風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

79回ピースボート、サウジアラビアのジェッダへ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月17日(水)  食事の写真は掲載日とは一致しません。
インド洋に入りました。これからサウジアラビアのジェッタまでは寄港地はありません。
夜中、少し揺れましたが、夜が明けてからは穏やかになりました。
10時から、大げさな「海賊対策訓練」がありました。
海賊に襲われたら、部屋に戻り、ドアに施錠し、窓のカーテンを閉める、と言うものです。
4月24日頃までの間、海賊対策として9階のオープンデッキの閉鎖、夜間のオープンデッキの消灯、夜間はカーテンを閉める等の対策が行われます。
午後からオーバーランドツアーで欠席した2回分・40分の英会話クラスの補講がありました。
先生は、ハワイ島第二の島・Maui島出身のMauiさんで、20歳代の若い女性です。
クラスメートは男性3名、女性2名の計5名です。
レベルは、私が地元で通う英会話教室(初級)より少し上で初級と中級で中間レベルのようでした。
その後、14:30から“GETの課外アクティビティ”の説明会がありましたが、私は参加しないことにしました。
ダンス入門もGETと時間が重なるので、あきらめました。
まっ、これで良いかと割り切って、英語とフィットネスを中心に生活しようと思います。
さて、このクルーズでは、クルーはインド、インドネシア人が多いようです。
私のハウスキーパーはエリアスという30歳代の若い素敵なインド人男性です。
彼は、言葉遣いもとても親切で、サンキュウ・サーと言います。
私は、彼がとても気に入りました。
知り合ってすぐチップを渡すのは良くないと思ったので、スリランカから帰った日、お土産を買えなかったと言い、
「貴方は私の英語の良い先生です」と10ドル渡しました。
でも、彼の態度は以前と全く同じでしたのでますます良いです。
合う度に、二言三言英語で彼と話すのは、とても楽しいです。
同じフロアのハウスキーパーの一人は、インド・コーチン出身の男性で、「一度コーチンに行ったことがある」と言って以来、
丁寧な挨拶をしてくれます。
また、食堂には顔なじみになったムンバイ出身のインド人の男性ががいます。
彼の英語は、私にはちょっと聞きにくいのですが、会うと必ず話しかけてくれます。
今日のランチの時、スリランカで撮った写真を見たいと言われました。
夕食の時見たいと言うのでパソコンを持って行き、見せました。
また、9階・10階のデッキとジムの清掃担当は、50歳代のネストルというペルー人です。
彼は英語が話せないのですが、私が「オラ、ブエノスデアス、グラシャス」などと片言のスペイン語の挨拶を交わすと、
以来、オラ・アミーゴと話しかけてくれます。
  
4月18日(木)
今日から私のGETのクラスが始まりました。レベルは、高すぎませんがかなり難しかったです。
クラスメートの力量も私より上ですが、このクラスを続けようと思います。
しかし、この判断は大誤算で、私にはとても難し過ぎるクラスでした。
宿題は、毎日出るようです。
GET無料講座も行われました。
初め、中級に出たのですが、簡単すぎるので上級クラスに行きました。
少人数に分かれて話し合うのですが、決して難しくは無いのですが、お互いの波長がフィットしません。
短い時間にたくさんのことをしようとするのでちょっと慌ただしい感じでした。
もっと、のんびり意見を交わした方が良いのになぁと思いました。
ニューランド人のリンカーンさんの“異文化コミュニケーション”のワークショップがありましたが、退屈でした。
私が、Kia oraとマオリの言葉で挨拶し、私の日本での英会話クラスの先生はマオリだと言うと、
彼女はPaniaというマオリの名前も持っていて、漢字は読めませんが、流暢な日本語を話し、日本の手話も出来る魅力あふれる女性でした。
日本の英会話教室の仲間に絵葉書を書きました。
でも投函されるのはサウジアラビアのジェッタという港で、日本にはいつ着くのでしょうか。
当初、ここは帰港地では無かったのですが、サウジアラビア政府がピースボートの活動が気に入って、
給油と交流の申し入れがあり実現したとの報告がありました。
サウジアラビア料理の昼食会と砂漠のテントでサウジアラビアの伝統舞踊などを見るそうです。
思いがけないサプライズです。
今晩から、夜間、オープンデッキの照明が消され、キャビンもカーテンを閉めなければなりません。
こんなのが海賊対策になるとは全く思えない陳腐さですが、文句は言いません。
夕方6時半、洋上での久しぶりの夕焼けでした。

夕飯は、CCと言われる通訳集団3人と相席になりました。約30分、英語で会話しながらの食事は楽しかったです。
朝食                                   夕食
  


4月19日(金)
今日は、急遽入った「夏祭り」で、公的行事が中止となり、GETも延期となりました。
遅い朝食にし、ゆっくりいただき、ランチも一時過ぎ、一人席があるリドデッキでいただきました(メインレストランと同じメニューです)。
この日のスペシャルメニューはソース焼きそばでした。麺が好きな私は大喜びでした。

でも、もう少しソース味が濃かった方が良かったです。
白身魚の煮付けはおいしかったです。魚料理が少ないのがちょっと不満です。
午前中たっぷり歩きました。イルカを見ました。
 
散歩がてら船内のいくつかの施設を写真に撮りました。
久しぶりに本を読みました。塩野七生さんの小説『銀色のフィレンツェ』を読み終えました。
その後、『ローマ人の物語』のカエサル編を読むことにしました。
午後3時から、若者のフラストレーション発散としか良いようなない「夏祭り」が行われました。

この暑い中、浴衣を着て、ソーラン節でした。
この集団に入らない若者も少しいたようで、私は彼らの方が好きです。
私は、写真を一枚だけ撮って、少し散歩して、キャビンで本を読みました。
GETの先生、アリッサさんとシンディさんがいて、2分ほど話しました。
アリッサさんは手話の使い手なので、アイテムは手話でした。
シンディさんは浴衣を着ていました。
今日は、変圧器が壊れました。
200V対応の機器ならCプラグを使えるのでほとんど問題は無いのですが、扇風機は壊れて使えなくなりました。
また、電気シェーバーは早々に壊れてしまったので、顎髭を生やすことにしました。
 

4月20日(土)
今日は、GETクラスとGETの“Welcome Party”がありました。
パーティは一杯のフリードリンクが出ましたが、面白くなかったです。
入門者からアドバンスクラスまでの生徒が、共通の英語ゲームをするのは決して易しくはないのですが、
小学生低学年を対象としたようなの子供だましのようなゲームやアクティビティは全く退屈で苦痛でした。
お酒をさらに飲むと不満がより募りそうなので、お酒は飲みませんでした。
その他の時間は、カエサルを読みました。
夕ご飯は、自慢話と知ったかぶり話の好きなCCと相席になり、最悪で、この上なく不快でした。
英語が出来るだけでは決して偉くは無いのだよと言いたくなりましたが、ぐっと我慢して早々に引き上げました。
朝食と夕飯は、行った順に席が案内されます。
いい人と相席になれば良いのですが、いやな人もたくさんいて、これは大変な苦痛です。
 

4月21日(日)
ソマリア沖に入り、自衛隊等の船が交代でパトロールしています。
   
また、数隻の船が視界にあるなど、海の景色も少し変化が出ています。
今日の、日の入りはちょっときれいでした。日の出は、5時過ぎだったようなので見ませんでした。
ランチは、おでんでした。おいしくなかったのですが、こんにゃくはおいしかったです。
今日のミスは、朝食時マイカップを食堂に忘れてしまったことと、万年筆を落としてしまったことです。
マグカップは、ウエイターがすぐレセプションに届け出たので戻りましたが、万年筆は戻りませんでした。
提供される日本茶は全くおいしくありません。朝食時、私は、日本から持参したマイカップと日本茶のティバッグでお茶を飲んでいます。
朝は、6:30からモーニングコーヒーがあり、昼は15時にカステラ付きティタイムがあります。いずれも無料です。
私は、カロリーの取り過ぎな気がして、カステラはいただきません。
OPEN GETの上級に出ました。今日のテーマは、ポジティブシンキングでした。
悪いことが生じても、at least, It's a good thing, Look on the bright side, を使って、ポジティブな考えを表現する練習でした。
4時からは、GETの先生とマンツーマンで15分間会話する「chat with」を楽しむことが出来ます。
私は、シンガポール出身の若い女性Cindyさんと話したのですが、私の準備不足でしたが、15分間楽しむことが出来ました。


4月22日(月)
午前中は、特別なことがありませんでしたので、遅い朝食をゆっくりいただきました。
キャビンでカエサルを読んでいると、10時前レセプションから電話があり、
コペンハーゲンでのオーバーランドツアーの一人部屋が確保されたとの電話があり、手続きに行きました。
オーバーランドツアーは二人部屋が普通で一人部屋は、概ね1泊8000~9000円のプラスになります。
私は、赤の他人と二人部屋となって不愉快になったりストレスがたまるより良いと思い申し込みました。
11:30からコペンハーゲンからのオーバーランドツアーの説明会がありました。
12:50~15:35GET TOEICプログラムがありました。
私は、TOEICも申し込みました。テキスト代は2940円で、模擬テストがありました。
リスリング45分・100問、リーディング75分・100問で、10~990点の採点が行われます。
TOEICは、英語のレベルを判定する一つの方法ですが、私が知っているのはそれだけ。
GET受講生は、料金が安くなるので受けただけでした。
テストはとても難しく、理解して回答できたのは10%にも達しないと思います。
2時間もの間、緊張をし続けたのはこの数十年間全くなかった経験でした。
実際は、1時間20分頃を過ぎると、集中力は無くなりました。
頭が疲れくらくらしたのでデッキを歩きました。かなり強い日差しの中、約1時間歩きました。
キャビンに戻ると、ハウスキーパーの青年・エリアスがペルーの素敵な音楽のCDを貸してくれました。
28歳のインド青年です。
 

4月23日(火)
今日は、特別なことがありませんでした。
一学期目のGETは、8時半から9時50分まで。クラス後午前中は、部屋で本を読みました。
OPEN GETは12:10~12:50、上級の担当は、とてもかわいいヨハンナ、私にはちょっとレベルが高いのですが、楽しんでいます。
ランチはこの後にしています。クラスメートのアヤと英語でお話ししながらランチをいただきました。
私より7歳くらい年上の女性ですが、なかなか素敵な女性です。
ちょっとお話が長いのが難ですが、なかなかの博識の上、しっかりした思想の持ち主です。
ランチ後、少し本を読んで、ジムでダンベルを使っての筋トレをしました。
その後、17:30から1時間、サウジアラビアのジェッタに寄港することの説明会=「航路説明会」がありました。
どのような事情・経過でサウジアラビアのジェッダへの寄港が決まったのかは、定かではありません。
サウジアラビア政府が、ピースボートの活動・とりわけ広島・長崎の被爆者がピースボートに乗って世界各地で被爆体験を語る
「折り鶴プロジェクト」の活動を高く評価して、『サウジアラビア&日本・きずな平和ファーラム』(参加者日本側70名)を開催し、
あわせて第79回クルーズの全乗客をイベントに招待するということのようなのですが、
サウジアラビアは、厳格なワッハーブ派(スンニ派)の教義を国是とし、憲法、議会、政党の存在が認められていない、
サウジ一族が独裁的に支配する祭政一致の君主制非民主的国家です。
ピースボートと波長が合うとは私には思えないないので不思議と言えば不思議な話です。
イベントは、港に張られたテント内でのバザールや交流会、サウジアラビア料理の昼食、
そして砂漠地帯で行われる“文化交流フェスティバル”だそうです。
日本側の出し物が、沖縄のエイサーとソーラン節の集団踊りというのですから、これもまたちょっと不思議で変ですが。
その後、サウジアラビアの青年10名が、ポートサイドまでピースボートに乗り、交流を図るそうです。
豊富な石油マネーで人々は豊かな生活を送っていますが、重労働などはインドや他のアジアの国々の労働者がするなど、
ちょっとゆがんでいるように私には感じられますが、実際はどうかは知りません。
はたして、「アラブの春」の風は、必ずサウジアラビアにも吹くのでしょうか。
 

4月24日(水)
アメリカ・モンタナ州出身で身長2メートル以上のダン先生と“Chat with Dane”を楽しみました。
彼はアメリカ人なのに、ベトナム国旗の「一星紅星」のTシャツを着ていたので申し込みました。
モンタナ出身のなかなかユニークな若者で、ベトナムなどをバックパックで旅したそうです。
ところで、船内ではかなりの人が、マスクをし、咳をし、風邪が大流行しています。
中には発熱している人もいます。
にもかかわらず、レストランで食事をしたり、イベントに出たり、GETに出たりと、全く非常識な事態です。
もっとも、四人部屋では、逃げ場も居場所も無いのですからどうしようも無いのかもしれないのですが。
風邪の原因は、低めのエアコン設定と空気の乾燥と言うことらしいですが、本当はわかりません。
密室的状況が風邪を流行させているのでしょう。
とうとうこの風邪の撲滅はならなかったようで、この航海中、最後まであちこちで咳の音は止みませんでした。
インフルエンザや食中毒が発生したら非常に恐ろしいことだと危惧していましたが、
ピースボートにはその危機感は無いようで、レセプションからは手洗いとうがいを奨励するだけで、
病気の人は外出を控えるべきなどの注意は全くありませんでした。
この恐れは、クルーズの終わり頃現実のものとなり、インフルエンザが大流行し、強制隔離者が増え、私は感染に怯えました。
 
 
紅海に入り、時々陸地が見えるようになりました。
  
陸が近いのでしょう、船に鳥の姿が。
  

4月25日(木) サウジアラビア・ジェッダ
ジェッダは、紅海に面した港町で、イスラム教の聖地であるメッカ・メディナへの入り口に当たるそうです。
 
 
 
 
サウジアラビア政府はピースボートの活動を評価して、ジェッダでの給油と乗客のサウジアラビア上陸を認め、歓迎セレモニーを主催しました。
ピースボートが桟橋に接岸されたその場所に出入り口が準備され、冷房がちょっと効いた大きなテントが2張り準備されていました。
最初のテントは、バザールでした。お店は少なく、食品のお土産屋はなく、手作りの伝統工芸品やアクセサリーなどが多かったです。
私は、買いません。次の集合時間までかなり時間があったので自分のキャビンに帰って、休憩しました。
再集合の時間は、延期されて13時でした。
 
 
  
  
ジェッダは、ピースボートサイドが、求め、計画した寄港地ではありません。
私たち乗船者には事の真実はわかりませんが、インド洋・アラビア海の約10日間の単調な洋上生活からの開放はうれしいサプライズでした。
サウジアラビア入国にはビザが必要だと思いますが、ビザなしいわば超法規的手続きで、入国したのだと思います。
パスポートや日本大使館などにはサウジアラビアへの入出国の記録は全く記録され無いのだと思います。
この世の中には、不可思議なことが起こりうるものです。
万一、サウジアラビア滞在中に、事故に巻き込まれるとか事件が起きた時、どのような事態になるのでしょうか。
何事も無かったから良かったものの、この事態はかなり危ういのでは無いかと私は、思いました。
書類と言えば、これだけですから。   以下、顔が写っている写真はいずれもOKを受けて、撮りました。
  
    
 
船に掲げられた歓迎の横断幕
 
 
  
  
  
 
 
                         ラクダの肉[とても高価で、庶民の口にはほとんど入らないそうです。]
 
この食事の後、ちょっと移動したとき、私は私のお気に入りの大切な帽子を落としてしまいました。
すぐ気がついて、当たりを探したのですが、見当たりませんでした。
この先、エジプトや中南米の強い日差しを考えると、私はこの失敗がひどく堪え、疲れたのでした。
その後、私達は20台の大型バスに分乗し、砂漠の中に設置されたテントに向かいました。
道路は広いのですが、車線ラインは引かれていなかったり、見づらかったり、路肩の整備やフェンスなどは設置されていませんでした。
  
 
 
 
道の両側は、廃車された自動車の部品を売る店が連なっていました。
客は、気に入った部品を廃車から選んできるようですが、ほとんどスクラップ状態でした。
車体は、砂漠の砂で白く覆われていました。
 
ガソリンの値段はとても安く、ただ同然で、車は一家に数台所有しているそうです。
気になったのは、古くなり壊された建物の廃材が道の両側に捨てられていることです。
そうした廃材とともに、タイヤや家庭ゴミなども捨てられ、岩や木々にプラスティックの袋が沢山まとわりついていました。
砂漠と行っても、我々がイメージするのはかなり様相がことなり、岩場と泥・土です。
雨は少ないのですが、高地に降った雨が伏流水となり、かなり豊富だそうです。
それが所々で地上に出て、オアシスとなったり、小さな流れになったり、木々を育て、緑が結構ありました。
約1時間後、突如そうした土漠の中に二つの巨大な白いテントが現れました。
 
 
 
日本側の出し物は、南中ソーラン節という新しいソーラン節の踊りと沖縄のエイサーの歌と踊り、花は咲くの合唱でした。
何が日本文化を代表するかの考えは私にはありませんが、私にはこの三つが日本文化を代表するとはとても思えませんし、
もちろん、茶や生け花や歌舞伎ら文楽などが日本文化を代表するとも私は決して思いませんし、
また、会場で紹介された習字や剣玉・折り紙などが日本の大衆文化とも思えません。
アニメは海外で人気だそうですが、これも日本を代表する文化とは言えません。
では、何が日本を代表する文化とは、と問われても、私は全くわかりませんが。
最も、その国を代表する文化を一つ二つあげろと言われても、どこの国の人でも答えられないとは思うのですが。
再集合時間がナンと18時でした。これは大きな間違いでした。

帰り道は、サービスして、来た道とは違う王の家や巨大なショッピングモールなどがある繁華街を通ってくれました。
明日が祭日の金曜日の前と言うこともあり、市の中心はいつも以上の大渋滞でした。
結局、港に着いたのは、帰船リミットの20時を越えていました。
更に、一時にバスが着いたので、乗船手続きは大変な混雑で、時間がかかりました。
その上20時半のレストラン閉店時間も迫っていましたので、レストラン閉店時間は21時までに延長されましたが、
レストランに入り切れない人も少なからずいたようです。
サウジアラビアでは、時間や予定の立て方が日本とは異なると、ピースボートは説明しましたが、
私は、嬉しさのあまり、サウジ政府の言いなりで、要望をしっかり伝えなかったのでは無いかと、不信しました。
事故が無かったから良かったものの、綱渡り状態だったと私は思いました。 
さて、私達が交流したのは、サウジアラビア政府や地元政府官僚などの社会的エリート層でいわゆる庶民では無いと思います。
庶民が行き交う街を自分の足で歩いたのでは無く、移動は全て冷房の効きすぎたバスでしたので、
ですから私のジェッタやサウジアラビア訪問は、ただ来て、上陸しただけという感じです。
でも、ほんの一瞬でも来たことがあると言うことはやはり良いもので思い出にはなります。


4月26日(金)
私の帽子はとうとう出てきませんでした。
ジェッタから乗ったサウジアラビアの青年3人が、GETの私たちのクラスを訪問しました。
質問が許され、多くの人が我先に質問する積極性は良いのですが、
ガソリンの値段はいくらかとか、平均収入はいくらかとか、結婚適齢期は何歳かなど差し障りの無い質問ばかりで退屈でした。
オイオイ、もっと聞きたいことは無いのかよと思いましたが、私は言いませんでした。

4月27日(土)
昨日のアラブ青年、ニックネームレイン(雨)さんと船上でばったり会ったので、少し話しました。
私が、
「私は、仏教徒です。仏教ではたくさんの神々があり、イスラームでは唯一の神はアラーという違いはありますが、
平和を求める心は同じだと思います。私は、トルコのアヤソフィアを訪れたとき、オスマントルコ人が、
キリスト教会・キリスト像などを破壊しないで、漆喰で覆い、モスクに改造し、大切にしたことに感動しました。
コルドバ市のメスキータも同様でした。モスクが異教徒にもおおらかに開放されているのも素敵です。
また、アラビックの書道もとてもきれいで素敵でした。」等と話すと、
彼はイスラームの世界を熱く語ってくれました。   
  私が昨年、2012年5月イスタンブールを訪れた時のアヤソフィアでの写真です。
  
  私が2011年にスペインを訪れた時の、スペイン南コルドバ市のモスク=メスキータの写真です。
  
私は、彼らは所詮金持ちのボンボンにすぎないと思っていたのですが少し訂正したのでした。

ジェッダを後にスエズ運河に向かいました。
 
スエズ運河航行を待つ船舶
 
  
    【続く】


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1 コメント

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うれしいサプライズでしたね (今野 信夫)
2013-07-26 09:41:03
72回のときは、リビアが紛争で寄港できず、代替えとしてジェッダに寄りました。いいところでした。
ピースボートにはサプライズは時々ありますが、それはそれとして受け止めればいいのではないでしょうか?長い航海中はいろいろなことがありますね。
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