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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

習近平の上海市党委書記時代

2011-12-07 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.116 )

 浙江省トップとして5年も経たない07年3月、近平は突然、上海市トップに昇格した。党委書記の陳良宇が06年9月、腐敗に関係したとして更迭されたからだ。上海は首都北京に次ぐ中国ナンバー2の大都市であり、経済ではナンバー1。そして、江沢民率いる上海閥の本拠地だ。この人事は、江が近平に白羽の矢を立てたことを意味した。この経緯についてはプロローグでも触れた。
 いくら江沢民の後ろ楯があっても、近平の上海市党委書記就任も落下傘幹部の典型だ。味方はほとんどおらず、周りは敵ばかり。まさに四面楚歌状態の抜擢だけに失敗は許されない。だが、上海人は中国で最も陰謀好きと言われる "特殊な人種" だけに、近平の身辺には5つもの「罠」が仕掛けられていた。
 1つは市党委書記の公邸。上海市の高級住宅街に位置する3階建ての洋館で、広さは800㎡以上あった。規定では省級幹部の官舎は250㎡以内で、党政治局員でも300㎡以内なので、この洋館は完全に規定違反だ。近平はこの洋館を断わり、マンションの一室に住んだ。
 次はベンツ400型の専用車だった。国家・党幹部は国産車を使うとの規定に違反する。3つ目は専属のコックと医師で、規定では省級幹部にはコックはつかない。近平につけられた医師は軍系の医大教授の地位にあり、これも規定に違反する。
 次に専用列車で、近平が公務で隣接する浙江省に出張しようとした際、専用列車が用意された。規定では専用列車を使えるのは国家主席、副主席、首相、全人代委員長、政協主席及び政治局常務委員、中央軍委副主席のみ。近平は用意された専用列車ではなく、ワゴン車で出張した。最後に、近平を歓迎するためとして、上海市党学校で市幹部を集めた講義の要請があった。当時は汚職事件捜査のため、中央から派遣された捜査陣や幹部が多数市内に残っており、新任の近平が講義をすれば耳目を集めるのは確実。そうした場での失言は将来に禍根を残す。近平は要請を断わった。
 上海市トップ時代はわずか7か月と4日だったが、行動は慎重の上にも慎重を極めた。地元幹部に揚げ足をとられないよう言動にも注意した。この時期の近平は会議で発言しても、事前に用意された原稿を正確に読むだけで、アドリブは一切なし。
「彼の言動には生采がなく、特徴もなく、剛直さもなかったが、誤りもなかった」
 とは当時の近平を評した中国問題専門家の言葉だが、このような堅実さが江沢民らに評価され、07年秋の第17回党大会で政治局常務委員会入りするとともに、序列で李克強を上回り、次期中国最高指導者の座をほぼ掌中にしたのである。


 習近平が上海市トップになったとき、上海閥の人々によって「罠」が仕掛けられた、と書かれています。



 引用文中には、習の上海市党委書記就任「人事は、江が近平に白羽の矢を立てたことを意味した」と書かれていますが、本当にそうであれば、上海閥の人々による「罠」は仕掛けられなかったでしょう。

 そもそも江沢民は、(この後に続く)習近平の次期中国最高指導者含みの人事(=政治局常務委員会入り)についても、「李克強よりはマシ」と考えて認めています。もし、江沢民が習近平に「白羽の矢を立てた」のであれば、「李克強よりはマシ」などと考えて「しぶしぶ」習近平の政治局常務委員会入りを承認したりはしないはずです。

 したがって、江沢民は習近平に「白羽の矢を立てた」りはしていない、と考えられます。

 著者がなぜ、「この人事は、江が近平に白羽の矢を立てたことを意味した」と書いたのか、それはわかりませんが、著者がそう書く根拠が不明である以上、ここでは「著者の勘違い」として話を進めます。



 著者によれば、上海閥の人々によって、習近平に仕掛けられた罠は次の5つです。
  1. 規定では省級幹部の官舎は広さ250㎡以内、党政治局員でも300㎡以内であるにもかかわらず、800㎡以上の広さをもつ3階建ての洋館(場所は上海市の高級住宅街)を公邸として提供しようとした。
  2. 規定では国家・党幹部は国産車を使うことになっているにもかかわらず、ベンツ400型を公用車として提供しようとした。
  3. 規定では省級幹部にコックはつかないにもかかわらず、専属のコックを提供しようとした。また、規定に反し、軍系の医大教授を専属医師として提供しようとした。
  4. 規定では専用列車を使えるのは国家主席、副主席、首相、全人代委員長、政協主席及び政治局常務委員、中央軍委副主席のみであるにもかかわらず、習近平が出張しようとした際に専用列車が用意された。
  5. 近平を歓迎するためとして、上海市党学校で市幹部を集めた講義の要請をした。


 上記のうち、5番目の罠「講義の要請」について著者は、
新任の近平が講義をすれば耳目を集めるのは確実。そうした場での失言は将来に禍根を残す。近平は要請を断わった。
と書いており、これは習近平の「失言」を狙った罠だといわんばかりですが、これは習近平の「失言」を狙ったものではなく、
共産党中央の幹部らに、「習近平は上海市トップになって得意になっている。いい気になっている」という印象を与え、「習近平はとんでもない奴だ」と思わせるのが狙い
でしょう。

 「講義の要請」を除く、他の4つの罠すべてが、「習近平は得意になっている。いい気になっている」という印象を与えようとするものである以上、このように解釈するのが自然だと思います。そもそも「失言」をしなければすむなら、「罠」とはいえません。



 なお、引用部分には
 上海市トップ時代はわずか7か月と4日だったが、行動は慎重の上にも慎重を極めた。地元幹部に揚げ足をとられないよう言動にも注意した。この時期の近平は会議で発言しても、事前に用意された原稿を正確に読むだけで、アドリブは一切なし。
「彼の言動には生采がなく、特徴もなく、剛直さもなかったが、誤りもなかった」
 とは当時の近平を評した中国問題専門家の言葉だが、このような堅実さが江沢民らに評価され、07年秋の第17回党大会で政治局常務委員会入りするとともに、序列で李克強を上回り、次期中国最高指導者の座をほぼ掌中にしたのである。
とあります。

 日本の場合、閣僚(政治家)が「事前に用意された原稿を正確に読むだけで、アドリブは一切な」いことを、問題であると捉え、「自分の言葉で話すべきだ」といった批判がなされていますが、

 江沢民「ら」は、これを習近平の「堅実さ」として評価したようです。

 日本でも、「事前に用意された原稿を正確に読むだけで、アドリブは一切なし」の閣僚を、すこしは評価してもよいのではないかと思います。誤解のないように書き添えますが、私は「アドリブ一切なし」に徹すべきだとは言っていません。「アドリブ一切なし」のよい面も認めてよいのではないか、ということです。



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■追記
 著者がなぜ、江沢民が習近平に白羽の矢を立てたことを意味すると書いたのか、わかりました。「習近平の上海市党委書記時代・その2」をご覧ください。

習近平の浙江省党委書記時代

2011-12-06 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.112 )

 近平は02年10月、さまざまな思い出が詰まった福建省から、温暖で風光明媚、経済的にも発展が著しい浙江省に転出する。役職は福建省長から浙江省長代理だ。近平は省長経験者だけに「代理」は便宜的なもので、実質的な浙江省長だったとはいえ、浙江省に地縁や血縁はまったくない。親しい知人、友人などもほとんどいない。浙江省側から見れば、典型的な落下傘幹部であった。
 しかも、赴任1か月後には、省長代理から省トップの党委書記に昇格した。通常、省長から数年の経験を積んで書記に昇進するから、このスピード昇格の人事は異例中の異例である。

(中略)

 浙江省での重要な仕事は福建省時代同様、改革・開放の推進による経済発展だった。浙江はGDPが広東、山東、江蘇に次ぐ全国4位だったが、私営企業の育成が課題だった。98年の同省の貿易に占める私営企業の割合はわずか8%。01年には24%に達し、4000以上の私営企業が育っていたものの、中国全体から見れば少ないほうだった。
 近平にとって、これは過去の経験が最も活かせる格好の課題だった。それまでの行政経験から、私営企業の育成はお手のものだったのである。事実、近平が省トップになってから2年も経たない04年7月には、省の私営企業はすでに30万社に達し、中国全体の私営企業の売上高ベスト500社に浙江省の企業188社が入った。食堂や小売店などの個人商店は150万に及び、両方の売上高が省内総生産に占める割合は70%と、他省に比べ抜群の高さを誇った。


 習近平の浙江省党委書記時代について、書かれています。



 浙江省時代の業績は、「改革・開放の推進による経済発展」を成功させたことにあるようです。習近平は、父親が広東省で「改革・開放の推進による経済発展」を成功させた過程を逐一見ていたこともあり、経済発展を目指す改革は得意なのでしょう。



 さて、ここで「習近平の友人に対する態度」で提起した問題、すなわち、「習近平はなぜ、共産党に入党したかったのか」について、私なりの答えを書きたいと思います。



 習近平の父は毛沢東による共産革命時の幹部ではあるものの、小平による改革・開放政策において中心的な役割を果たすなどしており、走資派だったと考えられます。

 とすれば、近平が父親からなんらかの影響を受けていたとしても、ガリガリの共産主義者である可能性はきわめて低いと思われます。したがって、習近平は「中国の共産主義化を推進するために」共産党に入りたかったのではないと考えられます。

 実際、近平は福建省・浙江省で「地域経済の資本主義化」を進めており、この見かたを裏付けています。



 それでは、習近平は「カネと出世」のために共産党に入党したかったのでしょうか?

 近平は「自分の出世」のためにはドライに人間関係を断ち切っています。また、近平には世渡り上手な一面もあります。したがって、近平にとって「出世」は重要であると考えてよいでしょう。つまり、習近平は「自分の出世を望んでいる」ということです。



 以上から、習近平が共産党に入党したのは、「カネと出世」が目的だったとみて、まず間違いないと思います。

 これは現在、「中国人が共産党に入党する動機」と「同じ」です。毛沢東の時代は別として、当時(習近平の時代)もいまも、中国人が共産党に入党する動機は「実益」にあるようです。



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習近平の福建省長時代

2011-12-06 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.101 )

 近平は85年6月、32歳の誕生日に厦門市副市長として福建省の省都・福州市に赴いた。

(中略)

 近平が副市長として迎えられた当時の厦門市は、厦門島が主要地区で、周辺の小島を含めて約120k㎡のうち厦門本島西北部の2・5k㎡が80年10月に経済特区に認定されていた。当時の特区は深圳、珠海、汕頭、厦門の4か所で、厦門以外はすべて広東省にあった。

(中略)

 中国では80年代後半、改革派には厳しい情勢が続いた。86年暮れから87年初めには学生による民主化要求運動が全土に吹き荒れ、対応をめぐって胡耀邦・総書記が失脚。先にも触れたように、これには裏があって、胡は「政治の民主化」実現のため、小平の引退を要求していた。これがの逆鱗に触れて更迭されたのである。この政争のなかで、近平の父・仲勲は胡側に立ったため、87年の党大会では政治局員に再選されず、全人代副委員長の閑職に飛ばされてしまう。
 1年半後の89年4月、胡が急死したことで民主化要求運動が再燃し、6月4日の(第二次)天安門事件の悲劇を招くことになった。改革・開放の機運は一気に冷め、中国には保守的な沈滞ムードが蔓延した。

(中略)

 その後、35歳の近平は、厦門から福建省でも最も発展が遅れていた寧徳地区の党委書記に任命される。寧徳は省の東北部に位置する9つの県をまとめた地区で、浙江省に隣接し、沿海地区と山間部を併せ持つ農漁村地帯だ。
 福建省は当時、平均年収が160元しかなく、中国全体の貧困人口77万5000人の3分の1を抱え、その大半が寧徳地区に集中するなど全国有数の貧困地帯だった。

(中略)

 近平は最貧困層の救済から始めた。茅で作った家に住む住民7000人の家を建て直したほか、海岸沿いで縦15m、横2mの小さな船を住居としている船民2万2000人にも家を建て、補助を与えて生計を立てさせた。
 貧困の反作用として、福建省では汚職や腐敗が蔓延していた。最大の産業はお役所だったからだ。福建に限らず、貧困地区では公務員の生活が最も安定しており、身分的にも最も高い。官にむさぼりついて甘い汁を吸うという体質が染み付いていた。例えば、幹部の大半は公金を横領して自分の家を建てていた。近平は同地区に在任中、汚職で副県長級の幹部242人、科長級以上の幹部1399人を摘発するという荒療治を行なった。
 近平はその後、福建で福州市長や省長などの要職を歴任するが、汚職には悩まされ通しだった。特に、省長就任を翌年に控えた99年4月、中国史上最大の腐敗事件と言われた「遠華事件」が発生した。
 遠華事件とは車やタバコ、石油、電化製品などの密輸が約530億元、脱税約300億元、計830億元も国庫に損害を与えた大事件だった。
 この事件で、これ以前に省党委書記を務めた賈慶林(当時は北京市長)の妻・林幼芳が汚職に関与したとのうわさが流れたほか、北京の公安省次官や軍高官、さらに福建省や厦門、福州市の要人の大半が汚職に関与した疑いで逮捕。主犯の貿易会社社長の頼昌星はカナダに逃亡し、現在もカナダにとどまっている。
 賈慶林は事件の摘発後、妻の林幼芳と離婚しているのだが、その後、復縁している。その裏に何があったかは藪の中だが、遠華事件が大きく影響しているのは間違いないだろう。
 このような混乱が続いた福建省時代だが、その一方で近平は自身の人脈の基礎を着実に形成していた。特に、項南の腹心だった賈慶林とは親しい関係を築いた。賈は江沢民に引き上げられて北京市長、党委書記、さらに党政治局常務委員と出世街道を進んでいった。

(中略)

 賈の後任の党委書記には福建省長だった陳明義が就任した。省長には化学工業相だった賀国強が就いた。賀は99年6月、重慶市長に栄転し、今では党規律検査委員会書記を兼務する党政治局常務委員である。
 賀のあとの省長に就任したのが近平だったのだが、その頃に遠華事件が発覚。省トップの陳明義の妻と息子が事件に関わっていたことが判明して、陳は解任されてしまう。
 後任の党委書記は胡錦濤・主席の期待が高かった共青団閥の若手ナンバー1の宋徳福。宋は、「私はタバコを担当。近平は酒に責任を持っている」と、近平との二人三脚振りをジョークにするほど、両者の関係は良好だった。宋から近平の手腕が胡錦濤に報告され、胡も近平を憎からず思うようになったとされる。
 現在の党常務委員会には賈慶林、賀国強、習近平と、福建省の幹部出身者が3人もいる。9人中3人の "福建幇" に加え、同じく常務委員の周永康は曾慶紅の直系で近平と親しい。近平が次期中国ナンバー1の座を射止める大きな強みになることは確実だ。その基礎が、この大事件さなかの福建で築かれていた点は興味深い。


 習近平の厦門市副市長時代、寧徳地区党委書記時代、福建省長時代について書かれています。



 今回はとくに書くことがありません。引用部分をまとめれば、
  • 厦門市副市長時代は、改革・開放の機運が一気に冷めたために(経済対策が得意の)習近平には目立った実績はないが、
  • 寧徳地区党委書記時代には貧困対策・汚職摘発で実績を残し、
  • 福建省長時代にはそれなりの実績を残した、
といったところでしょう。



 この期間の習近平については、実績ではなく、現在の政治局常務委員(賈慶林・賀国強・周永康)と親しい関係になった、という部分が重要だと思います。



 なお、習近平の人物像を考察するために彼の半生を追いかけている関係で、とくに書くことがないときにも「やむなく」引用する場合があります。なるべく「抜けている期間」が生じないようにする必要があるからです。



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習近平の正定県党委書記時代

2011-12-05 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.93 )

 25年間も続くことになる近平の地方幹部としての駆け出しは、河北省石家庄市正定県の共産党委員会副書記で、県のナンバー3格。時に82年3月、28歳の時だった。
 正定県は三国志演義で有名な劉備玄徳の3大武将の1人、趙雲の故郷。北京からは南に300km離れた田舎ではあるが、河北省の省都、石家庄からは20kmと近く、都市近郊型の農村と言える。

(中略)

 近平は県の副書記を1年8か月務めてから、県トップの党委書記に昇格した。いよいよ近平の政治手腕、行政手腕が試される立場に立った。しかし、清華大時代や秘書時代にも、父が幹部だった広東省のほか、海南島などで改革・開放の現場を見ていた。地方幹部時代にはこの経験が役立ち、早くから大胆な改革政策を打ち出した。
 農畜産業しか産業がなかった正定県に商品市場経済を持ち込んだのもその一つだ。乳牛や肉牛、鶏やウサギの加工工場のほか、化学工業や建材、服飾などの大きな工場を建設し、まだ珍しかった労働者の出来高給「生産リンク請負制」を積極的に導入した。
 正定県には当時、小説『紅楼夢』のような清朝の街並みが残されていたことから、本格的な清朝様式の街並みを再現するため、80万元を投資して、「栄国府」と銘打ったアミューズメントパークを建設。観光客を誘致したほか、映画撮影を行なうなど、観光業を県の一大産業に育てた。すでに近平が県を離れていた86年8月、4600万㎡という広大な敷地を誇る栄国府が完成し、年末までに100万人が訪れて、入場料収入は221万元、その他の観光収入が1768万元にも達した。中央政府から「中国観光正定県モデル」と認定される大成功となった。また、近平は引退した老幹部の福利厚生や町の衛生問題に取り組むなどして、それぞれ大きな業績を上げた。
 後に近平の正定県時代の活躍を描いたテレビドラマ「新星」が地元で放送され、視聴率は平均92%を記録した。

(中略)

 次は近平の母・斉心が書き留めていたもので、近平が正定県党委書記時代に救った無賃乗車の姉妹の話だ。近平が列車で出張中、10歳と6~7歳くらいの幼い姉妹が車掌に、「お父さんを探し出したら、必ず汽車賃を払いますから……」などと叫んでいる声が聞こえた。どうやら無賃乗車をとがめられていたようだ。姉妹が本当に父親を探しているのかどうかはわからなかったが、かわいそうに思った近平は車掌の前に進み出て、
「私が払ってあげるから許してやってください」
 と声をかけた。車掌も近平から汽車賃を受け取ると、姉妹を見逃したという。
 姉妹は近平にお礼を言い、
「お父さんが見つかったら、必ずお金は返しますから、名前を教えてください」
 と尋ねたという。近平が姉妹に、
「心配はいらないから、そのままとっておきなさい」
 と言っても姉妹は納得しなかった。繰り返し近平の名前と住所を尋ねたので、近平は、
「正定県の習という者だ」
 とだけ答えたという。
 それから、ほぼ半年後、なんと姉妹は正定県まで尋ねてきて、住民に、
「習という名前の人はいますか」
 と尋ね回ったという。ある人が、
「習というのは珍しい名前だ。この町では書記の習さんくらいしかいないなあ」
 と言ったので、姉妹は、
「まさか県の書記ではないかもしれないけど……」
 と半信半疑で県庁に近平を訪ねると、まさにあの時の親切なおじさんではないか。姉妹は近平にお礼を言い、借りていた汽車賃もきちんと返したという。
 この無賃乗車の姉妹の話はあまりにも美談すぎて、すべて実話かどうかは疑いも残るものの、政治的に利用された逸話でもなく、近平の母の斉心が書き留めている話なので、少なくとも類する話があったのだろう。


 習近平の河北省石家庄市正定県時代について、書かれています。



 28歳のときに県の共産党委員会副書記(県のナンバー3格)、その1年8か月後には県トップの党委書記になった、とあります。

 これはスピード出世だと思います。

 著者は「太子党の絆の強さの秘密」の引用部分において、習近平が「地方官僚を経て這い上がった」と書いていますが、これでは「這い上がった」とはいえないでしょう。

 当時の習近平は、(1) 共産党の大幹部として復活した父親をもつ、(2) 清華大出の (3) 共産党員です。清華大学は、日本でいえば東京大学に相当します。どう考えても、習近平は中国の超エリートではないでしょうか?

 たしかに習近平は恵まれない体験(下放生活)も経験していますが、さすがに「這い上がった」は言いすぎだと思います。



 それはともかく、ここでは習近平の「政治手腕、行政手腕」が重要だと思います。これは引用で足ります。
 農畜産業しか産業がなかった正定県に商品市場経済を持ち込んだのもその一つだ。乳牛や肉牛、鶏やウサギの加工工場のほか、化学工業や建材、服飾などの大きな工場を建設し、まだ珍しかった労働者の出来高給「生産リンク請負制」を積極的に導入した。
 正定県には当時、小説『紅楼夢』のような清朝の街並みが残されていたことから、本格的な清朝様式の街並みを再現するため、80万元を投資して、「栄国府」と銘打ったアミューズメントパークを建設。観光客を誘致したほか、映画撮影を行なうなど、観光業を県の一大産業に育てた。すでに近平が県を離れていた86年8月、4600万㎡という広大な敷地を誇る栄国府が完成し、年末までに100万人が訪れて、入場料収入は221万元、その他の観光収入が1768万元にも達した。中央政府から「中国観光正定県モデル」と認定される大成功となった。また、近平は引退した老幹部の福利厚生や町の衛生問題に取り組むなどして、それぞれ大きな業績を上げた。
 後に近平の正定県時代の活躍を描いたテレビドラマ「新星」が地元で放送され、視聴率は平均92%を記録した。
 近平は当時の「改革・開放」政策に基づき、県経済を急速に発展させています。中国の「県」は日本の「県」とは異なり、「市」の下に位置する行政単位なので、その点は注意が必要ですが、近平は大活躍したといってよいでしょう。

 ドラマ「新星」の平均視聴率が92%を記録したことからも、それがわかります。近平は地域の人々に好意的に受け止められていたと考えられるからです。

 なお、ここであえて意見を述べるとすれば、習近平が「引退した老幹部の福利厚生」に取り組んだところが重要だと思います。近平は世渡り上手なのでしょう。



 最後に、無賃乗車の姉妹の話ですが、私はこういう話、好きですね。

 著者は「あまりにも美談すぎて、すべて実話かどうかは疑いも残るものの」「少なくとも類する話があったのだろう」とまとめていますが、実話であってもおかしくないと思います。

 著者はなぜ、「美談すぎる」と思ったのでしょうか?

 すくなくとも私なら、この姉妹と同様、お金を返しに行きますし、逆に私が習近平(の立場)なら、やはり近平と同じ行動をとりますね。

 ネットでは、「中国人はウソつきだ」といった意見が散見されますが、誠実な感じの中国人もいます。ネットの「中国人はウソつきだ」は、おそらく偏見だと思います。



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「中南米カリブ海諸国共同体」が発足

2011-12-04 | 日記
日本経済新聞」の「中南米諸国、米抜き共同体設立で首脳会議」( 2011/12/3 20:09 )

 【サンパウロ=檀上誠】ベネズエラの首都カラカスで2日、中南米とカリブ海の独立国で構成する「中南米カリブ海諸国共同体」設立のための首脳会議が開幕した。同共同体は2008年に設立方針が示され、準備が進んでいた。この共同体構想には域内の全独立国33カ国が参加。米州には米国とカナダを含み、キューバが革命後に除名された米州機構(OAS)がある。新たな構想では米国と距離を置く中南米独自の組織を創設し、長期的な地域統合の可能性を探る。

 会議は3日までの予定。メキシコのカルデロン大統領は冒頭「中南米の10年が訪れた。統合に向けて進んでいこう」と演説。地域連携の重要性を強調した。開催国のチャベス大統領は「ここに独立と発展の礎を築こう。統合だけが自由をもたらす」と述べた。会議は今年7月に開催予定だったが、チャベス大統領のがん治療のために延期された経緯がある。


 中南米「域内の全独立国33カ国が参加」する「中南米カリブ海諸国共同体」設立のための首脳会議が開幕した。「米国と距離を置く中南米独自の組織を創設し、長期的な地域統合の可能性を探る」構想である、と報じられています。



 報道には、「同共同体は2008年に設立方針が示され、準備が進んでいた」とあるので、「政治単位統合の要因」において、政治的統合が
 あり得るとすれば、中南米諸国の統合でしょうが、いまのところ、そのような歩みは報じられていません。おそらく、中南米は統合を目指していないのでしょう。
と書いた私が不勉強だったことになります。このようなことにならないよう、もっと努力したいと思います。



 なお、下記に引用する報道によれば、「中南米カリブ海諸国共同体」はすでに発足したようです。

 この共同体構想には中南米「地域での米国の影響力を低下させたいとの狙い」があり、反米路線をとらない国々は「米国抜き」を強調することを避けているとも報じられています。

 日本はどういう態度をとったのか(とるのか)わかりませんが、中国は早速、「祝電を送り、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立にお祝いの意を表し」たようです。おそらく中国は、米国の影響力が低下することが「うれしい」のでしょう。



47NEWS」の「米排除の中南米カリブ共同体発足 33カ国で」( 2011/12/04 11:17 )

 【カラカス共同】中南米とカリブ海の33カ国は3日、ベネズエラの首都カラカスでの首脳会議で地域機構「中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)」の設立を表明する「カラカス宣言」を採択し、同共同体が正式に発足した。

 米国主導の米州機構(OAS)と異なり米国とカナダを排除しており、同地域での米国の影響力を低下させたいとの狙いがある。

 3日の首脳会議には親米のコロンビアやチリからも大統領が参加し、地域の結束力の強さを示した。資源価格高騰や経済成長に伴い中南米地域の国際的な存在感が増す中、中南米諸国は、CELACを通じて国際社会での一層の発言力強化を目指す。




YOMIURI ONLINE」の「中南米カリブ海33か国、米と加を除き新機構」( 2011年12月3日18時52分 )

 【リオデジャネイロ=浜砂雅一】中南米とカリブ海の33か国で構成する新たな地域機構「中南米カリブ海諸国共同体」を創設する首脳会議が2日、ベネズエラのカラカスで開かれ、米州のうち米国とカナダを除外した新機構が発足した。

 ベネズエラのチャベス大統領やキューバのラウル・カストロ国家評議会議長ら「反米」の指導者は、新機構を、米国が主導しキューバを事実上追放している米州機構(OAS)に対抗する組織と位置づけている。

 ロイター通信などによると、会議を主催したチャベス大統領は記者団に、「OASは米国に操られてきた。新機構はいずれOASに取って代わる」と強調した。

 一方、米国との関係悪化を望まない穏健路線の首脳たちは「米国抜き」を強調することを避けている。メキシコのカルデロン大統領は2日の演説で、「調和と繁栄を目指そう」と述べるにとどまった。




CRI 中国国際放送局」の「胡主席、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体を祝賀」( 2011-12-04 13:16:59 )

 中国の胡錦涛国家主席は2日、ベネズエラのチャベス大統領、チリのピニェラ大統領に祝電を送り、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立にお祝いの意を表しました。
 胡主席は祝電の中で、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立は地域一体化プロセスにおける重要な一里塚だ」と高く評価し、「ラテンアメリカ・カリブ諸国が国際事務や地域問題で重要な役割を果たし、共同体の成立は必ず地域の団結と協力を促し、グローバルな挑戦への対応に大きく寄与するだろう」と期待を寄せました。

 胡主席はさらに、「中国とラテンアメリカは遠く離れていても、国民の友情は深い。21世紀に入ってから、中国とラテンアメリカの関係が全面的に発展し、各分野での互恵協力が持続的に拡大している。中国は一貫して高度に戦略的なラテンアメリカとの関係を重要視し、ラテンアメリカ・カリブ諸国と共に、協力と交流を強め、互恵共栄、共同発展の全面的パートナーシップを築きたい」と述べました。(12/04 Lin、志摩)