと感じてならない。


最新の画像もっと見る