まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

早期退職1年の雑感(1) なんとなく見えてきた感じ!

2015年10月01日 | 早期退職

早期退職をして、丸1年無所属の時間が経ちました。

子供の頃は、親の傘の下に属し、その後は、学校、会社に属し、ずっと何かの組織に組み込まれて生きてきたこともあり、自分で選択して早期退職優遇制度を使ったにもかかわらず、退職してみると、ペースが掴めず、右往左往していた時期もありました。

数年早く自分の時間軸の中で生きていくことを選んだことを、1年間という時間をおいて考えてみると、少なくとも後悔はしていないし、自分らしさが少しずつ戻りつつあるように思います。

これからどれだけ生きるのかわかりませんが、最近、今までの時間、残された時間(自分)について考えるようになりました。

不覚にも、自分は何のために生きているのか、この歳になるまで深く考えたことはありませんでした。

生まれたときから、死ぬために生きている。
そもそもは、生きることに何の意味もない。
運命という複雑に絡み合った選択肢の関係で、長短はあっても、生まれてから死ぬまでの時間が、公平に与えられている。

意味のない真っ白なキャンパスに、どんな生きる意味、色をつけるかはその命の持ち主の意志次第なのではないか。

最期を迎えたとき、後悔、恨み言、あれもしたかった、これもしたかった、死にたくない、ではなく、俺は十分生きた、楽しかった、と自分の生き方に納得できれば、幸せな人生といえるのではないか。

今はそんな風に考えて、毎日を送るようになりました。

それは負け惜しみだよ、と言われるかもしれませんが、人が生きた結果には、それほど大きな意味はないのではないでしょうか。

歴史に名をのこすような結果と道端のタンポポのような結果では、確かに大差があります。でも、その結果を残した人の気持ちはまた別の話です。

生きている過程、日々に、少なくても、後悔はしない。
自分で選択し、自分でその結果を招いたのだと、納得して生きる。その積み重ねで、何も残せなかったけど、精いっぱいやった、と笑っていられる最期を迎えられたらいいなぁと思います。

もう過ぎてしまった過去は取り返しがつきませんが、家族間、仕事上で自分がしてきたことで、いまだに思い出すだけも赤面、納得できない負の遺産がたくさんあります。
今さら、声をあげてお詫びをしたり、恨み言うつもりもエネルギーもありませんが、この1年間は、これらのことを、客観視して考えてみる時間も持てました。
これからのことは、自分が納得できないことはしなければいい。
でも、過去のことも、自分の中で消化できるのであれば、自分なりに納得して整理をしたい。そんなふうに思っています。

あたしの兄がそうですが、生まれるときは、”一緒に”というのもあります。
特定の人への思いや、家庭をもって、カミさんや子たちに、大変な愛着があります。
でも、死を受け入れるときは、無所属の一人きりです。

早期退職で、多くの他の人より数年早く無所属になりましたが、生きるのが下手なあたしには、時間をかけて、本当の無所属になっていくというには、必要だったと思っています。

自分清算会社『小路てくてく』、1周年。
そんな会社の実体はないのですが、自分だけのバーチャルの世界で、当面の活動事業計画(家事とバイト)、経費削減。いつ終わりになるか分からない最期に向けて、減算だけの僅かばかりの資金管理。

ほんの少しですが、厳しい、辛いと思っていた、与えられた環境でのサラリーマンを卒業し、無所属・自営的な世界に歩を進められたのかな、と思っています。

コメント
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