世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

メンライ王前代の環濠都市:ウィアン・ジェットリン

2018-03-26 15:05:44 | 古代と中世

過日、改装なったチェンマイ国立博物館へ行った。其の時に目を惹いた展示物を紹介する。それはルア(ลัว:Lua)族に関する展示である。ランナー朝初代のメンライ王がチェンマイに建都する前に、その地にはルア族により、Wiang Jet Lineなる環濠都市国家が築かれていたという。

当該ブログでも過去に、『チェンマイのワット・ドイカム』としてルア族のことについてUP Dateしているが、先ず民族の概要をレビューしておく。ルア族はラワ(ละวัา:Lawa)族とも云い、雲南ではワ(佤)族とも呼んでいる民族で、中国南部から東南アジア北部の山岳部に分布するモン・クメール語派の少数民族である。紀元前後にミャンマーのマルタバン湾岸からサルウィン川を遡り、チベット系民族と混ざった後、その一派が3世紀頃にチェンマイ盆地(平野)に進出したと云われている。このようにルア族はチェンマイ盆地に古くから民族国家を築いた先住民族で、ランプーンにモン(MON)族がハリプンチャイ王国を造る以前にマラッカ国を築いたが、8世紀半ばのモン族の進出に因って、その勢力は衰退した。メンライ王の祖先であるラワチャンカラートはラワ(ルア)族の出自と云われている・・・以上がルア族の概要である。

改装なったチェンマイ国立博物館では、次のパネルが目を惹いた。

このパネルに従って紹介してみたい。ランナーの伝承(伝説)の一つとしてWiang Jet Lineについて言及している。ドイ・ステープ地域の先住民、それはルア族であるが、それらの人々がWiang Jet Lineと呼ぶ都市国家を形成していたとする。Wiang Jet Lineは、ドイ・ステープの東山麓に位置し、そこは2重の環濠土手に囲まれていた。それらの環濠都市は径950mの円形状である。

(写された時期は不明ながら、このような写真パネルが掲示されている。それは現在のチェンマイ大学と、チェンマイ動物園の北側にあたる。現在はどうなっているかと、グーグルアースで確認したのが下の写真である。パネルの白黒写真とほぼ同じであった。)

発見された考古学的証拠により、そこは古代からハリプンチャイ、そしてランナー王国へと継続していたことが分かる。出土物の特徴から、ハリプンチャイ前期に環濠都市が形成されていたと判断される。そこには土器時代の大きな煉瓦(25×55×15cm)が出土している。

ドイ・ステープに在るSan Ku寺院から、ハリプンチャイ時代の遺品が発見されてもいる。このWiang Jet Lineは8代サームファンケーン王(在位:1402-1441年)の時代まで継続していた。そこは外敵に対する要塞として、更にはランナー朝の離宮と位置付けられていた。(レンガは髯をたくわえる男性の顏が刻まれている。何と左右の眉毛はほぼ繋がり、亀有の両さん、MON族の造形・肖形と似ているではないか。)

北部ルア族の伝承では、ルアの人々は高山に定住していたが、やがてピン川沿いの平地に移り住んだことになっている。伝承の古代都市から現在に至るまで、それらはルア族ないしはラワ族の伝承として知られている。彼らは東南アジアの高地で用いられていたモンークメール系の言語を使った。従ってルア族は、ランナー王国のタイ族の支配下にあるネイティブのグループであった。しかし、彼らはもともと土地の所有者であり、伝承によるとその軍事力はアイファーにとっては重要であった。アイファーはメンライ王の重臣でハリプンチャイを攻略征服した。メンライ王はルア族が犬を引き連れ、チェンマイ都城に入城する先導を名誉を与えた。メンライ王はルア族が先住の土地所有者であったと認めたのである。・・・以上がパネルの紹介内容であった。

そのWiang Jet Lineからサンカンペーン陶磁の破片も出土し、それらも展示されていた。

そして古代の北タイの都市国家も表示され、チェンセーンに在ったとされるヨーノックとともに、ランプーンのハリプンチャイ、Wiang Jet Lineが描きこまれていた。

古代の都市国家はいずれも平野(盆地)の平地に築かれていたことが分かる。更には日本の古代と同じように環濠に囲まれていたのである。

 

 


双魚文考#6

2018-03-25 09:21:35 | 北タイ陶磁

<続き>

魚文の形についても考察してみたい。サンカンペーン窯を除くタイ諸窯の魚文は魚高が高いのに対して、サンカンペーン窯のそれは概して細身の魚文で尾鰭が二股になっているのが特徴である。北タイは内陸であり、サンカンペーン窯の陶工が魚文を描くには、淡水魚をモチーフにしたものと思って間違いない。淡水魚に関する学術的知識はないが、多分に鯉科の特徴を持った魚文であると思っている。

北タイでは鯉科の魚はポピュラーであり、少なくと15種類以上の存在が確認されている。写真は北タイでパソイと呼ばれ、尾鰭が比較的大きく二股に分かれている。このパソイそのものを写したかどうかは判然としないが、その仲間であったろうと思われる。

一方龍泉窯の影響を大きく受けたであろう印花双魚文の文様は、鉄絵文様に比較し魚体に大きな違いがある。それは下顎に相当する部分が下膨れになっていることである。

図はサンカンペーン窯の印花双魚文のひとつを写しとったものである。上述のように鉄絵文との違いが明瞭である。

(パマメップ)

この魚文は北タイでパマメップと呼ぶ鯉科の魚の特徴を写したものと思われるが、いわゆる脂鰭と呼ぶ背中の鰭が大きく描かれ、文様と同一の魚と断言することはできないものの、その魚体は鰯のようであり、今日も市場でよく見かける魚である。以上、大いなる誤解も多々あると考えるが双魚文考として考察を試みた。

2010年12月2日:追記

2010年10月末日から1ヶ月間、チェンマイに滞在し、期間中に北タイ各地を訪問した。ランパーンのWat Lampang Luang訪問もその一つであった。その最後にWat Pongsanuk Nuaへ行ってみた。ここは涅槃仏があるとのことで参拝したが、非常にラッキーな場面に遭遇した。その出来事とは涅槃仏の金箔が、はげてきたので補修中であった。そのため堂内に入れなかったが、補修中の職人さんに言うと、快く堂内に入れてくれた。みると仏足を108の区画に区切り、各々の升目に仏教文様を描き込み中であった。探し求めている魚文もある。なにか嬉しさがじわっときた。

その職人に断り、彼の写真を撮らせてもらったが、じつに丁寧に説明してもらい、また文様の描きこみの腕は相当である。涅槃仏のいい尊顔とともに、忘れ得ないものとなった。

この描き込み中の仏足跡文様は、南伝形と云われ17世紀に形式化したようである。従ってサンカンペーン窯開始時期とは時間的な差があるが、チェンマイ国博の同時代仏足跡文様の流れを汲んでいる。

今回偶然にも補修中の直近で、双魚文に出会うことができた感慨とともに、ますます従来からの論考である、龍泉窯のモチーフの影響は認めるが、それは一面的な見方で、もっと多面的な見方が必要であろうと考えるに至った。それを更に補強したのが、PhayaoのWiang Bua Old Kilns Siteの訪問見学である。

下の図のような印花文が、見込み中央に押された盤片が出土展示されていた。

これは新疆ウィグル自治区出土の毘盧遮那仏画像の装飾文にみることができる。赤丸印中央の装飾文がそれである。

この中央文様は宇宙の大海を象徴する籠の形をした須弥山である。その文様が上のスケッチのように、双魚として盤を飾る文様として採用されている。このような文様は後期大乗仏教のそれにみることができる。さらに双魚文に関する資料館の展示内容は、全てが仏教、仏像の装飾文との関係で説明つけられており、そこには中国の中の字も存在しなかった。これも極端な見方であり、大学や政府関係者によるタイの独自性を示したいとのナショナリズムの現れであろうか? いずれにしても、かねてより考えていた、中国一辺倒の影響ではなく、西方や仏教の影響も大きなものがあり、これらが彼の地で混交したものと考えている。

 

                          <了>

 


カンタリーヒルズの水盤アート#23

2018-03-25 07:51:59 | チェンマイ

前回、カンタリーヒルズに滞在していたのは2015年11月までの3カ月間で、2015年11月18日の『カンタリーヒルズの水盤アート#22』までUP Dateしていた。今月15日から半年間滞在を予定しているので、滞在期間中に見た水盤アートを紹介する予定である。

デザイナーでも何でもない方が活けているが、時には唸るようなデザインの水盤アートが出現する。それを楽しみにしている。

 


チェンマイの赤バス(ソンテゥ)協定料金

2018-03-24 07:37:10 | チェンマイ

昨日、改装なったチェンマイ国立博物館へ行ってみた。カンタリー・テラス前のニマンへーミン通りで、赤バスを拾おうと最初に通りかかったソンテゥに料金を尋ねると60Bとの返事。40Bでどうかと云うと、できないとの返事、しょうがない50Bで双方同意。

帰りはハイウエーなので、経験上なかなか赤バスを捕まえられないが、運よく待ち時間3分ほどでキャッチできた。料金を尋ねると60B、すかさずペーン・マーク。運ちゃん曰く赤バスの車体を見よと指さす。みると一乗車30Bと白字で書きこまれている。

確か1-2年前は20Bであったが、いつから値上げしたのか?一乗車30B/人は分ったが、たかだか2km未満の距離に2人で60Bは高すぎるので、性懲りもなく40Bと云うと、運ちゃんは50Bで返してきたので、50Bでカンタリーまで戻ってきた。

2年前の話になるが、イサーンのコラートでは、一乗車8Bであった。2年後の今日2倍になっていたとしても16Bであり、チェンマイの高さは異常である。今日自家用車も増加し、運賃値上げもあり、赤バスの乗客も減ってきて、空バスが目につくようになった。この先どうなるか?

 

 


双魚文考#5

2018-03-23 09:02:43 | 北タイ陶磁

<続き>

最後に仏足石に話を戻すが、サンカンペーン窯の双魚文については、磁州窯鉄絵魚藻文や龍泉窯の影響、ペルシャの魚文の影響は考えられるものの、これらの装飾文様や装飾技法は別として、民衆や風土、土壌とも云えばよいであろうか、それらに対し、南伝仏教が及ぼした影響が、より濃厚であろうと考えるに至った。

その仏足石について、名著出版刊・丹羽基二著『図説 世界の仏足石』が良書であり、その援用を受けて、サンカンペーン窯の双魚文に与えた影響を考えてみた。

釈迦は入滅後の個人崇拝を禁じた。その死後、釈迦の像に変わるものとして・・・

 法輪

 菩提樹

 塔

 台座

 仏足石

をその標とした。釈迦の間接表現である、仏足(ぶっそく)頂礼(ちょうらい)が信仰の基本となった。最古の仏足石は前4世紀のスリランカでの無文のそれである。前3世紀には、スリランカ・アヌラーダプラで写真のように、中央に千輻輪(法輪)が、その周囲に他の吉祥文様とともに双魚文が刻まれた多文形仏足石が現れた。写真が不明瞭で見づらいが掲げておく。

その多文形仏足石がインドにもたらされ、ブッダガヤ大塔の仏足石につながる。この仏足石の推定製作年代は4世紀末とされているが、その魚文は一頭三匹の魚文が刻まれており、これはペルシャの遺物でも見ることができる。つまり、ペルシャとの交流が背景にあると、考えて過言ではないと思われる。

インドに伝わった仏足石は北伝と共に中国、朝鮮半島、日本へ伝わることになるが、スリランカからは南伝つたいに東南アジアに伝播することになった。タイに仏教が伝来したのは5-8世紀と幅をもって云われている。BKK国立博物館にある法輪はダバラバティー(7-8世紀)と云われている。同じく如来立像も8世紀とある。さらに仏説法図や浮彫菩提樹は6世紀頃である。これらの像を刻む前に、モン(MOM)族の人々は上座部の仏教を信仰していたのではないか?・・・5世紀までは遡れるであろう。424年シャム湾の盤々国から中国南朝の宋への貢物に彩色の塔があったという。この時、仏足石が入ってきたかどうか、語る証拠はない。

チェンマイ国立博物館が所有する真鍮製の仏足は、中央に同心円を描き、その中を升目のように区切り、そこに双魚をはじめ瑞祥文を描く。それは14-15世紀と推定され、カンペーンペット県サデト寺で発見されたが撮影禁止で、写真が掲載できないのが残念である。

“なぜ双魚文なのか”という疑問について、なんとなく分かってきたような印象を持つに至った。装飾文様としての魚文はタイ諸窯にみることができるが、多くは単魚文であったり複数魚文であるが、サンカンペーン窯では圧倒的に双魚文が多い。

古来タイの国土には多くの民族が去来したが、それら民族共通の土俗として魚は豊饒の証しであり、一種の信仰に近いものがあったであろうと想定される。それが形となって現れたものの一つが、チェンマイ国立博物館の真鍮製の仏足である。そのような信仰的、土俗的な基盤の上でのサンカンペーン窯双魚文と考えられる。

その双魚文の陰陽配置からは、やはり中国の影響を感じずにはおられないが、上述のように、それは西方でも散見できることから、南アジア、西アジアに広がる土俗信仰とも呼べるような共通認識の存在を感ずる。北タイの地でも、それを抵抗なく受け入れる基盤があったということであり、場合によっては、その基盤、つまり仏足石の双魚から発生したとの想定も考えられる。

 

                          <続く>