まず有言不実行をお詫びします。今西氏の「私の進化論」を読んでいましたが、途中で挫折しました。理由は本の中の今西氏の進化論に対する記述があまりにも稚拙で読むに堪えなかったからです。以下、「私の進化論」での今西氏の進化論に対する記述とそれに対する突っ込みを入れていきます。
P14~15>ところがさきほど私がいいましたのは、個体というものには甲乙がないというという立場です。甲乙がないようにつくってあるということはどういうことかといいますと、これはダ-ウィンの説明と反対でありまして、どのウサギがオオカミに食われても、そしてどのウサギが残っても、甲乙がなければ種としては次の時代にも同じように甲乙のないウサギをつくっていくことができる。要するに食われるウサギというのは運の悪いウサギであって、逃げたウサギは運がよかったにすぎない。ダーウィン流に適者生存で、ウサギの耳が長くなり、足が速くなって、今日ではもうウサギがオオカミに食われぬようになっているかといえば、依然としてやはりウサギはオオカミに食われている。長い目で見たらなにも適者生存になってやしないではないか、こういうことがいえるのであります。
はっきり言います。この人ただのどこにでもいるアホですよ。相互に適応していくという視点がないからウサギの例で反証したつもりでいられる。なぜオオカミもまたウサギを捕まえられないものは淘汰されウサギを捕まえられるものの子孫が今生き残っているという思考がはたらかないのでしょうか。
こんなのはネット上に一山いくらでいる反進化論者と理解のレベルでほぼ同じです。
P14~15>ところがさきほど私がいいましたのは、個体というものには甲乙がないというという立場です。甲乙がないようにつくってあるということはどういうことかといいますと、これはダ-ウィンの説明と反対でありまして、どのウサギがオオカミに食われても、そしてどのウサギが残っても、甲乙がなければ種としては次の時代にも同じように甲乙のないウサギをつくっていくことができる。要するに食われるウサギというのは運の悪いウサギであって、逃げたウサギは運がよかったにすぎない。ダーウィン流に適者生存で、ウサギの耳が長くなり、足が速くなって、今日ではもうウサギがオオカミに食われぬようになっているかといえば、依然としてやはりウサギはオオカミに食われている。長い目で見たらなにも適者生存になってやしないではないか、こういうことがいえるのであります。
はっきり言います。この人ただのどこにでもいるアホですよ。相互に適応していくという視点がないからウサギの例で反証したつもりでいられる。なぜオオカミもまたウサギを捕まえられないものは淘汰されウサギを捕まえられるものの子孫が今生き残っているという思考がはたらかないのでしょうか。
こんなのはネット上に一山いくらでいる反進化論者と理解のレベルでほぼ同じです。