<続き>
やや蛇足の感も無きにしも非ず。過去『鳥が載る家形埴輪で考えたこと』とのテーマで記事をUpdateしている。参考に願いたい。
埴輪の元祖は野見宿祢で、日本書紀垂仁天皇32年条に記載されている。野見宿祢といえば出雲の土師氏に、それを造らせたとの伝承が残る。埴輪を造り始めたのは渡来人であろうか、それとも古代出雲人であったのか?
加古川市行者塚古墳出土の囲形埴輪・家形埴輪と同じ組み合わせの埴輪が、百舌鳥古墳群の一つである御廟山古墳から出土した。
塀には円柱があり、張り出し部に可動式の扉がついている(写真左手奥)。
家には、屋根に千木と堅魚木(かつおぎ)が付く。これらは現在の神社建築に繋がる特徴を有している。家はおそらく祭殿を表したもので、囲いは中で行われた儀式を隠すためのものであったと思われる。
古事記によれば、時代的には約半世紀遡ると考えられるが、11代・垂仁天皇の御代に出雲大社が造営されたと記載されている。造営当初から千木と堅魚木をもつ建物であったと、勝手に空想している。この時代、日本人の精神的風土は形而上的にも形而下的にも確立されていた印象を当該埴輪をみて感じた次第である。
行者塚古墳、御廟山古墳ともに囲形埴輪の入り口上部には鋸歯文が表されている。これは何度も指摘するようにエイリアン侵入を監視する僻邪文である。雲南深南部やタイ北部の少数山岳民族の集落の門や家屋に掲げられている文様そのものである。
精神的というかアニミズム的な要素は、彼ら少数民族と古代日本の倭人と大いに似通っている。
<了>
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