あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

まさか

2005-06-14 03:25:48 | 日記
の事態。
夜なべして書いた日記が、アップしたと思ったのに更新されない。
履歴にも残っていない。ひどい。
ひどすぎる。

しかも昨日、下書きで残したはずの日記もない。
どこにもない。
なんなの。Gooめ。

私の努力は…。
もう今日はやめる。
ふてねする。
でも悔しくて眠れないかもしれない。

農家、泊まる。

2005-06-11 23:17:36 | 日記
本日は、茨城のヤング農家が泊まりに来ています。
私は初対面なのですが、どこかで見たことがあるなあと思っていたら、なんと以前うちの平和新聞に1面トップで登場していただいたことがありました。すばらしい偶然。というかなんというか。世の中狭いというか。
ヤング農家が勤めるすずき産地のページは、なかなかおもしろい。

お知らせをします。
◆今月20日(月)に、「映画&写真&講演で辺野古 Night」をやります。
 18時15分開場、18時30分開会。
 国立オリンピックセンターのセンター棟セミナー室にて(小田急線参宮橋駅から徒歩5分)。
 参加費は1000円。
 主催は日本平和委員会、東京平和委員会青年協議会。

 「Marines Go Home~辺野古・梅香里・矢臼別」上映、浅見裕子写真展~美ら海・辺野古10ヶ月~、写真家・郡山総一郎の最新辺野古取材報告。

 おもしろ企画。ぜひ遊びにきてください。

もういっこ。
◆13日は恒例の日本平和委員会呼びかけの「沖縄連帯13日行動」。
 18時30分から、JR大塚駅前でやります。
 写真、鳴り物などを用意して、沖縄の実態を本土でも知らせる宣伝です。ぜひお越しくだされ。

「ベアテの贈りもの」を具体化した人々

2005-06-11 03:27:06 | 映画
神保町の岩波ホールで、「ベアテの贈りもの」を観ました。

日本国憲法に男女平等(両性の平等)条項を盛り込むことに大きな力を発揮した、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの話を軸に、日本における女性の権利向上の歩みを追った、ドキュメンタリー映画です。

実は広告のみではあまり興味をそそられなかったのですが、観たらなかなかかなりおもしろかったです。

ベアテさんの話は直接は聞いたことがありませんでした。今回スクリーンを通してですが初めて聞き、本当に素敵な、やさしそうな人だなあと思いました。
内容は、ベアテさんの両親や生い立ちから始まり、戦争を経験し、日本国憲法起草に携わるまで。そしてその後、日本で憲法が本当に実現しているかどうかを追いました。
ベアテさん以外にも、日本国憲法制定後から今日まで、女性の権利獲得のために奮闘してきた多くの女性が登場しました。市川房江さんなど教科書にも出てくるような政治家のほか、男女平等条項を根拠に全国に設置された婦人少年局(だったかな)の職員や局長の任に就いた女性たち。ピアニストであったベアテさんの父親の教え子の女性、国連の難民高等弁務官として活躍した緒方貞子さんなどなどが登場。
そして、住友金属の男女差別裁判で勝利した原告の女性たちも出演していました。

戦後、女性の権利を制度として保障させることの尽力した人々、多方面で実力を発揮した女性、そしていまだ根強い社会や企業での男女差別を是正するために奮闘した女性たち。ベアテさんが奔走して憲法に盛り込ませたものを、その後本当に実現させるために日本の女性が自身の手で具体化してきた、ということがよくわかりました。

私は「性」の問題に関心があります。ジェンダー然りですが、セクシャリティの問題。
この世には、「男」「女」ではくくり切れない「性」があるそうです。身体から脳まで、その表れ方は多様です。
とにかく必要なのは、性に制約されない個人の尊厳の確立です。
こうして一言で言うのは簡単なのですが。これまで生きてきた26年間、性による不当な制約はされたくないと思いつつも、自分自身の中に根付いた不必要な性への感覚、逆にそれが自分の行動を狭めるような、があるようです。

あがいてもそれが今の自分なので、あまり無理をしない程度に脱却していきたい。
映画に登場する人々はみんな、自分の得た仕事をとにかくまっとうしようと頑張っていました。

現在日本の政府は、日本国憲法9条とともに、24条などの両性の平等についても変えようと考えているようです。

「憲法音頭」―誰に遠慮がいるものか

2005-06-10 00:50:13 | 日記
平和新聞6月5・15日合併号作りが完了しました。今号は、先日行った日本平和委員会全国大会の特集号です。愛読者の皆さん、お楽しみにー。
写真は、印刷所がある辰己の公園に咲いていた花。

予告になってしまいますが、今号1面に紹介する、長野県での憲法をまもる運動についてほんの少しだけ紹介をします。

長野県には、本当に細かな単位で、憲法9条を守るための会がたくさんあります。それぞれの会が、工夫を凝らしていろんな取り組みをしています。
長野県中野市の「憲法九条を守る中野市民の会」は、「憲法音頭」。
新憲法が制定された当時、憲法を多くの国民に普及しようと、芦田元首相を会長にした「憲法普及会」が作ったものでした。長い年月の間埋もれていましたが、中野の会が振り付けまで完成させて見事再現。
ぜひ見てみたいものです。
ちなみに、踊りのビデオつきで曲の入ったカセットテープを売り出し中だそうです。

「憲法音頭」の歌詞を見たら、なかなかおもしろいので以下に頑張って載せてしまいます。

中野の会事務局長で、中野市を含む中高平和委員会会長の馬島さんは、初めはこの歌詞を「イマイチだな」と思ったそうです。でも長野県平和委員会の仲間と話したり、じっくり読むうちに、「憲法が改悪されようとしている今、戦時中は『壁に耳あり障子に目あり』と、本音で物が言えなかったのが、憲法ができて一番の歌詞にあるように『誰にえんりょがいるものか』と、自由に話せることの喜びが表現されている」と思うようになったそうです。

底抜けの明るさが感じられる歌詞です。政府が推進した憲法普及の運動の一環で、確かに調子がいいです。でも戦争が終わり、今の憲法を手にしたときの人々の感激が、ここに込められているのではないかなと思いました。
ちなみに、この憲法普及会は間もなくして消えます。アメリカ政府の日本政策の転換と、日本の政治自体の平和に対する転換です。
今は、市民の手で、憲法を普及させています。


「憲法音頭」(サトウハチロー作詞、中山晋平作曲)←けっこう豪華。

一.おどりおどろか チョンホイナ あの子にこの子 月もまんまる 笑い顔 いきな姿や 自慢の 手ぶり 誰にえんりょが いるものか ※ソレ チョンホイナ ハ チョンホイナ うれしじゃないか ないか チョンホイナ

二.古いすげ笠 チョンホイナ さらりとすてて 平和日本の 花の笠 とんできたきた うぐいすひばり 鳴けば希望の 虹がでる ※くりかえし

三.青葉若葉に チョンホイナ 都に村に 小風そよ風 この胸に 好いた同志が ささやく若さ 広い自由の 晴れた空 ※くりかえし

四.そんじょそこらに チョンホイナ ちょっとないものは 春の桜に 秋の菊 雪の富士山 海辺の松に 光かがやく 新日本 ※くりかえし

おやつ弁当

2005-06-09 00:06:00 | 日記
日本平和委員会発行の「平和新聞」は、現在月3回刊です。月に3回、締め切りに追われる波が来ますが、今がまさにそうです。
今号は、1面に長野県内の憲法をまもる取り組みが載るでしょう(予告)。

元気がないときもですが、疲れたときも甘いものがほしくなります。
私は甘いものを食べて元気になるのではなくて、甘いもの(つまりおやつ=嗜好品=ちょっとぜいたくなもの)を食べたんだから、もうちっと頑張れよ、と自分に言い聞かせるために食べます。こんなにぜいたくな思いをしておきながら、働かないなんて許されませんぞ、と(あくまで自分に)。
もちろん甘いものは大好きなので、それ自体も喜びなのですが。

今日は、ローソンにあった弁当。ふうのおやつ(写真)。
こういうのが大好きです。
ごはんに見えるのはスポンジの上に生クリーム、目玉焼きに見えるのは杏仁豆腐にマンゴーゼリー、ハンバーグに見えるのはチョコケーキ、たくあんに見えるのはドライマンゴー。
見た目重視で、味自体のクオリティは高くありませんでした。
でも喜んで完食しました。

そして帰宅したら、長野旅行から帰ってきた同居人の小布施土産、らくがんをいただきました。
栗ようかんと聞いていたので楽しみにしていたのですが、箱を開けたららくがんでした。なぜか間違えてしまったようです。なぜか。
しかも栗菓子で有名な小布施なのに、栗らくがんではありませんでした。
材料は豌豆でした。えんどうと読むということを、今日初めて知りました。
栗ではなかったのは残念でしたが、豌豆らくがんもとてもおいしかったです。

おやつついでに、先日訪れた京都では、清水寺近くのお茶屋でわらびもちをいただきました。一緒にいたMっくんはところてん。それぞれ環境にもマッチして、とても美味でした。

Mっくんとも話したのですが、ところてんをおいしいと思えるようになったなんて、大人になったなあと感慨深いです。
ちなみにところてんは、心太。「心太(こころぶと)をココロテイと読んだものの転か」と、広辞苑第三版にはあります。

予想外におやつ特集になってしまいました。
まだ新聞づくりが残っているので、適度にやろうと思います。

ファースト・チッス

2005-06-08 01:10:28 | 日記
必要なときは、母を思い出します。

母はすでに亡くなってしまったのですが、母の思い出はみんなに自慢したくなります。
たぶん、家族自慢をしたいと思う人はわりと多いし(そうでない人もいると思いますが)、結局身内にしか真髄はわからないとは思いますが、披露せずにはいられません。

本日の思い出。
私のファースト・チッスは、母でした。
赤ちゃんのころは記憶にないのでわかりませんが、私が「これが口づけ」と認識できるようになってから初めてチッスをしたのは母でした。

それはある日、突然。

母と何気なく話していた、(たぶん)中学1年くらい。
場所は、「にしむら印刷」(居住地ではありません)。

いきなり母が、ブチュッと口づけをしてきました。
驚き、衝撃を受ける私。
「初めてだったのにーーー」
「かわいかったから」と母。

とにかく混乱するしかなかった当時ですが、今思えば私は本当に幸せな子どもだなあと思います。

ROCK―「運動」に納得

2005-06-07 02:56:06 | 日記
毎月6、9日は、核兵器廃絶のための行動をする日です。
何十年も前から各地の街頭などで、核兵器廃絶を求める署名を集めたりなど、地道に地道に活動が続けられています。通称69(ロッキュー)行動です。

そいで今日は6日。
友人が去年あたりから、若い人もやりやすいようにと「ROCK」行動を始めました。被爆写真を並べたり、大きな布を広げてサインやメッセージを求めたりしています。

今日のROCKは、夕方6時半から新宿西口でやりました。西口に出たら、ちょうど民主党が演説をしていたので(ナマ岡田もいました)、少し場所をずらして行いました。

被爆写真と5月1日にニューヨークで行った核廃絶のための大行動での写真を並べ、署名を集めました。
長崎の被爆直後の、真っ黒に炭化した少年の写真があるのですが、その姿は道行く人の注目を集めていました。一見して、「こんなことがあるのか?」と思わせるような写真です。

私はある女性と熱く話をしました。
その女性はまず、核兵器は決してあってはいけない、ありえないものなんだと主張していました。
炭化した少年の写真を見て、その気持ちを新たにしたようです。そしてその写真が、日本人が撮ったものだと知って更に驚いていました。米軍による記録しか残っていないと思っていたようです。

女性は、「戦争はなくせないかもしれない。でも、どんなときでも核兵器だけは絶対にあってはいけない」。核抑止論にも言及して、「使わないなんてありえない」と話していました。さらにアメリカが「使える」核兵器を開発していることに対し、「今でも劣化ウラン弾をイラクに使っているのに、何を考えているの!」とかなり憤慨していました。
いろいろ話したのですが、先月のニューヨーク行動で多くのアメリカ市民が核廃絶署名に応じたことを話すと、とても驚いていました。「アメリカにもそんな人がいるの」と。

私は、5月の国連核不拡散条約再検討会議の場でもアメリカの孤立が際立ったことや、そのときの日本政府の態度を話しました。「日本は本当に独立国なのかと思う。アメリカの属国みたい」と怒っていました。
そして彼女は、「アメリカは本当にひどい。アメリカが変わらないと核兵器もなくせない」と言いました。私は、ほんの20年前は世界の平和運動の中でも核廃絶がまだ夢みたいな課題だったこと、それに対してここ数年にいよいよ切実でかつ実現可能な課題に上ってきたことを紹介し、そこには被爆者やその支援者の本当に地道な運動があったことを話しました。

「長い道のりかもしれないけれど、続けないことには核兵器もなくならないし、続けていればなくせるよね」というようなことを言い残して、彼女はさっそうと去っていきました。

署名の今後の行方(役割)や、国連でのやり取りなどを聞かれ、思いつくままに話しました。
核兵器にもともと反対だった彼女ですが、さらにそれを求める運動の役割に納得してもらえたような気がします。

のんびり、マイペースに。
でも話しかけてもらえると、なお楽しい。
今日はのんびりしすぎて写真を撮り損ねてしまいました。

布ナプキン

2005-06-06 01:55:32 | 日記
月に一度の大切な一週間が始まりました。
いくら日記といえども、あまり自分のことを赤裸々に書く必要はないと思うのですが、でもあまりに「恥ずかしいこと」、必要以上に「プライベートなこと」とされているように感じるこのこと。
いわゆる「生理」。月経です。

私は月に一度でなくて、大体一月半から二月間隔でやってきます。
出血量はそれなりに多く、体のあちこちの痛みや、体調が変化します。

以前、仲間が流しているメルマガの記事を読んで初めて知ったこと。
「布ナプキン」の存在です。
まったく知りませんでした。

ネットで調べると、けっこう情報があります。
◇環境への影響。
「10歳の時から50歳まで毎月5日間、1日5枚使ったとしましょう、40年×12ヶ月×5日×5枚=12000枚」
◇体への影響。
「使い捨てナプキンは、使い捨てオムツのように通気性については考えていないようです。…布ナプキンは、下着をつけているのと変わりません。」
「鎮静剤を飲まないといけないくらい、寝込んでしまうくらい痛い方もいらっしゃるでしょ。なぜか布ナプだと痛みが改善されるのです。布なので冷やすことがないというのもあるでしょうが、試してみる価値ありです。」
「使い捨てナプキンは塩素系漂白剤などの有害薬品が一部使用されていて、有害物質が女性の体内に取り込まれて子宮内膜症になる可能性があるとされています。」
◇価格。
「一見、布ナプキンは高いように見えますでも、使い捨てナプキンを使い続けたとして1枚30円で、36万円! 布ナプキン1枚1200円とすると、一度の生理で8枚を洗濯しながら使うとします。耐用年数は5年(メーカー表示)ですから、8回買い換えるとしても76800円ですみます。」

こ、これは、いよいよ紙から布に変えるべきときが来たか…という感じです。

そういえば昔、保健婦(保健師が今ふうか?)の叔母が、大昔からの女性の生理の対処法についての本を貸してくれたことがありました。題名と詳しい内容は忘れましたが、いつの時代もみんな苦労していたんだなあ、と思った記憶があります。

今は技術が発達して、吸収力抜群の使い捨て紙ナプキンがたくさん出ています。
でもさらに時代は進んで、吸収力の高い布ナプキンがたくさん開発されていたのでした。
しかも、たいてい体にも地球にもやさしい天然素材が多い。さらにはフェアトレードで作られていることも多い。

自分の体を大切にするということが、地球とそこに住む人々を大切にすることにつながると、ダイレクトに見えたナプキンのあれこれでした。

原点は思想と体験

2005-06-05 00:44:11 | 日記
岩波書店発行の『世界』創刊60周年記念シンポジウム「戦後60年 私たちはどう生きてきたか? そしてこれからは?」に行きました。

基調講演は国際政治学者の坂本義和さん。「いま、何を原点とするのか」。
シンポジウムは「『戦後平和主義』と『戦後民主主義』」と題し、杉田敦さんの司会で最上敏樹さん、テッサ・モーリス・スズキさん、古関彰一さんが話しました。

坂本さんは本はいくつか読みましたが、直接に話を聞くのははじめてでした。10代後半に日本の終戦を迎えた坂本さんですが、同じ戦争体験者と言っても坂本さんの世代なりの憲法の受け止めというのがあるのだなと思いました。

もっとも印象に残った部分を紹介します。

「憲法を、憲法に基づいてまもるのではなく、自分の原点にある思想なり体験なりに基づいて憲法をどう考えるか、それが課題だと思う」。
その上で、坂本さん自身の原点は、「棄民」をなくさなければならないということ、自分がどう生きるかを決めるのは自分自身であるということ。この2つを、坂本さんは体験を通して実感し、その後の人生活動の軸となっていることを話していました。

憲法の原理を、その条文の一つ一つの言葉や歴史をたどって明らかにして、今に生きる日本国憲法の意義を解明する作業は非常に大切だと思います。
それとともに、自分が生きるうえで、全ての人々が生き生きと生きるうえで、この憲法に書かれている約束事がなぜ大切なのか、自分の体験や信念とリンクさせて考え直すことで憲法の必要性がより鮮明になるし、憲法とそれを使う「国民」との関係もより鮮明になるのだと思いました。


(おまけ)
夜、NHKスペシャル「復興・原子野から立ち上がった人々」を見ました。
番組最後に、原爆資料館に大切に保存されているという、血のりがついた布に被爆当時にその灰で書いた「復興」の文字が映し出されました。そんなものがあるんだと、とても驚き胸が熱くなりました。


(本当のおまけ)
近所でケーキを二つ買い、同居人と食べようと思ったが、同居人の帰りが遅いので一人で食べしまった。それを同居人に話したら怒っていた。でもおいしかった。
ちょっと最近元気をなくしているので、せめてケーキを(必要以上に)食べて幸せを感じようと思って独り占めをしてしまった。

花壇から遺骨…「人間ドキュメント」から。

2005-06-04 01:36:10 | 日記
金曜夜11時からNHKで放送している「人間ドキュメント」が好きです。
今晩は、「沖縄へ、夫婦ふたりの旅路」でした。沖縄戦から放置されたままの遺骨を、15年間掘り続けている北海道の夫婦の歩みでした。

沖縄での「地上戦」から60年、たくさんの遺骨がいまだに埋もれたままです。
登場する井上夫妻は、ガマ(地下壕)を中心に発掘をすすめますが、ばらばらに砕けた遺骨とともに薬ビンや食器などの遺品も出てきて、ガマの中での生活が伺われました。
伊江島のガマからは、小さな骨、つまり子どもの骨がたくさん出てきました。集団自決の痕が、生々しく遺骨となって出てきたのでした。

驚いたのは、花壇からも骨がたくさん出てくることです。妻の登美子さんが花壇に座って話しながら土をいじっていると思いきや、指の骨を次々と並べていました。沿道の花壇はたいていどこからか土を持ってきており、そこには戦死した多くの骨が埋もれていたのでした。
たくさんの骨の、文字通りその上に、今の沖縄の生活があるのだと思いました。

夫妻といっしょに発掘作業をしている沖縄の国吉さんは、80を超えたおじいさんに「遺骨収集なんてやるな」と責められたそうです。「ガマに埋もれている骨は、戦時中私たちをガマから追い出した本土の兵隊たちだ」と。
夫妻は「恨みは消えないんだね…」とポツリ。

夫妻が搾り出すように発した「戦争はむごい」という言葉。
いったい、放置された骨がこの地球上にどれほど埋もれているのだろう。殺された骨がここにあるならば、殺した骨もどこかにあるのだろう。
見知らぬ人の骨を掘り続け、祈りを捧げる夫婦のこの言葉は、決して過去の出来事だけに向けられたものではなくて、現在起きていることを生々しく表現した言葉だと思いました。
今も、まだ骨にもなりきらない肉体が、毎日放置され続けているのです。死んで動かなくなった肉体が、やがて腐り朽ち、骨になっている過程は、決して戦争を美化できないと思います。