シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

本土寺では菖蒲が満開、アジサイも咲き始めていました

2011-06-13 12:51:15 | Weblog
都心から千代田線で40分足らずで、北小金駅に到着です。
そこから北に1キロ・・・起伏にとんだ一万坪の境内は樹木に囲まれて、
本堂、五重塔、客殿、宝物殿などの諸堂が静かに佇んでいます。
この時期になると菖蒲とアジサイを求めて観光客で賑わいます。

            


北小金駅から参道が伸びています。
 駅の南200mに旧水戸街道がありますが、昔はそこから本土寺参道が北に伸びていました。南口のスーパー角に当時の道標が残っています。明治の中頃、常磐線の敷設工事により参道が分断され、現在ではホーム北側の商店街の小路が実質的な参道入り口です。駅には待ち合わせる人々が目立ちました。
          

 商店街を抜けると、本土寺の大きな石柱があり、そこからケヤキ並木が参道両脇に聳え、古刹への参道の雰囲気がよく残されています。暑い日など日差しを遮ってくれ、ホッとします。更に進むと、2番目の門柱があり、奥に朱色の仁王門が見えます。
 参道にはアジサイの苗木や鉢物を売る店、漬物を商う店などが見られ、門前町らしい雰囲気を漂わせています。
        

 受付で参拝料500円を支払い、境内に入ります。正面に本堂、西に五重塔が聳え、東に下がっていく起伏に諸堂を配置して、菖蒲池に至ります。渡り廊下や小道がお堂を結び、13世紀にこの地を治めていた源氏の一族平賀氏の屋敷があったという当時の様子を髣髴させます。
               


参考までに・・・
北小金駅を含めた高台一帯は、戦国時代の高城氏の小金城の城郭で、当時の遺構が見られます。千葉氏に出自を持つ高城氏は、北条方の有力武将として東葛地方に勢力を振るいました。上杉謙信が越後から小田原城を攻めた際、小金にも来襲するのではと人々が恐れおののいていたことを伝える古文書も伝わっています。
 豊臣秀吉に北条氏が降伏、高城氏も小田原城に篭城しており、小金城は豊臣方の浅野長政に開城しました。


 江戸時代に水戸街道が開かれると、江戸と水戸を結ぶ主要な宿場として小金宿は発展していきます。江戸から四番目の宿場でしたが、1泊目に小金宿に泊まる旅人も多かったのです。江戸から八里(32キロ)・・・当時の旅人の早足には驚かされます。
日蓮宗の本土寺と 浄土宗の東禅寺とそれぞれの由緒ある寺院の本山が、一つの宿場内にあるというのは、江戸と水戸を除けば小金宿だけでした。 


 小金宿は水戸藩に治められており、幕末の安政6年(1859年)、幕府と開国と巡って対立する水戸藩の藩士約1,000名が江戸へ上ろうとして、小金宿(駅)に集結する事件も起きています。当時の旅籠玉屋が現存しています。
 明治29年に鉄道が敷設され、小金は宿場としての役割を終えます。常磐線には松戸駅と我孫子駅、続いて馬橋駅が置かれ、明治44年にようやく北小金駅が誕生しますが、小金町は往時の勢いを失っていきます。


 大正時代に入り、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦などが我孫子に居を構え白樺派の文学・芸術運動の拠点となりますが、志賀直哉の半自伝小説「和解」の中で、東京から我孫子に帰る際、「上野駅から夜9時の列車に乗り、寝過ごして我孫子駅を乗り越さないよう、北小金駅で目を覚ますようにしている」というような描写があったと記憶しています。
 本土寺を訪れた後、我孫子駅まで足を伸ばし、志賀直哉の旧宅近くの白樺文学館を見学するのも楽しい1日コースとなります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閲覧数

閲覧、ありがとうございます