○143『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(正長の徳政一揆)

2018-08-21 20:48:59 | Weblog

143『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(正長の徳政一揆)

 ところで、この室町期の日本に頻発したものに一揆があり、当時の代表的な社会風潮に「下克上」(げこくじょう)があった。まず一揆であるが、多様な形態が見られた。その中から幾つかを紹介したい。まず1428年(正長元年)8月に一揆が勃発する。これを「正長(しょうちょう)の徳政一揆」(「正長の土一揆」とも呼ばれる)という。この一揆の模様は、『大乗院日記目録』という記録に、こう伝わる。
 「正長元年九月○日条
一、天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑 物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国 の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(尋尊(じんそん)『大乗院日記目録』)
 この一揆の中心地は、大和国添上郡柳生郷(やぎゅうのさと)で、現在の奈良市柳生である。その場所に碑がしつらえてあって、奈良市指定史跡・「正長元年(しょうちょうがんねん)、「柳生(やぎゅう)徳政碑(とくせいひ)」という。これには、奈良市による説明書きが添えられていて、こうある。
 「昭和五十八年(1983年)五月十九日指定
 元応元年(1319)十一月の銘をもつ「ほうそう地蔵」の向かって右下、長方形の枠取りの中に「正長元年ヨリ、サキ者カンへ四カン、カウニヲヰメアル、ヘカラズ」と刻む。
 大正十四年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が正長元年(1428)の徳政を祈念する碑文とし、「正長元年より先は神戸四箇郷(かんべしかごう)(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ))に負目あるべからず」とその文意が現在解釈されている。
 石刻の時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高い。奈良市教育委員会」
  この一揆では、近江・京を股にかけた近江坂本(おうみさかもと)の馬借(ばしゃく)、大和・河内(かわち)を往復した生駒(いこま)の馬借、大和・山城(やましろ)の境で活動した木津の馬借や武家の元家臣などが参加していた。ここに馬借とあるのは、当時の輸送(運送)・販売に携わっていた人々であった。「石刻の時期については諸説ある」とあるのは、馬借蜂起の初期に刻まれたというが多数説のようだが、決め手は見つかっていない。
 つまり彼らは一揆の部隊の一角にして、これが惣(そう、農民の自治組織)を構成していた農民たちに加わり、一揆の一団を成していたと考えられる。一揆勢は、「徳政だ」と叫びながら、酒屋や土倉、寺院などを襲って、質入れしていた物品などを略奪の上、借金証文を破り捨てて回った。管領(かんれい)職の畠山満家が鎮圧に成功したため、彼らが要求した徳政令は出なかったものの、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。

(続く)

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