植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

台風や嵐は悪くない 生き急がず死に急がず

2022年08月13日 | 雑感
台風が来ているようです。昨夜も雨音で、目が覚めました。園芸をやる身にすれば、これだけ乾燥して暑い夏の間にまとまって降雨があれば有難いのです。問題は、ブドウやリンゴなどの果樹で、暴風が吹けば枝が折れ実が落ち、ブドウにとって大敵の雨叩きになれば病気が心配ということでしょうか。

台風といえば、帰省した子供たちと孫に振り回されワタシの周りには嵐が吹き荒れております。昨日は孫に絵とお習字を教え、昼はみんなの食料の買い出し、午後は10人前の蕎麦を打ちました。これで、本来の日課である、園芸も篆刻もブログの更新、ツムツムもすべてが出来ずじまいでありました。蕎麦打ちは、ずいぶん久しぶりでしかも冷房がない部屋での作業で、合格点には達しませんでした。麺の細さはともかく、途中で切れるという極めて基本的な問題が残りました。こねの時間と力が足らなかったのです。

嵐が来れば、家の中で出来ることをやれば良し。猛暑の中での外仕事は自重しなさいと、お空から言ってくると思うのです。

昔勤め人であった頃、仕えていた役員に「時間と言うのは唯一、誰にとっても平等・公平なもんだよ」と言われて、なるほどと思ったのを思い出します。確かに1日24時間は、王様でも大統領でも、近所のおばあさんにとっても同じです。その時間が経過する速さも全く変わりません。

しかし、やはり平等ではないと考えるようになりました。例えば一日4時間しか寝ないならば起きている時間は20時間となります。10歳で夭逝した子供は100歳まで長生きした年寄りに比べたら、時間は1/10しかありません。つまり時間は不平等であるとも言えるのです。

時の刻みだけは同じだとして、どうその時間を過ごすかが各個人にとって大きな差異を生み、結果として豊かさや充足感・健康などに大きく影響を及ぼします。日がな楽をするように、ぼー--っとして横たわっていたり、うとうとしながらテレビを眺めている生活を続けて、充実した人生を送れるとは思いません。寝ている時間は、死んでいるのと同じ、自分に与えられた寿命と言う時間を短くしているに過ぎないのです。

同じ速度で時が過ぎ去るのを、どう過ごすかが大変大事なのだ、と思うのです。ワタシにとっても、年限は特定できないけれどいくら頑張っても残された時間はせいぜい30年しかない、と考えると、こうしてはいられないと。あれもこれもやりたい、こんなこともチャレンジし経験したいと気がせいてきます。

それとて、個々人の価値観人生観によるもので、楽して何もなさずに暮らしたいと思えばそれもあり。太く短く、長生きはまっぴらの生き方を選ぶのも好き好きでありますが。

時間と気力体力の許す限り毎日を緩みなく、濃密に過ごしたいと努力しています。特に定年を迎えて自由な時間を獲得してから、体を休めたり昼寝をしたりというのは極力減らしております。そして、そんな生活が持続できるよう自分の生存できる年数を延ばすよう、健康を維持することが最も大事なのだとも思います。

世の中で、せっかちで活発に激務をこなしていて「生き急ぐ」人もいます。また、破天荒な人生を送って輝かしい名声を得たのに早く亡くなくなる「死に急ぐ」人もいます。ワタシは、なにも急ぐ必要はなく、やるべきこと・やりたいことをじっくり経験し味わっていれば良かろうと思います。ワタシにとって大事なことは、マイペースで緩まずたゆまず参ろう、であります。

台風は、地面を潤し、澱んだ大気と塵芥を吹き飛ばすことによって大地は活性化します。孫子が戻ってきて起こす嵐は、慣れ切った日常に新風を吹き込み、ワタシに刺激を与えてくれます。あぁ、この嵐も時間が過ぎれば過ぎていくのです。たまには、台風が来るのも悪くないのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする