まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

希林さんも亡くなったなぁ

2018年09月16日 | 読経の日々
ドラマ『寺内貫太郎一家』で、沢田研二さんのポスターに向かって「ジュリ~!」って叫ぶシーンが原点で、樹木希林というエンターテイナーを知った。
それ以来のファンである。
 
このところ、昭和の時代に活躍した私のお気に入りの芸能人の方の訃報が目につくようになった。
 
まわるまわるよ、時代はまわる・・・。
そんな昭和の歌があったけれど、仕事として、日本中に笑いや希望を与えたてくれた、あんなに大きなエネルギーを持っていた芸能人の皆さんでさえ、若い力にとって代わられ、いずれは消えていく。
 
昭和の時代に活躍した私のお気に入りの芸能人の方の訃報を通じて、諸行無常を実感中だ。
 
寂しさとか、虚しさ、死ぬのが嫌だというのではない。
「ああ、そういうもんだよね」っていう、腹のすわった受け止め方である。
 
若いころからそれなりに理解はしてきたけれど、実感はなかった。
死ぬのは、今もっているものを失ってしまうという欲からくるものか、正直、怖かった。
 
日々是好日。
生きている時間を大切にしたいと心から思う。
 
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<今日は何の日>
1948(昭和23)年の今日、戦時中から配給制だったマッチの自由販売が認められました。今日は、『マッチの日』だそうです。
 
火はすべてを焼き尽くしますが、きちんとコントロールすれば生活に欠かせないものですね。
 
今は、ライターや簡易ボンベを使って簡単に火を起こすことができますが、災害時の臨機応変では、ローテクで火を起こす術を、平時のキャンプなどで体験しておくと案外強みになるようです。
 
今の私なら、太陽熱を老眼用の拡大鏡を使って黒系の紙に集中し火を起こすかな(笑)。
そう考えたら、老眼も悪くないですね。
 
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執着

2018年08月31日 | 読経の日々
今日も、朝から体操協会の話題で大賑わいだった。
 
真相を知ったところで、私に何ができるわけでもないわけで、積極的に見たいとは思わない話題だけれど、外は”危険な暑さ”が続き、とても麦わら帽をかぶって、のんきにNHKラジオをかけて時間を過ごす環境ではない。
 
稲作専業の先輩たちは、エアコンのきいた戦車みたいな機械で作業しているが、趣味道楽の大先輩たちの姿はめっきりない。
八十前後になれば、草より先に人間が枯れて死んでしまう。
まあ、こんな日は、プラプラでいいのだろう。
 
カミさんも車検とかで、休暇を入れたらしく、こちらはもう朝からほとんどBGM状態でTVを流しているから、おかげで、はからずも体操協会の話題通にはなった。
 
ここ数日体調不良で、お昼は食欲なし!だったのだけれど、かの報道を見ながら、トマトジュースをずるずる飲んでいたら、カミさんが残り飯とチャーハンの素でお昼を作ったので、まぁここはご機嫌を損ねるより食うべきだよな、と思い食った。
 
その頃、暴力問題のコーチが、体操協会への訴えを取り下げたという報道があった。

彼は、他(選手やその家族)を思い、自を後回しにしても、甘んじて不本意な処分を受けることが、全体を丸く収め、結果として自分を利する方向だと気づいたのだろう。
 
ここへ来たら、後は問題の幹部が、「選手に伝わった主旨は本旨ではないけれど、そう伝わったのならば不徳の致すところである。この際、協会の運営は後進に譲り、私たちは市井で体操の種を続けます」なんて動きになれば問題収束だと思ったのだけれど、夕方カミさんに問うたら、どうも幹部はまだやる気十分らしい。
 
金メダルを取る、世界一になる思い、執念は素晴らしいし、そんな人の営みがなければ、人類がこの星を牛耳ることもなかっただろう。
でも、いくつメダルを取ったら、どんな地位や肩書ができたら、この人たちは満たされるのだろうか?
 
世界レベルの大会で入賞し、自分の経験等をもとに後進を育成し、それがまた立派に育ち、組織内での大きな発言力をもち、かつ、健康で今も仕事をされている。
今あるものは何一つ失ってはならないという強い執着。
これが凄いなぁと思う。
 
あらゆる資源は有限だと思う。

その資源(恵まれた才能+その後環境)を使って、自分の生活がたてられるようになったとき、そこに感謝し後進に道を譲る。
 
まだまだやり残し感があるのなら、権力とは離れ、私財(お金と才能)で、思う存分散財して活動すればいい。
 
年寄りは国の財政的にも「ピンピンコロリ」がいいわけで、世のジイサンマン、バアサンマンは、死ぬまでできることをして働き社会貢献し、大いにじたばたしたらいし、そんな世界が来たらいいと思う。
 
でも、それは、ずっと影響力を持ち続けるということとは違うよな。

その時空に軸足を置いて生きているリーダーが動きやすい環境を作ってあげることが、退く人の務めだとも思ったりする。
 
他人より早期に無所属になり、低賃のシルバーバイトをして暮らしている日暮らしジイサンマンのこんな思いは、成功した体操協会幹部への妬みである。
 
どんなに他人を嫉んでも、憎んでも、心が苦しくなるだけ。
要は自分ができることで、ポジティブに生きるしかない。
 
選手本人が朝から出ての、今日のマスコミを使っての反撃はかなり有効だったと思う。
 
でも明日以降、選手は、もうマスコミには出てほしくないなぁ。
コーチや協会とよく話し合って、スポーツ選手に戻ってほしい。
 
今しかできないことなんだから、人間の究極の演技に執着してほしい。
 
結果が、カッコ悪いことになってもいいじゃないか!
たぶん、それが自分への納得、糧になる。
 
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<今日は何の日>
今日は、野菜の日です。
全国青果物商業協同組合連合会など9団体の関係組合が1983年に制定。
「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合せのようですね('◇')ゞ
 
キャベツやブロッコリーをセルトレイにまこうと思っていたのですが、この高温ではと断念しました。
わが家の野菜の日は、もう少し後になりそうです。
 
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お盆にもらった小冊子

2018年08月16日 | 読経の日々
今朝あまり暑くならないうちに、仏壇を飾ったお盆飾りを片付けた。
 
お盆、お彼岸などでご住職がきてくれたとき、『明珠』という小冊子を置いていってくれる。
この冊子は、全国のご住職さんが、仏教の教えを、分かりやすい身近な例と言葉で解説してくれたもので、一般生活での仏教との関わりを考えるとき、とてもありがたい内容である。
 
片付け作業の合間に、今回のお盆号のページを繰ってみた。
 
今回は、「仏道とは、仏の願いを共有し、実践する道である。その具体的な姿が、自未得度先度他(己いまだ渡らざる先に他を渡す)である。そしてその姿を絶えることなく人から人へ受け継ぎ伝えていくことだ」という解説が印象に残った。
 
生きていく上でのおおきな目的はこれですよ、というようなお話だった。
 
ところが実生活では、多くの場合、「清らかな心をもっていたから、福の神のお恵み(たくさんの財)を受けた。ああ、良かった」とはならない。むしろ逆のことが多い。
 
たくさんの財や権力を手に入れるには、たくさんの人を踏み台にし、押しのけていかなければならない。
 
それによって得た力の使い方によっては、たくさんの人の生活を助けたりすることもあるのだから、いっときのその行動を悪いとはいえないが、踏み台にされ、押しのけられた方にすれば、とても辛い時間だ。
 
利益⇔損害、親密⇔疎遠。
ひとつの行いには、必ず表裏の関係がある。
 
そういうことも含めて、日々欲深く、煩悩だらけで生きるというこは、仏の願いに近づく修行ということか。
 
 
 
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<今日は何の日>
今日は、お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す、遅れ盆送り火です。
 
わが家周辺では、昨日、15日に送っていきます。
 
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自分なりの整理

2018年08月12日 | 読経の日々
死んだばあちゃんに、罰当たり、と怒られそうだけれど』(2018年08月10日 | 読経の日々)で、宗教の転生の考え方がよく分からないと書いた。
 
人はなくなると、仏教では、一番いい形で極楽浄土。そうでなければ、生きている間におこなったことにより、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの迷いの世界(六道)に転生するらしい。
キリスト教などではみな天国へ行けるのに、仏教は厳しいなぁ(笑)。
 
でも、「悪いことをしたら、苦しみを与えるぞ」というのが、ほんとうにお釈迦さまの考え方なのだろうか。

そもそも「悪いこと」というのは、誰が決めるのか?
 
一般日常生活で殺人は悪いこととみなが非難するだろう。
終戦記念日も近いが、例えば戦争という非日常で敵対した中での戦死(殺人)は、どうだろう。
たくさん殺人した人が英雄扱いされたりする。
 
「悪いこと」も、「善いこと」も普遍的ではない。
 
ということは、「はい、あなたは地獄行き」「はい、あなたは餓鬼行き」・・・と誰がどんな基準で割り振るのだろう。
特定の人の主観で決められたら、当時者はたまったもんじゃない(笑)。
 
いずれにしても、死してのち、またどこかの異次元世界に転生するような考え方があるが、これはどうもうまく理解できない。
 
転生するという六道は、欲、煩悩の渦巻くこの人間社会のそこここに見られ、消えていく。長く生きていると、そこに入りこんでしまうことも、一度や二度あるかもしれない。死んでまで転生する必要もない。
 
わが家の曹洞宗では、只管打坐(「しかんたざ」と読むらしい)といって、心を落ち着けただひたすら座禅することで日常から離れ、自分の中の仏性と向き合う時間を大切にしているようだ。
 
関節が固くて、とても座禅は組めないが、一日少しの時間だけれど、静かに正座って呼吸を整えていると、欲、煩悩から次から次にいろいろなことをしてしまっている自分の姿、それは善くないとわかっていても我欲を通してしまっている自分の姿が見えてくる。
 
「いけないよなぁ」と思ったのだから、潔く心を入れかえて善行に徹しられるか、と言えばそうではなく、日々、欲、煩悩の生活を送り、人さまに迷惑をかけて生きている。そこには、悩みや苦しみ、時々少しの喜び、感謝があって、それがまたまんざらでもない。
 
死ぬまできっと、もう終わりですよと宣告されても、息を引き取る瞬間まで「死にたくない、死にたくない。生きたい、生きたい」と人さまに迷惑をかけ続けるんだろうと思う。
 
でも、この「いけないよなぁ」という自分の心の声が、自分の中にいる仏様の声なんだろうと最近は思うときがある。
 
このぼんくらな頭では、死んだあとまで、極楽で悠々自適の御仁と地獄に落ちてのた打ち回る御仁あるということはきっとこれからも理解はできないと思う。
死んでまでそんな階級社会じゃなく、単なる物(土)に変わってしまっても、そこは静かで平等であってほしい。
 
死で人としてのすべての生命活動が終わる。
当然そこに至れば、欲も煩悩もなくなるわけだから、人としてのあるべき(仏様が推奨するような)行為を妨げるものはなにもない。悩みも怒りも苦しみもない。お金も土地も使い道はないから、必要な人が使ったらいい。あげることに何の執着も感じない。
 
その点では、死後は、仏様の世界、極楽浄土であり、死はどんな人もたどり着けるゴールなんだと思う。
けっして怖いものではなさそうだ。
 
生きている間は、できないまでも、素直な心で仏様の声をきき、「人間だもの」と赤面しながら日々を送っていけばいいんじゃないかな。
 
これが、自分なりの転生に関する整理である。
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<今日は何の日>
1985(昭和60)年の今日、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出しました。
今日は、『航空安全の日,茜雲忌』です。
 
飛行機は、とても安い料金で気軽に利用できるようになりましたが、こういう事故を振り返ると、安全はすべてのものに優先することだと感じます。
 
死後の世界の妄想を書きましたが、520人の犠牲者のご遺族の心には、故人の無念の情は今も生き続けてるんでしょうね。その意味では、故人は転生していますね。
ご冥福をお祈り申し上げます。
 
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死んだばあちゃんに、罰当たり、と怒られそうだけれど

2018年08月10日 | 読経の日々
一通り草をとり、これでお盆を迎えようと思っていた畑は、台風の雨でまた青々してきた。
 
危険な暑さも戻り、作業もする気にもならないので、仏教関係のWebページを眺めながら、ぼんやり過ごした。
 
神も仏もあるもんか、で生きてきたが、ここ数年で今を生きていくための自分の中の仏性のようなものは理解もでき、心の実践も続けられている。
 
死、葬式、お寺、仏教、お布施。ち~ん!
こんな関係も、生きている人にとっては意味がある。
なるほどな、と理解も納得もできた。
 
今日のモヤモヤは、人は死んだら、極楽(天女が舞って蓮華が咲き、食うに困らず。ストレスフリー)にいけるか、地獄に落ちて無敵の閻魔総裁の国で、日々自分を攻撃する輩に悩まされ、信じた人に裏切られ・・・、苦しみ続けるのか。
 
それを決めるのは、今を生きる自分の生き方、自分の前世。先祖の行った生き方などにかかっているんだよ、というような、とても理解できない、脅しがあることだ。
 
字田舎に住んでいると、先祖の起こした事案で、今につながる人から攻撃を受けたり、差別的な言動を受けることはある。その点では、過去の行いと今が繋がっているというのは、その通りだとは思う。
 
けれど、人は死ねばそれで終わりである(と思う)。

故人の思いが遺族や関係者の心の中に残ったとしても、いろいろな異界に転生するなんてことは、理解の外だ。
 
仏教(後世の人たちが作り上げた)でいう、極楽って、『欲』の満たされた集大成のようなところに見える。
そこに行き、すべての欲が満たされた日々を送るために、今の日々を禁欲していきる?
これは、どうも矛盾している。
 
生きるというのは、欲をすてきれないから面白いし生きがいもある。同時に、悩み、苦しみもある。
欲がすべてなくなったら、人間といえるだろか?
 
自分の欲を良く捕まえて、コントールする術が教えなのだろう。
 
何もかも満たされた時空が、極楽とか天国というのなら、そんなところを目指したくないと思った。
 
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<今日は何の日>
今日は、『健康ハートの日』です。
日本心臓財団と厚生省(現在の厚生労働省)が1985(昭和60)年に制定。

私は心が弱く、酒ばかり飲んでいるので、りっぱな心臓病になりました(笑)。
 
振り返ると、ばりばりやっているようでも、人生は、消耗戦ですね。
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