243『自然と人間の歴史・世界篇』バロック音楽(バッハなど)
バロック音楽の頂点は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)と
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)によってもたらされた。バッハについては、ドイツに生まれた。18歳のとき、アルンシュタットという田舎町の教会が再建され、新しいオルガンの鑑定にバッハが呼ばれる。その時の試奏が素晴らしかったのだろうか、彼は、その教会のオルガニストの地位を得る。
22歳の頃、ミュールハウゼンというまちの教会のオルガニストが亡くなり後任者を探していたので、バッハは転職することができた。ところが、その翌年には突然辞表を出しました。辞表には「整った教会音楽」ができないことを主な理由としているものの、事の真相は、上司との関係がギクシャクしていたのだという。
その後のバッハは、ワイマールの宮廷楽団に転職する。その頃には、鍵盤楽器の演奏家、特に即興演奏の大家としても知られていた。しかし、ワイマールでも、その正義感なりが、いろいろなもめ事をおこす。宮廷楽長の人事をめぐってバッハよりもはるかに能力の低い人が任命された時は、バッハは腹を立て、辞表を提出し公爵を怒らせてしまい、逮捕されて4週間の拘禁の刑を受けたという。それでも、彼のワイマール時代が8年間続く間に、彼は多くのオルガン曲を中心とした傑作を生みだした。最初の結婚もし、家庭的にも恵まれ充実の時を迎える。
36歳から37歳にかけては、「G線上のアリア」の原曲がつくられる。これは、管弦樂組曲第3番二長調BWV1068の第2曲(エア( アリア))として書かれたものだが、バッハが亡くなって百年後に発掘され曲を演奏されることによって広く世の中に知られるようになった。ヴァイオリンの4本の弦の中で一番低い弦(G線)1本で弾けるようにアレンジされたことから、この「G線上」の名が付けられたのだという。また、1723年の礼拝に用いられた「主よ人の望みの喜びよ」は、教会カンタータ「心と口と行いと生活」の中で登場する曲にして、荘厳な雰囲気に聴衆を導く。
1729年の44歳の時には、20年来の友人であるテレマンの創立した楽団の指揮者に迎えられる。そのテレマン(1681~1767)は、ハンブルクの楽長で指揮者、最も高名な作曲家でもあった。バッハの後妻のマグダレーナ(彼との結婚は1721年)が、この楽団が音楽好きな人びとと親密に結ばれていく様を、描いている。
「この楽団は、毎週1度、彼の指揮で美しい音楽の演奏会を催しました。夏には、これは水曜の4時から6時まで、風車通りのツィンメルマン公園でやりました。冬には金曜の8時から10時まで、ツィンメルマンのカフェ・ハウスで催されました。大市の時には毎週2回火曜と金曜に演奏会を開きました。」(アンナ・マグダレーナ・バッハ著、山下肇訳「バッハの思い出」ダヴィット社、1967)
その彼の丈夫な身体も、最晩年にはいうことをきかなくなっていく。仕事で書こうと思うときに、視力の衰えを訴えるのが頻繁になっていったらしく、マグダレーナの後日記にはこうある。
「彼の肩に手をおきますと、「マグダレーナ、わしは眼の見えるかぎり、書かねばならんのだ」と彼は答えながら、細い眼をしばたたかせて、わたくしの方を見上げるのでした。自分では決して口にしなくても、盲になるということが、彼には死ぬより辛いのだということがよくわかりました。」(同)
その音楽の大きなジャンルである教会声楽曲とは、主として神に捧げられた。これについて、後世の音楽史家の評価は、例えばこうある。
「バッハは約300曲の教会カンタータ(うち200曲ほどして保存されていない)と、数曲の世俗カンタータを書いた。有名な<聖マタイによる受難曲>に加えて、かれは聖ヨハネ福音書による受難曲、4つの短かいミサ曲、偉大な<ロ短調ミサ>、マニフィカート、“モテット”と呼ばれるいくつかの合唱曲を書いた。かれはまた400曲に及ぶコラールに、4声体の和声をつけた。」
(続く)
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