世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

吹田市立博物館(1)

2022-11-16 07:54:34 | 博物館・大阪府

先に新芦屋古墳のレプリカと出土品を紹介したが、今回は縄文時代の展示品と弥生時代の展示品を紹介する。

志部遺跡出土石器

ナイフ形石器、錐状石器、尖頭器等は、近畿地方中央部の地域性が伺われると云うが、その地域性と云うか特徴は記載されていない。吉志部遺跡の礫群

こぶし大の石が集中的に出土するものを礫群と云う。熱を受けている例があり、食物を加熱するためと考えられるという。

以下、弥生時代の展示品である。

弥生時代の遺跡として垂水遺跡とそこからの出土品が展示されていた。

垂水集落復元模型 縮尺:1/100

次回は古墳時代の展示品を紹介する。

<続く>

 


特異な形態の新芦屋古墳・吹田市立博物館にて

2022-11-14 08:38:30 | 古墳

吹田市立博物館の展示内容については、後日紹介したいと考えているが、先ずは多少なりともびっくりした特異な古墳である、新芦屋古墳の復元レプリカと古墳から出土した馬具類を紹介し、その古墳の特異性について考えてみたい。

昭和53年、宅地造成中に発見されたが、現在墳丘は存在しない。そこでクラフトモデルがあるので、それを御覧頂きたい。

墳丘は方墳で7世紀初頭の終末期古墳で特徴的なことは、横穴式木室墳でこのこと自体が稀であるが、さらに特異なことはその木室の中に石棺が納められ、土が充填されていたことである。これは全国で唯一の事例である。その復元レプリカを下に掲げておく。

木室の中に石棺が納められているが、その上には山形に土が盛られて密閉され、更にその上に垂木材を組んでいた。全国唯一の事例であるという。終末期古墳の一つの現象としてとらえるには、あまりにも特徴的である。被葬者の出自に関係するのであろうか。

玄室の手前(羨道側)は、須恵器が並べられ何やら祭祀が行われていたと思われる。前方後円墳などの祭祀は墳丘上で行われており、時代の経過と共に変化したのか、当該古墳が特異なのか? いずれにしてもやや驚いた古墳の形態である。

金銅製の立派な馬具が出土している。7世紀ともなれば騎馬民族云々を持ち出す理由を見いだせないが、被葬者は大和王権と繋がる当地の豪族であったと思われる。それにしてもこのような古墳は初見である。

<了>


近衛龍春著『武士道・鍋島直茂』を読んで

2022-11-13 08:08:52 | 日記

ブロガーDr.Koimariさんの近衛龍春氏の書籍記事に触発され、読み漁るというほどの事でもないが、ここのところ暇があれば目をとおしてる。先日、首記タイトルの書籍を読了したので読後感を記事にしてみた。やや長文であるので流し読みでもしていただければ・・・と、考えている。

近衛龍春氏の著作を読んでいつも感じることであるが、巻末の参考文献欄をみると、ゆうに200冊以上が記載されている。とてもできることではない。そして史書か思われるほど史実の記載が続く、まさに戦記物のようだが、いつしか引き込まれる不思議な文体で、それなりのファンが存在するであろう。以下、それの要約である。

天文7年(1538)、鍋島清房の次男として生まれる。母は竜造寺家純の娘・華渓。天文10年(1541)、主君・竜造寺家兼の命令により、小城郡の千葉胤面(たねつら:西千葉氏)の養子となる。しかし天文14年(1545)に小弐氏によって龍造寺家純らが殺され、家兼が逃亡したことにより、龍造寺氏と少弐氏が敵対関係になると、実父・清房は直茂の養子縁組を解消して実家に戻らせている。家兼の死後、数年を経て竜造寺隆信が龍造寺氏を継いだ。

(龍造寺隆信:Wikipediaより)

天文20年(1551)9月1日、周防の陶隆房(晴賢:すえたかふさ:はるたか)が主君の大内義隆を自刃させ大内家の当主には、大友宗麟の弟の義長を迎えることで同家を掌握した。龍造寺隆信は大内氏と誼(よしみ)を通じていたが、隆信は後ろ盾を失い、苦難の時代に入る。そのとき物語の主人公である鍋島直茂は、彦法師丸と名のり十四歳であった。そこから物語はスタートする。

彦法師丸は梅林院なる寺院に一時出家するが、還俗して孫四郎信昌(のぶまさ)として隆信に仕えることになった。その後、隆信の生母である慶誾尼(けいぎんに)が父・清房の継室となったため、孫四郎信昌(直茂)は隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。龍造寺氏は孫四郎信昌の働きなどもあって、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559)には滅亡に追いやっている。この頃から龍造寺隆信の右腕として活躍する。

永禄12年(1569)、大友宗麟が侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。元亀元年(1570)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中で夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友親貞を撃破する。以降、龍造寺家内での存在感を大いに増した。また、この勝利を記念して、鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉へと替えた。

天正3年(1575)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させるという功績を挙げた。そして隆信が隠居して隆信の嫡男・龍造寺鎮賢(後の政家)が家督を継ぐと、政家の後見人を隆信より任された。

天正9年(1581)に隆信と謀り、島津氏と通謀した筑後柳川城主の蒲池鎮漣(かまちしげなみ)を肥前へ誘い出して誅戮し、隆信の命令で柳川城攻めをした田尻鑑種(たじり あきたね)を督戦、蒲池氏(下蒲池)が滅んだ後に柳川城に入った。以後、主に筑後国の国政を担当する。もちろん孫四郎信昌の力への期待もあったが、奢った隆信が度々諫言を行う孫四郎信昌を疎んじるようになり、筑後に回したとも言われる。天正10年(1582)龍造寺隆信の嫡子・鎮が政家に改名したことに伴い、孫四郎信昌も信生(のぶなり)と改名した。この時点で龍造寺隆信は、五州二島の太守となった。

龍造寺隆信は、更に版図を拡大すべく島原に出陣する。天正12年(1584)、世に名高い沖田畷の戦いで隆信が島津・有馬連合軍に敗れ戦死すると、鍋島信生(のぶなり)は自害しようとしたが家臣に止められて肥前に退き、政家を輔弼して勢力挽回に務めた。島津・有馬方は、隆信の首の返還を申し出てきたが、鍋島信生(のぶなり・後の直茂)は受け取りを断固拒否し、強烈な敵対を示した。この行動の後に講和交渉に入ったため、龍造寺氏側は惨敗にも関わらずよりよい条件を得ることができた。

龍造寺氏は一時島津氏に恭順する形で大友方の立花宗茂が籠もる立花城包囲に加わったが、直茂は早くから豊臣秀吉に誼を通じ九州征伐を促した。そして、秀吉軍の九州接近を知ると直ちに島津と手切れし精兵を送って、島津軍によって肥後の南関に囚われていた立花宗茂の母親と妹を救出、龍造寺勢は立花勢とともに島津攻めの先陣を担って島津氏を屈服させた。

(鍋島直茂 Wikipediaより)

これら一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺政家は、秀吉から肥前7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂(直茂嫡子)の合計高4万4500石)を与えられ秀吉は直茂に対し龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じた。ここに実質的に龍造寺家を鍋島直茂が取り仕切ることになった。

秀吉からは天正16年(1588)に政家に対し、天正17年(1589)には直茂と嫡子の勝茂に、豊臣姓が下賜された。直茂は、天正16年から龍造寺領国内における支配権を誇示するかのように印章の使用を開始し、自己の権力を確立させた。

朝鮮出兵においては龍造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加した。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進された。この時点で政家との不和が噂されるようになっており、文禄4年(1596)には政家毒殺を企図しているとさえ噂され、直茂は噂を否定する起請文を提出している。この朝鮮出兵において、直茂は一度も帰国することはなく、慶長2年(1597)になってから子息の勝茂と交代で日本に帰国した。

以下、余談で当該ブロガーが勝手に付け加える。清王国を実質的に建国したヌルハチが文禄の役(壬申倭乱)に際し、秀吉軍の侵略を受けた朝鮮の為に、援軍を送る用意があると、朝鮮の『宣祖実録』宣祖29年(1596)2月の条に以下のように記されている。“壬申年間、朝鮮は倭奴に侵さる。吾は兵をひきいて馳せて救わんとす。明朝の石尚書に稟報(ひんぽう:目上の人・機関)せしも、回答を見ず。故に相援くるをえざりき”と。

(ヌルハチ Wikipediaより)

タラ話である。もしヌルハチが満州八旗を率い、壬申倭乱に参戦していたら、加藤清正が半島奥深く遼東まで攻め上ることはできなかったであろう。以上タラ話であった。

 話しは、関ケ原へとすすむ。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に参戦したが、直茂は銀子500貫をもって3人の家臣らに米を買い付け(兵糧5万石)させた。そして石田三成が挙兵すると、西軍に属しながら宇都宮にいた徳川秀忠に対して尾張から関東までの買い占め米の目録を送り、徳川家康にも「鍋島心中は別条なし」との心証をいだかせたとされる。関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。

その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の久留米城を攻略、次いで立花宗茂の柳川城を降伏開城(これは直茂の柳川城包囲というより、加藤清正の開場勧告による)させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。

一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ、龍造寺家の肥前国佐賀の本領は辛うじて安堵されている。ただし家中の戦後処理では、勝茂の直轄領は9000石とし、また名代の軍勢が家康から直々に労いの言葉を得た龍造寺(後藤)茂綱には、勝茂を超す12108石の大領を与えるなど、徳川と東軍参加の家中諸将への配慮をしている。

 江戸時代に入り、龍造寺高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領(検地による高直しで35万7千石)を引き継ぎ佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。

ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は勝茂となった。そのため直茂は藩祖と称される。元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81歳。既に家康は鬼籍に入っている。直茂は関ケ原に勝利したと思ったのか、そうでは無いのか?

そこで書名の『武士道』である。龍造寺隆信は肥前を統一するため、多くの国人衆と戦ったが、過去謀反した国人衆に対しては誅戮するにおよび、疑心暗鬼を引き起こし、薩摩に敗れると反旗を翻す国人衆の多さで証明される。それに対して直茂は寛容であった。慶長6年伏見城に登城し、家康と目見えた際は、“武士道とは云ふは死ぬ事と見つけたり”・・・と申したと云う。直茂は版図拡大に当たり、隆信のように降伏したものを誅滅するのではなく、許して臣下に加えたように、意味のない戦いを避けた。このような言動・行動訓が『葉隠』として伝えられた。

思えば、現代社会にも龍造寺隆信形人間、鍋島直茂形人間が存在する。行動パターンは戦国も現代も同じであろうか。長文を御覧頂きありがとうございました。

<了>


村田製作所の中国増産投資が非難されていると云う

2022-11-12 07:18:14 | 村田製作所とTDK

土曜日のブログ記載はお休みしているが、あまりにも馬鹿げているので記事にした。先ずココをご覧願いたい。

”経済安保”なる文言を錦の御旗にして、村田製作所の中国投資は、それに反していると宣う。批判する人々は、言葉遊びしているのか、それとも”経済安保”の何たるかを理解せずに批判しているのか、それとも単なる妬み、嫉みなのか。

村田製作所のMLCC国内生産比率は60%を超えている。海外売上比率が90%を超えている中での60%超えである。いわんや中国での生産比率は僅か10数%である。

TDKはじめ国内同業の国内生産比率は、僅か2割から3割である。既に昨日updateしたが、過去に出雲村田製作所、Murata Electronics Thailandへの投資も発表している。何が問題だと云うのだ。

”台湾有事”の際、サプライチェーンが崩れるとの”経済安保”論のようであるが、何がどう崩れると云うのだ。国内生産比率は60%を超え65%にもなっている。

村田製作所は台湾中部の台中にも工場を設立し、彼の地のセットメーカーにMLCC等の電子部品を供給している。

根拠の無い批判には、反論する必要もないが、”経済安保”論を持ち出されれば黙っている訳にいかない。何かを批判しようとすれば、冷静に周囲を見渡しておこなって欲しいものである。多分無知の輩と付和雷同人間の仕業と思われる。

<了>


攻める村田製作所

2022-11-11 09:09:40 | 村田製作所とTDK

このところ(株)村田製作所の工場増設Newsが相次いでいる。いずれもMLCC(積層セラミックコンデンサー)の工場建屋である。先日(11月7日)には、無錫村田電子有限公司第2プラントへ工場建屋を増設(ココ参照)するとのことである。要約以下の内容である。

『中国の生産子会社である無錫村田電子が、新生産棟の建設を同年11月1日に開始したと発表した。積層セラミックコンデンサー(MLCC)の中長期的な需要を見据え、MLCC向けシートの生産体制を強化し、安定的に供給することが狙いだ。投資総額は約445億円で、完成は2024年4月を予定している。新生産棟の建築面積は、倉庫棟なども含め1万1763m2(生産棟の建築面積は6557m2)。延床面積は5万1289m2(生産棟は2万7140m2)である。村田製作所の広報担当は「当社グループにおいて、MLCCを含めた全製品の国内生産比率は60%超である。2021年11月にはタイ(ココ参照)で、2022年3月には出雲村田製作所(ココ参照)で、それぞれ新生産棟の建設を開始しており、中国に限らず国内外での生産拠点の強化を行っている」と語った。

Covid-19の影響、主として中国のロックダウンから民生用機器生産、自動車産業の半導体不足などから、2022年の需要は減退すると見られるが、中長期的には電子部品の需要拡大は確実なことから、今の内に増産体制を固める狙いと思われる。

広報担当が発言したそうであるが、MLCCの国内生産比率は60%を維持していると思われる。海外では中国・無錫、フィリピン、シンガポールの3拠点、出雲村田製作所(IMC)はその3拠点のマザー工場である。2017年にTV新広島制作の『そうだったのかカンパニー』に取り上げられ、当時の益田喬事業所長が語るところによれば、年産数9000億個とのこと。2017年当時であるので2022年のこんにちは月産1000億個で、工場出し単価は30-20銭程度と思われる。

村田製作所のMLCCについて懸念がひとつ。民生用は世界シェア40%が示すようにOKだが、産業用が今一つである。自動車を含め産業用を如何に伸ばすのか、やはり技術力を高め価値ある新製品開発しかないであろう。

過日、Googl Earthを見ていると、Murata Electronics Thailand(MTL)の新プラントの建築過程が伺える映像に変わっていた。それが下の写真である。

赤線の太枠内の敷地に細線の枠で示したのが、工場建屋の輪郭である。Googl Earthのスケールで測定すると長辺は300mを越えている。上掲Googl Earthの右下の現工場建屋と比較するとずいぶん大きい。大きさで云えばグローバルスタンダードになってきた。

当該ブロガーがタイ好きになったのは、1995年から4年半にわたり当地に出向したときに始まる。当時女性従業員の給料は1日当たり100B辺りだったと記憶しているが、賃金上昇は時間の問題と認識していた。当時、生産技術部門はなく、赴任してから立ち上げた。部品は全て、各製造部門の日本のマザー工場からの輸入にたよっていたが、高い部品を輸入していたのでは割にあわない。そこで現地調達に切り替えることから業務スタートした。

残念ながら高精度部品は、当時のBKKでも困難で、シンガポールから調達。いつしかBKKからの調達も可能になったが、悠長さには耐えがたくMurata Electronics Thailand(MTL)にマシニングを導入し内作をはじめた。MTL進出の動機は低賃金目当てもあったが、いずれ行詰まる。生産性向上の為の合理化設備をMTLで内作する必要がある。チェンマイ大学工学部卒の新人を毎年4-5人単位で採用し、設備設計部門を立ち上げた。

過日、MTLが2018年に公開したVTR(ココ参照)を見た。それによると2018年当時の従業員数は6800名とのこと。2022年では8000名を超えていると思われる。そのVTRには苦労して立ち上げた生産技術部門の映像も流れていた。

見ると、それなりの設備設計と設備製作ができるようになった様子が伺われる。上掲は設備組み立ての様子である。

村田製作所は商品(製品)生産は自社設備との伝統が存在する。それをMTLに移植したのだが、タイの人件費上昇の対応はそれなりにできる体制ができたことは、喜ばしいかぎりである。

今日、対$Rateは150円にもなった。かつて低賃金を求めて多くの日本企業が東南アジアに進出した。今日では日本における労務費と海外それに差はなくなった。日本回帰の時がきたのである。政府は優遇策を設けるべきだ、日本に回帰し設備投資、なかでも生産性向上投資は、思い切った投資減税策を取るべきだ。ここで思い切った生産性向上投資をすれば、差をあけられつつある韓国や、躍進著しい中国にも対応できるであろう。トヨタが次世代半導体開発のため国内8社連合を組織したとのこと。電子部品メーカーの各社間競争も良いが、ここらで連合して次世代デバイスを共同開発してはどうか。とにもかくにも電子部品は世界のTOPを走り続けなければならない。

最後はMLCCの話しから脱線してしまったが、政府は画一的な政策をすすめるのではなく、切るべきは切り伸ばすべきは伸ばす政策をとって欲しい。

<了>