226の1『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命(18~19世紀)
顧みて、産業資本は、産業革命の時まで確立されたことにはならない。その間に技術革新が徐々に全社会に浸透していく。紡績関係を拾えば、18世紀に入りイギリスはインドからの綿花を国内で加工して、外貨を稼ぐことになっていく。ジョン・ケイが飛び杼(ひ)を発明した。車の上にのせられた杼(ひ)が弾機で叩かれて経糸の間を駆け抜けるようになった。この飛杼(fly shuttle)は労働力節約のための工夫であった。おりからラダイト(機械打ちこわし)運動が烈しいときで、彼の個の発明は、機織り職人から恨みをかったという。1764年には、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明し、これで同時に複数の糸を紡ぐことができるようになる。1769年には、アークライトが水力紡績機を発明する。1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を発明する。ミュール紡績機においては、水力紡績機の太い糸を細い者に切り替える。
それからは織ることをかなりの程度自動化した。動力機関として、初めて蒸気機関の採用にも道をひらいていく。1793年、アメリカのホイットニーが、綿花から綿を自動的に分離する新手の綿繰り機械を発明した。
蒸気機関そのものは、1712年にニューコメンが発明する。それは、炭鉱の地下水をくみ出すポンプとして使われ始める。ジェームズ・ワットは、それを改善する。続いて1804年、トレビシックが初めての蒸気機関車の作成にとりかかる。
1814年になると、スティーブンソンが出て、蒸気機関車をつくり、彼の開発したロコモーション号が1825年に、ロケット号が1830年にイギリスの国土を走ることになっていく。そしてこれらの技術革新が波及したことで、資本家はより多くの利益を獲得できるようになっていく。
イギリスでの産業革命は、1688年の「名誉革命」(進歩的貴族などの議会勢力が国王の専制を奪い、議会制民主主義を打ち立てる)に遅れること1世紀余のことであった。その進行は、全国レベルでの資本蓄積の本格化を意味していた。資本の蓄積には、労働力が必要となる。それは、農村部での明層の分解から多くがもたらされる。また労働力の成果を労働者から限りなく搾り取ろうとする過程でもあった。フリードリヒ・エンゲルスによる『イギリスにおける労働者の状態』は、この時の模様を写し出している。
1833年には、労働環境と労働者の健康を守という触れ込みで、工場法が制定される。旧くは14世紀から18世紀の中葉に至るまでの諸労働法令にみられるような初期資本主義期(重商主義段階を含む)の下では、炭鉱や繊維工場では児童労働が限りなく行われていた。それというのも、その頃は「最短労働時間を規定して労働日を強制的に延長せしめようとするものであり、資本の労働支配がいまだ確立されておらず、充分な譲与労働を吸収するには国家の権力の援助が必要であった」(富塚良三「経済原論」有斐閣、1976)という。
それが、新たに制定された法令では一変する。9歳以下の少年労働の禁止、13歳未満の労働時間を週48時間まで、さらに18歳未満は週に69時間までに限ることが規定された。これに横たわる考えとしては、労働日を延長しようとする資本の止みがたい衝動、欲望に対し一定の枠をはめ、抑制し、もって社会全体の労働力の安定供給をを確保しようとするものであり、そこでの目安は労働力の標準的な再生産である。
その後のイギリス工場法の成り行きについては、カール・マルクスの『資本論第一巻』において、当時の資本家の強欲が工場監督官(1855年10月31日の報告)により次の如くつぶさに語られているところだ。
「すべての事情が同じならば、イギリスの製造事業者は外国の製造事業者に比べて、一定の時間内に、ずっと大量の仕事を生み出す。それはイギリスにおける毎週六十時間の労働日と、他国における七十二時間ないし八十時間の労働日の差異をなくすほどのものである。」(カール・マルクス『資本論』第一巻)
そのイギリスでの産業革命の後追いを、一世紀余を経た明治の日本が遅ればせながら目指すのであった。繊維は、主として生糸の生産であったが、やがて紡績や織物での近代工業化が目指される。繊維工業の発展は、運輸の発達を促していく。鉄道面では、1872年(明治5年)、イギリスから直輸入された蒸気機関車が東京と新橋の間に敷かれた線路の上を走り始める。生糸生産地と横浜港を結ぶ鉄道も、政府の殖産興業政策の要の一つになっていく。
(続く)
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