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遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!

2016-06-16 10:15:41 | ミャンマー陶磁
過日、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」を見ていると、重要な記事が掲載されていた。関心事が高いと思われるので紹介したい。
紹介したい記事は2点で、1点目は日本の研究機関に関する記事で、2016.5.4の朝日新聞デジタルニュースを引用したものである。
それは”ミャンマーの古代サイトは中東貿易の手掛かりを提供している”・・・と題し、以下のような記事であった。
国立奈良文化財研究所(奈文研)、京都大学の研究者は最近、発掘調査のためヤンゴン大学考古学部門の専門家と政府文化省考古局と一緒に調査チームを結成した。京都大学チームは、京都大学教授で京大アセアンセンター所長である柴山守氏が団長である。2016年2月3-6日にアンダマン海に面すモン州のモーラミャインで窯跡を発掘した。それは15-16世紀の青磁の大規模な生産センターであったと考えられる・・・としている。以下、奈文研提供とする写真が3点掲げられている。
                (出土した青磁片)
              (高台底に窯印を持つ青磁片)
              (多くの粘土塊が出土した)
以上が1点目の記事であるが、中東貿易との関連には何ら言及していない。中東の遺跡からミャンマー陶磁が出土するが、そんなことまで言及する必要がないと・・・レポーター氏は感じたのであろうか?
このPJTを通じて、ミャンマーと日本人の若手を育成するという。大変結構なことである。ミャンマーと云えば、欧米人特に次に紹介するオーストラリアの独壇場であったが、これからは日本人の若手に活躍して欲しい。

2点目の記事は”モン及びカイン州の陶磁器生産サイトのサーマリーレポート”と題する記事で、Smithonian's Freer and Sackler Galleries April 9.2016から引用している。
錫鉛釉緑彩盤の焼成地であるカイン(別名:カレン)州のKaw Don村と他に11カ所の焼成地を最初に調査したのは、ミャンマー文化省のSan Win氏とスミソニアン協会のDr.Don.Heinである。
1980年代初期、タイとミャンマー国境そいのターク・オムコイと呼ばれる埋葬地で
錫鉛釉緑彩盤が発見された。Dr.Don.Heinのサーマリーレポートによると、それらはおそらくKaw Don村で生産されたであろうとしている。
それはKaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don村で焼成された。そこには2mから4mの高さで10の窯跡の塚があった。当時の調査チームはKaw Don村を訪問した時に、そこは青磁と錫鉛釉緑彩陶の生産拠点であると認識した。
彼の2度目の訪問では、錫鉛釉緑彩陶に加えて、緑の単色釉と外側面が緑釉で内面が白(錫鉛釉)、更には焼成具が出土した。
Dr.Heinは、彼の地に於ける生産複合体が、彼が最初に考えていたより、広範に生産活動を行っていたであろうと考えている。それは、マルタバン壺や緑釉屋根瓦や他の製品を焼成する特殊な窯が含まれていたからである。
このトピックに関する彼の記事は進行中であり、今年にはオンラインで公開予定である・・・と記している。

これは衝撃の記事である。先の奈文研と京大のチームに発掘して欲しかったという思いもある。
従来、ペグー(バゴー)の寺院のパゴダ(チェディー)の基壇に緑釉の塼が多数認められること。更には1989年サイアム・ソサエティ・ニュースレターに、同じDr.Don.Heinによるペグーの発掘調査報告があり、そこにはペグーの東部キャイカロンポン・パゴダの近くで青磁片、緑釉や褐釉片、白い釉薬片(錫鉛釉)が出土したことから、ペグーないしはペグー近辺に錫鉛釉緑彩陶の窯があったであろうと考えられていた。今回の報告は、それを覆すものであり、マルタバン壺と同じような場所で焼成されていたとの報告である。
以下は、そのペグーとKaw Bein及びKaw Don村との位置関係を示すものである。

従来上述のようにペグー産と云われていたが、随分離れた場所である。しかしペグーに比べて製品の搬出は極めて都合のよい場所である。船便の良いところで、マルタバン壺同様マルタバンから輸出されていたことが、想定される。
窯形状はどうであろうか?続報が期待される。































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