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感染症と世界の歴史 「パリ大改造」

2020-07-17 07:13:00 | 報道/ニュース

6月19日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


感染症は人々の生活を一新させてきた。
その代表例が“花の都”パリである。
世界で最も観光客が多い年として知られているが
19世紀までは全く違っていた。
当時
パリの人口は急増し
悪臭が立ちこめる汚い都市だったのである。
狭い道路に面した家には風呂やトイレはない。
人々は汚物を外に投げていたのである。
それは通りに放置され
雨が降ると川に流れた。
水は浄水場を通ることなく下流の人たちの生活用水として利用された。
つまりパリは感染症が広がる典型的な環境だったのである。
そんな19世紀のパリを襲ったのがコレラである。
急激な下痢や嘔吐の症状に見舞われるコレラは
それまでインドの風土病とみられていたが
宗主国のイギリスを経由してパリで流行した。
1832年には大流行し1万8,000人が犠牲になった。
とりわけ衛生状態の悪い地域から多くの死者が出た。
コレラを封じ込めるには街をきれいにしなければならない。
当時の皇帝ナポレオン3世が打ち出した構想が
パリ大改造だったのである。
実際に動いたのは県知事だったジョルジュ・オスマンだった。
オスマンは1853年から17年間にわたってパリを要する政務県の知事を務めた。
地下に巨大な上下水道を整備し
街の衛生状況を整備したうえで
景観にもこだわった。
細い路地を取り壊して道路を拡幅し
それに沿って同じデザインの建物を4万棟も建てたのである。
そしてパリは“花の都”へと生まれ変わった。
この手法は
スペイン・バルセロナやスウェーデン・ストックホルムなど
外国の都市の改造にも影響を与えた。
コレラが世界の街づくりのきっかけとなったのである。

 

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ヨーロッパ マスク“新習慣” ファッションにも

2020-07-16 07:00:00 | 報道/ニュース

6月16日 NHKBS1「国際報道2020」


ドイツのバスターミナル。
乗り降りする人は皆マスクを着用している。
ドイツでは全ての州で
買い物や公共交通機関を利用する際などにマスクの着用が義務付けられた。
首都ベルリンの地下鉄の駅にマスクの自動販売機が登場した。
洗って再利用できる布マスクで
値段は500円余。
つい忘れてしまっても大丈夫と
評判も上々である。
(市民)
「列車でマスクをしていない人も見かけます。
 自販機があれば“買えなかった”とは言えなくなります。」
隣国オーストリアでも
店舗や公共交通機関での着用が4月 義務化された。
これまでテロ対策から公共の場でマスクを着けることを制限する法律まであり
大きな方針転換となった。
ウィーン市内には専門店が相次いで登場。
販売されているマスクのデザインは640種類という店も。
ファッションとしての広がりを見せている。
(市民)
「5種類のマスク持ってます。
 今日の濃い色はドレスとバッグに合わせました。」
「インスタグラムで色々なマスクが見られ
 もはやファッションです。」
ウィーン老舗の帽子ブランドの工房。
世界中から人気がある帽子だが
最近作り始めたのが手作りのマスク。
創業は1903年。
マドンナさんやブラッド・ピットさんなどハリウッドスターの御用達である。
デザイナーのミュールバウアーさん。
顔の魅力を引き出すことを心掛けてデザインする。
1枚1枚帽子職人が手作業で仕上げている。
値段は日本円で3,000円ほどと高めだが
初めて店頭に並べた60枚のマスクは2時間で完売。
一時は帽子づくりを中断してマスク作りに専念していた。
(デザイナー ミュールバウアーさん)
「色は6~8種類用意し
 帽子や服
 肌の色や目の色に合わせられるようにしました。
 人々の日常生活に溶け込めるものにしたいのです。」
マスクで経営悪化を免れた店もある。
外出制限で服が売れず
起死回生に考案したのが
服と同じ素材やデザインのマスクの販売だった。
すでに900枚ほどが売れる人気商品となった。
(服飾店オーナー リーガーさん)
「マスク文化が残ればいいですね。
 私にとってはいいビジネスだから。
 ウィルスの状況がどうなるか分かりませんが。」
今後
マスクをする人たちがヨーロッパの日常風景となるのか。
新しい生活様式への適応が課題となりそうである。


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築地4丁目 てんとう虫

2020-07-15 13:14:01 | グルメ

 

 

 

 

 
         (食べログより)

日比谷線 築地駅または東銀座駅から徒歩5分
大江戸線築地市場駅から徒歩5分
築地市場駅から295m


http://tsukiji-tentoumushi.com/

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果敢な挑戦へ

2020-07-14 07:05:29 | 編集手帳

6月16日 読売新聞「編集手帳」


近代文学に知らない字句を教わることが多い。
詩人・萩原朔太郎の名高い随筆『冬の情緒』では1行目から辞書のお世話になった。

冬を<人間の果敢ない孤独さを思はせる>と書き出すのだが、
寡聞にして<果敢ない>を「かかんない」と読んでしまった。
どこか変なので調べてみると、
「はかない」と読むことを知った。

なるほど人は果敢さを失うから、
はかない思いをするのかな。
と、
勝手に解釈したのを思い出しつつ、
ラグビーの福岡堅樹選手(27)の進路の報を聞いた。
果敢な挑戦だろう。
来春の医学部進学を決意したという。

現役は続けるも五輪の7人制代表は断念する。
少し残念だが、
ラグビーも夢、
医師となりケガをした人に寄り添うのも夢と、
ひたむきに目標に向かう姿勢にうたれる。
ここ何年もプロとしてリーグ出場や練習を続けながら、
受験勉強にも手を抜かなかったそうだ。
秋のW杯で見せたトライのように、
大股でぐいぐいと突き進んでもらいたい。

「はかない」にはあろうことか、
人と夢を並んで立たせる<儚い>もある。
この人のまっすぐな思いは語意を逆さまにしてくれそうな気がする。


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歳末の「第九」

2020-07-13 07:00:00 | 編集手帳

6月13日 読売新聞「編集手帳」


 飲料会社の伊藤園が募集する「新俳句大賞」で、
かつて10歳の女の子のこんな作品が大賞に輝いたことがある。
<ベートーベンにらんでばかりおそろしい>

小学校の音楽室に飾られた肖像画だろうか。
ドイツの作曲家の情熱に満ちた視線を受けつつ、
オタマジャクシの浮かぶ教科書を開いたのを思い出す。
懐かしい気持ちになりながら、
この句にもう一つ思うのは季語である。
もしかしてべートーベン? 
歳末恒例の「第九」の合唱が耳に響いてくる。

新型コロナウイルスが音楽の世界に与えた打撃は計り知れない。
深刻さが際立つのが合唱団といわれる。

マスクを着けて十分な声量で歌える人は皆無だろう。
さらには寄り添って互いに耳を澄まし、
ハーモニーを奏でるのが合唱である。
何十人もが集まらなければならないため、
一定の距離を空けるとなれば練習場所さえ見つからない。
新しい生活様式を続けていくと「第九」の響かない歳末が訪れるのかもしれない。

想像すると喪失感が大きい。
今年のような苦しい年にこそ喜びの歌が必要だろう。
肖像画のべートーベンが、
悔しくてにらんでいるように思える。

 

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感染症と闘った偉人➄ 野口英世の誤算

2020-07-12 07:00:01 | 報道/ニュース

6月12日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


野口英世と言えば黄熱病の研究で知られている。
黄熱病もまた新型コロナウィルスと同じように感染症である。
横断症状が出て黒い血を吐いて死ぬことがある恐ろしい病気である。
当時アフリカや南米などで流行していた。
原因がわからないまま長い間多くの人を死に至らしめていたのである。
この病気を調査するため
1918年に南米エクアドルに赴いたのが野口英世だった。
野口はアメリカのロックフェラー研究所の研究員だった。
当時エクアドルでは原因不明の熱病が流行っていた。
そして野口は赴任してからわずか9日目で
黄熱病の原因と思われる細菌を発見したと発表したのである。
その細菌を使って“野口ワクチン”が作られ
治療法が確立されたと言われた。
これで人類は黄熱病に打ち勝ったと思われたのである。
ところがその後 野口は大ピンチとなる。
研究者の間で
野口の研究に疑問を投げかける論文が相次いで発表されたのである。
野口は焦る。
起死回生を狙って西アフリカへと旅立った。
そこでは黄熱病が流行していたのである。
しかしこの地ではエクアドルで効果があった野口ワクチンは効かなかった。
1928年
野口は自らも黄熱病にかかり亡くなった。
エクアドルで流行っていた熱病は黄熱病ではなく
ワイル病というよく似た感染症だった。
結局 野口が発見したのは
黄熱病ではなく
ワイル病の原因となる細菌だったのである。
ワイル病の原因は細菌だが
その後
黄熱病は細菌よりはるかに小さいウィルスが原因だとわかった。
ウィルスを見ることのできる電子顕微鏡が開発されたのは
野口が死んだ後のことだった。
野口は結局 黄熱病の原因を見つけることができなかったが
目の前で苦しむ多くの人々の多くの命を助けたのである。

 

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韓国 ネット上の誹謗中傷への対策

2020-07-11 07:01:03 | 報道/ニュース

6月11日 NHKBS1「キャッチ!世界のトップニュース」


インターネット上での誹謗中傷が日本をはじめ世界各国で問題となるなか
対策を求める声が強まっているが
表現の自由などに配慮する必要もあり
抜本的な解決策を見出すのが難しいのが現状である。

去年の秋
韓国社会に衝撃が走った。
(去年10月)
「歌手で俳優のソルリさんが亡くなりました。」
人気タレントだったソルリさん。
ネット上の悪質な書き込みに悩んだうえ
自ら命を絶ったとみられている。
そのわずか1か月後
ソルリさんの友人で日本でも芸能活動をしていたKARAの元メンバー
ク・ハラさんも帰らぬ人となった。
ハラさんもネット上で激しいひぼう中傷に晒されていた。
相次いで起きた芸能人の死。
韓国では去年
ネット上での名誉棄損などの事件が1万6,633件発生し
5年間で約2倍に増加した。
ソウル市内にある法律事務所。
10の芸能時事務所と契約を結び
芸能人の名誉棄損に対して法的措置を取っている。
「芸能事務所から届いた文書ファイルです。
 このような大変な量になっています。」
(弁護士)
「ファンたちが証拠を集め
 芸能事務所が監視するなど
 積極的に対処しています。」
訴訟の際 重要な証拠となる書き込みを消される前にデータとして残している。
しかし膨大な数の中傷コメントの中から
裁判の資料として有効と思えるものを選び
実際訴えを起こすのは大変な作業だという。
(弁護士)
「被害者側が対応するだけでは限界があります。
 社会や政府など広い次元での対処が必要だと思っています。」
そこで注目されているのが
悪質な書き込みを抑制するための法案である。
(去年10月 デチュル議員)
「“ソルリ問題”は匿名に隠れた暴力で
 投稿による間接殺人と言えます。
 悪質な書き込みをする人を制限する必要があります。」
国会で提出された 通称“ソルリ法案”。
サイトの登録をする際に個人ごとに割り振られるIDや
ネット上の住所にあたるIPアドレスなど
個人の特定につながる情報の表示を義務化する。
そうすることで悪質な書き込みの抑制が期待されている。
世論調査では
ひぼう中傷した人を特定できる法律の導入について
賛成する人が7割近くにのぼる一方
“自由に発言できるネットの特徴が失われる“と懸念する声も上がっている。
(賛成する人)
「芸能人もひぼう中傷され自殺など極端な選択をするので
 賛成です。」
(反対する人)
「反対です。
 ネットは自由に表現できる場所で
 実名を特定する必要はないと思います。」
ネットをめぐる規制に詳しい専門家は
表現の自由との兼ね合いをどうとるかが重要だと指摘している。
(カチョン大学法学部 ギョンジン教授)
「悪質な投稿者を捕まえるために
 表現の自由を制約するのは望ましくありません。
 得られるメリットと
 社会に及ぼす悪影響のバランスを
 よく考える必要があります。」

 

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感染症と闘った偉人④ 手洗いの元祖

2020-07-10 07:00:19 | 報道/ニュース

6月11日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


新型コロナウィルスが猛威を振るっている今年
生誕200年を迎えた女性がいる。
イギリスのフローレンス・ナイチンゲール (1820~1910) である。
看護師の代名詞ともなっているナイチンゲールに
今回のコロナ危機であらためて注目が集まっている。
19世紀半ばに
いち早く手洗いや公衆衛生の重要性を訴えていたからである。
いわば“手洗いの元祖”である。
ナイチンゲールは
1853年からのクリミア戦争で看護師の責任者として赴いた。
野戦病院で兵士の看護にあたったのである。
そこで目にしたのは悲惨な状況だった。
兵士からは悪臭が漂い
病院の中は不潔そのものだった。
戦争による負傷よりも
コレラなどによる感染症で亡くなる兵士が多かったのである。
そこでナイチンゲールは
治療の前に
病院をきれいに保つ必要があると考えた。
最初に取り掛かったのはトイレ清掃。
そして服やシーツの洗濯である。
栄養の豊富な食事も出した。
さらに兵士たちの不安を和らげるためベッドを回って声もかけた。
こうした努力の結果
負傷した兵士の死亡率は
3か月で42%から5%にまで下がったのである。
クリミア戦争から帰国した後も
ナイチンゲールは
病院などの衛生環境の向上を訴え続けた。
その際 活用したのが統計学である。
ナイチンゲールは死者の数を兵士の死因ごとに分けて
ひと目で分かるように工夫したグラフを作った。
そしてこのグラフをもとに
“病院内の衛生状態が悪いため兵士が死に至っている”と
政府に訴えたのである。
ナイチンゲールが看護師として働いたのはクリミア戦争での2年ほどの間だけである。
帰国後は体調を崩し
多くの時間をベッドの中で過ごした。
それでも野戦病院での悲劇を繰り返さないよう
論文などを執筆。
90才で亡くなるまで
公衆衛生の発展に力を尽くしたのである。

 

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感染症と闘った偉人③ 細菌学の父

2020-07-09 07:00:00 | 報道/ニュース

6月10日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


ドイツ人の医師 ロベルト・コッホ。
狂犬病のワクチンを開発(1885年)したパスツールに対して
1882年に世界で初めて結核菌を発見した。
結核はそれまで多くの人々が死に至り恐れられていたが
原因がわからなかった。
コッホはそれを解明したのである。
結核がとりわけ大流行したのは
18~19世紀に産業革命が進んでいたころのイギリスである。
農村から都市に人口が集中し
労働者は工場や鉱山で長時間労働を強いられたのである。
体は疲れ果て
免疫力は弱まっていた。
さらに当時は住宅の衛生状態も良くない。
こうした環境は結核が流行するのにうってつけだった。
その後
産業革命が各国に広がると
結核も世界に広がっていった。
こうしたなかでコッホが結核菌を発見したのである。
結核は
咳やくしゃみなどで結核菌が飛び散ることで
ヒトからヒトへうつる病気だということも分かった。
その結果
結核治療のための薬がいくつも売り出された。
またコッホは
結核以外にも感染症の原因ともなるコレラ菌を発見した。
コレラは
激しい腹痛に襲われ
ひどい場合は感染後 1~2日で死に至る恐ろしい病気である。
こうした業績によって
コッホはパスツールと並び“細菌学の父”と呼ばれた。
1905年にはノーベル生理学・医学賞を受賞した。
そして築き上げられた近代医学が
現在の感染症対策の礎となっているのである。

 

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海の “やっかい者” で新ビジネスを

2020-07-08 07:00:00 | 報道/ニュース

6月10日 NHK「おはよう日本」


大分県国東市の漁港。
このあたりの海でウニは生息しているが
漁師たちはほとんど獲らない。
実入りが悪いものが多く
商品価値がないからである。
大量発生したウニが海藻を食べつくすことで起こる“磯焼け“。
この現象が起きると
ウニは少ないエサを奪い合うため
実が入らないのである。
こうしたヤセたウニを買い取り商品にするビジネスに乗り出したのが
大分うにファームである。
2か月ほどで実入りがよく美味しいものに変身させる。
秘密はエサにある。
食用昆布の切れ端を活用。
ウニのうまみを引き出す。
食べるのが遅いウニにエサをたくさん食べさせるため
溶けにくく加工した。
(大分うにファーム)
「こういった技術を駆使することで
 地域の特産品に変わる。」
実はこうしたノウハウをもたらしたのは
ノルウェーに拠点を持つ企業である。
ノルウェーでも磯焼けが問題となり
有効活用できないか研究が行われてきたが
国民にウニを食べる習慣がなく商業化ができなかった。
そこで目をつけたのが日本だった。
世界屈指のウニの消費国でビジネスにしようと
大分うにファームを共同で起ち上げたのである。
(ノルウェーに拠点 ウニノミクス)
「日本の消費者が“うまい”と思うウニに育てることができれば
 “寝ている”ウニ資源が
 突然 高級水産資源になる。」
いま力を入れるのが販売先の開拓である。
季節を問わずに地元のウニを安定供給できることを強みに売り込んでいる。
(旅館の料理長)
「安定的に大分県の新鮮なものが入ってくれば
 前向きに考えていこうかなと。」
目指すのは来年4月の事業化である。
(大分うにファーム)
「出荷体制がしっかりとれたあとは
 環境問題を含めた背景を強みに
 多くのお客さんに食べてもらいたい。」

 

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残像のように

2020-07-07 07:00:00 | 編集手帳

6月10日 読売新聞「編集手帳」


若手の俳人であり、
本紙社会部記者でもある山口優夢に雨を受けて咲くアジサイを描写した句がある。
<あぢさゐはすべて残像ではないか>
(『残像』角川学芸出版)

降りしきる雨のなか、
かすむ視界に浮かぶ花は残像でしかなく、
手で触れようとしても本当はそこに何もないのではないか――
夏への橋渡しをする花の、
かくもせつない咲き方を五七五に閉じ込めたものだろう。

近畿がきょうにも、
関東があすにも梅雨入りするとみられている。
今年は列島の東西でほぼ同時期にアジサイの季節を迎えることができるらしい。

というのも去年の梅雨入りは東京が6月7日で、
大阪が20日も遅い27日だった。
なかなか西にかからない前線を、
天気図に信じがたく眺めたのを思い出す。
とはいえ去年の梅雨までの歩みはわりと穏やかに過ごせた。
令和元年を初夏の清らかな空気のなかで迎え、
気がつけばアジサイが雨にぬれていた。
それに比べると、
この3か月ほどが信じがたく思える。
本当にあったことなのかと。

大阪では感染者がめっきり減り、
あの医療崩壊の迫った日々が残像になりかけている。
東京はまだまだ。

 

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感染症と闘った偉人② パスツールの仕事

2020-07-06 07:00:29 | 報道/ニュース

6月9日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


ジェンナーが天然痘のワクチンを開発してから100年ほど経った1880年代に
フランスの科学者がワクチンを大きく発展させる。
ルイ・パスツール (1822~1895) である。
天然痘以外の病気にも応用が可能だと考え
さまざまなワクチンの開発に成功した。
ワクチンは細菌やウィルスの毒を弱くした薬である。
パスツールは
それを体の中に入れると免疫力ができて
細菌やウィルスと闘う力がアップすると考えた。
初めてウィルスに感染すると病気になるが
同時に体内には抗体がつくられる。
そして次に同じウィルスが体内に入ると
攻撃を始めるのである。
この体の仕組みが免疫
それを利用したのが予防接種である。
パスツールが開発した中でも最も有名なのが
狂犬病のワクチン(1885)である。
狂犬病は当時フランスで流行っていた。
狂犬病ウィルスを持つ犬などにかまれると
ウィルスがその傷口から体内に侵入する。
強い不安感やけいれんなどの症状などが出たあと
呼吸障害などが起き
死に至る。
発祥すれば死亡率はほぼ100%という恐ろしい病気である。
1885年
ある少年がパスツールのもとを訪ねた。
“狂犬病ウィルスを持つ犬にかまれた”というのである。
発祥を抑えるため
パスツールはこのとき少年に狂犬病のワクチンを接種する。
犬の唾液からウィルスを培養して作ったもので
人への接種は初めてだった。
この少年はワクチンを接種した後 無事回復した。
パスツールは
狂犬病予防のためのパスツール研究所をパリに設立した。
そこで生涯研究を続け
近代医学創始者の1人となったのである。
ちなみに狂犬病ワクチンで助かった少年は
このパスツール研究所で守衛を務めたということである。

 

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ベルギー 国民食の“フライドポテト”が苦境に

2020-07-05 07:24:59 | 報道/ニュース

6月8日 NHK「おはよう日本」


こんがり黄金色に輝くフライドポテト。
世界では広く“フレンチフライ”とも呼ばれるが
発祥はフランスではなく
実はベルギーだとされている。
ベルギーのフライドポテトの特徴は
2度揚げによるカリッとした食感と
マヨネーズをつけて食べること。
週に1回以上食べる人が8割にのぼるというデータがあるほど
ベルギー国民に愛されている。
専門の売店も街のあちこちに。
気軽にテイクアウトできるのも人気の理由である。
(専門店)
「フライドポテトがなければベルギーじゃない。」
しかし新型コロナウィルスの影響で市民が外出を控えるなか
フライドポテトの消費も大きく落ち込んでいる。
深刻な打撃を受けているのが原料となるジャガイモの生産者である。
ベルギー全体で75万トン
大型トラック3万台分ものジャガイモが廃棄寸前に追い込まれている。
生産者のケルペンティールさん。
丹精込めて育てたジャガイモはしなびて芽も出てしまった。
東京ドーム4個分の畑を所有するケルペンティールさん。
損害は日本円で1,000万円にのぼるという。
(ジャガイモ生産者 ケルペンティールさん)
「こんなことが起きるなんて思いもよらなかった。」
そこで生産者などで作る団体は
自宅でもフライドポテトを食べてもらおうと
消費を促すキャンペーンを始めた。
(ジャガイモ関連の業界団体 事務局長)
「週にもう1回多くジャガイモ製品を食べてもらおうと呼び掛けています。」
しかしそれでも大量のジャガイモが余ってしまう。
廃棄だけは避けようと
団体ではフードバンクへの寄付を決めた。
“生活の苦しい家庭に毎週約25トンを提供できるようになる“と
行政も輸送費などを助成してくれることになった。
寄付を受け付けているフードバンク。
感染拡大の影響で利用者が増えるなか
今回の寄付は願ってもないことだった。
(フードバンク 代表)
「主食にもなり
 栄養価が高いので
 寄付はありがたいです。」
(ジャガイモ関連の業界団体 事務局長)
「生活が厳しい人たちはさらに難しい日々を過ごしているでしょう。
 ジャガイモを届けられてうれしいです。」
 
フードバンクに寄付する取り組みは当初
ベルギーの北部だけで行われていたが
南部でも資金援助が行われることになり
ますます広がっているということである。

 

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感染症と闘った偉人① 最強天然痘に勝利

2020-07-04 07:00:00 | 報道/ニュース

6月8日 テレビ朝日「グッド!モーニング」 池上彰のニュース検定


天然痘は人類を長い間苦しめた最強の感染症だった。
もっとも古い死亡例は
紀元前1157年の古代エジプト
ラムセス5世にまでさかのぼると言われている。
ミイラに残った痕跡から
天然痘にかかっていたとみられている。
日本でも奈良時代(737年)に天然痘が猛威を振るったという記録が残っている。
その終息への願いはのちに大仏造立の一因となった。
中国大陸や朝鮮半島との貿易を通じて日本に広がったとみられている。
その後も天然痘はたびたび猛威を振るう。
人類は押されっぱなしだったが
18世紀後半
反撃に転じる。
イギリス人の医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)が
歴史を変える画期的な薬を開発したのである。
きっかけは牛の乳しぼりの女性たちの会話だった。
“牛痘という病気に一度かかれば天然痘に感染しない”と話していたのである。
牛痘は当時乳しぼりの女性たちの間で流行っていた。
天然痘と似ているものの
それほど深刻な病気ではない。
この会話をヒントにジェンナーは
1796年に実験をする。
牛痘のもとを使用人の8歳の少年に接種した後
数回にわたって天然痘を接種したのである。
子どもに接種するのは極めて危険である。
いまの世界では考えられない実験だが
少年は天然痘にかからずに済んだ。
ジェンナーの仮設が正しかったのである。
その後イギリスで予防薬として絶大な効果を発揮して
世界中に広まった。
予防接種が導入され
天然痘の感染者は大幅に減っていったのである。
その後も天然痘との闘いは続いたが
1977年にソマリアで発見された患者を最後に
天然痘は根絶された。
人類の医学が最強の感染症に勝利したのである。
この薬はのちに“ワクチン”と呼ばれるようになる。


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コロナ終息を願う花火

2020-07-03 07:00:00 | 編集手帳

6月5日 読売新聞「編集手帳」


 「涼」という字は中国大陸から伝わったあと、
日本で微妙に意を違えるようになったらしい。

中国語では単に「暖かい」と「寒い」の間の幅の広い温度域を示すことが多い。
暑い日に、
とにかくありがたい「涼しさ」の興趣ではないそうである。
随筆家の寺田寅彦が昭和の初め、
大陸を旅したのちに書いている。
<涼しさらしいものには一度も出会わなかった。
 どうも日本の特産物ではないかという気がする>
「涼味数題」

風鈴、浴衣、うちわ、かき氷…
夏に出会う涼を並べていけば、
次第にあるものに行き着く気がする。
納涼花火である。

それは今月1日午後8時、
全国一斉に打ち上がった。
コロナ終息を願い元気と笑顔を届けようと、
花火師さんたちが連絡を取り合って夜の空を飾った。
密集を招いてはいけないと、
事前に場所や時刻は明かされなかった。
そのため多くが生で見物できず、
メディアを通してその美しさやドンという音に触れることになったが、
最高の花火だと心に刻んだ方は数え切れないだろう。

きのうまでの花火にはない感覚があったかもしれない。
涼しさと、
胸の辺りにこみ上げる熱さと。

 

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