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黒塚古墳と三角縁神獣鏡

2020-04-22 08:34:18 | 古代と中世

黒塚古墳(古墳時代初期)から33面の三角縁神獣鏡(正確には三角縁神獣鏡32面と三角縁盤龍鏡1面)と画文帯神獣鏡1面が出土した。多量の三角縁神獣鏡が一つの古墳から出土したことにより、卑弥呼が魏帝より下賜された鏡説が飛び出した経緯がある。

そこで黒塚古墳と黒塚古墳展示館を見て思ったことである。先に記したように卑弥呼の鏡説が流布されたが、その可能性は限りなく低いと考えられる。邪馬台国畿内(大和)説は、倭人伝の里程・方位記事の『南は東の誤記』だとした論説によらなければ成立しない。帯方郡治から狗邪韓国、そして渡海して伊都国に至るまでの里程はともかく、方位記事は正しいと考えざるを得ない。

ところが邪馬台国畿内説をとる各位は、奴国から邪馬台国については、南としるされているのを東の誤記だと云う。帯方郡使は邪馬台国へは至っていないのだから、郡使に誤った情報が伝わったとして処理してしまう論述である。

さらに三角縁神獣鏡は、卑弥呼に下賜された銅鏡百枚を上回る枚数が出土していること、また中国では三角縁神獣鏡は出土せず、出土するのは日本だけであることから日本製であろうとの説も存在する。

銅鏡百枚が下賜されたのは、景初三年(239)と倭人伝に記されている。それが何故、大和の弥生遺跡から出土せず、時代の下った古墳から出土するのか。北部九州の弥生遺跡(墳丘墓)から銅鏡が出土するのと対照的である。

極め付けは、倭人伝には銅鏡の記事は記載されているが、銅鐸については一切ふれられていない。畿内から銅鏡が出土するのは、古墳時代に入ってからである。従って邪馬台国は畿内ではなかろう。

さて黒塚古墳の銅鏡である。古墳からの出土状況が、三角縁神獣鏡の性格を物語っているようにみえる。木棺内の銅鏡は、被葬者の頭上の画文帯神獣鏡一面だけで、三角縁神獣鏡はすべて棺外であった。しかも頭方向に置かれた鏡は、三角縁盤龍鏡一面であって、同じ種類とはいえ三角縁神獣鏡そのものではない。結局三角縁神獣鏡32面だけが木棺と石槨の隙間に、鏡面を被葬者に向けて並べてあったという。つまり被葬者にとって身近で重要な鏡は、三角縁神獣鏡ではなかったことになる。

(画文帯神獣鏡)

しかしながら現地に立つと、壮観以外の何物でもない。卑弥呼の夢はみられないが、続く時代に有力な首長が存在し、列島の支配権が東の大和盆地に移動した証である。

<了>

 


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