世界の街角

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双魚文考#5

2018-03-23 09:02:43 | 北タイ陶磁

<続き>

最後に仏足石に話を戻すが、サンカンペーン窯の双魚文については、磁州窯鉄絵魚藻文や龍泉窯の影響、ペルシャの魚文の影響は考えられるものの、これらの装飾文様や装飾技法は別として、民衆や風土、土壌とも云えばよいであろうか、それらに対し、南伝仏教が及ぼした影響が、より濃厚であろうと考えるに至った。

その仏足石について、名著出版刊・丹羽基二著『図説 世界の仏足石』が良書であり、その援用を受けて、サンカンペーン窯の双魚文に与えた影響を考えてみた。

釈迦は入滅後の個人崇拝を禁じた。その死後、釈迦の像に変わるものとして・・・

 法輪

 菩提樹

 塔

 台座

 仏足石

をその標とした。釈迦の間接表現である、仏足(ぶっそく)頂礼(ちょうらい)が信仰の基本となった。最古の仏足石は前4世紀のスリランカでの無文のそれである。前3世紀には、スリランカ・アヌラーダプラで写真のように、中央に千輻輪(法輪)が、その周囲に他の吉祥文様とともに双魚文が刻まれた多文形仏足石が現れた。写真が不明瞭で見づらいが掲げておく。

その多文形仏足石がインドにもたらされ、ブッダガヤ大塔の仏足石につながる。この仏足石の推定製作年代は4世紀末とされているが、その魚文は一頭三匹の魚文が刻まれており、これはペルシャの遺物でも見ることができる。つまり、ペルシャとの交流が背景にあると、考えて過言ではないと思われる。

インドに伝わった仏足石は北伝と共に中国、朝鮮半島、日本へ伝わることになるが、スリランカからは南伝つたいに東南アジアに伝播することになった。タイに仏教が伝来したのは5-8世紀と幅をもって云われている。BKK国立博物館にある法輪はダバラバティー(7-8世紀)と云われている。同じく如来立像も8世紀とある。さらに仏説法図や浮彫菩提樹は6世紀頃である。これらの像を刻む前に、モン(MOM)族の人々は上座部の仏教を信仰していたのではないか?・・・5世紀までは遡れるであろう。424年シャム湾の盤々国から中国南朝の宋への貢物に彩色の塔があったという。この時、仏足石が入ってきたかどうか、語る証拠はない。

チェンマイ国立博物館が所有する真鍮製の仏足は、中央に同心円を描き、その中を升目のように区切り、そこに双魚をはじめ瑞祥文を描く。それは14-15世紀と推定され、カンペーンペット県サデト寺で発見されたが撮影禁止で、写真が掲載できないのが残念である。

“なぜ双魚文なのか”という疑問について、なんとなく分かってきたような印象を持つに至った。装飾文様としての魚文はタイ諸窯にみることができるが、多くは単魚文であったり複数魚文であるが、サンカンペーン窯では圧倒的に双魚文が多い。

古来タイの国土には多くの民族が去来したが、それら民族共通の土俗として魚は豊饒の証しであり、一種の信仰に近いものがあったであろうと想定される。それが形となって現れたものの一つが、チェンマイ国立博物館の真鍮製の仏足である。そのような信仰的、土俗的な基盤の上でのサンカンペーン窯双魚文と考えられる。

その双魚文の陰陽配置からは、やはり中国の影響を感じずにはおられないが、上述のように、それは西方でも散見できることから、南アジア、西アジアに広がる土俗信仰とも呼べるような共通認識の存在を感ずる。北タイの地でも、それを抵抗なく受け入れる基盤があったということであり、場合によっては、その基盤、つまり仏足石の双魚から発生したとの想定も考えられる。

 

                          <続く>

 

 


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