♦️65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

2018-02-17 19:14:47 | Weblog

65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

 ギリシア(ギリシャ)文明、それはクレタ、ミケーネ、トロイア、ローマなどとともに西洋文明の源流の一つだと言えよう。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが示唆される年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、今日の地質学でいうところの最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すなどの変化があった。
 紀元前3000年頃になると、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行があったが、紀元前2000年頃には終焉を迎えた。しかし、それと相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、20世紀初頭の発掘であり、「クレタ文明」と命名されている。そのクレタに見つかった宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。
 紀元前2000年頃、アカイア人がテッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。かれらは、先住民のミノア文明を滅ぼし、ミケーネ文明を構成した。
彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプトまで進出していた。紀元前1300年頃、「トロイア戦争」が起こった。その模様について記したものに、ホメロスが叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)がある。この戦いが史実であり、かつまたミケーネにかつて文明が栄えていたことを確信していたドイツ実業家シュリーマンが1872年に地下深くから宮殿跡や墓などを発掘し、この地に文明の実在したことが証明された。
 紀元前1100年頃、北方からドーリア人が南下してくる。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタ。先住民のアカイア人はアジアに逃れた。紀元前900年、ギリシア各地で多くの都市国家(ポリス)が興った。初めのうちは、君主制もあれば、少数貴族による寡頭制政治もある、といった政治形態が現れた。数ある都市国家の代表格として取り上げられるアテネでは、ペイシストラトス一族の独裁制が敷かれた。
 歴史家トゥキュディデスが「彼らは独裁者においても人を凌ぐものでありたいと日頃から努力を惜しまなかったし、アテネ市民から僅かな税を徴収するだけで、町のたたずまいを美しく飾り、立派に戦争をやってのけ、神々に対する捧げものも欠かさなかった」(「歴史」)と、やや好意的に評した。アテネの中心地にはアゴラ(広場)が設けられており、人びとが集まった。そこには祭壇があるばかりでなく、劇や運動競技が催されたり、アゴラには不可欠の施設である泉場も設けられており、市民に談笑や議論、憩いの場を提供した。

(続く)

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