JALを利用して飛行機に乗りました。羽田空港もちょっと見ない間に(笑)拡幅して広く、縦横に滑走路が走っているように見えました。飛行機の中も、客室乗務員がゴーグルとマスク、音楽を聴くためのヘッドフォンも無いし、ちょっとみすぼらしくなったような、気のせいかな。変わらないのはJALの機内誌で、浅田次郎さんのエッセイが秀逸なのでそれは楽しみにしています。
さて、昔年中旅行に行っていたバブルの時代、HPを立ち上げて旅行日記・紀行文などを掲載しようと思いましたが、まぁ面倒くささが先に出て実現しませんでした。今回たまの旅行でしたから、ちょっと紹介いたします。コロナの時代に高いお金を払って遠出をするのだから、GOTOトラベルの恩恵があるといいのですが、何もありません。お上のやることはだいたいそんなものですね。
今回出かけたのは九州大分であります。一人旅かつワタシの故郷なので、事前に何か準備したり調べたりすることも無く、ただレンタカーとホテルだけ予約したのみでした。
まずコレ。機中から見下ろす富士山。いつも飛行機の中で眠っているのでこんなアングルから見たのは初めてでありました。だいたい富士山は仰ぎ見るか、はるか遠くから拝むもの、それを眼下に見るのはなんとも不思議で新鮮でした。
大分空港はどんよりとした曇り、軽自動車を借りて大分市内へ、ちょっと実家に立ち寄りましたが、あまりに久しぶりなので道に迷いました(笑)。墓参りにいくも、菩提寺の場所にすぐたどり着けず、両親のお墓の位置も忘れておりました。不信心者はこれだから困る。
翌日は、日中やることがないので、お決まりのコース、大分市から日田市・熊本に抜ける国道210号線を西に向けて車を走らせます。久大線とほぼ並行して続くこの道がワタシの生誕から、高校卒業までの18年間を辿る道でもあります。目当ては、幼少期過ごした「湯平温泉」で、乾燥シイタケを買うことでした。湯平温泉は、湯布院の手前にある鄙びた(寂れた)温泉街です。細く急な石畳の坂の両脇に温泉などが立ち並び、閑静ながらも人気のある観光地です。昔フーテンの寅さんでも舞台になった温泉場で、寅さんやジュリーと田中裕子さんがここでロケをしたのです。
その坂道に並行して下り落ちるのが花合野川(かごのがわ) であります。かなりの水量が急流になっていて、間断なくザァーという水音がいたします。夜、旅館の布団に入るとその音がなんとも心地よく、ぐっすりと休めるのです。
まだ幼稚園児だったワタシは、この橋を渡り、この坂を一人で歩いて当園していたのです。
随分前に旅館の主人に聞いたときは、上流で開発や木の伐採によって水量が減ったとのことでした。しかし今から6、7年ほど前には、この川が集中豪雨で氾濫し、下流域に廃校になった湯平小学校沿道に、居住していた家族が家ごと流され、濁流に消えていったと聞きました。その何人かは本流大分川の下流、ワタシの実家のある賀来まで流され見つかったそうです。
そして、今回訪れた時、その廃校のそばの道路の一部片側が陥没し崩落して工事中でありました。1年半前に再び洪水が発生し、避難していた一家が流されたそうです。シイタケ農家の主人が経営する土産物屋さんの奥さんが「線状降水帯」のせいで水害が毎年のように起きると語っていました。お客さんが来ないので店を閉めたいと以前言っていましたね。
湯平温泉は、湯布院温泉のブームに乗っかって、手作りの町おこしをし、配食配膳の合理化や外国人労働者を雇うことで経営合理化したと聞いていました。しかし、その後長引く不況、地震・水害などの自然災害が続き、更にコロナ禍によって壊滅的なダメージを受けています。最盛期では60軒もあった温泉宿も今では17軒までに減ったそうです。
ワタシの心のふるさと、湯平温泉には思い出がいっぱいあります。花合野川の川の縁を歩くと、辺りが明るくなるほどの無数の蛍が群舞していたのを今でも思い出します。ワタシの人生の原風景でもあります。
しかしあの頃の記憶もだんだんと薄れ消えていくようです。あの時ワタシ達4人の家族のうち両親は既に他界し、兄も重い病に侵されております。この温泉場がいずれ廃れて消えていくのではないか、と思うと言いようもない寂しさを感じるのでありました。
湯平温泉の源泉がある場所に設えられた祠、古い木像が祀られております。消えて無くならないよう、施錠したらいいのに。
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