天鈿女命(天宇受売命)は、天照大神が岩屋戸に隠れて、世の中が暗闇になった際、胸をさらけだして踊りだすシーンで名高い。
その天鈿女命を髣髴とさせる埴輪(百足塚古墳出土)が、宮崎県新富町のキラリと呼ぶ歴史民俗資料館に展示されている。 写真の埴輪がそれで、他に巫女埴輪も展示されている。これらの埴輪見ながら以下のようなことを考えた。
左から2番目が件の巫女埴輪
それは記紀による天津日子番能迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)降臨伝承と天岩戸の伝承である。
二二ギノミコトは、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降りましき・・・と記され、更に此地は韓国に向ひ、笠沙の御崎を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。此地は甚吉き地・・・とある。
これは「古事記」が記す降臨の地で、日本書紀は別の表記をしている。それらを列記すると以下のようになる。
〇竺紫の日向の高千穂の久士布流多気 「古事記」
〇日向の襲の高千穂峰 「日本書紀」本文
〇筑紫の日向の高千穂の槵觸峰 「日本書紀」一書第一
〇日向の槵日の高千穂峰 「日本書紀」一書第二
〇日向の襲の高千穂の槵日の二上峰 「日本書紀」一書第四
〇日向の襲の高千穂の添山峰(そほりのやまのたけ) 「日本書紀」一書第六
御当地論争ではないが、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気は現在の福岡県説と宮崎県説が存在する。単刀直入に筑紫で韓国に向いているのは福岡県であり、福岡には日向峠や小戸海岸、糸島市にクシフル山の地名がある。しかし、これらの地名は後世の付会であると考えている。
竺紫は旧国名の筑紫ではなく、竺紫嶋つまり九州島であるとの見解が定説化している・・・とすれば、九州の日向の高千穂となる。
更に記紀が記す、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子がイザナギの禊でうまれたとする地「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」についても、北部九州説と宮崎説がある。
日向、小戸の地名は福岡に存在することを上述したが、旧宮崎市街地も小戸と称し、小戸神社が鎮座し、阿波岐原の地には江田神社が鎮座する。どーも地名は後世の付会で、双方共にあてになりそうもない。
そこで天鈿女命(天宇受売命・あめのうずめのみこと)である。その命が天岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、小竹葉(ささば)を採物として神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った・・・との伝承である。
天鈿女命を彷彿とさせる埴輪が、新富町の百足塚古墳から出土したことは上述した。このような埴輪は全国で唯一である・・・とすれば、上代の伝承が古墳時代の日向に継承されたであろうと考えられる。
つまり天岩戸における天鈿女命伝承が、日向の新富町の旧地に継承されており、それが埴輪として残されたものであろうと考えられる。“竺紫の日向の高千穂の久士布流多気”は福岡ではなく、宮崎であったことになる。
このように地名によるご当地論は、あそこにあって、ここにない。ここにあって、あそこにない・・・と、いつまでも水掛け論に終始するが、その決め手が天鈿女命を写したと思われる“裳を手でめくりあげる巫女埴輪”の存在が証明しているであろうと考えている。
尚、百足塚古墳で確認された形象埴輪の構成内容は、継体大王陵とされる今城塚古墳との共通点が多く、畿内勢力と連動した可能性が考えられている。つまり大王家本貫の地は日向であったことの傍証と考えている。
<了>
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