まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

今朝はいいお話をきけた

2018年11月03日 | 読経の日々
今朝も4時前に目が覚めてしまい、ラジオ深夜便で時間を過ごした。
 
3時台はサーカスの特集をしていて、懐かしさのあまりふとんから抜け出してステレオ音源で、『ミスターサマータイム』などを楽しんだ。
つい先日のような気もするが、もう40年も前のヒット曲である。

当時の自分と今の自分、同じようであっても同じではない。あっという間の時間の隔たり。
まさに、「光陰は矢よりも速やかなり」である。
 
続く4時台明日への言葉は、ホスピスケアのある野の花診療所(鳥取市内らしい)の徳永先生による「豊かな終わりを見つめて」というお話しで、死についての考え方をじっくり聞くことができた。
 
現代は、何でもかんでも病院に行き、年をとれば家族に迷惑をかけたくないと介護施設に入る。
そして最後は知らない人たちの中で一人死んでいく。
 
死に向かったベルトコンベヤーにのっているような社会だけれど、人はもっと自分の死についても個性を求めていいのではないかというお話しをされていた。
 
近代医療がどんなに進んでも、死の数は変わらない。医療は万能ではなく一面的な対処にしか過ぎない。人はいずれ必ず死ぬのだ。
 
世の中、だいたいのことは変えていけるけれど、人が生まれてくる、死んでいくというのは、思い通りにはならない。
人の生命は科学では解明できない自然物なのだ。
 
本当に先生のおっしゃるとおりである。
 
だとすれば、自分の選択肢の一つとして、老いも病も受け入れて、自然に近い形で生を全うするという生き方もいいなぁを感じた。
 
「自然に亡くなっていく姿は忌み嫌うものではなく、豊かなものだ」
そんなしめくくりだった。
 
****記憶に残ったフレーズ
〇ユーモアとは、「・・・にもかかわらず、笑う」
苦しくて仕方がないときでも、思わずくすっと笑ってしまう。それがユーモアである。笑いは、人の辛さを和らげる。
 
〇日常は適当に生きているけれど、死を迎える時はみな、「まさかわが家に、なぜ私が」と真剣になる。死はどうしても避けては通れないものだ。
 
今朝はいいお話をきけた。
 
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<今日は何の日>
今日は、七十二候の『楓蔦黄(もみじつたきばむ)』です。
 
近所のもみじも少しずつ色がつき始めました。
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生きるって悪くないと思う

2018年10月03日 | 読経の日々

今日も家事の隙間時間で、スマホの使い方のWeb検索をして使い方を練習していた。

OCNモバイルone5周年キャンペーンで破格の本体価格3800円で売られていたnova lite2

異常に安いと思ったら、nova3シリーズが発売になっていた。旧機売りつくし!的な要素もあったのかも?と思う。

とにかく、私的には、いいタイミングで最新に近いOSがのった、評判の良い端末が手に入ったということのようだ。3、4年は、大事に使っていきたい。

宝くじにはぜんぜん当たらないけれど、たまにはいいこともあるものだ。

まがりかどの先にはどんなことがあるのかぜんぜんわからないけれど、今日の私はお得感でとてもうれしい。得した分は、近所の飲食店まで出かけて、乾杯しよう。

これぞ煩悩のかたまりだけれど、これが私の、日々是好日である。

自分に都合がよければ喜び、そうじゃなければ妬む。

酒を飲んで自分の世界で酔いまくる。

自分の思い通りにならなければ腹を立て、その相手を嫌う。

書き連ねれば、まだまだある。

死後の世界は、いまだ理解できないけれど、もしあるとすれば、私のこれまでの生き様は間違いなく『地獄行き』だと思う。

そんな世界があったとしたなら、地獄の苦しさでも、毎日やることがあったら、私は「蜘蛛の糸」にはつかまらないだろうと思う。

そこが自分の生きるところだし、まがりかどの先にはきっといいことがある。

『地獄行き』を自覚した私にも今日気付いたようなお得な機会も与えられ、友達ぜんぜんいない私でも、助けてくれる人(観音)は少なからずいる。

昨今は、ぼ~~っとした時間が多いけれど、生きるって悪くないと思う。

 

 

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希林さんも亡くなったなぁ

2018年09月16日 | 読経の日々
ドラマ『寺内貫太郎一家』で、沢田研二さんのポスターに向かって「ジュリ~!」って叫ぶシーンが原点で、樹木希林というエンターテイナーを知った。
それ以来のファンである。
 
このところ、昭和の時代に活躍した私のお気に入りの芸能人の方の訃報が目につくようになった。
 
まわるまわるよ、時代はまわる・・・。
そんな昭和の歌があったけれど、仕事として、日本中に笑いや希望を与えたてくれた、あんなに大きなエネルギーを持っていた芸能人の皆さんでさえ、若い力にとって代わられ、いずれは消えていく。
 
昭和の時代に活躍した私のお気に入りの芸能人の方の訃報を通じて、諸行無常を実感中だ。
 
寂しさとか、虚しさ、死ぬのが嫌だというのではない。
「ああ、そういうもんだよね」っていう、腹のすわった受け止め方である。
 
若いころからそれなりに理解はしてきたけれど、実感はなかった。
死ぬのは、今もっているものを失ってしまうという欲からくるものか、正直、怖かった。
 
日々是好日。
生きている時間を大切にしたいと心から思う。
 
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<今日は何の日>
1948(昭和23)年の今日、戦時中から配給制だったマッチの自由販売が認められました。今日は、『マッチの日』だそうです。
 
火はすべてを焼き尽くしますが、きちんとコントロールすれば生活に欠かせないものですね。
 
今は、ライターや簡易ボンベを使って簡単に火を起こすことができますが、災害時の臨機応変では、ローテクで火を起こす術を、平時のキャンプなどで体験しておくと案外強みになるようです。
 
今の私なら、太陽熱を老眼用の拡大鏡を使って黒系の紙に集中し火を起こすかな(笑)。
そう考えたら、老眼も悪くないですね。
 
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執着

2018年08月31日 | 読経の日々
今日も、朝から体操協会の話題で大賑わいだった。
 
真相を知ったところで、私に何ができるわけでもないわけで、積極的に見たいとは思わない話題だけれど、外は”危険な暑さ”が続き、とても麦わら帽をかぶって、のんきにNHKラジオをかけて時間を過ごす環境ではない。
 
稲作専業の先輩たちは、エアコンのきいた戦車みたいな機械で作業しているが、趣味道楽の大先輩たちの姿はめっきりない。
八十前後になれば、草より先に人間が枯れて死んでしまう。
まあ、こんな日は、プラプラでいいのだろう。
 
カミさんも車検とかで、休暇を入れたらしく、こちらはもう朝からほとんどBGM状態でTVを流しているから、おかげで、はからずも体操協会の話題通にはなった。
 
ここ数日体調不良で、お昼は食欲なし!だったのだけれど、かの報道を見ながら、トマトジュースをずるずる飲んでいたら、カミさんが残り飯とチャーハンの素でお昼を作ったので、まぁここはご機嫌を損ねるより食うべきだよな、と思い食った。
 
その頃、暴力問題のコーチが、体操協会への訴えを取り下げたという報道があった。

彼は、他(選手やその家族)を思い、自を後回しにしても、甘んじて不本意な処分を受けることが、全体を丸く収め、結果として自分を利する方向だと気づいたのだろう。
 
ここへ来たら、後は問題の幹部が、「選手に伝わった主旨は本旨ではないけれど、そう伝わったのならば不徳の致すところである。この際、協会の運営は後進に譲り、私たちは市井で体操の種を続けます」なんて動きになれば問題収束だと思ったのだけれど、夕方カミさんに問うたら、どうも幹部はまだやる気十分らしい。
 
金メダルを取る、世界一になる思い、執念は素晴らしいし、そんな人の営みがなければ、人類がこの星を牛耳ることもなかっただろう。
でも、いくつメダルを取ったら、どんな地位や肩書ができたら、この人たちは満たされるのだろうか?
 
世界レベルの大会で入賞し、自分の経験等をもとに後進を育成し、それがまた立派に育ち、組織内での大きな発言力をもち、かつ、健康で今も仕事をされている。
今あるものは何一つ失ってはならないという強い執着。
これが凄いなぁと思う。
 
あらゆる資源は有限だと思う。

その資源(恵まれた才能+その後環境)を使って、自分の生活がたてられるようになったとき、そこに感謝し後進に道を譲る。
 
まだまだやり残し感があるのなら、権力とは離れ、私財(お金と才能)で、思う存分散財して活動すればいい。
 
年寄りは国の財政的にも「ピンピンコロリ」がいいわけで、世のジイサンマン、バアサンマンは、死ぬまでできることをして働き社会貢献し、大いにじたばたしたらいし、そんな世界が来たらいいと思う。
 
でも、それは、ずっと影響力を持ち続けるということとは違うよな。

その時空に軸足を置いて生きているリーダーが動きやすい環境を作ってあげることが、退く人の務めだとも思ったりする。
 
他人より早期に無所属になり、低賃のシルバーバイトをして暮らしている日暮らしジイサンマンのこんな思いは、成功した体操協会幹部への妬みである。
 
どんなに他人を嫉んでも、憎んでも、心が苦しくなるだけ。
要は自分ができることで、ポジティブに生きるしかない。
 
選手本人が朝から出ての、今日のマスコミを使っての反撃はかなり有効だったと思う。
 
でも明日以降、選手は、もうマスコミには出てほしくないなぁ。
コーチや協会とよく話し合って、スポーツ選手に戻ってほしい。
 
今しかできないことなんだから、人間の究極の演技に執着してほしい。
 
結果が、カッコ悪いことになってもいいじゃないか!
たぶん、それが自分への納得、糧になる。
 
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<今日は何の日>
今日は、野菜の日です。
全国青果物商業協同組合連合会など9団体の関係組合が1983年に制定。
「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合せのようですね('◇')ゞ
 
キャベツやブロッコリーをセルトレイにまこうと思っていたのですが、この高温ではと断念しました。
わが家の野菜の日は、もう少し後になりそうです。
 
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お盆にもらった小冊子

2018年08月16日 | 読経の日々
今朝あまり暑くならないうちに、仏壇を飾ったお盆飾りを片付けた。
 
お盆、お彼岸などでご住職がきてくれたとき、『明珠』という小冊子を置いていってくれる。
この冊子は、全国のご住職さんが、仏教の教えを、分かりやすい身近な例と言葉で解説してくれたもので、一般生活での仏教との関わりを考えるとき、とてもありがたい内容である。
 
片付け作業の合間に、今回のお盆号のページを繰ってみた。
 
今回は、「仏道とは、仏の願いを共有し、実践する道である。その具体的な姿が、自未得度先度他(己いまだ渡らざる先に他を渡す)である。そしてその姿を絶えることなく人から人へ受け継ぎ伝えていくことだ」という解説が印象に残った。
 
生きていく上でのおおきな目的はこれですよ、というようなお話だった。
 
ところが実生活では、多くの場合、「清らかな心をもっていたから、福の神のお恵み(たくさんの財)を受けた。ああ、良かった」とはならない。むしろ逆のことが多い。
 
たくさんの財や権力を手に入れるには、たくさんの人を踏み台にし、押しのけていかなければならない。
 
それによって得た力の使い方によっては、たくさんの人の生活を助けたりすることもあるのだから、いっときのその行動を悪いとはいえないが、踏み台にされ、押しのけられた方にすれば、とても辛い時間だ。
 
利益⇔損害、親密⇔疎遠。
ひとつの行いには、必ず表裏の関係がある。
 
そういうことも含めて、日々欲深く、煩悩だらけで生きるというこは、仏の願いに近づく修行ということか。
 
 
 
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<今日は何の日>
今日は、お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す、遅れ盆送り火です。
 
わが家周辺では、昨日、15日に送っていきます。
 
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