♦️687『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリス)

2018-02-05 19:51:10 | Weblog

687『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリス)

 イギリスのサッチャリズムについては、概ね次のような経緯がある。それまでのイギリスという連合国家を支配してきた独占資本家についても、どう生きて行くべきか、思い悩んだ時期であったのかもしれない。そこに彼らにとっての新しい指導者が現れる。1979年、保守党党首のサッチャーが下院選挙で、停滞している経済を活気づけるための政策を発表した。もちろん、彼女のバックには独占資本家の面々が控えていた。経済にうとい政治家の中でも、彼女の理解は早かった。
 そこで打ち出されたのが小さな政府、と大胆な規制緩和を中心に、大企業に有利な政治ほ推し進めることであった。労働組合に対しては、組合潰しに突っ走った。労働賃金は低下していく。財政立て直しのやり方も、大企業本位や富裕層に有利とした。法人税を下げ、高額所得税を引き下げる。後者についての解説例には、こうある。
 「ところで、労働市場の変化は、税制の変化と相俟って、所得分配にも変化を及ぼした。表3は、イギリスの世帯を所得獲得額(税込及び税引後)にしたがって上位、中の上、中、中の下、下位の五つの階層(それぞれ20%ずつ)に分け、各階層に分配された所得比率の変化を追ったものである。
 まず、税込所得の変化をみれば、第1および第2・五分位に対する所得配分比が1977年の14%から1988年には9%に減少するのに対して、第5・五分位(最富裕層)に対する比率は、43%から50%へと拡大していることがみてとれる。
 次に、税引き後の所得をみても、ある程度税制が所得配分の不平等を阻止したが、1988年には第1および第2・五分位を犠牲にした第5・五分位の所得配分比の上昇が看取できる。これは、1985年と1988年に税制改革が行われ、前述した最高税率が83%から40%へと引き下げられた結果を反映したものである。」(山本和人「サッチャー革命ー「小さな政府」はイギリスに何をもたらしたか」:社会主義協会「月刊社会主義」1995年6月号)
 大衆向けには、社会保障費、医療費、教育費などを削っていった。彼女のやり方は、「鉄の宰相」の異名のとおり、強引なやり方を躊躇しなかったことだ。保守党どころか、中間層の中にも「救世主来たれり」と熱狂する者が増していった。この潮に乗り、消費税の引き上げも行った結果、イギリスは「世界に冠たる福祉国家」の看板を下ろす。富裕層は、大いに喜んだことであろう。
 サッチャー内閣の産業政策は製造業の衰退をもたらすのだが、他方、金融資本家の要求に応えて、金融開放政策をとる。イギリス資本のこの選択は、危険をはらむものであったのだが、その負の部分は隠蔽されていく。1986年10月27日、イギリス証券取引所で「ビッグバン」と評される大胆な金融改革が行われた。その柱としては、(1)売買手数料の自由化、(2)株式売買のコンピュータ化、(3)取引所の会員権を通じて守られていた市場を銀行にも解放、(4)株式仲買人(ジョバー)とお客の注文をとるブローカーの一体化、(5)株式取引税を1.0%から0.5%に引き下げといった具合であった。
 これについての日本の金融筋による説明を少し付記しておこう。 
 「最後の、ビッグバンと呼ばれる自由化第3弾は、1986年のロンドン証券市場の大改革である。この改革は、①固定的な株式売買手数料の自由化、②「単一資格制度」の廃止、③これまで閉鎖的であった、外部資本による証券取引所会員権の取得条件の緩和、および④従来の取引所内の立会場が廃止されてスクリーン・ベースの株価自動気配システムのSEAQ(国内株式用)とSEAQインターナショナル(外国株式用)の導入が中心であった。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 その効果としては、同じ向きにより次の通り報じられている。
 「この改革によって四大クリアリング・バンクなどのイギリス預金銀行、マーチャントメバンク、日米欧などの大手金融機関がイギリスの主要な証券業者をその系列下に置き、ユニバーサル・バンキング化を急速に推し進めた。さらに、1987年の「ブラック・マンデー」以後の証券市場不振のなかで総合証券会社への変身を急いだマーチャントメバンクが挫折し、外国の大銀行等の系列化に入るなど、多国籍金融グループのコングロマリット化も発生している。これらの金融コングロマリット化が前述の金融機関「同質化」の流れの一つである。」。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 これにより国内の資金需給は次のように変化した。
 「1976~80年のイギリスの特異な点は、金融機関が資金不足になっていたことおよび海外借入れが大きかったことである。ところが、1985~88年になって事態は変化した。資金余剰の個人部門は一転して資金不足になり、反対に資金不足であった法人企業、海外、金融機関、好況の四部門は資金余剰ないし資金不足の縮小を示した。個人貯蓄を最も多く吸収したのは銀行と保険・年金と住宅金融組合であった。この貯蓄増加は証券市場における金融機関の比重を高めたが、そのなかでも機関投資家の証券保有の増加が顕著である。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)」
 さらにイギリスの金融資本の出入りについては、伊東光晴氏がこう描いておられる。
 「同じようにロンドンは世界の投資銀行業務の中心になった。そこでイギリスの金融機関はプレイしていない。歴史を誇るマーチャント・バンクは資本力の差で姿を消し、大銀行ー例えばロイズ銀行は、はじめからこうしたリスクの多い分野には進出せず、ナットウェスト銀行はすでに手を引いており、バークレイ銀行は98年10月撤収を決定した。」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)

(続く)

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