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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

李克強の下放時代

2011-12-10 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.158 )

 李克強とは北京大同窓の「老朋友(=大の親友)」であり、89年の天安門事件後、民主化運動に関わったとして逮捕・投獄され、「病気療養」の名目で事実上、米国に亡命したジャーナリストの王軍濤氏は、「李克強は見るからに秀才タイプで、自身の才を前面に出して能力を誇示する。これに対して、習近平は態度そのものが泰然自若としており中国的な指導者タイプと言える。習近平のほうが次期総書記になる可能性が高い」と言い切る。
 さらに、王氏は「2人の差は育ち方にある」とも指摘する。
 近平は幼少時代、大幹部の息子として何不自由ない生活を送っていたが、李は内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子として育てられた。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。ただ、息子の李克強は小さい頃から勉強では常に学年で1番と、聡明さで群を抜いていたという。
 しかし、李が小学校4年生の年、文化大革命(66-76年)が始まり、教師らが知識分子として批判や吊るし上げを受けるなどして学校も混乱し、中学教育は機能しなくなった。そのため李らの中学校進学が1年遅れてしまった。この結果、李らは「小学7年生」を経験している。また、中学校に進学しても文革の影響で、「ソ連との全面戦争に備える」というスローガンの下、軍事演習をさせられるなど、満足のいく教育は受けることができなかった。さらに高校卒業後の74年、19歳だった李は当時の高校生の大半が経験したように、地方の農村に下放され、労働に従事しなければならなかった。
 教育環境の荒廃は同世代の習近平も同じだったが、李との違いは、近平の父母が大幹部で「打倒」の対象になっていたことだ。李の親は典型的な地方の末端幹部であり、いわば打倒する側に回っていた。このため、李は近平のように下放先の幹部から差別を受けることもなく、共産党への入党についても何ら支障はなかった。
 李は安徽省鳳陽県東陵村に下放された。村の人口は2100人で430世帯と、村としてはかなり大きな自治体だった。李は他の20人の知識青年とともに下放され、毎朝7時から夕方まで農作業に従事した。当時の李を知る村人は、「李克強は非常に聡明で、ふざけたところがなく、仕事もまじめで、昼休みに30分の休憩をとるだけで、農作業に手を抜くこともなかった」などと証言している。

(中略)

  それでは李は労働がない時は何をしていたかというと、李らしいエピソードが残っている。一緒に下放されていた知識青年が文学、歴史、自然科学など各種の蔵書を1万冊あまり備えていたことから、李はその青年に頼んで閲読、借り出しの許可を得て、暇さえあれば本を読んでいたというのだ。李は5年間の下放生活で、農作業をしながら、その合間にそれらの本を読みあさり、知識を蓄えていた。まさに勤勉であり、努力を絵に描いたような話だ。
 その半面、下放時代に地方の生活や政治に通じる経験はあまり熱心にしなかったようで、李は76年に共産党員となり、北京大入学までの間、鳳陽県のある大隊の支部書記として農民を指導する立場になったものの、北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者がいなかったという。そして、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
 習近平も陜西省で大隊の支部書記を経験しているが、近平の場合、村を離れる際、農民が多数見送りにきて、別れの辛さで互いに涙を流し、名残惜しさで農民がなかなか立ち去らず、旅館に1泊して、記念写真まで撮ってようやく別れたというエピソードを第二章で紹介した。また、近平はその後、村を再訪し、下放経験がその後の幹部生活の基礎を形づくったと述懐している。この点では、李克強が下放生活への感慨を語ることがなく、同じ下放経験でも近平とはまったく違う記憶になっていることが印象的だ。こういうところに、同時代を生きた2人の人生の歩き方の違いが色濃く出ていて極めて興味深い。
 文革も終わった翌年の77年、混乱もようやく収まり、8月に復活を果たした小平が、10月に11年ぶりに大学入試の再開を決定した。翌年1月に入学試験があり、570万人が受験した。合格したのは約27万人で、倍率は約21倍という狭き門であった。
 そのなかでも、李は日頃の勉学のおかげで、ほぼ満点をとって北京大学法学部法律学科に入学した。

(中略)

 李は大学でも勉強に妥協はせず、同期生でトップクラスの成績を維持した。特に英語は得意中の得意で、ほとんどの学生がアルファベットを覚えるところから始まったという当時の英語教育のレベルにもかかわらず、李は卒業時には米国の法律専門書を中国語に翻訳するほどの能力があった。また、北京大の同窓生で李の学生時代をよく知る前出の王軍濤氏は、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」と証言する。


 李克強の下放時代について書かれています。



 要は、李克強は「努力の人」であり、「秀才タイプ」だということですね。習近平とは対照的です。

 李克強について、今回の引用部分を整理しておきます。



 李克強は
  1. 下放時代、課せられた農作業をまじめに続け、空き時間には勉強をしていた。努力の人である。
  2. 秀才であり、(農作業のかたわら勉強していたにもかかわらず)北京大学法学部法律学科に「ほぼ満点」で合格した。
  3. 英語は得意中の得意。
  4. 人間関係は苦手。北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者はいなかったし、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
  5. (李克強と北京大同窓で大親友の)王軍濤氏によれば、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」。
  6. 内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。


 著者は、李克強の父親は、
「安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長」などを歴任し、「典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる」
と書いています。

 これを日本の弁護士が読んだら、どういう反応をするでしょうか? 日本の弁護士のなかには、なぜか「オレはエライ」と思っている人もいるようなので、すこし興味があります。



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中国共産党幹部高学歴の秘密

2011-12-09 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.150 )

 中国の次期最高指導部の候補は「博士や修士は当たり前」という時代に突入した。しかし、若手幹部の高学歴化に疑問を呈する向きがないわけでもない。そもそも高学歴化に拍車がかかったのは、改革・開放路線を提唱した小平が、80年代に「幹部の知識化」を打ち出してからだ。
 近平の場合、福建省長だった02年、農業問題に関する論文で高い評価を受けて法学博士を取得した。博士号を授与したのは清華大学人文社会学院で、専門はマルクス主義理論・思想政治教育とされていた。しかし、福建省と北京は2000km以上離れており、省長の激務をこなす近平が清華大に通うことができたのか、そもそも勉強する時間さえ捻出することも難しかったのではないかという疑問が頭をもたげてくる。
 清華大学で博士号を取得したあと、近平は浙江省長に就任するのだが、それとほぼ同時に、清華大に協力して浙江省嘉興市に清華大長江三角州研究院という経済研究所を創設させ、資金援助を行なっている。さらに、浙江省在住の清華大出身者2000人を集めて、浙江省・清華大同窓会を創立し、「浙江省人民政府と清華大学協力協議書」に調印し、同窓会員から寄付を募っている。これら一連の浙江省と清華大との協力関係の強化は省長である近平の肝いりで行なわれただけに、両者の間に何らかの取り引きがあったのではないかと思わせるには十分だ。
 一方、李克強は94年に共産主義青年団第一書記を務めながら北京大で経済学の博士号を取得しているが、寝食を忘れて勉強に没入しても、博士課程を修了するには最低2~3年かかるのが常識だ。
 近平や李克強ら現在の政治局員クラスの若手幹部は、学問の基礎を形成すべき青年時代が文化大革命とぶつかっており、その時期にはほとんど勉強していない。大学入学の選考も「労働模範」であるかどうかが重要であり、基礎的な学習能力は低い世代だと言わざるをえない。しかも、彼らが博士号を取得したのは一定以上の幹部になってからであり、研究に専念した形跡はほとんどないのである。
 中国の時事専門誌『半月談』は近年、多くの幹部が修士号や博士号を取得していることに疑問を呈し、河南省鄭州市のある大学の副学長の証言として、大学の運営に便宜を図ってもらうために、高官に博士号を与えるケースが多いと報じている。この副学長は同誌に「学校の運営には教育、財政など多くの上級機関の支持が必要で、予算を削られることを恐れた」と述べている。
 また、上海の復旦大学のある教授は自身のブログで、「自分の知る限り、多くの高官が権力と金銭を使って学歴を取得している」と明かしている。


 中国の共産党若手幹部は高学歴である。しかし、その学歴は「権力と金銭を使って」手に入れたものではないかという疑惑がある、と書かれています。



 中国では高級幹部の高学歴化が目立っています。とくに理系の修士号・博士号をもった専門家が多数います。

 たとえば、中国の農業部長(日本でいえば農林水産大臣に相当します)は農学博士です。これは日本では考えられないことです。

 このようなことから、「日本はヤバい。中国に追い越される」といった意見がありますが、上記に引用した疑惑が本当であるなら、「それほど気にすることはない」とも考えられます。



 そもそも民主主義国家の日本では、閣僚には当該分野の博士号取得者を充てる、などといったことは現実的ではありません。

 また、政治家(省庁のトップ)が専門家でなければならない、ということもありません。専門家や官僚と連携をとり、専門的な意見を反映した政策を決断すれば、それで足りるからです。



 ですが一応、「日本はヤバい。中国に追い越される」といった意見もあるので、今後の参考のために引用しておきます。これはなにか新たな情報が入った際には、今回の引用内容をも考慮しつつ、私の意見を提出するということです。

 なお、当ブログの著作権に対する考えかたは、「このブログについて」に記載しています。

習近平一族のファミリー・ビジネス

2011-12-09 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.129 )

 習近平の妻・彭麗媛は美人歌手として有名だが、近平の兄弟姉妹は、親戚など「習近平ファミリー」の面々はあまり知られていない。
 実は弟の遠平はかなりのプレイボーイで鳴らし、人脈を利用しようと近づく怪しげな輩との共同事業など、かなりダーティな面もあるが、意図的に隠されている。姉夫婦も不動産事業であくどい商売をしているとのうわさがある。一部では、ファミリーの腐敗が近平の将来に影を落とす可能性さえ取り沙汰されている。
「龍生九子各有不同」という言葉がある。直訳すれば「龍が9人の子供を産んでも、性格や能力はそれぞれ異なり、同じ者はいない」となり、「同じ親でも子はそれぞれ」という意味で使われる。
 これは近平・遠平兄弟にもぴったり当てはまる。近平が約30年もの艱難辛苦に富んだ役人生活を経て、ようやく中国共産党のトップに上り詰めようというのに、弟の遠平は54歳になるにもかかわらず、これまで公的な職務に就いたことがない。
 遠平は現在、北京の不動産会社「白羽」のオーナー社主として、北京、上海、大連をベースに土地開発を手がけ、急ピッチでマンション建設を進めているとされる。この「白羽」という会社名には意味がある。2文字を引っ繰り返すと「羽白」となり、これを1字にすれば「習」と自分の名前になるからだ。
 さらに、遠平は本業のほか、ある映画制作会社社長との "黒い交際" がうわさされている。浙江省に拠点を置く「皮卡王(ピカワン)国際集団」の賈雲・総裁を北京の習家の邸宅に招待し、「兄弟」の契りを結ぶほど親密な関係を続けているというものだ。
 皮卡王国際集団は93年創設の新興企業で、映画やテレビドラマの制作のほか、不動産業や貿易、製造業まで手がける複合企業グループで、21企業を傘下に置き、資産総額17億元、従業員1万3000人を擁している。同集団が制作した映画からは『包青天』や『高地』『重組』『精武英雄』など数々の話題作が世に出ており、中国ではよく知られた企業だ。
 遠平は、その賈総裁と組んで映画制作などに取り組み、一時は同集団の顧問的な役割も果たしていたと香港メディアは伝えている。
 ところが、賈は03年3月に浙江省東陽市での総合レジャー施設「南山国際文化公園」の建設に絡んで、国有地に対する違法な投機などの容疑に問われて逮捕、投獄されてしまった。結局、1000万元の税金を支払うことで釈放されたのだが、この処置の裏では、当時、浙江省トップだった近平が、弟の遠平の要請を受けていたとの疑惑も出た。香港メディアの報道通りならば、近平が自らの地位を利用して犯罪捜査に手心を加えたことになるだけに事は重大だが、中国の最高指導部が絡む話だから、真相は藪の中だ。
 ところで、遠平には習明正という息子がおり、インターネットで遠平とのツーショット写真も出回っている。その一方で、遠平の妻の写真はどこにもなく、夫婦の不仲説、あるいは離婚説もささやかれている。
 遠平は、文革による父・仲勲の失脚を機に、中学校に通うことも許されずに工場で労働奉仕をさせられるなど、教育をろくに受けることができなかった。それが、その後の人生に大きな影を投げかけたことは想像に難くない。仲勲の復活後、人民解放軍に入ったが、水が合わずにすぐ除隊し、その後は働くわけでも学校で学び直すわけでもなく、現在の日本で言えばニートのような生活を送っていたようだ。
 それが、党の長老として復活を遂げた父の権勢が強まり、いまや党の最高指導部に名を連ねる兄を持ったことで、権力の甘い蜜のおすそ分けに与ろうと、周りにはさまざまな人間が集まってきた。遠平は事業に名前を貸すなど周囲の人間からその立場を利用されながらも、実際に利権につながる情報が複数のパイプを通じて入ってくるだけに、自身の商売は極めて順調なようだ。
「遠平は太子党人脈や特権を利用して商売を軌道に乗せてきた。兄の威光を最大限に利用して生きている寄生虫みたいな存在だ。近平は日頃から幹部に清廉さを求めているが、身内には甘い」
 北京の老百姓(ラオバイシン=庶民)からは近平・遠平兄弟を批判する声も聞かれるのである。

(中略)

 近平の姉の橋橋は、すでに還暦に達する年齢だが、北京に本社を置く不動産会社「北京中民信房地産開発有限公司」を経営する実業家である。自らは会長に就き、夫の家貴を社長に据えて手広く不動産事業を展開し、年商数十億元もの巨利を得ていると伝えられる。
 特に、北京中心部の北京西城区にある4万6000㎡もの土地開発を手がけ、延べ床面積18万5000㎡もの豪華な高層マンションを建設して売り出したことは有名だ。近くには政府機関が多く、複数の地下鉄が走り、バス路線も多いなど、交通も便利なビジネス街と高級住宅街を兼ねた地域だけに、売り出しと同時にほとんど完売したという大成功ビジネスだ。
 さらに、北京ばかりでなく、経済特区の広東省深圳でも不動産会社を経営し、「深圳市地下鉄公司」との合弁事業として、新設の地下鉄駅の近くに高級マンションを建設して大きな利益を得た。新たに作られた地下鉄駅の近くにマンションを建設すれば売れるのは当たり前であり、橋橋が経営するような一介の民間不動産会社が公益法人である深圳市地下鉄公司と合弁事業を組めるのも、さらに言えば北京で一等地開発を手がけられたのも、近平の存在抜きには考えられないことだ。
 また、深圳は父・仲勲が経済特区を創設するために奔走した歴史があり、仲勲は引退から病没するまでの12年間、深圳に住んでいた。これも、橋橋が利権がらみの事業を獲得できた大きな要因だったことは疑いないところだろう。
 中国では最高指導部の威光を借りて親族が商売に走り、莫大な利益をせしめるケースが後を絶たない。


 習近平一族のファミリー・ビジネスが紹介されています。



 「中国では最高指導部の威光を借りて親族が商売に走り、莫大な利益をせしめるケースが後を絶たない」とのことですが、「一部では、ファミリーの腐敗が近平の将来に影を落とす可能性さえ取り沙汰されている」というのですから、かなりヤバい商売なのかもしれないですね。

 一応、整理しておきます。

 なお、どちらも不動産業だというところが興味深いです。よほど旨味があるのでしょう。



 弟の遠平は、
  • 北京の不動産会社「白羽」のオーナー社主。「白羽」は「習」の意。この会社は北京、上海、大連をベースに土地開発を手がけ、急ピッチでマンション建設を進めているとされる。利権につながる情報が複数のパイプを通じて入ってくるだけに、商売は極めて順調である。
  • 浙江省に拠点を置く「皮卡王(ピカワン)国際集団」の賈雲・総裁と「兄弟」の契りを結んでいるという "黒い交際" が噂されている。
  • かなりのプレイボーイで有名。
  • 遠平の息子は習明正。
  • 仲勲の復活後、人民解放軍に入ったが、水が合わずにすぐ除隊している。
  • 北京の庶民の間では、習近平について「遠平は太子党人脈や特権を利用して商売を軌道に乗せてきた。兄の威光を最大限に利用して生きている寄生虫みたいな存在だ。近平は日頃から幹部に清廉さを求めているが、身内には甘い」といった声もある。


 姉の橋橋は、
  • 北京に本社を置く不動産会社「北京中民信房地産開発有限公司」を経営する実業家。自らは会長に就き、夫の家貴を社長に据えて手広く不動産事業を展開し、年商数十億元もの巨利を得ていると伝えられる。
  • 経済特区の広東省深圳でも不動産会社を経営しており、「深圳市地下鉄公司」との合弁事業として、新設の地下鉄駅の近くに高級マンションを建設して大きな利益を得た。
  • ビジネス上の成功は、(一族である)習近平の存在抜きには考えられない。


彭麗媛からみた習近平の魅力

2011-12-08 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.119 )

 習近平にとって福建省厦門市副市長時代は権力闘争と基盤固めを繰り広げた大切な時期だったことに触れたが、同時にプライベートでも大きな転機を迎えていた。近平が結婚したのは1987年9月1日、相手は彭麗媛(ポン・リーユアン)という中国人民解放軍総政治部歌舞団の専属歌手だった。
「人民解放軍の専属歌手」というと、軍人慰問団の名もない歌い手のようなイメージだが、麗媛はもっと "大物" である。かつての日本の「紅白歌合戦」のような、視聴率が例年100%近い大晦日の大型歌謡番組でトリを務めるほどの国民的なスター歌手なのである。そして、当代の男たちを魅了した美貌の持ち主でもあった。
 近平が麗媛と初めて会ったのは厦門にある麗媛の友人宅で、86年末のこと。すぐに2人の愛の炎は燃え上がり、ほぼ半年後には麗媛の両親の反対を押し切って電撃結婚するほどの熱烈恋愛だった。今でも「恩愛夫婦」とか「おしどり夫婦」と呼ばれるアツアツぶりはつとに知られる。
 近平の名前が中国で知られるようになったのはここ数年のことだが、麗媛は当時すでに数々のヒットを飛ばし、中国で知らない者はいないほどの超有名人。今でこそ、近平は「次期中国指導部ナンバー1」と言われるようになり、麗媛は「習近平の妻」と呼ばれるようになったが、結婚して20年以上も、近平のほうが「あの彭麗媛の夫」と呼ばれる関係だった。

(中略)

 それにしても、近平には国民的スターのハートをつかんで離さないほどの男としての魅力があったのだろうか? 失礼ながら、その風貌を見る限りでは、名うてのプレイボーイにはとても見えない。
 麗媛が近平と会ったのは、友人から「素敵な人がいるのよ。絶対に会うべきよ」と熱心に勧められたからだという。人気絶頂とはいえ、麗媛は当時すでに25歳。そろそろ身を固めたいと思っていた頃だった。しかし、相手が「厦門市の副市長」と聞かされると、北京を拠点に活動している麗媛は、「この話は無理。結婚しても別々に住まなければならないもの」と、会うのさえ断わろうと思ったという。
 しかし、友人の熱心さから「会うだけなら」と考え直した。ただし、お見合いの当日、なんとカーキ色の軍装ズボンを穿いて出かけていった。近平がこんな格好の女にどんな反応をするか試してみようと思ったのだ。
 そして近平と「ご対面」したのだが、麗媛はすぐに、厦門くんだりまで来たことを後悔した。近平は見るからに「田舎モノ」で、実年齢の34歳よりもずっと老けて見えたからだ。
 ところが、近平の最初の一言が麗媛の心を捉えた。
「声楽には歌い方がいくつあるのですか?」
 スターと言っても、当時の中国のこと。客商売の歌手という職業に引け目を感じていた麗媛は、近平が麗媛を「プロの声楽家」として扱ったことがうれしかったのだ。
「あなたは今、どんな歌を歌っているの」
 近平の2番目の質問は、国民的スターに媚びていないことを示しており、かえって新鮮だった。
「『希望の田野で』という歌を歌っています」
 麗媛は、当時大流行していた自分の持ち歌の名を答えた。すると近平は、
「聴いたことがあります。すごくいい歌だね」
 と素直に応じた。
「その時、私はぐらついたの。彼こそ私の待っていた男性なのかしら。純粋だし、それに考えが深い、と」
 麗媛は後にそう回想している。一方の近平は、
「君と会って40分で、生涯の伴侶だと決めた」
 と、後に麗媛に語ったという。


 彭麗媛が習近平と結婚したのはなぜか、彭麗媛からみた習近平の魅力とはなにか、が書かれています。



 私は最初、これを読んだとき、習近平はなかなかいい男ではないか、と思いました。すくなくとも、私には彭麗媛の気持ちがわかるような気がします。

 しかし、じっくり考えてみれば、このお見合いは「ヘン」です。



 習近平の質問、「声楽には歌い方がいくつあるのですか?」は問題ありません。問題なのは、その次、
「あなたは今、どんな歌を歌っているの」

「『希望の田野で』という歌を歌っています」
 麗媛は、当時大流行していた自分の持ち歌の名を答えた。すると近平は、

「聴いたことがあります。すごくいい歌だね」
 と素直に応じた。
という部分です。



 これは「おかしい」と思いませんか? いかに習近平が公務で多忙を極めていたとはいえ、国民的大スターのヒット曲、しかも当時大流行していた歌を知らないはずがありません。もちろん習近平は、「聴いたことがあります。すごくいい歌だね」と言っており、「知らなかった」わけではありませんが、
「誰が歌っているか」を知らなかったとは考え難い
と思います。すくなくとも、
自分の「見合い相手」の「いま(=当時)のヒット曲」ぐらいは「知っているはず」、知らなくとも調べているはず
ではないでしょうか?



 とすれば、習近平は「純粋」な「私の待っていた男性」ではなく、「口がうまいだけ」だった、ということになります。



 私の見かたは「深読みのしすぎ」かもしれません。しかし、どう考えても、習近平が「知らなかったはずはない」と思います。

 そもそも、習近平は「出世するために」共産党に入っています。習近平は「純粋」でしょうか? 「口がうまい」男、「交渉上手」な男だと考えるほうが、(私には)実態に合致していると思われてなりません。



 なお、彭麗媛の「希望の田野で」は下記(↓)で聴けます。歌がうまいですね。彭麗媛は、日本でいえば美空ひばりかもしれません。

「在希望的田野上/彭丽媛」
http://www.youtube.com/watch?v=yggpysTk7jM



註:
  1. 上記はたんに、習近平の人物像を考察しているにすぎません。彭麗媛が習近平を「素敵な男性」だと思ったのであれば、それはそれでかまいませんし、他人の結婚にケチをつけるつもりは毛頭ありません。
  2. また、面倒なので引用を省略していますが、「お見合いのとき、近平はバツイチだった。まだ離婚していなかったとの説もある」ようです。




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習近平の上海市党委書記時代・その2

2011-12-08 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.23 )

 07年10月1日。中華人民共和国建国58周年の国慶節に、胡錦濤・国家主席は上海を訪問した。習近平・上海市党委書記と韓正・市長が胡を迎えた。胡は習らを随行させ市内の障害者施設や化工品メーカー、無線電子研究所などを視察し、報告を聴取した。
 通常、国慶節前後には中央での祝賀行事が集中し、国家主席が地方を視察することは極めて異例。2週間後の15日には中国共産党の第17回党大会が迫っており、時間がいくらあっても足りない時期の上海視察には重大な意味が含まれていた。
 第一は、巨額汚職事件で更迭された陳良宇・前党委書記らが進めた、経済成長一本槍で中央政府のマクロ経済調整政策に従わないやり方から、中央の方針を遵守するよう新指導部に誓わせることだ。
 上海市は江沢民・前主席ら上海閥の牙城であり、胡が02年秋の党総書記就任以来、上海を訪問したのは、これを含めて3回しかない。市党委が視察日程などを調整するのは初めてのこと。温家宝・首相にいたっては、陳ら旧指導部が温首相のマクロ経済調整政策に公然と反対していたことから、陳書記時代に上海を訪問したことは皆無だった。
 もう一つは、上海市が胡ら中央指導部の方針に従うことを条件に、2週間後の党大会で、習を胡の後継者含みの政治局常務委員に選出すると伝えることだった。
 習は胡が上海を離れるとすぐ市党委拡大会議を招集し、
①陳良宇事件を深刻に受け止め中央と軌を一にしていく。
②全局的な観点からマクロ経済調整政策との統一性を確保し、その有効性と中央の権威を認め、政策を実行する。
 の2点を強調した。上海市の中央政府に対する "全面降伏宣言" とも言えよう。同時に、習が胡の後継者となった決定的瞬間でもある。


 上海市党委書記に就任した習近平は、自分の出世(政治局常務委員への昇格)と引き換えに、(前任者の)経済成長路線を変更することを決定した、と書かれています。



 「出世したい」と強く望んでいる習近平にしてみれば、上海を「犠牲」にして中央の意向に従うことは、「当然の判断」でしょう。もともと、習近平は上海に縁もゆかりもありません。

 胡錦濤もそのあたりのことは承知しているからこそ、習と取引しようとしたのだと思います。



 しかし、これを上海閥の人々から見れば、「習近平は許せない」となるのではないでしょうか。もともと上海閥の人々からすれば、習近平は「よそ者」であり、胡錦濤や習近平に「(上海が)やり込められている」と思ったとしても不思議ではありません。

 おそらくこれが、(後の)習近平の次期中国最高指導者含みの人事(=政治局常務委員会入り)について、江沢民がなかなか承諾しなかった背景事情なのでしょう。



 なお、前回、「習近平の上海市党委書記時代」において、私は、
著者がなぜ、習の上海市党委書記就任「人事は、江が近平に白羽の矢を立てたことを意味した」と書いているのかわからない。
と書きましたが、

 著者がなぜ、江沢民が習近平に白羽の矢を立てたことを意味すると書いたのか、わかりました。



 上海市党委書記、すなわち陳良宇の後任を誰にするかを決定する際に、
  1. 最初、胡錦濤が上海市党委書記に李源潮・江蘇省党委書記(共青団閥のエース・胡の腹心)を推したところ、江らが反対したので、
  2. 次に、胡錦濤は劉延東・党中央統一戦線部長(共青団閥)を推したものの、江らが反対し、
  3. 次に、胡錦濤は李克強を推薦したが、江らが反対し、
  4. 江沢民らは胡錦濤に対抗して習近平を推したところ、習に決定した。
といった経緯をもとに、

 著者は「江沢民が習近平に白羽の矢を立てた」と考えたようです。



 しかし、胡錦濤が推薦したのは全員、共青団閥のメンバー、すなわち胡錦濤派の人々です。

 したがって、いかに「江沢民らが」習近平を上海市党委書記に推したとはいえ、それは江沢民ら上海閥が「しぶしぶ」ましな選択をしようとしたにすぎず、「積極的に」習近平を推したわけではありません。

 以上により、江沢民は習近平に「白羽の矢を立てた」といえないことはないものの、これを「白羽の矢を立てた」と捉えることは実態に即していないと考えられます。つまり、江沢民は習近平に「白羽の矢を立てた」りはしていない、と考えるべきだと思います。



 なお、陳良宇事件については、「「汚職追放」の裏の意味」に詳細な記載があります。よろしければご覧ください。



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