昨日の記事のテーマにした江戸の街に彗星の如くあわられ活躍し、忽然と消えた絵師・写楽。その写楽とは一体誰なのか?なぜ忽然と消えたのか?諸説が渦巻く写楽の正体論、これまでいろいろな方がそれを唱えてきました。NHKは東京国立博物館で開催されている「写楽」展に合わせるように、写楽と誰なのか?という日本美術の謎に迫る番組を放送していました。(今年の5月8日に放送)
その番組によると、2008年にギリシャのコルフ島で写楽によって扇子に描かれた肉筆画が発見されたそうす。その肉筆画を手掛かりに、写楽とは一体誰なのかを検証していくのがその内容でした。まず前提として、発見された肉筆画が写楽のものであるということがあります。番組では描き方の特徴により写楽のものと間違いないとして、写楽とは誰かという説を大きく3つに分けています。
①斎藤十郎兵衛…阿波藩の能役者
②有名絵師説…北斎(顔の表現が似ていることから)歌麿(大童山の絵が似て…いる)などなど
③蔦谷重三郎説…写楽の絵が蔦谷から出ていることから
浮世絵の場合、版画形式のため彫師の個性がどうしても完成品に加わってしまいます。しかし肉筆画の場合は、しっかり絵師の個性が出るということです。ならば②の有名絵師説に対しては、発見された写楽の肉筆の線と写楽ではないかと目される他の絵師の線を比べればいいということになります。で、北斎や歌麿、応挙などの肉筆画とそれを比べると同じような線が見当たりませんでした。つまり、②の有名絵師の説はそこで消えるということになります。
では③の蔦谷重三郎の説はどうかというと、扇子に描かれた歌舞伎公演の記録をみるとそれが公演されたのは寛政12年となっていて、寛政9年に死んでいる蔦谷ではないということが見えてくるということ。よってNHKの番組によると、②と③の説が消えて①の斎藤十郎兵衛の説が浮上することになり、写楽は彼であると推測し、説明していくわけです。阿波藩の能役者である斎藤十郎兵衛は写楽が世にでたころは32歳くらい、八丁堀に住んでいて、蔦谷と懇意にしていた加藤某という人がいてその人と十郎兵衛が4軒隣であり、そこから蔦谷との関係もあったのではないかとも推測もしています。
能の世界は厳しい世襲制度の上に成立しているところ、どんなに才能があっても日の目を見ることはない。むしろ存在感を薄めていくことを要求された。斎藤十郎兵衛は浮世絵に自分の力を出すことを求めていったのではないかとも。斎藤十郎兵衛=写楽は大胆な構図とデフォルメされた役者の絵、大首絵で登場したのですが、女形であろうとも特徴を際立てるように書いたため役者には嫌われたそうです。時期を経て、写楽の絵は段々とありきたりな絵になっていくのですが、そこには蔦谷重三郎の意向があったのだろうといいます。刷られる紙が薄くなり薄利多売を要求されたのではないか?と。絵のスタイルを変えていくことで天才絵師の個性は失われていった。その100年後、日本では評価をされていなかった浮世絵、そして写楽は、遠く離れたヨーロッパでその価値を見出だされることになる……。
写楽 (別冊太陽 日本のこころ 183) | |
浅野 秀剛 | |
平凡社 |
写楽―江戸人としての実像 (中公新書) | |
中野 三敏 | |
中央公論新社 |
東洲斎写楽 (新潮日本美術文庫) | |
大久保 純一 | |
新潮社 |
東洲斎写楽はもういない | |
明石 散人 | |
講談社 |
写楽 Sharaku [DVD] | |
真田広之,葉月里緒菜 | |
東宝 |
ストーリーで楽しむ「写楽」in大歌舞伎 (広げてわくわくシリーズ) | |
浅野 秀剛 | |
東京美術 |
写楽を追え―天才絵師はなぜ消えたのか | |
内田 千鶴子 | |
イーストプレス |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます