♦️288『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ベートーヴェン)

2018-02-21 07:49:32 | Weblog

288『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ベートーヴェン)

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)は、ドイツのボンで、音楽で身を立てる父と敬虔な信仰をもった母の下に生まれた。家庭は、裕福ではなく、どちらかといえば貧しかったようだ。幼少時から、父親にきびしいピアノの訓練を受けた。1782年には、ボンの宮廷礼拝堂のオルガン奏者の職を得る。その頃は覇気のある青年時代であったようで、同年の記念帳に「能うかぎり善を行ない、何にも優(まさ)りて不羈(ふき)を重んじ、たとえ王座の側にてもあれ絶えて真理を裏切らざれ」を記している。
 1793年にはウィーンに出て、ハイドンなどに師事してからは、しだいに作曲にいそしむようになっていく。音楽家として油が乗ってからは、古典音楽から近代音楽への狭間に位置した曲を次々発表するとともに、クラシック音楽の新たな展開をつくりだしていく。
「月光」は、1801年に作曲のピアノ曲にして、「悲愴」や「熱情」と合わせて彼の「3大ピアノソナタ」と称される。夜に入ってのことであろうか。冴え冴えとした月の光が観る者の眼にしみいるかのように感じられる。
 同じ年の夏、ベートーヴェンが、その自然の風景をこよなく愛していたウィーン郊外のハイリゲンシュタットで作曲したのが、交響曲6番の「田園」だという。その第1楽章「田舎に到着したときの晴れやかな気分」に始まり、第2楽章「小川のほとりの情景」では夏の平原でのほのぼのした、色でいえば若草色をしたような柔らかな感触を楽しんでいるかのよう。
 第3楽章「農夫達の楽しい集い」に入ると、彼らに出会って喝さいを送っている姿を連想させるものの、第4楽章で「雷雨、嵐」に遭う。稲光がしていたのであろうか、興味深い。しかし、悲惨さはない。そして第5楽章「牧人の歌−嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」で満足のうちに締めくくられる。ベートーヴェンはこの曲について「単なる田園の情景の描写ではなく、感情を表現したもの」と語っているので、その後苦しいものに化していく彼の人生を想えば、この場面においては何かしらほっと一息つくことができるのではないか。
 1810年5月2日のヴェーゲラー宛手紙には、「おお、この人生は美しい。しかし僕の生活にはいつまでも苦い毒が交ぜられて(vergiftet)いる」とあって、自立した音楽家として生きて行くことの大変さが伝わってくる。痛々しいのは耳の病気であって、50歳代になると、ほとんど聞こえていなかったらしい。作家のロマン・ロランは、こう伝える。
 「ブラウン・フォン・ブラウンタールはその一年後に、あるビーヤ・ホールでベートーヴェンに出会ったが、そのときベートーヴェンは片隅に坐って長いパイプで煙草を喫いながら眼をつぶっていた。これは彼が死に近づくにつれて次第に募った彼の癖なのであった。一人の友が話しかけると彼は悲しげに微笑し、ポケットから小さな「会話のための手帳」を取り出した。そして、聾疾の人が出しがちな鋭い金切声を立てていった、彼に話したいことを手帳に書いてくれ、と。」(ロマン・ロラン著、片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」)
 驚くべきは、それでも彼は自分の運命に対し、怯まなかったことだ。1815年10月19日のエルデーディー伯夫人に充てた手紙の中では、「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」(Durch Leiden Freude)とあり、熱情がほとばしる。第九交響曲の初演の時には、詩人シラーの力づよい一節を合唱に織り込み、楽団の指揮をとったという。演奏が終わり、聴衆たちの歓喜する姿を呆然とした風で眺めて居たとも伝わる。そこに外界から直に伝わってくる音はなく、それはまさに彼自身の内的世界につくられていた。
 音楽界に於ける彼の業績については、例えばこう記されているところだ。
 「ベートーヴェンはきわだった個人主義者であった。隷属した常態から音楽と音楽家を自由にしたことでは、他のいかなる大家達もかれにに及ばない。ベートーヴェンは、かれ自身の深みのある精神と自由な表現を傾注することによって、古典主義時代の不自然な束縛や限界を打ち破った。ベートーヴェンの初期の音楽はハイドンの様式の上に立って、明らかに古典的である。かれの中期と後期の音楽は、ロマン主義による主観性、感情主義、自主性を示している。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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