過日、福岡県八女市の岩戸山古墳と岩戸山歴史文化交流館を訪れた。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)は、ヤマト王権に反逆した賊徒と思いきや、当地では英雄扱いである。果たしてどうか?
岩戸山歴史文化交流館のエントランス前には筑紫君磐井像をみる
九州北・中部で最大規模の前方後円墳である岩戸山古墳は、長さが170m以上で、同時代の今城塚古墳(継体天皇陵)の7割程のサイズである。岩戸山古墳が筑紫君磐井の墓とされるのは、「筑後国風土記」逸文の記載内容と古墳の石人・石馬の破壊内容が一致し、時代観に矛盾が無く、九州最大級の前方後円墳であることから、筑紫君磐井が生前に築造したものであることが特定されている。
岩戸山古墳には石人石馬が並ぶ(但しレプリカ、本物は交流館に陳列)
これだけの規模の前方後円墳と、阿蘇凝灰岩を使った石人石馬は、筑紫君磐井の勢力の大きさを窺わせる。石人石馬は人物埴輪や馬形埴輪を作る労力の比ではない程の人手を要す代物である。それが100点以上出土している。相当な規模の豪族であったことになる。
筑紫君磐井の前身である当該八女の地は、魏志倭人伝に記された奴国の南方の一国であったであろう。彼の地の豪族である磐井一族は、弥生時代から海を制し、大陸や朝鮮半島と独自に交流してきたと考えられる。磐井をはじめ多くの九州北・中部の豪族は、それぞれ独自に半島と交流し、先進の文物を得ていた。
弥生後期 八女・茶ノ木ノ本遺跡出土品
当地の茶ノ木ノ本遺跡からは、原三種の神器と呼ぶべき銅剣・銅鏡・勾玉ならぬガラス玉の頸飾りが出土している。中国本土から直接渡来したか、それとも半島経由であったか。いずれにしても当地の首長(豪族)は先進の文物を入手していた。
しかし、当時の倭国を代表するのは、ヤマト王権であった。百済から求められる軍事支援に対しヤマト王権は、各地の豪族を動員していた。『日本書紀』雄略天皇(第21代・457年―479年)二十三年夏四月条には以下の記載がある。“百済の文斤王(もんこんおう)がなくなった。天皇は末多王(またおう)が聡明であるのを見て、その国(百済のこと)の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士五百人を遣わして、国へ送り届けられた。これが東城王(とうせいおう)である。この年筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った”・・・これ以外に多くの百済に対する軍事的支援記事が、日本書紀に登場する。
倭国渡来の甲冑・池山洞32号墳出土 国立金海博物館にて
日本書紀に記載されているようにヤマト王権が伽耶に贈ったものか、それとも北部九州の首長が贈ったものか、ヤマト王権が贈ったとしても、日本書紀にあるように筑紫から彼の地にもたらされたものであろう。
百済・武寧王陵出土・金製耳飾り
八女・立山山古墳出土・金製耳飾り
立山山古墳出土の首飾りは朝鮮半島南部からもたらされた。北部九州と朝鮮半島南部は一衣帯水の関係にあったのである。
半島情勢が大きく動くのは、継体天皇(507-531年)の時代である。516年に百済が伽耶の一部を物部氏の支援を得て自国領とした。次いで新羅が524年に伽耶南部に侵攻する。これに対し伽耶南部諸国と百済は、倭国に援助を要請した。継体天皇の命により近江毛野臣(おうみけぬのおみ)は、六万の兵を率いて伽耶に赴こうとしたが、磐井は新羅から賄賂を受け、火(肥)国、豊国の勢力と共に、半島への海路を遮り妨害したのが磐井の乱である。反乱は1年半も続いたが、物部麁鹿火(もののべのあらかい)に敗れ、磐井は討たれた。
磐井の乱において物部麁鹿火軍に破壊された石馬 岩戸山文化交流館展示
磐井は、元来ヤマト王権の一員として参画していた。ヤマト王権に出仕し、敵となった近江毛野臣と同じ釜の飯を食った仲であった。磐井の勢力が及ぶ江田船山古墳の地、古墳の被葬者は典曹人(てんそうじん)と呼ぶ文官である。彼の人がヤマト王権に出仕し、帰国後江田船山古墳に葬られたのか、あるいはヤマト王権から派遣された官僚であったろうか。いずれにしても欠字はあるものの獲加多支鹵大王銘をもつ鉄剣が出土している。従前よりヤマト王権と磐井との間に齟齬はなかったのである。
江田船山古墳出土銀象嵌銘文鉄刀:和水(なごみ)町歴史民俗資料館にて
被葬者は典曹人の無利弖(むりて)、欠字はあるが獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)と刻まれている。獲加多支鹵大王とは雄略天皇のこと。余談であるが、埼玉・稲荷山古墳から獲加多支鹵大王と刻む金象嵌の鉄刀が出土している。被葬者は杖刀人(じょうとうじん)で武官である。この事から雄略天皇の時代、東は関東、西は九州までヤマト王権の力が及んでいたことになる。
磐井は何故乱を起こしたのか。新羅からの賄賂はあったのか。日本書紀は以下のように記す。“継体天皇は、穂積臣押山を百済へ遣わし、筑紫国の馬四十匹を賜った”。磐井をはじめ九州北・中部の豪族は、度重なる百済の軍事的支援を負担に感じ、領内は疲弊する。磐井等々は、自分たちの権益を守ると共に、疲弊から逃れるために立ち上がったのである。筑後ではヤマトが云う悪者ではなく、領民を護るためのことであり、悲劇の英雄として語られている。そのように捉えると、岩戸山古墳を見上げながら、無念の想いにかられたであろう、磐井の声が聞こえてきそうである。
<了>
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