茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.19 )
江沢民と曾慶紅の対立と、両者の裏取引(習近平の次期総書記含みの常務委入り人事)の内容が書かれています。
これを読むと、習近平が「ポスト胡錦濤最有力候補」に急浮上してきたのは、中国の二大実力者、胡錦濤・江沢民の「どちらからも(比較的)遠かった」からだということがわかります。つまり胡錦濤(共青団)と江沢民(上海閥)の権力争いのなか、どちらの派閥にも属さない習近平に有利になった、ということです。
今回も、要点を整理するにとどめます。
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「習近平と曾慶紅の関係」
曾の江への近親憎悪的感情が爆発したのは、04年9月の党第16期第4回中央委員会総会(4中総会)の軍事委最高人事だった。胡は、江から軍権を奪取しようと画策し、江の息子である江錦恒がビジネスに絡んで巨額の賄賂を受け取っていたとして錦恒の逮捕をちらつかせて、江に軍事委主席辞任を迫ったと伝えられる。江は曾を頼って事件の揉み消しを図ろうとしたが、曾はそれを無視し、逆に中央軍事委主席を辞任すれば「何事もなかったことになる」として、江に引導を渡した。退路を断たれた江は辞任を決意したものの、曾に裏切られた不満と憎しみが深く残った。
その後、曾と胡の関係は急速に緊密さを増し、それと反比例するように、曾と江の関係は険悪となった。それを決定付けたのは、逮捕された上海市トップ、陳良宇の処分だった。この事件は表向き、陳が職権を濫用して巨額の賄賂を受け取り、国家に300億元(約3900億円)もの損害を与えたということになっている。
しかし実態は違う。04年4月、陳が政治局会議で、温家宝・首相のマクロ経済調整政策を批判し、「上海はあくまでも経済成長政策をとる」と主張し、席を蹴って上海に戻ってしまった "事件" に端を発している。陳の主張は沿海都市部の指導者たちの意見を反映していたことから、胡や温が対応に苦慮した結果、汚職や規制違反を口実に陳を逮捕するという見せしめ的措置を断行したのだった。
逮捕については曾も賛成し、江の了解も取り付けていたとされるものの、江は陳の刑事処分には反対した。
しかし政治局常務委員会は07年7月、陳の起訴を決定する。会議では上海閥の呉邦国、賈慶林、李長春の3人が反対。温家宝、呉官正、羅幹の3人が賛成したが、曾は棄権に回った。3対3で、議長の胡が賛成し、陳の起訴が決まった。曾が反対していれば陳の起訴はなかっただけに、会議の経緯を聞いた江は、曾の態度に怒り狂ったという。
江にとって、陳は上海閥の次代を担う若手リーダーであり、胡の跡を襲う次期総書記の有力候補として育ててきたという思いがある。陳は胡が引退する12年秋の第18回党大会時に65歳と、まだまだ後継を狙える年齢であり、少なくとも政治局常務委員として上海閥を率いていく器量は十分にあった。だからこそ、
「江は上海閥以外の習近平や李克強ら若手幹部の登用に反対し続けていた」
と北京の党幹部は明かす。
97年10月の第15回党大会では、江ら最高幹部が「ポスト胡錦濤」を協議し、習と李が候補に挙げられたが、どちらも唯一の後継者としないことで決着。02年10月の第16回党大会では、「習か李のいずれかを常務委入りさせるべきだ」との意見が出たものの、江が「十分な経験を積んでいない」と反対し、地方に幹部として派遣することが決まった。
「江は、自分の息のかかった若手幹部を登用したかったのだ」と同幹部は指摘する。しかし、その江の根回しも曾につぶされたことになる。
ただし、第17回党大会を前に、江は猛然と反撃に出る。それは曾への引退要求だ。だが、胡は曾を大会秘書長に任命した。このポストは歴代、政治局常務委員ないし常務委入りが内定している政治局員が務めており、引退予定者が就いた例はない。つまり、江が求める曾の引退に対する拒否宣言と言ってもよい決定だった。
実際には、曾はすでに引退を決意していた。代わりに、すでに上海市トップに就いていた習の次期総書記含みの常務委入りを要求。難色を示す江に対して、さらに譲歩し、引退が決まりかけていた上海閥の賈、李長春両常務委員の留任を提示した。江にとって、上海閥の腹心が常務委に残ることは好都合だ。「李克強という胡の腹心よりはまし」との判断もあり、習の次期中国最高指導者含みの人事を了承したのである。こうして、曾の思惑通りに、習近平が次期最高指導者の道を歩み始めた。
曾は党大会期間中の江西省代表団の分科会で、
「指導者は『流水の兵』であり、1期また1期と新旧交代していくものだ」
と達観した発言を行なっている。翌年3月の全国人民代表大会(全人代)で、曾は国家副首席を辞任し、引退した。それは、権力にしがみつく江を揶揄(やゆ)するかのような潔い引き際だった。
江沢民と曾慶紅の対立と、両者の裏取引(習近平の次期総書記含みの常務委入り人事)の内容が書かれています。
これを読むと、習近平が「ポスト胡錦濤最有力候補」に急浮上してきたのは、中国の二大実力者、胡錦濤・江沢民の「どちらからも(比較的)遠かった」からだということがわかります。つまり胡錦濤(共青団)と江沢民(上海閥)の権力争いのなか、どちらの派閥にも属さない習近平に有利になった、ということです。
今回も、要点を整理するにとどめます。
- 胡錦濤が江沢民から軍権を奪取した(中央軍事委員会主席ポストを奪った)手法は、江の息子である江錦恒の汚職・収賄に着目し、錦恒の逮捕をちらつかせ、江沢民を脅すというものである。軍事委主席を辞任すれば「何事もなかったことになる」として裏取引に持ち込んだ。
- その際、曾慶紅は江錦恒を守るどころか、逆に胡錦濤の側について江沢民に辞任を要求した。
- 胡錦濤政権が陳良宇を逮捕・摘発したのは、上海市トップの陳が上海の利益しか考えず、温家宝・首相のマクロ経済調整政策を批判、「上海はあくまでも経済成長政策をとる」と主張し、席を蹴って上海に戻ってしまったからである。
- 陳の逮捕については曾も賛成し、江の了解も取り付けていたとされるものの、江は陳の刑事処分には反対した。なぜなら江沢民にとって陳は子飼いの部下であり、上海閥を率いる次代のリーダー、ポスト胡錦濤候補として政治局常務委員に引き上げたかったからである。
- 江は上海閥以外の習近平や李克強ら若手幹部の登用に反対し続けていた。02年10月の第16回党大会では、「習か李のいずれかを常務委入りさせるべきだ」との意見が出たものの、江が「十分な経験を積んでいない」として反対した。
- 第17回党大会を前に、江沢民は曾慶紅の引退を要求したが、胡錦濤は江の要求を拒否した。しかし曾は自分の引退と、引退が決まりかけていた上海閥の賈、李長春両常務委員の留任と引き換えに、(陳良宇の後任として上海市トップに就いていた)習近平の次期総書記含みの常務委入りを要求。江は「李克強という胡の腹心よりはまし」との判断もあり、習の次期中国最高指導者含みの人事を了承した。
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